友達以上恋人未満は親友とよく言うが、それは間違いだと思う。
いやまあ、正直に言うとこの理論は、誰かに理解されたことはないが、とりあえず最後まで聞いてくれ。
いくら自分を好いてくれていたとしても、ちょっとした事でその関係は崩れてしまう。
いとも簡単に。
それが『友達』という存在の限界だと思う。
だから僕は思うんだ。
本当は親友なんてレベルの者は存在しない。友達の更に上は、家族だってな。
家族ってのは、気兼ねなく接する事ができてなおかついつでも一緒にいられる、切っても切れない関係だから。
だから僕は家族が大好きだ。
世界中を回ってホームステイして、家族を増やしているくらいに。
血の繋がりなんかなくったって関係ない。
歌にもあるだろ?世界中どこだって、微笑めば仲良しさって。
しかしそんな大事に思っていた家族が死んだとしたら、そりゃあもちろん死ぬほど悲しむだろう。
あるいは憎しみさえ生まれるかもしれない。医療ミスや交通事故、殺人事件とか。
それが人の策略によるものならば――特に。
―――
『アテンションプリーズ。皆様、もうじきイブムニアに到着いたします。離陸するまで、席を立たずにお待ち下さい』
できるかァァァ!
エコノミークラスの一席に座ってガタガタ震えながら、青年は叫び出したいのを必死に堪えた。
今、飛行機は海の真ん中を飛んでいる真っ最中で、キャビンアテンダントが上品に演説している。
優雅な一時を提供してもらっている立場にいるのに青年の心中は荒れまくっていた。
何がアテンションプリーズだこの野郎、テンションも何もあるかバカ! ……と、このように。
青年の名前はキース・アンダーソン。
黒地に白のメッシュを入れた髪と、ピアスなどのアクセサリーといった、少々チャラついた風貌。
そして帽子を乗せるように浅く被っているのが特徴的な若者だ。
彼はいわゆる水恐怖症なのである。
昔、義理の父親に崖から川に突き落とされて死にかけた事がトラウマになって、雨の下も歩けない。
よって現在のこの、海上を飛んでいる飛行機に乗っているという状況にもチビりそうなくらいビビっている訳だ。
とんだヘタレ野郎である。
――つーかもうダメだ、降りる!
勢いよく席から立ち上がって、脇目もふらず向かったのは乗降口。
目の前に立ちはだかる重厚なドアを、一刻も早く開けようと、キースは必死でもがく。
言うまでもなくロックがかかっていて開かないが、そんな当然のことにすら気づかない程、精神的に追いつめられているようだ。
「お客様、何してらっしゃるんですか⁉ 危険ですので席にお戻りください!」
「うるせぇ! 今、この機内にいる事自体が、既に危険そのものなんだよ、オールレッドなんだよ! いいか、これはちょっとした予言だけどな、多分あと十秒くらいでジャック・バウアーが出てくるぞ!」
「いいえお客様、あれはテレビの世界です。中の人は……」
「知るか!」
唾を撒き散らし、血走った目で喚くキースの姿は、もはや理性をなくした猿同然だった。
キースはほとんど本能で辺りを見渡し、今最も見つけてはならない物を見つけてしまった。
非常時のための、ハッチ開閉装置のスイッチである。
ガラス製のカバーで守られたその装置を、キースは何の躊躇いもなく、カバーごと叩き壊して押した。
機内にけたたましいベルが鳴り響き、轟音とともにハッチの扉が開く。
「ちょっとォォお客様⁉ お気を確かに――」
キャビンアテンダントの悲鳴にも似た叫びは、台風のような凄まじい風にかき消された。
キースはドアの向こうへ、そのまま何の躊躇もなく飛び出した。
「お客様ぁぁあああ!!」
ぁぁぁぁぁ……
ぁぁぁあああ……
ぁああああああ……
ああああああああ!!
どんどん近付いてくる地上。
出しうる限りの声量を喉から絞り出して絶叫する。
十七年間の人史上、最も重要なである昨日の走馬灯が、頭を駆け巡った。
『あなたの旅の目的の鍵を握る者を知っています。キース・アンダーソンさん』
電話の向こうの男は、唐突にそう告げた。
朝起きて、出かける前にかかってきた電話なのだが……あまりに謎すぎる。
何を言っているんだ、こいつは?
知り合いの誰かが、イタズラ電話でもしているのだろうか、と思った。
「イタ電なら他当たれよな。今忙しいんだよ」
『おやおや? イタズラだとお思いですか』
「当たり前だろうが、挨拶も無しにいきなり意味わかんねぇ事言い出しやがって。誰の差し金だ」
『信じられないようなら、少々あなたのプライベートを明かして証明致します。まず、あなた昨日近所の図書館で、八時間に渡ってこっそり官能小説読みふけってましたね。ジャンルは病院モノが多いので、もしかして看護婦さんが好きなんでしょうか?タイトルは――』
「ああああ!いい、もういい分かったからそれ以上言うな!」
慌てて相手の声を遮断した。
キースは知り合いこそたくさんいるが、こんなタチの悪い奴と知り合った覚えはない。
一瞬でイタズラの線は消えた。
ていうか何なんだこいつ?
一言にプライベートっつっても、普通そんな所に着目するか?
いや、しない。絶対しない。名探偵だってもっと空気を読む。
冷や汗を拭いつつ、とりあえず一つ、庶民的な質問を投げかけてみる。
自然とヒソヒソ声になってしまうのが何だかやるせない。
「誰だお前」
『あ、申し遅れました。私、株式会社ブランクイン本社副社長、ブルーノ・クローバーと申します〜』
ブランクインとは、世界中に支部を置く大企業の製菓玩具メーカーだ。
キースはとある目的から世界中を巡っているのだが、どの国でも一番人気なのはブランクイン製品だった。
世間では禁煙キャンペーンが進んでいるにも関わらず、ブランクインは逆走して見た目も味も、煙の質感までもが本物に近いお菓子を作った。
しかし、あくまで格好付けたがりな子供のためのお菓子なので、味はホワイトチョコからミントチョコまで様々。
キャッチコピーは『大人の階段ぶっ壊せ』である。
「……で、そのブランクインの副社長が何の用だよ」
『先程も申し上げましたように、あなたが求める情報――テッド・アンダーソンの死の裏にある秘密を存じ上げている者がいます』
テッド・アンダーソン。
キースの父の名前だ。といっても、義理のだが。
小さい頃、キースはイギリスのスラム街にいた所をテッドに拾われた。
そして十一年前のある日、テッドは突然何者かに殺された。
治安の良い土地じゃなかったから仕方なかったんだと思う。
だがキースは幼心に、何かが引っ掛かっていた。
何がと聞かれても困るから聞かないでくれ、というレベルの、釈然としない感じ。
それでも疑問は疑問だから、キースは調べている。
そして、電話先の男はその答えを導ける、という訳だが。
『知りたくないですか?教えて差し上げてもいいですが』
「……一応言っとくけどな。僕は、世界中回って親父の死の真相を調べたんだよ」
『もちろん存じ上げておりますよ。しかし手がかりは、何も見つからなかった。そうでしょう?』
図星を突かれて、不覚にも押し黙ってしまう。こちらの情報は筒抜けか。
『何年も待ち望んでいた真実です。これを逃したら、一生お父様が謎の変死を遂げたという曖昧模糊な事実だけで終わってしまいますよ?』
ごくごく軽い口振りだが、その台詞には何か強く惹きつけられる、魅力のようなものを感じた。
『さぁ……どうしますか?』
「決まってんだろ。乗る」
そうしてクローバーから教えられたのは、イブムニアというヨーロッパの海の真ん中に浮かぶ小さな島国の事。
そこにとある大量殺人鬼がいるらしい。
その人物が殺した大勢の人間の中に、テッドも入っているのだという。
ようやく掴んだ真実への手がかり。取り逃す訳にはいかない。……はずだったが、もうダメだ。
地上まであと5メートルの所で覚悟して目を瞑った――が、訪れたのは痛みでも衝撃でもなく、柔らかい感触。
固く閉じていた目を開いてみると、何やら深緑色のものに包まれている。葉っぱだ。
一本のふかふかな木の上に落下、そしてクッションの如く受けとめられたのだと、飛行機での強行からだいぶ褪めてから気付いた。
ぼ、僕すげぇ……まさにマジックだ。
ミスターイリュージョン……とか考えてる場合じゃなかった。
いやぁ、怖かった。
飛び降りるタイミングが、少しでもズレていて、そのまま海に落ちていたかもしれないとか考えると背筋が凍る思いだ。
それ以外にゾッとするものは、山程あるはずだが。
「ねー、おにいちゃんそこで何してるの?」
樹木の下から、子供の声が聞こえてきた。
覗き込んでみと、もう真冬なのに薄着のみすぼらしい子供の集団が、澄んだ瞳で不思議そうにこっちを見上げていた。
急に空から人間が降ってきて木の上でぼんやりしていれば、そりゃあ誰だって奇妙に感じるだろう。
「べ、別に何でもねぇよ」
言いながらいそいそと木から降りる。
ふと、子供達の一人がくしゃみをした。やはりと言うべきか、寒いようだ。
「大丈夫か? ほら、これ着てろ」
ジャケットを脱いで渡すと、子供は鼻をこすりながらへにゃっとはにかんだ。
「ありがとうおにいちゃん」
「いいって。人間、助け合いが大切だろ」
「ねぇねぇおにいちゃん、わたしも寒いよ。何かちょうだい」
「あー、悪ぃけど上着は一枚しか――」
ないんだよ、そう続けようとした瞬間、顎にものすごい衝撃を受けた。
目を白黒させつつも、目の前で握り拳を構えて立っている子供の一人を視認した。
この子に、強烈なアッパーを食らわされたようだ。
「つべこべ言わんと、とっとと服よこさんかい。いてまうどコラ」
いきなり子供達の態度が豹変した。いきなり柄が悪い口調になった。
さっきまでの無垢な姿はどこへ行ったんだ。
「ボンタン狩りじゃァァァ!」
「ぼくシャツもらう」
「わたしズボン」
「靴下はおれのな」
「ちょ、待っ、ああぁああ!」
次々と剥ぎ取られていく衣服。抵抗しようにも腕と足に全体重をかけられ、動けない。
ガキ共の追い剥ぎは容赦なく、キースはみるみるうちに肌を露わにされていった。
残っているのはトランクス一丁に大事な帽子のみ。
幸い小銭は何かあった時のために、帽子の内側に縫い込んでいたので無事だった。
「特別にパンツだけは許したるわ。その古臭い帽子もな。じゃあの、あんちゃん」
高笑いしながら走り去っていくガキ共の背中に、自分がいかに平和ボケしていたかを思い知った。
彼が今まで出会ってきた人達は、みんな優しかった。
時々ケンカこそするものの、追い剥ぎや暴力なんて無縁な、平和で平坦な暮らし。
そんなキレイな思い出も消し飛ぶような事態に、直面して、キースは心底むかっ腹が立った。
――人間助け合いが大切だって? むしろ今は僕が助けてほしいわ!
何でガキが盗賊まがいのテクニック持ってんだ、ろくでもねぇなこの国!
「キース・アンダーソンさんですね?」
「あぁ⁉」
イライラしている時に背後から声をかけられ、つい乱暴な反応をしてしまった。
振り返った先にいたのは、二人の男女。
男はやたら長身で、黒装束。頭の後ろでだらりとした伸びた髪をまとめた男。
真っ黒いマントを着て、左目に保護用眼帯をつけている。
ありとあらゆる陰気さを詰め込んだような男だ。
真夜中に柳の下で佇んでいたら、ゴーストバスター出動間違いなしだろう。
しかしそれも人の良さそうな笑みを浮かべているおかげでうまい具合に調和されている。
女はまだ社会人なりたてのような初々しさがある。
緩くウェーブのかかった髪の毛を後ろにリボンで結んでいる。
そしてやたらと豊満な体をしていた。
特に足が、目のやり場に困るほどにむっちりとしている。
率直に言って、エロい。
パッツンの前髪は長めでチラッと片目が覗く程度しか見えない。何やらそわそわと落ち着かなそうだ。
「初めまして。先日お電話させていただきました、クローバーです」
「……ひ、秘書のパティ・ホプキンスです。飛行機から勝手に飛び降りたって情報聞いたから迎えに来てあげたわよ! できればちょっとでいいから感謝して下さ……いや、しなさい!」
どうやらツンデレ属性な秘書らしい。
が、その完成度は低めであり、あからさまにおどおどしているのであまり顰蹙は買わない。
だって今『できればして下さい』って言いかけたし。ちょっとでいいからって言ったし。超控えめだったし。
「ずいぶん寒そうな格好ですねー。この辺りではよく孤児達による集団追い剥ぎが起きるんですよ。以後お気をつけ下さい」
「それもっと早めに言ってくれよ……」
「あ、これ新しい服です」
用意周到か。
その後、ここでは何だからと近くの喫茶店に入った。
「さて、早速本題に入りますが……あなたの父、テッドさんが殺された秘密。それを知る者が一人、このイブムニアにいるのです」
「誰ですか」
「あっ、敬語じゃなくていいですよ。フランクにいきましょうが私のモットーですから」
コーヒーカップを持ち上げ、乾杯のマネをする副社長。
見かけによらずいい人だ。
あぁ、やっぱり人っていいものなんだよな、とキースはさっきの追い剥ぎでの傷が癒された。
「ラスカル・スミスってご存知ですか?」
「あぁ……例の殺人鬼だろ。ここ来る前にイブムニアの本でちょろっと出てきたな」
「へー。意外と読書家なのね……べっ、別に褒めてなんかないんだからね! チンピラみたいな見た目とのギャップにびっくりしただけよ!」
パティが、顔を真っ赤にして余計な事を言う。
しかし涙ぐんでいる所からして、言わなきゃよかったと心底思っているのだろう。
後悔がひしひしと伝わってくる。不器用な子だ。
「ただ、名前と人殺しって事しか知らないから情報不足だな……これから図書館でも行って調べてきた方がいいか?」
「いえいえ、そんなお手間は取らせませんよ!簡単に説明致します」
ーーー
ラスカル・スミスとは、この国で最も残虐な大量殺人鬼として有名だ。
元々スミスの家は、昔この国の頂点に長い間君臨していた統率者一族だったそうだ。
ラスカルはその最後の一人だが、とある大虐殺事件が原因で、国民が反旗を翻しラスカルを捕らえた。
今は人里離れた土地に隔離されている。
の、だが。
どんな心境の変化があったのやら、現在はそこで便利屋を営業している。
「……という、感じです〜」
「それ実はいい奴フラグなんじゃないか?便利屋って他人様の役に立つ仕事だし。そりゃあ確かに昔は重科犯罪者だったんだろうけど、改心してもう丸くなったんだろ」
「あ、避けて下さいアンダーソンさん」
ふとクローバーがキースの発言を遮り言う。
何を? と聞こうとしたが、それから一秒も間を開けず突然頭上から何かが降ってきた。
重力に逆らえず、体ごと豪快かつ勢いよくテーブルにめり込んでしまい、キースは生まれて初めて顔でテーブルを真っ二つに割って床にひれ伏した。
「うおおおおお重ぉおッ……なんだこれ!?」
「便利屋を訪問した客ですよ」
「客!?」
「一言に便利屋と言っても、客は九割方がスミス討伐を目的とする者です。そしてそんな“客”達はこうして袋詰めにされ返ってくる。袋叩きの斬新な例ですね」
「この国ではよく空から人が降るのか!?降ってきた中の一人が言うのも何だけど!」
パティに手伝ってもらって起き上がりながらツッコミを入れる。
世界のジョーク集にこんなの載っていなかったが、これがイブムニアンコントか。
斬新かつ劇的なリアルコントで観光名物化も望めそうだ。
「ちなみにスミスの便利屋は、今ご覧いただいたように行った者は皆社会のクズ同然になるので、通称“クズ生産工場”と呼ばれています」
「あっそ……」
顔に刺さった木片を抜きながら新しい椅子に座って聞いた。
「で?そのラスカルってのが捕まったのはいつなんだよ」
「十一年前です」
キースの動きが止まり、木片が手をこぼれ落ちた。
「あなたのお義父様が亡くなられたのとラスカル隔離はほぼ同じ時期ですね。おかしいと思いませんか?」
「確かに……偶然にしちゃ出来すぎてるかもな」
末裔とはいえ、ラスカルの一族が代々イブムニアを支配していたのなら、当然そこで起こった事も全て知っているはず。
それならタイミング的に考えても、もしかしたらテッドの事も知ってるんじゃないかと、そういう訳か。
「それでですね、アンダーソンさん。彼だか彼女だか知りませんが、とりあえずラスカル・スミスと接触してみて下さい。ついでに息の根を止めてきて下さい」
「ちょっと待て」
思わず制止の言葉をかけた。
あまりにも話が抽象的過ぎる。
「彼だか彼女だか知らないって何だよ。しかもついでに殺れって、そんなショッピング感覚で人の生死を左右するなよ」
「し、しょうがないじゃない! 誰もスミスの顔どころか 姿すら見た事ないんだから!」
「はぁ?」
似非ツンデレ秘書もといパティの、意味の分からない発言に、キースは首を傾げた。
翻訳を求め、クローバーに視線を送ると、笑顔で説明してくれた。
「実は、スミスを倒しに行った者は、皆もれなく生きたまま口封じされてしまっていまして……まともに話を聞ける者がいないのです。だからスミスの正体は謎に包まれている」
「スミスはジャックザリッパーかよ」
曖昧すぎる全容に、キースは呆れながらもツッコんだ。
不意にクローバーの顔から笑みが消え、俯いた。
「それにこれは私自身の復讐でもあるのです」
「復讐……?」
「奴は――ラスカルは、私の大切な恋人まで虐殺対称に巻き込んだのです。必死で奪い返した時には、彼女はもう薬指しか残っていませんでした……だから私は決めた!この恨みはいつか必ず返す!そして奴を地獄の業火で焼き尽くすと‼」
突然激昂して拳でテーブルを叩きつけ、大きな声を立てたクローバーに、キースは唖然とした。
が、すぐにハッとしたように、クローバーは顔を上げた。
「あっ、す、すみません!私とした事が公私混同など……」
大きな体をぺこぺこ折り曲げて申し訳なさそうにしているクローバー。
パティもびくついているかと思いきや、案外肝が据わっているようで、いたたまれなそうな面持ちで上司を見つめている。
「……その、何で自分で殺らねぇのか聞いていいか?」
キースの腫れ物を扱うような口調に対し、クローバーは自嘲するように笑い、眼帯に覆われた左目に触れる。
「私はこの通り、既にボロボロでして……まともに戦うこともできない身なのです」
ふとクローバーの手を見ると、骨張った手は無数の小さな傷だらけだった。
まるで彼の心の痛みを現しているようで――放っておけなかった。
「わかった。僕に任せろ」
スミスと接触する事は、長年探し続けていた父の死の真相を探るチャンス。
と同時に、この小さな国を救う事に繋がる。
数年間、様々な国を廻ってはみたが、手がかりはなかった。
ならばまだ関わった事のないイブムニアに、何かあるのかもしれないという可能性は捨てきれない。
ものは試しだ。もし違ったのならば、その時はまた手段を考えるとしよう。
ーーー
クローバーによると、スミスは山を越え谷を越えた所にある民家で便利屋を営業しているという。
何で殺人鬼が人様の役に立とうとするのか、何で普通の民家なんかに住んでるのか、色々疑問はあったが、とりあえず今は親父の事だと割り切った。
もともと人が来ない地域のようで、歩いていても一人たりともすれ違う事はなかった。
まぁ殺人鬼いる山だし当然といえば当然だろう。
ゴツゴツした山道を進むこと二時間。ようやくそれっぽい建物が見えてきた。
それは幼稚園児が描いた『大人になったら住みたい家』を具現化したような家。
煙突があり、ガーデニング畑があり、洗濯物がハタハタと風に揺られている。
建設はしっかりしているようで、風に吹かれて壁がガタガタ音を立てる事もない。
一見すると、平和そのものな光景だ。
とても殺人鬼が潜んでいるとは思えない。
だが、確かにスミスはここにいる。 護身用の銃を握って慎重にドアを開ける。
すると……チリンチリン、と鈴が鳴った。
ドアの上に防犯対策として取り付けられていたらしい。
マズい、バレる……!
「手を上げろ!」
仕方なしに銃を構えて臨戦態勢に入るキースだったが。
「あ、いらっしゃいませ」
玄関からすぐの、ソファーやテレビなどが置いてあるリビングより無感情な声がした。
鮮やかな色をしたミカンみたいな頭の少女が、ソファーに寝そべって漫画を読んでいた。
上質かつきちっとした服を着崩して、ミニスカートと黒のニーソックスを穿いている。
「おーい、お客さんですよ」
「あら、本当? どれどれ」
ミカン頭が無感情な声で無表情のまま呼びかけると、何故か天井裏から女が出てきた。
それもとびきり美人。
じっと見ていると心ごと吸い込まれそうな紫色の宝石のような瞳。
鼻筋の通った少し高めの鼻。赤い果実のような唇。すらりと高い立ち姿。
容姿端麗とは彼女のためにある言葉なんじゃないかとすら思うほど美しかった。
キースが思わず見惚れていると、美女が彼の視線に気付いた。
目が合った瞬間、昆虫Gを見たような顔をされた。
「何よ、男じゃない。何の用なの? 冷やかしに来ただけとか言ったらミートパイにして食べずに捨てるわよ」
「せっかく作った食い物を粗末にするな!」
何だか知らないが酷い言い様だ。どうやらかなりの男嫌いらしい。
「つーか誰も用無いなんて言ってねぇだろうが。ラスカル・スミスに会いに来たんだよ」
「はあ、ラスカル・スミスにねぇ」
天井から降り立ちながら、美女が気のない返事を返す。美女は顔だけじゃなく、スタイルも非常に良かった。
手足がすらりと長く、腰まで伸びたオリーブ色の艶やかな髪が、はらりと優雅に顔にかかっている姿はモデルか女優のよう。
しかしながら、本人はフリルがたっぷりとあしらわれたブラウスに、エプロンドレスという服装をしている。
率直に言えば、少々雰囲気に合っていない。
「お前らの中のどっちかか?」
「私は違うわよ。今日はアンタの番でしょうカリン」
「えぇーそうでしたっけ? めんどいんで代わって下さいよニルさん……あ」
その時、空気が凍り付いた。
うっかりし過ぎな発言により、ミカン頭無表情少女はカリン、美女はニルと判明した。
「お前らどっちもスミスじゃねぇのかよ!」
「ありゃりゃ、バレちった。てへ」
「てへじゃねぇよこのミカンヘッド!真顔でそんなん言っても怖ぇだけなんだよ!」
「いえね、ラスカル討伐に乗り出す輩が多い上客を装ってくる奴もいるから毎日くじ引きでラスカル役を決めてるのよ」
「殺人鬼なんて大役をくじ引きで決めんなよ!」
一通りツッコミ終え、キースはボケの嵐に精神的に疲れながらも彼女達に危険性がないと判断し、銃をしまって本題を持ち出した。
「で……本物のスミスはどこにいるんだ」
「何であんたにそんな事教えなきゃならないんスか。個人情報をネットに流して悪用する気ですか」
カリンは思いっきり疑わしそうな目で見てくる。
まぁ殺人鬼とはいえ仲間をあっさり差し出す奴はいないか。
何かうまい言い分はないものかと考えようとした時、カリンが口を開いた。
「その前にあんたについて聞かせてください。この度はお前ラっさん討伐にようこそいらっしゃいました。誰の差し金ッスか」
やる気のなさそうな口調で問いかけてくるカリンに、おかしな所で男の意地が働きかけ、負けじと気だるげに言う。
「ブランクインのクローバーさんからッスけどぉ!」
「は?クローバーさんですか?」
「僕自身の目的はまた別だけど……恋人が殺されたっていうからその報復だよ」
カリンが目を丸くし、ニルと顔を見合わせる。
「報復も何も……生きてますけど、その人」
「は?」
「話に出たブルーノの恋人は私よ。この通りピンピンしてるわよ、残念だったわね」
「はああああぁ!?」
「あの人嘘つきなんスよ。ご愁傷さまですね」
なんだそりゃ。騙されたってことか?ラスカルを殺す道具として使うためだけに。
何がなんだか分からないキースとはまた違った微妙な沈黙が流れていたが、四秒で空気が変わった。
「やーやーわざわざこんな所までお越しいただきどうもありがとうございます」
「疲れたでしょう?さぁさ、座って」
急に歓迎モードに切り替わった二人。
混乱するキースを椅子まで引っ張っていき座らせる。
ちなみにニルはやはり男嫌いのようだ。肩を掴む力加減に憎しみを感じた。
「えーじゃあ今回の依頼はラスカルの殺害ということでよろしいかしら?」
満面の営業スマイルを浮かべたニルが向かいに座って聞きつつ、そっとメニュー表を置いた。
「いや僕はそんな依頼するなんて一度も……って、何やってんだミカン頭ァ!」
どさくさ紛れにキースの手足を手錠で拘束するカリンにツッコミを入れるが、構わずビジネストークを始めだすクズ工場レディース。
「Aコースなんかどうかしら?ブルドーザーとか使うからちょっとお高めだけど確実にラスカルを仕留められるわよ」
「いらねぇ!」
「Bコースはじわじわ時間をかけて殺していくパターンね。必要なのは時間と胡椒だけだから格安よ」
「これはおすすめですよ。あんたは元セレブなカリンと違って貧乏そうなんで」
「だからいいっつーの!!しつけぇんだよてめーら!」
「そう……残念だわ」
勧誘を振り切って叫ぶと、ニルがしゅんとして俯いた。
それだけでもしまったと思ったが、その美しい目に涙が光っているのを発見し、キースはとうとう青ざめた。
「いえ、ごめんなさいね。こんな親切の押し売りみたいな事しちゃって。でもっ……わ、わたし、久しぶりに口がついてるお客様が来たものだから嬉しくてっ……うぅ」
「あー泣かしたー貧乏ヤローが美女を泣かしましたー。お客様、どう落とし前つけてくれるんですかコレ」
しくしく泣き出したニルの横でカリンが囃し立てて不安を煽る。
「えッ、あ、いや、な、泣かないでくれ!言い過ぎた!!僕こそ悪かったよ、ここにお前らがいるって知らなくて……悪ぃ!」
拘束されたままなので体をくの字に折り曲げて頭を下げるキースに、ニルは細い指で涙を拭いつつ微笑みかける。
「いいえ、いいのよ。でもねお客様、できればお願いがあるんだけど……その……聞いてくれるかしら」
「あぁ。僕に出来る事なら何でも言ってくれ」
「ありがとう……じゃあまず服を脱いで下さるかしら。上だけでいいわよ、見苦しいから」
「あぁ」
「次にこの油を体に塗り込んでちょうだい。あ、香辛料でもいいわよ」
「あぁ」
…………ん?
「おいちょっと待て。なんかこんな流れの話知ってるぞ。最終的に食う気か。カニバリズムかおい」
「ちゃんと付け合わせも食べて小骨までしゃぶり尽くしますよ」
「やっぱりそうなんじゃねぇか!!ふざけろ、指一本たりともくれてやるもんか!」
「チッ、ケチ臭いわね。香水臭くて貧乏臭いなんてゴミの極みだわ」
「お前はさっきまでのしおらしさはどうした!!」
目まぐるしい程のボケの嵐にツッコミ疲れ、キースはだんだん士気もスミスに会う気も消え失せてきた。
もちろん親父の事を諦める気は無いが……。
仕方ない、ここは日を改めて出直そう。
あの副社長の口ぶりからすると、多分ここにこんなコンビがいるなんて知らなかったんだろう。
別に火急という訳でもなさそうだし、説明すればきっと分かってくれるだろう。
「おい、僕もう帰――」
帰る、と言おうとした瞬間、店内に耳障りな轟音が響き渡った。
サイレンかと思ったが、それにしてはスローテンポ過ぎる。
叫び声がとてつもなくスローモーションで流れているかのようだ。
「おいなんだこの音!?」
「敵襲です。あーこの数だと一人じゃキツいッスね。ニルさん、背中お願いできますか」
「仕方ないわね、貸しにしといてあげるわ」
ハードボイルドな受け答えをする彼女たちの背中は、心なしか哀愁が漂っている。
「あ、あんたもそこでぼさっとしてたら危ないわよ。敵が侵入してきたら蜂の巣にされちゃうかもね」
「はぁ!?この状態でどうしろって……」
文句を言いつつ手足をガチャつかせる。
と、軽い音を立てて手錠が開き、あっさり解放された。
驚いて手首を見ると、擦り傷一つない。
そういえば拘束されている間、痛みは全くなかった気がする。
そんなキースを呆れた目で見ながらニルが言う。
「やっぱり……ブルーノが何であんたをよこしたか分かったわ、ザコだからよ」
「あぁ!?誰がザコだテメェ!」
「女に言いくるめられるわ手錠が外れかけてるのに気付かないわ、ザコキャラじゃないスか完全に」
「ザコなら、万が一私達に危害を加えそうになっても、返り討ちにできるものね」
何か言い返そうにも言葉が見つからず、ただただ悔しさに唇を噛むしかできないキース。
良くない……この流れは非常に良くない。
これはアレだ、娘さんを下さいと言ったらチャーハンを渡されて帰されるパターンだ。
せめてスミスの部屋の情報だけでも得て帰還せねば。
「そうそう、ラスカルなら二階の自室よ。ドアが開いてると思うからすぐわかるわ」
「って、ずいぶんさらっと自白したなおい!」
と思っていたら、ニルが勝手に喋ってしまった。
「ちょっと、なにカリンの許可無しに勝手に白状してんですか。裏切りです」
「こいつが単にラスカルを始末しようとしてるようには思えないの。女の勘ってやつよ」
「……あっそ」
まぁ確かに親父の事を聞いて、スミスの返答次第ではクローバーを説得すればいい話だから、あながちその勘も間違いではない。
こっちも、できる限り穏便に済ませたいとは思っている。
カリンはまだ不服そうだったが、キースを振り返らず外に飛び出していった。
彼女なりの肯定の意思表示のようだ。
「あ、そうそう。もしアンタが殺されたら財産は私が全部もらってあげるから安心しなさい」
「不安しかねぇよ」
適当に受け流してニルを戦地に送り出し、リビング脇の階段へと向かう。
二階は完全な住居スペースとなっており、各々自室が割り当てられているが、従業員が三人しかいないため空き部屋がちらほらある。
ふとドアが僅かに開いている部屋を見つけた。ニルの言った通りだ。
「……」
……ここにスミスがいるのか?
慎重に開けてみる。
と、そこは儀式でもやってるのかと思うほど、どこもかしこも時計づくめだった。
カーテンを完全に閉めきった真っ暗な部屋を彩る砂時計に日時計、鳩時計エトセトラエトセトラ。
そしてそんな部屋に埋まるように存在している一つの塊。
洗濯物が放置されてるのかと思ったが、よく見てみるとそれは俯せで倒れ込む子供だった。
色素の薄いボサボサの髪は長さが半端な上、服装も大きめのパーカーに色褪せたジーンズと中性的で、見た感じでは性別がわからない。
パーカーは動物の耳としっぽ(多分タヌキかあらいぐま)が付いており、ファンシーな雰囲気。
だがそれを差し置いて絶叫もののポイントが一つ。
血まみれだった。
いきなりサスペンス劇場。
小説顔負けの場面に遭遇し、キースは混乱の極みに立たされた。
ちょ、誰か救急車……ダメか、ここ山奥の殺人鬼宅だし。
とりあえず揺さぶって生死の確認をしよう。
「おい、しっかりしろ!! 目ぇ覚ませ!」
呼びかけに反応するように、チビッ子のパーカーに付いたしっぽがピクリと動いた。
もぞもぞ動いた後、亀並のスピードでゆっくり起き上がる。
ぼんやりした水色の目を薄く開けた。
気がついたか……ホッと胸を撫で下ろす。
そしてそんなキースに対し、あらいぐましっぽのチビッ子は。
「あーー……なんだようるさいな……まだシフト交代の時間じゃないだろ~?」
そうぼやき、あらいぐま(略)は眉間を揉みながらため息をついた。
「見なよ、まだ三十分も経ってないじゃないか。ホントもう大概にしてくれよ。三日連勤はさすがにキツいって」
カッチコッチ鳴っている壁掛け時計を指差して文句を言ってくるあらいぐま。
どうやら寝ぼけてキースを仲間と勘違いしているらしい。
というかこいつ、見た目とのギャップがだいぶ激しい。
起こされてこんなリアクションするのは、徹夜明けの社会人ぐらいじゃないだろうか?
「本ッッ当に勘弁してくれ……これ以上は命に関わるよ……」
「わ、わかったわかった!休んでいいからちょっと目ぇ覚ませ!なっ、なっ?」
くしゃくしゃ頭を撫でてやったのがよかったのか休んでいいという言葉に反応したのか定かではないが、唐突にあらいぐまっ子の意識が覚醒した。
「おや……誰だぃきみ」
きょとんとキースを見上げるあらいぐまっ子。
今まで丸まっていて気付かなかったが、チビッ子は怪我でもしているのか首と手足に包帯を巻いていた。
「新メンバー入りに賛同した覚えはないし……ぼくがシフトじゃないのにニルとカリンちゃんが会わせたって事は……もしやきみ、ザコ?」
「ザコザコ言うんじゃねぇよ何度もよぉ!」
チビッ子相手に大人げなく怒鳴ってしまったが、彼には彼で譲れないプライドというものがあるので許してやってほしい。
「おい。お前ラスカル・スミスか?」
「ラスカル? ……あぁ、うん。まさしくその通りだねぇ」
寝ぼけているためか、言葉をゆっくり反芻するラスカル。
やっぱりかと、ため息を吐きたくなったが気を取り直して口を開く。
「聞きたい事がある」
「その前に、ちょっとカーテン開けてくれるかぃ。眠気覚ましに日光浴をしたいんだ」
のんびりした口調で言い、カーテンを指差す。
そうしなければ話が進まないと思い、仕方なしに窓際まで歩いていってカーテンを開けてやった。
途端に、部屋中に眩しい光が満ちる。
ラスカルは目を手で庇いながら、目が慣れるのを待つ。
「今日は確かめたい事があってきた」
「何だぃ」
「テッド・アンダーソンって男知ってるか?十年前にお前が殺りまくった中にこの帽子被ってる奴いたか」
これ、と被っている帽子を指差し問う。
この帽子は父の形見なのである。
「ぼうし? 帽子……」
もはや癖なのか、言葉を復唱してゆっくり考えるラスカル。
「いや、いなかったな。みんな黒一色の喪黒福造みたいな格好してた」
「覚えてんのかよ」
「覚えてるさ。でもさすがに百十年もする時間の流れには逆らえないよね」
「は?」
百十年?
何を言っているんだ。
外見は何故か子供だが、実年齢は二十歳前後だろうに。
「終いには大好きだった友達のことも忘れかける始末さ。だから――」
不意にラスカルは、近くに落ちていたガラスの破片で自分の腕を突き刺した。
止める間もなかった。
というより、動作がごく自然すぎたのだ。
ぶかぶかの服に鮮血が染みていくのを、ラスカルは愉しげに眺める。
「こうして忘れないようにしてるんだ。彼の顔も匂いも温かさも血の色も、全部。痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて、忘れられない。忘れたくないんだ、何もかも……ふふふ、次は何しようかなぁ。ハラキリとか?外国文化にあやかってさ。ははは」
キースはしばらくあ然としていたが、ハッと我に返り慌ててラスカルの腕を掴んで止めさせた。
「何やってんだバカチビ!」
「ちょっと離してくれよ、邪魔しないで……」
腕を振り払おうと鬱陶しそうにキースを上げる。
その時、ようやくラスカルは日差しに目が慣れたようでキースの顔をまっすぐ見た。
するとその途端、ラスカルは眠そうな薄水色の目を見開いて、心底驚いたような、というより幽霊でも見たような顔をした。
「ルーク……?」
か細い声でラスカルは呟いた。
そして次の瞬間、ラスカルは突然叫びだした。
指先まで包帯が巻かれた手で顔を覆い、元々ぐしゃぐしゃな髪を振り乱す。
キースはいきなりの事に動転しながらも何とかラスカルを落ちつけようとした。
いくら殺人鬼とはいえ、相手は(多分)子供だ。
自分も男である以上、優しく接するのが暗黙の了解。
だが頭を撫でたり抱きしめてやったりする前に、ラスカルは震える手でキースのシャツを掴み、胸にすがりついてきた。
「お、おい……」
「ルーク……ルークっ……、ルークぅ……」
誰か分からない人物の名前を連呼し、そして急に糸が切れたように倒れ、キースの腕の中に収まった。
(何だ、こいつ……?)
「あぁ、また気絶したのね。出血多量で」
混乱していると、あっけらかんとした口ぶりで言いながら救急箱片手にニルが部屋に入ってきた。
いつの間にか、戦闘は終わっていたらしい。
キースからラスカルを引っ剥がし、輸血パックを繋いでいく。
「またって……いつもこんな事してんのかよ」
「えぇ。何でも、昔死んだ友達との約束があるとかで……。けど、生きてればその内、昔の事なんて忘れちゃう。だから自傷行為に走るのよ。思い出を、一つたりとも忘れないために、自分の体を傷つけて記憶を刻みつけてね」
「そんな事しなくても、もっと他に方法ってもんがあんだろ!」
「子供の純粋な心で感じたものは、なかなか拭い去れるものじゃないのよ。トラウマみたいなものね。それに、他人が口出しできる話題じゃないと思うけど?ましてやあんた、元々はこの子を殺しに来たんでしょうし」
「……」
ラスカルはテッドを殺した覚えはないと言った。だがそれじゃあクローバーの話はどうなる。
ラスカルが嘘をついているとは思えないが……。
それにラスカルが言っていた、ルークという人物。
反応からして、おそらく自分に何かしらの共通点を見出したのだろう。
どういう人物なのだろうか。
ーーーーーーー
その後再び町に戻り、クローバーに連絡をつけて喫茶店で待ち合わせた。
「いやーご苦労様です。お父様について何か分かりました か?」
クローバーはあくまで朗らかな笑みを浮かべて、キースに尋ねた。
いっそ清々しいほどにしらばっくれているその様子に、キースは感情むき出しで怒鳴った。
「分かりましたかじゃねぇよ! テメェ騙しやがったな、あのチビ殺すためだけに、ドラマチックな法螺吹きやがって!」
「おやおや、目上の人に対してそんな態度をとるとは……そんなやんちゃ坊主には、お仕置きが必要ですかね」
不意に背後に人の気配を感じた。
振り返ると――銃を装備した黒服の男達が十人ほど、キースを取り囲んでいた。
「まんまと騙されたなァ、キース・アンダーソン」
クローバーの口調が唐突に変わった。
後頭部でまとめていた髪紐を解くと、だらりとした長めの髪がカーテンのように顔の半分以上を覆い隠した。
辛うじて調和されていた陰気さが完全なものになった。
「図書館で長時間エロ小説見てるくらいだから絶対バカだろうとは思ってたがここまでとはなァ。騙しやすいったらない」
「おい待てコラ! 僕はお前に言われてあそこに行ったんだぞ! まさか最初から全部……」
「嘘だが?」
愕然とするキースの様を見て、クローバーは鼻で笑った。
「しかし、お前これから大変だなァ?」
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味だ。あの家に行って無事に帰ってきた奴はいない。なのに、お前は傷一つついてない。という事は、お前は連中の仲間って事だ。民衆もお前がスミスの連れだと思うだろう」
「なっ……!」
つまりは、策略か。目的はわからないが、こいつは二重三重にも嘘を吐いたらしい。
銃口を突きつけられながら、キースはぐるぐると思考を巡らせた。
もうこの国に自分の居場所は無い。
待てよ、じゃあ俺これからどうすればいいんだ?
ホテルや民宿に泊まろうものなら通報されて即逮捕。
高飛びしようにも、追い剥ぎにあったばかりで持ち合わせも少ない。
資金集めするにも行くあてがない。住み込みで、尚且つ 世俗に疎い連中がいるのが条件で働かせてくれる所なんて――
……いや、ある。
山のクズ工場だ。もうあそこしか頼りはない。
民衆が便利屋の連れだと思ってるなら尚更だ。 畜生、こんな国来たのが間違いだった。
というより、こんな会って間もない男の言う事を真に受けた自分が馬鹿だった。
「一つ聞いていいか……何でこんな事した? っつーか、何で僕なんだ。ただのからかい半分にしちゃやり過ぎだよな」
「あァ……上層部でスミスを殺すか更正させるか出来るか賭けててな。お前は色々と都合がよかったから選ばれた、それだけだ。まァせいぜい上手くやれ。その内テッドの情報もくれてやる」
「この流れでそんな事言われて、信じるわけねぇだろうが!」
「信じるか信じないかはお前次第だ。ちなみに警察に手回ししてちゃんと指名手配もしてある。ほら」
鼻先に突き出された紙には、忘れもしない。
キースが入 国早々追い剥ぎにあった時の、パンツ一丁の写真。
懸賞金はずいぶん安い。二つ名は『カトリーヌを探して三千里』。
「カトリーヌって何だよ!!」
「知らねェ」
色々ツッコみたい所はあった。
が、そんな暇を与えるほどクローバーは優しくなかった。
「撃て」
「ぎゃぁあああ!」
射撃音と共に、キースは近くの窓を突き破って逃走した。
ーーーー
夜中のクズ工場に、非常にスローテンポな打突音が響き渡る。
誰かがノックしているようだ。
居間で漫画を読んでいたカリンが、面倒くさそうに玄関へ向かう。
「うっさいスね。もう営業時間過ぎてんですけど」
鍵を開けた瞬間、キースが倒れこむように中に入ってきた。
「あれ、あんた……お久しぶりです」
「さっき会ったばっかだろうが!」
ゼエゼエと、肩で息をしながらツッコむキース。
「こんな夜更けに、何の用スか?」
「ここに住ませろ!」
「はぁ?」
「僕をここに住ませてくれ! 工場のメンバーに入れてくれ!」
それからキースは、騒ぎを聞きつけたニルを加えた工場レディースに、かくかくしかじかな理由を説明した。
カリンは机に突っ伏してテーブルをバンバン叩き、ニルは口元に手を添えて高笑いした。
腹立たしいが、ここで感情的になれば、最後の頼みの綱が切れてしまう。
キースが歯軋りしていると、ひとしきり笑って気が済んだらしく、カリンが言った。
「ま、いいんじゃないスか?ちょうど力仕事に男が欲しい と思ってた所ですし……ぷっ」
「そうね。一人くらいなら男がいてもいいわよ、力仕事に使えるから」
「決まりだな……」
キースは安堵のため息をこぼした。
「ぼくは反対だよ」
「うおッ!?」
が、ここでクズ工場のもう一人のメンバーの声が割り込んできた。
振り向くと、ラスカルが階段のそばで立っていた。
尻尾がもふもふと動いているのが可愛い。
「お前びっくりさせんじゃねぇよ! つーかいつからそこに――」
いつからそこにいたのかと尋ねようとした矢先、突然ラスカルに巨大なシャボン玉スティックで思いっきり殴られた。
例えるならばプロ野球選手。
見事にホームランを決め、ボール(キース)を観客席(床)に転がした。
「こんばんはラっさん」
「やぁカリンちゃん。しばらく会わないうちにまた可愛くなったね」
つい今し方、人を殴り倒した人物とは思えない、穏やかな笑みを浮かべるラスカル。
カリンの方も、床に倒れ伏すキースを、見て見ぬふりをしている。
「まだ二時間ぶりですけど」
「おや、そうなのかぃ? 君に会えない時間はずいぶん長く感じるものだね」
「当然でしょうね。唯一無二のボスですから」
「じゃあそんなぼくの可愛いボスに寂しい思いをさせた借り はキッチリ返さないとね。はい、ぎゅー」
「って、ちょっと待てコラァ!」
イチャイチャする二人に、キースは床からヨロヨロ立ち上がりつつ叫んだ。
「何だぃ、うるさい小僧だな。こっちはお楽しみの最中なんだ、邪魔しないでおくれ」
「何を差し置いても邪魔するわ! てめぇいきなり何しやがる!」
「ぼくなりの反抗の意思表示だよ」
にっこり笑ってラスカルは言う。
「話はおおむね聞かせてもらったよ、アンダーソン君。きみは昔亡くなったお父さんの死の真相を調べに僕の所へやって来たと。あわよくばぼくを殺そうと思ってた。そうだね?」
「……あぁ」
まぁ間違ってはないなと頷く。
「でもぼくはきみのお父さんなんか殺してない。したがって、きみはぼくを殺す気はさらさら無いと」
「そうだけど……」
もう一度肯定すると、ラスカルは大きなため息を吐いた。
「まったく……きみにはがっかりだよ。男の風上にも置けないね」
散々な言い草に、キースはカチンと来た。
言い返そうとしたが、ラスカルに冷たい目で見据えられ口を噤んでしまう。
「ぼくが何のために、刺客ホイホイみたいな真似してると思ってるんだぃ?」
刺客ホイホイ……わざわざここまで来た連中を半殺しにして 、あろう事か送り返している事か。
「そりゃあ……その……また襲撃に来させるため?」
「ご名答」
ラスカルはビシッと巨大シャボン玉スティックでキースを指した。
「でもそれだけじゃない。普通、そんな事したらどうなるか、ちょっと考えれば分かるだろう?」
「……ボロボロで送り返されてきた仲間の敵をとりに来るな 」
「その噂を聞きつけた別の奴らもね」
きみがまさにいい例だね、と独特のゆっくりした口調で言う。
ラスカル自身はさほど気にしていないようだったが、それは明らかに一大事なはずだ。
「そんな事してたらお前いつかマジで……!」
「殺されるかもねぇ」
のんびり且つさらりとした、まるで他人行儀な口ぶりだった。
「でもそれがぼくの望みなんだ。刺客ホイホイ作戦を続けて続けて、いつかぼくのライフワークが達成できる日までの暇つぶしをするのさ」
そう言って笑うラスカル。恐ろしいことに、それは心からの純粋な笑みだった。
「という訳で、ぼくはきみがここに住むのには反対だ。女の子ならともかく、ぼくに殺意を示さないような奴はいらない」
キースの鼻先に突きつけられたスティックから、液体が滴り落ちる。
床がジューッと音を立て、焼け焦げている様子からして、ただのシャボン玉ではない。きっと酸か何かだろう。
のんびりゆったりした癒し系なチビのくせに、なんて凶器持っているんだ。
「十秒待ってあげるから、さっさとぼくの目の前から消え失せておくれ」
首に提げた懐中時計を手にするラスカルに、キースは慌てて反論した。
「いやちょっと待て! お前が何て言おうが、カリン達はいいって言ってんだぞ、多数決的に考えてここは……」
「はい、九ー。八ー」
「聞けや!」
キースの言葉に構わず、カウントダウンを続けるラスカル。
「待ちなさいラスカル」
あと三秒を切った時、二人の掛け合いを傍観していたニルが口を開いた。
「確かに男が私達の仲間になるのは抵抗があるわ。でもこいつだってやむを得ない事情があるのよ」
分かってあげなさいと諭すニルの姿に、キースはある種の神々しさを覚えた。むしろ女神だ。
ただの性悪女じゃなかったようで、少し見直した。
「考えてもみなさい。こいつを雇って、力仕事全般を主に馬車馬のごとく働かせて、その内討ち死にしたら、多少なりの財産が手に入るのよ?悪い話ではないでしょう」
前言撤回。やっぱこの女ただの性悪だ。
「いや、でも……こればっかりは……」
そして当のラスカルは、困惑したように眉尻を下げ弱々しいながらも、まだ食い下がる。 意地でもキースを仲間に入れたくないらしい。
そんなラスカルの悪あがきに、カリンが申し出た。
「じゃあラっさん、こうしましょう。もしキースさん仲間入りに賛成してくれたら、勤務時間半分にしてあげます」
「喜んで賛成します……!」
ラスカルは一瞬で陥落した。
今までの張り詰めたやりとりは何だったんだと、ツッコミたくなるほどのあっさり加減だ。
カップラーメンでいったら塩味だろうか。
キースの鼻先からようやく酸入りシャボン玉スティックが下ろされる。
「それじゃあアンダーソン君、改めて、ようこそクズ生産工場へ。せいぜいうまくやりなよ。いつまでくたばらずにいられるか知らないけどね」
あからさまな嫌味とともに、和やかな愛想笑いを浮かべてみせ、ラスカルは尻尾をくねくねさせながら自室に戻っていった。
「ンッだあのチビガキは!出てきたと思ったら言うだけ言って引っ込みやがって!」
「あれでもあの子にしては社交的な態度よ」
まあまあ、とキースを宥めながらフォローする。
「あの子が自分の意見を通すなんて滅多にないもん。理由を聞いても話してくれなかったけど」
「きっと何か事情があるんじゃないですか? 少なくとも、嫌われてはいないと思いますよ」
何だか釈然としないが、キースは一応納得した。 現に、嫌われるような事は何もしていないのだから。
何はともあれ、こうしてキースの波乱万丈山のごとしな、クズ工場ライフが始まったのだった。
疲れている時というのは、不思議と眠れないものである。
睡眠行為自体、元々体力を使うものだから、それほどまでに疲弊しているのかもしれない。
もちろん、何もなくとも、なかなか寝付けない事だってある。例えるなら、みんな大好き・遠足を次の日に控える小学生なんかが該当する。
そんな時はこちらの世界的ジンクスをご紹介。『頭の中で羊を数える』。しばらくすれば、脳内が牧場状態になって大混乱に陥るから、さっさと寝たい人にはお勧めしない。
つまり何が言いたいか?
ね ら れ ねぇ ん だ よ‼
「あぁー……」
低く掠れた呻き声を上げながら、キースはベッドから起き上がった。
眠れない。日中、自分でも信じられないくらい動いて、心も体も疲れ果てているはずなのに。
いや、ただ単に『眠れない』というのは何かが違う気がする。
たまの休日に、一日のほとんどを寝て過ごした後のような、ずっしりとした妙な怠さがある。
おまけに空腹感もある。最後に食事してから、そんなに経っていないはずだが。
しかし参った……カリンから「用事があるんでしっかり寝といてください」と言われているのに。
腕時計を見れば、針は三時を指している。曲がりなりにも職に就いた初日に、寝坊するわけにはいかない。
「……ちょっと一服するか」
自分を宥めるように呟き、ほとんど習慣と言っても過言ではないシガレットチョコを咥え、火をつけた――ちょうどその時である。
キースのいる部屋のドアを、何かが勢いよく突き破ってきた。
キースは驚きのあまり、火のついたままのシガレットチョコを飲み込んでしまった。
とてつもなく熱かった。
「おはようございます、キースさん。ご機嫌いかが」
正体はカリンだった。最新式の一人用乗り物・セグウェイのようなものを、高速で運転し、突っ込んできたらしい。
相変わらず、表情が能面のようだ。
しかしながら、今回はどこかすっきりしたような感じがする。
そんなに人の部屋のドアをぶち壊したのが楽しかったのだろうか。
キースは誤って飲み込んでしまったシガレットチョコのせいで、激しく咳き込みつつも、何とかそれらを認識した。
「お、お前ッ……こんな時間に……! つーか、ドアッ……ドアッ……!」
「時間になったんで迎えに来ました。もう三時間は寝たでしょ」
「ブラック企業か!」
「いいからさっさと降りてきてくださいコノヤロー」
「いててて。ひっぱんじゃねぇよ!」
せいぜい十五歳程度の少女ながら、その腕力は、ただひっぱられただけで肩が脱臼するのではと思うほどに強い。
正直、わし掴まれたのが髪ではなくて心底よかったと思った。さもないと握り拳一つ分は毟り取られていただろう。
「第一回チキチキ★クズ工場新人研修会~」
連行された先はリビングだった。
到着するなり、カリンはどこからともなくマイクを取り出して宣言した。
そこには既にニルがいて、優雅に紅茶を飲んでいた。
時間が時間だというのに、どいつもこいつも何故ここまですっきりした顔をしているのか。
キースは不思議で仕方なかった。
「よぉ」
「……」
ただしニルの場合は、挨拶しても無視する程度には機嫌が悪いらしかった。
いや、正確に言えば、すっきりした表情はそのままなので、多分キースに話しかけられた事のみを不快に感じ、脳内からシャットアウトしたのだろう。
どっちにせよ腹が立つ。
「えー、ではこれからキースさんに、ここで働くための研修を受けてもらいます」
「研修って、何やるんだよ」
「従業員一同による、カウンセリング、施設紹介、シフトについて教えるオリエンテーションリレーです」
まぁ気楽に構えてくださいな、とカリンは言った。
「トップバッターはニルさんです。じゃ、ニルさん、まずは自己紹介をお願いします」
「ニルギリス・バーンズよ。ニルでいいわ。趣味はぬいぐるみ集め、好きなものは紅茶よ。一応精神科医で、ここではカウンセラーを担当してるの」
「はいどうも。じゃ、最初のプログラムですね。キースさん、ちょっと座ってください」
対になって設置されているソファーを、ぺしぺし叩いて促され、キースは席に着く。
そういえば、最初にここに来た時もこのソファーに座らされた。
あの時は拘束されたが、今回は大丈夫なのだろうか。身構えていたが、何も起きない。
どうやら、杞憂だったようである。
ニルが向かいに座り、第一のプログラム・カウンセリングが始まった。
「さっきも言ったけど、私は医者なの。専門は精神だけど、時と場合によっては外傷も診るわ……モグリだけど」
「おい今何かとんでもねぇ台詞が聞こえたぞ」
「そんな訳で、これからあんたに色々質問していくわ。正直に答えてちょうだい。正直に喋らなかったら、カリンにぶん殴らせるから」
およそ医者らしからぬ言動がひっかかるが、恐らくここではそれを気にしたら、とてもやっていけないのだろう。
自己暗示に近い悟りを開き、キースは質疑応答に専念した。
「――キース・アンダーソン。男性。十七歳、A型。一月十三日生まれ。身長体重、並。出身はイギリスの貧民街。好きなものは文学全般。嫌いなもの、水……って、やだ。あんたまさかお風呂も嫌いなの?」
「え、あぁ、まぁな……」
「どうりで香水がきついと思ったわ。これだから野郎は」
カルテを抱えて、うんざりしたようにため息を吐くニルに、少し罪悪感が芽生える。
「その点、ブルーノは香水なんてつけない、シンプルイズベストだもの。潔くていいわよね。ちょっとカビ臭いけど」
形だけでも謝ろうか迷っていた時、唐突に話題が恋人自慢にすり替わった。
よりにもよって、あの幽霊面ペテン師、クローバーの話に。
謝る気が、一瞬にして打ち砕かれた。
「まぁいいわ。次、趣味は……家族づくり?」
「あぁ、ホームステイ先で出会った人達と交流を深めてな。ホームステイはいいぞ。初めのうちは言葉が通じなくても、そりが合わなくても、相手を気遣う気持ちさえあれば最後には分かり合える。そうして家族になれるんだ」
力説するキースに対して、ニルは端正な顔を緩ませて嘆息した。
「そうね、家族っていいわよね。いつか結婚して、ウェディングドレス着たら、ブルーノったら褒めてくれるかしら」
デジャヴ。キースが自分について語る時間のはずが、さっきから何を言ってもクローバーの話にすり替わっている。
キースは何だかイライラしてきた。
「ブルーノ、ブルーノってうるせぇんだよ! つーかお前、あいつの女なら僕の指名手配何とかしろよ!」
「『女』なんて下品な言い方やめてちょうだい。『恋人』よ。しかも幼馴染なの。ドラマでもよくある、運命的な組み合わせでしょう? でも最近じゃ、仲が良すぎるせいか全然トラブルがなくって、逆に不満だわ。幸せすぎるのって疲れるのね」
ふぅ、と悩ましげにため息を吐くニル。
聞いちゃいない上に、面倒臭い。
『美女をぶっ飛ばしたい』という、人生初の衝動に苛まれていると、カリンが手を叩く小気味のいい音で、場の空気を変えた。
「ニルさん、恋人自慢はその辺で。次に移ります」
「あら、そう? じゃあ私もう戻るわね」
長い髪をなびかせて立ち去っていき、ニルのターンが終了した。
何というか、どっと疲れた。
オリエンテーションというより、我慢大会と言った方が正しい気さえする。
項垂れていると、カリンがフォローするように肩を叩いた。
「アドバイスしておきますが、ニルさんは面倒くさいし、ラッさんはマイペースすぎるので、消去法でいくとカリンが一番話しやすいです」
「DV娘が一番とか、世も末だな」
「人間関係って案外そういうもんですよ。さて、お次はカリンが担当します。第二プログラムは施設案内です――あ、その前に自己紹介ッスね」
不意にカリンが、指をパチンと打ち鳴らした。
途端に部屋の照明が消え、代わりにスポットライトのようなものが、彼女を眩しく照らす。
「我が名はカリン・ヘイゼルシュタイン。元ギャングであり、現在はこのクズ工場でリーダーをやってます。趣味は発明、スローガンは『裏切者に死を』。よろしくお願いしやがれ」
よろしくできるか。何なんだ、この色々と問題のある自己紹介は。
滅茶苦茶な自己紹介を終えると、カリンは手帳を取り出して告げた。
「そんな訳でプログラム再開です。さぁ、行きますよ」
斯くして、カリンのターンが始まった。
――一階、居間。
「まずは居間です。ここは食事、談話など、一般的な家庭と用途は変わりません」
適当に相槌を打ちつつ、辺りを見渡してみた。
談話スペースには、大型液晶テレビや本棚が設置されている他、ぬいぐるみ等もある。恐らくニルの趣味だろう。
文学好きの性か、自然と本棚の中身が気になり、近づいてみると、ほぼ全てがまさかのゴルゴだった。誰の趣味だ。
「あと、接客もここでやりますね」
「接客って、普通の客が来ることなんてあるのかよ」
「訪問販売のお姉さんに、『帰らせてほしい』って仕事を申し付けられることはあります」
「お前、お姉さんに何したんだよ……」
――同フロア、風呂。
「ここは嫌だ! 入りたくねぇ!」
「説明する前から、全力で嫌がらないでくださいよ。えー、ここは見ての通り、浴室です。元は普通のお風呂でしたが、最近は新技術が発展していってるし、発明家として負けられないので、改造しました」
改造とは、また不穏な響きだ。
出会って丸一日も経っていない関係だが、このDV娘のやる事は、大体把握した。
どうせ鍵を閉めた瞬間、上から盥でも降ってくるのだろう。
水は嫌だ、だが他人の思い通りになってたまるか。
「ちなみに、この浴室は鍵を――」
そら来た、やっぱり鍵だった。
カリンが言い終える前に、浴室に足を踏み入れ……ようとしたのだが、偶然そこに落ちていた石鹸を踏み、キースはひっくり返った。
その刹那。おびただしい量の水が、天井から床めがけ、降り注いできた。
キースは間一髪、水しぶきを浴びるだけに止まった。情けなくも、彼は石鹸に救われたのである。
「……この浴室は、鍵を閉めないと上から大量の水が降ってきます。今流行りのミストサウナ仕様です」
「滝行ってんだよ、これはァァァ!」
――地下。
「ここはカリンの研究室です。寝室はまた別にありますが」
「はぁ!? 何でお前だけそんなVIP待遇なんだよ!」
「あ、聞きたいですか。ここは元々、ただの塔だったんですが、天才カリンちゃんが一軒家にフォルムチェンジしたんス」
いえーい、とカリンは横ピースを決めた。
要は、設計者の特権か。そういえば、さっきも浴室を改造したとか言っていた。
このDV娘、ただの馬鹿に見えて、結構光るものがあるのかもしれない。
「にしても、さっきの浴室でのビビりっぷりは最高でした。写メ取っておけばよかったです」
前言撤回、こいつはただのクソガキだ。
――二階。
カリン曰く、このフロアは、ただ寝室があるだけらしい。
部屋は全部で五つ。一階への階段に近い順に、ニル、空き部屋、カリン、キース、ラスカル。
ちなみに、ラスカルが一番奥なのは、「引きこもりだから」らしい。
その可哀想な理由に対してツッコミを入れる以前に、気になるのだが、何故ここに至って、BGMが『蛍の光』なのだろう。
研修オリエンテーションが終わる前から、既に送別会気分だ。
「さて、楽しかった研修も終わりに近づいてきました。次のメンバーでラストスパートになります」
「えっ」
カリンの言葉に、キースはぎくりとした。
「ラストって、まさか……」
「はーい。まさかのぼくだよー」
ぎゃあ。キースは心の中で、情けない声を上げた。
声に出なかったのは、不幸中の幸いと言うべきだろう。
前回と同様、ラスカルはまたもや気配もなく、背後に忍び寄ってきた。
何なんだこいつは。実は忍びの者とか、そういうオチか。
「じゃ、カリンはここで失礼します。寝ちゃダメですよラッさん」
「了解。またね、カリンちゃん」
弛みきったパーカーの袖を振り回し、ラスカルは立ち去っていくカリンを見送る。
気分と同調しているのだろうか、しっぽまで一緒に振っている。気の抜ける、のんびりとした雰囲気だ。
不意にキースは、初対面の時のことを思い出す。
急に錯乱された事について、理由もわからないままだが、一応謝っておくか。
「な、なぁ……昼間は悪かったな」
「ん? 何がだぃ」
何がだぃ、と来た。
何たることか、あんな事があったというのに、もう忘れてしまっている様子だ。
カリンが「マイペース過ぎる」と言っていたのも頷ける。
「いや、覚えてねぇならいいんだよ。それで? お前は何を教えてくれるんだ」
「何も」
「はっ?」
「教えないよ、何も。自分で考えてみたらどうだぃ」
ほんわかした笑顔のまま、ラスカルは勝手なことを言う。
キースはムッとしそうになったが、昔経験した、埒の開かない口論を思い起こし、何とか穏便な会話を試みる。
「いや、ちょっと待てよ。それじゃあ、オリエンテーションの意味ねぇだろうが。せめて自己紹介ぐらいしろよ」
「ラスカル・スミス、二十一歳。A型。性別は勝手に判断しておくれ。終わり。何か質問は?」
投げやりな言い方に、キースは今度こそカチンと来た。
というか、このプロフィール自体本当なのか怪しい。
「……別に。何もねぇよ」
「そうかぃ。じゃあ、早速仕事だよ。ぼくと二人で、カリンちゃん達が起きるまで、刺客が入ってこないように見張るんだ」
簡単だろう、と微笑みを向けられる。
ついさっきまで、癒される笑顔だと思っていたのに、今は苛立ちばかりが沸々と湧き上がってくる。
殺意すら、湧いてくる。
キースは無意識のうちに、ホルダーに収められた銃を、指でなぞっていた。
「おい、今何時だ」
「午前六時過ぎ……だよ」
「嘘つけ!お前さっきもそう言っただろ!時計の針がまるで進んでねぇのはどういう事だよ!」
「そうだねぇ、進まないねぇ」
回し車仕様の窓枠に座り、まったり氷水を飲みながら返すラスカル。
返事はよこすが、まるで相手にしていない感じだ。
が、その薄ぼんやりした目はじーっとキースを見つめている。
他の誰かと話をして気を紛らわそうにも、シフト番ではない工場レディースはすやすや眠っている。
故にこのへんちくりんな老人もどきとしか喋れないのである。
初対面でいきなり泣かれたせいで、最初の内は遠慮がちに接していたものの、たった一晩ですっかり慣れてしまった。
今では、イライラさせられると気軽にしばく仲だ。それはもうバシバシと。
「何だよさっきから、見てんじゃねぇよ!ふざけたしっぽ付けやがって、このッ」
「ちょ、待ってくれ回さないでくれ、酔うからやめ……ぁああああああ」
とうとうイラッと来て、窓辺までいき枠を掴んでブン回した。
スピードを出しすぎたハムスターのように回し車の上でグルングルン回るラスカルは、しっぽも相まって本当にあらいぐまに見える。
朝っぱらから荒れ狂うキースは、バリバリ頭をかきむしって叫んだ。
「ッだぁーもうダメだ!!ここにいたら頭おかしくなる!ちょっとカリン叩き起こして町まで行ってくる!」
だいぶ回し車のスピードが下がり、でろーんと伸びているラスカルに向かって怒鳴った。
嫌がらせのつもりで言ったのに、向こうは待ってましたとばかりに顔を上げ「いってらっしゃい」と微笑んだ。
それにまたむかっ腹が立ち、手近のクッションを投げつけた。
――そして数時間後。
「あぁッ、あいつ指名手配犯の!」
「工場のやつだ! 捕まえろ!血祭りじゃァァァ」
「ぎゃあぁあああ!!」
キースは町中を全力疾走していた。
あの幽霊副社長の力を甘く見ていた。まさか指名手配から一日しか経っていないのに、顔を見られた瞬間町斧、出刃包丁、チェーンソーなどを持ち出して追い回され、恐怖のリアル鬼ごっこに早変わりするとは。
何なんだこの国民性?もう帰りたい。
だが家に帰っても、妙に時間が長く感じる上、女所帯で落ち着かない。
何より、ラスカルが明らかに自分を意識しているのが感じ取れ、理由が分からないだけにむず痒い。
長年の目的のためとはいえ、流石に心がへし折れそうだ。
「あーいたいた。キースさーん」
不意にカリンが呼ぶ声がしたその時、前方から超速でセグウェイ式芝刈機が走ってきた。
止まってくれるのかと思いきやそうではないらしい。というのも、カリンは一切スピードを緩めず、親指で自分の背中を指差して合図していたからだ。
おっと、何やら口パクで何か言っている。
『と・び・の・れ』……飛び乗れ!? 待て待て待て、できるかそんなスタントマンみたいな事。
しかし背後からは町民達がすぐそこまで迫ってきている。
飛んできたフォークが耳をかすった瞬間、もたついている暇はないと悟った。
――ええい、もうなるようになれ!
近付いてくる芝刈機が真横をすり抜けた瞬間を見計らって、キースはカリンの背中に飛び付いた。
風圧で吹き飛ばされそうになりながらもカリンの腰に手を回して、後ろから抱きしめる形になる。
体全体で風を切り、鬼気迫る形相の町民軍団の合間をすり抜ける。
暴走芝刈機は路地裏に入り込む。ダストボックスをひっくり返して足止めし、何とか振り切れた。
「大丈夫ですかキースさん。死にそうな顔してますよ」
「かっカリン……テメェ!何してやがった!迎えに来いってメールしてからだいぶ時間経ってんぞ!」
「いだだだだ、ちょ、やめてください振り落としますよ」
回した手に力を込めて横腹をぐりぐり抉り、散々走らされた復讐をする。
キースは一度でも嫌な目に遭うと、例え相手が誰だろうが関係なしにやり返す。
復讐を完遂するための執念は凄まじく、プライスレス。彼の知人は総じて“復讐スイッチ”と呼んでいる。
「さて、と……」
心拍が落ち着いてきた所で、本日のリアル鬼ごっこの戦利品を取り出す。
今日はテッドの事について調べるために、図書館で歴史の本を借りてきたのだ。
『歴史というパズルのピースたち』という題名の古ぼけた本。
……誰だこの痛いタイトル考えた奴。
間違いなくポエマーだろうなと思いつつ、読んでみる。
本には歴史の本と銘打ってはいるものの、半分は住民台帳だった。
写真も添付されており、誰が誰だか分かりやすい。
しかしいくらページをめくっても、テッドの顔は見当たらない。
クローバーはテッドを知っていた。という事は、テッドはイブムニア出身なのかもしれないと踏んだのだが……やっぱりただのハッタリだったのか。
本人にもう一度会って聞くのが一番だろうが、どうせまた壮大な嘘つくからな……あの嘘つきめ。
舌打ちして本を膝上に落とすと、あるページが開いた。
そこに記されていた名前は――ルーク・ローレンス。
キースは即座に本を拾い上げた。ここにも写真が載っていた。そこに写っていたのは、キースと同じ顔をした少年だった。
ページに鼻が付かんばかりに近付いて読む。
ーーー
十一年前まで、このイブムニアはスミス家という一族によって支配されてきた。
だが支配下から抜け出したいと民衆が発起し、やがて反乱軍と呼ばれる組織を作った。
反乱軍は次々にスミス一族を暗殺していき、そして最後には、一人の幼い子供、ラスカル・スミスが残された。
いくら幼いといっても、所詮は殺戮者の末裔。
反乱軍は容赦なくラスカルを始末しようとしたが、そこで一人邪魔者が出てきた。ラスカルの友人、ルーク・ローレンスが、ラスカルを攫おうとしたのである。
ローレンスはみなしごで、家族に一人取り残されたラスカルに共感したのかもしれない。
しかしそんな理由で極悪人を逃すほど反乱軍は甘くはなかった。反乱軍はローレンスを捕らえ、ラスカルの目の前で首をはねた。
するとラスカルは気が触れ、周りの人間全てを虐殺した。誰の手にも負えなくなったラスカルを、反乱軍のとある穏健派一派は人里離れた山奥に隔離した。
そして敷居内から出られないように特殊な結界装置を張った上時間感覚を遅らせる特殊技術を使って反省を促し、事態を収拾した。
この反乱軍の一派が、後のブランクイン。
殺人鬼を隔離し、製菓玩具メーカーとして国民や世界に奉仕する彼らは、永遠の英雄として語り継がれている。』
要約すると。
ラスカルは子供の頃に殺された一族の生き残りで。
ルークという自分と酷似した容姿の友人がいて。
救出に失敗し、ラスカルの前で殺されて。
残されたラスカルは、時間がやけに遅く感じる場所に閉じ込められて。
結果、現在の異様に若作りな人間になったと。
「そんな酷い話があるか!」
「カリンに言われても困ります」
号泣しながら叫んだら、冷静なツッコミを入れられた。
「大体このルークって奴、僕にそっくりじゃねぇか!」
「だからあんたをそばに置く事を許したって言いたいんですか?違いますよ、思い出してもみてください。あの人、めちゃめちゃ反対してたじゃないスか」
「う」
そういえばそうだった。
キースが工場メンバー入りを申し出た時、ラスカルは最後まで食い下がっていた。
それを工場レディースに諭され、とてつもなく不本意ながら了承したのだった。
「これは客観的な意見ですが……ラっさんは、あんたとルークさんを混同してなんていませんよ。あの人は自分の役目を果たすためだけに生きてますから、キースさんがルークさんの代わりだと思ってたらお役御免で自害するはずです。だからあんたを遠ざけたがってる。死んだら役目が果たせないから」
「……なるほど」
だからあんな風に取り乱したり、やけに意識されていたという訳か。
――あいつは、僕に死んだ友達の面影を見てるんだ。
さて、どうしたものか……真相を知ったからには放っておけない。
今までの素っ気ない態度にも、きちんと理由があったのだから。
というか、放っておくには事が重大過ぎる案件だ。
だが――
「要は、優しくして慰めてやればいいんだろ」
消えない傷もあるだろうが、人は支え合ってこそ立ち上がるものだ。
そうだ、家族の一員にならないか提案してみよう。
ラスカルも相当特殊ではあるが、悪っぽい奴なんてキースの身内にもいる。
きっと溶け込めるはずだ。みんな幸せになって大団円。完璧だ。
そう言うと、カリンは目を瞬かせてキースを見つめた。
感心している目つきじゃあなかったのは何故だろう。
ーーーー
ーーーー
小さな池が、工場の庭にある。
元々あったものではなく、カリンが作った人工の池だ。
その池の周りをうろうろしながら、独り言を呟いている女がいた。
クローバーの秘書、パティである。
「まずノックして……あの人が出てきたら……いや、別の人が出るかも……その場合は、えーっと」
言葉の順を追って推測するに、誰かを訪ねてきたようだ。
こんな山岳地帯の、しかも犯罪者の家を兼ねた店まで来ているのだから、そこの住人の誰かに用事があるのだろう。
だが、玄関どころか庭でグダグダと油を売っているあたり、その人物と会うのを躊躇っているらしい。
「……やっぱりダメかも」
やがてパティは、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
彼女にとって、今日のように目的がまともに達成できないのは日常茶飯事である。
秘書業務も、何かしらミスをして、いつもクローバーを苛つかせているほどだ。
今日ここにきたのは、仕事ではなく自分の意思なのだが、やはりできそうにない。
(情けない、情けない、情けない……)
不甲斐なさに、吊り目ながら黒目がちの可愛らしい瞳が潤む。
「……?」
ふと、パティは目の前にある池の異変に気付いた。
水底から泡が上ってきている。それも結構大きい。
さして深さもないので、生き物が生息しているようには思えないが……。
少し身を乗り出して、水中を覗こうとした次の瞬間。
ドッキリよろしく、派手な音とともに水柱が上がり、パティは悲鳴も出ずにただただ腰を抜かした。
開いた口が塞がらないながらも、何が起こったか把握するために池を見る。
そして今度こそパティは叫んだ。
ずぶ濡れの男が、池の中から顔半分を出してこっちを見ていたのだ。
どうしよう、悪霊呼び出しちゃった。
何とかして帰ってもらおう、でもどうやって?
副社長に助けを求めるのは……いや、駄目だ。
そんな事で仕事の邪魔をしたら減俸される。
混乱の極致に立たされているパティに向かって、ずぶ濡れ男が手招きをした。
猫でも手懐けるような雰囲気だった。
「な、何でしょう……?」
律儀に近寄るパティに気を良くしたのか、ずぶ濡れ男はにんまり笑った。
そして手を伸ばし――素早く彼女を引き寄せ、桃色の唇に口づけた。
開いた口が、塞がった。
ーーーー
ーーーー
工場に戻ると、キースは真っ先にラスカルの部屋を訪れた。
無用心な事に鍵がかかっていなかったので勝手に入る。
部屋の真ん中で倒れて、爆睡するラスカルが一匹。
軽くいびきまでかいている。
「おい、あらいぐま。こんな所で寝んな」
「すぴー……ぐー」
「ったく、しょうがねぇな……」
起こさないよう慎重に抱き上げ、ベッドまで運んでやる。
毛布をかけてやりつつ何気なくボサボサ頭を撫でてやると、うっすら瞼が開いた。
微睡んだまま、ラスカルがあの人物の名を呼ぶ。
「ルーク……くすぐったいよぅ……」
「違う。僕はキース、キース・アンダーソンだよ。ルークとは他人の空似だ」
ラスカルはしばらく微睡んだままだったが、数秒後、弾かれたように起き上がってキースと距離を取った。
敵意と戸惑い、驚きの入り交じった目でキースを見つめている。
「お疲れ。寝てていいぞ、まだ眠いだろ?」
「きみ……何でルークの名前を知ってるんだぃ。誰から聞いた?」
誰から聞いたも何も、紙っぺらから得た情報だが。
引きこもり生活が長引きすぎて、世情に疎くなっているようだ。
「本で読んだんだ。全部知ったよ。お前の過去の事も、僕によく似たダチの事も」
「……そうか……知ったのかぃ。ならもう分かったろ。君が目の前にいるのはどうにも目障りなんだよ。早く出ていってくれ」
「いいや、出ていかねぇ」
堂々宣言してみせると、ラスカルは顔を強張らせた。
武器を手に取ろうとしているのかポケットに手を伸ばしかけている。
それら全てを無視しながらラスカルを見据え、キースは至極気楽な調子で言った。
「なぁラスカル。お前さ、僕と家族の一員にならねぇか?」
「……何だって?」
「家族だよ家族。お前でも馴染めるいい奴知ってんだ、親父の件が片付いたら一緒について来ねぇか? 牢屋もぶっ壊してさ」
陽気に笑って、頭を撫でてやりながらキースは言う。
ラスカルは何も言わない。
俯いて、人形のようにされるがまま。
キースはそれを肯定と取り、更に続けた。
「そうだ、家族入り記念に、気になってた事聞いていいか? お前性別どっちだ? それによって今後の扱いも変えねぇとな」
「もう……だめだ」
「え?」
「限界だ……時間もない……早く、早く……」
何やらぶつぶつと呟いているので、キースは屈んでラスカルの顔を覗き込んだ。瞬間、息をのんだ。
その顔は、目が据わっていて虚ろ。口角が不自然なほどに吊り上がっていた。
一目見ただけで、正気を失った人間の顔そのものだとわかった。
「ふふふ、はは、あははははははッ‼ あーもう限界だ! 殺させてくれそうさせてくれ! それで全てが解決する!」
一息にそう叫ぶやいなや、ラスカルは隠し持っていたシャボン玉スティックで、キースの顔を突き刺そうとした。
キースは咄嗟に首を反らし、床をゴロゴロと転がって間合いをとった。
直撃は免れたものの、頬が少し掠ってしまったようだ。
尋常ではないほどの熱を感じる。
「テメェ……何の真似だ!」
「何の真似? ……殺人、だろう? ぼく、殺人鬼だし。おかしなこと聞くねぇアンダーソン君」
ラスカルはさも面白そうに、肩をくりくり揺らして笑う。
次の瞬間、狂った笑顔はそのままで、距離を詰めるように、ラスカルはキースに向かって走り出した。
ぶかぶかの服の中に潜ませていた、巨大シャボン玉スティックを手にキースに殴りかかる。
「……ッ!」
とっさに腕で防御したが、思いのほか力が強い。
衝撃で吹っ飛ばされて、そのまま壁に叩きつけられる。
痛みに咽ぶキースだが、ラスカルは容赦なしに更なる攻撃を加える。
小さな体が得物を大きく振りかぶれば、いくつかの大きな泡がぷくーっと出てきた。
それに指図するように指先をクイクイ動かすと、その動きに従うかのように、シャボン玉の群れは一斉にキースの体に吸い付いた。
「ぐぁああッ!」
シャボン玉が当たった個所からは、ジュゥッという肌や服の焼け焦げる音と煙が立ち上る。
熱い! 痛い! 苦しい!
経験したことのない苦痛に、キースはのたうち回る。
「ほらほら、どうしたんだぃ? やられっ放しなんてきみらしくもない。立ちなよ、お得意の復讐スイッチとやらでさ」
両腕を広げ、無防備のジェスチャーでラスカルが挑発する。
キースの脳内では、痛みは沸々と怒りに変わっていっていた。
徐々に呼吸も荒くなり、目は血走っていく。
「かかって来いよ、坊や」
キースの中で何かが切れる音がした。
それが何なのか理解するより先に、キースは腰のホルダーから銃を取り出し、ラスカルに向かって数発発砲していた。
そのまま割れるかと思ったのだが、なんとシャボン玉は風船のように柔らかく凹んだだけで、次の瞬間にはキースの方に跳ね返ってきた。
頭や目に、一直線で飛んできた弾を、すんでのところで屈みこみ回避する。
キースは全身を襲う熱に苛まれながらも、意を決して、シャボン玉の向こう側にいるラスカルの元へ辿り着こうと駆け出した。
酸のシャボン玉が、行く手を阻むように全身に吸い付いてくる。
しかしキースは強い怒りの念を胸に、駆け抜けた。
「うおぉおおおッ‼」
そしてようやく、ラスカルの目の前までたどり着く。
荒ぶる感情のまま、包帯が巻かれた細い首をわし掴み、押し倒した。
額に銃口を押し付け、引き金を引こうとした時――ラスカルが全くの無抵抗であることに気付いた。
「早くトドメ刺しなよ」
「はぁ⁉」
「きみは殺し合いに勝ったんだ。よってぼくには殺される義務がある」
興奮冷めやらぬ頭でも、この話の流れは到底理解できなかった。
一体何がしたいんだこのチビは?
いきなり襲い掛かってきたかと思えば、取り押さえられた途端に義務がどうこうと。
家族にと誘っただけのはずなのに。
「お願いだよ、殺してくれ。きみにならいいんだ。殺せ、早く殺せ!」
「うるせぇ! 何で僕がお前に命令されてんだよ! 死にたいなら他あたれボケ!」
「さっきまで殺す気満々だったくせに! それともっ……こんな体じゃ、殺せないって言うのか⁉」
叫び声と共に、今まで大人しく取り押さえられていたラスカルがキースの鳩尾を蹴り上げた。
不意打ちを食らい、キースは突き飛ばされる形で後退する。
何とか踏ん張った結果、倒れこまずに済んだ。
執念深く握りしめたままの銃を、再びラスカルに向けた。
しかし、彼の銃が火を噴くことは無かった。
既に立ち上がっていたラスカルが、上半身だけ裸で佇んでいたためだ。
いつも着ているぶかぶかのパーカー……だったものは、ビリビリに引き裂かれ、その足元に散らばっている。
体つきは痩せすぎで全体的に骨っぽい。
それよりも目を引いたものがある。
それは。
「醜いもんだろう?」
ラスカルは、穏やかに微笑んで自嘲した。
ラスカルの幼い肢体は、肌は赤黒く突っ張っていった。
ケロイドだ。全身がケロイドに包まれている。
下腹部には、切開した後で無理矢理に縫合したような痕跡がある。
「この肌はねぇ、父親にやられたんだ。死なない程度に薄めた薬品かけられてね。いやぁ苦しかったなぁ。熱いし痛いし爛れるし」
自身に起きた惨事にもかかわらず、あくまでのん気に、ラスカルは語る。
次に、痛々しい下腹部に触れた。
「これはぼくが性別をはっきりさせない理由の一つだよ。知ってるかぃ? ここに入ってたはずの大事なもの」
下腹部に入っているもの。
男性なら膀胱だが、女性なら子宮。
言い回し的に、奪い取られたと考えられる。
そして性別を曖昧にしか話さなかった理由が、それ故だとすると。
まさかこいつ、とキースはある結論を導き出した。
「お前、女か⁉」
「はてさて、子供も作れないケロイド人間なんて、女と呼べるのかねぇ」
抑揚のない声で、彼女《ラスカル》は呟く。
「あの日、ぼくはイカれた連中に拉致されて『去勢』された。彼はちゃんと助けに来てくれたよ。頭を撫でてくれた、背中をさすってくれた、でもかけて欲しい言葉は何ひとつくれなかった!」
それが性別を曖昧にごまかす一番の理由だと、半ば感情的にそう締めくくった。
だから性別を聞かれて、襲い掛かってきたのか。
ただ一人の友人でさえ認めてくれなかった真実に、気安く触れられたから。
そして、顔が似ていたという理由もおまけで。
「えっと、その……何つったら言いか、そのぉ……」
義理で謝罪の言葉を絞り出すキースだが、ラスカルは聞いていなかった。
彼女の頭には、遺言ともとれる友人の言葉が過ぎっていた。
約束であり、呪いでもある言葉。
長い長い孤独の中でさえ、ひと時も忘れなかった言葉。
『――俺が死んでも、お前は独りぼっちにならない』
『何故なら俺は、お前の友達は、死んだことなんて忘れて、性懲りもなくまた戻ってくるからだ』
『あの世がどんな所かわからない、けど必ず戻るから……だから、生きろ。生きて待っててくれ』
『俺達はずっと、二人ぼっちだから』
「なのに、きみを見てると決心が鈍る。きみを見てると、どうしようもなく彼の後を追いたくなる。もうだいぶ長いこと待ったんだ……そろそろ……」
会いたい。
絞り出すような、小さな声だった。
そこに狂気などなく、あるのは純粋すぎる悲愴だけ。
全て察した。
ラスカル・スミスは、狂ってなどいない、と。
「……ちょっといくつかいいか。お前がおかしくなったのっていつだ?」
「おかしく……? ぼくは初めから正気だよ。健全な精神とは言えないかもしれないけど」
「殺人鬼って肩書は?」
「体のどこかをもらっただけで、少なくとも命をとったことは一度もないよ」
「じゃあ……ルークを殺したのは誰だ?」
しばしの沈黙の後、ラスカルは簡潔に答えた。
「ブルーノ・クローバー」
キースは瞬時に、一つの答えを導き出した。
恐らく、クローバーはルークを処刑した事で讃えられ、今の役職に就いた。
それから十一年間、大量虐殺の濡れ衣を着せられたラスカルを観察していたのだろう。
――ところが。
当のラスカルは演技が上手く、傍目には精神錯誤しているのかいないのか判らなかった。
そこで第三者を獄中に送り込み、確かめたのだ。
刺客。仲間となる人間。
そして最後に――ルークにそっくりの人間を。
クローバーが言っていた、「都合がよかったから選ばれた」という言葉の真意はこれだったのか。
だがしかし、クローバーはそこまでして、何がしたかったのか。
疑問に思うキースに、ラスカルは見たこともないような優しい笑顔を向けた。
「悪党が他人を幸せにするためにできる事は何か、きみ知ってるかぃ? 答えはできるだけ自分から遠ざける事だよ。 さぁ逃げておくれ、アンダーソン君。きみはこんな所で死んでいい人間じゃない。地の果てまで逃げて――世界のどこかで幸せになってね」
ラスカルと一戦交えた後、キースは工場を飛び出した。
リビングでニルとカリンに出くわしたが、何も言われなかった。
というより、聞こえなかっただけかもしれない。
いずれにしろ不幸中の幸いといえるだろう。
――これからどうしたらいいのか。
頼る人も帰る場所も失くした最悪の現状で、何をせよと言うのか。
護摩でも焚けばいいのか。
忌々しい幽霊野郎宅に殴り込みたいところだが、キースは彼の家を知らなかった。
もし知っていたら、刺し違えてでも殺したかった。
というか殺そう。すぐ殺そう。今殺そう。
誰かに聞いてみるといいかもしれない。
たとえばそう――ちょうど目の前にたたずむ、彼なんかどうだろう。
涼やかな目鼻立ち、ほんのり色づく頬。微笑みを浮かべる唇。
凛とした立ち姿はまさしく貴族そのもの。
ダンディなどじょうひげがそれらを彩っている。
もう彼に話しかけるしか手はない。
いざ――
「うるさぁああい!!」
「うおっ、びっくりした」
びっくりしたのはこっちだ。
足払いを見舞いたかったのに、あっさり回避されてしまった。
五分ほど前の話。
キースはこのアホが掘ったらしい落とし穴に落ちた。
落ちた先には、何故かストレッチャーが用意されていた。
『ドッキリ大成功』と書かれたプラカードを持ち、アホは死ぬほど笑っていた。
状況が読めず、更には落ちた衝撃で身動きもできないキースの代役のつもりか、モノローグを語りだした。
その一切に虚偽はなかった。信じがたい話だが、心を読まれたのである。
別に話しかけられたわけではない。
というかこいつとは知り合いとかでも何でもない。
完全なる赤の他人だ。
もう、何がなんだかわからない。
むしろ説明してほしい。
誰だこいつは。
何で考えてる事わかったんだ。
「考えてる事はほらあれ、読心術ってやつ? 頑張れば住所もわかっちゃうぜ。すっげーだろ! ――あ、俺フランスから来た、ダン・ロールベルトお兄さんでーす。歳聞いたらぶっ飛ばすからな」
こちらの疑問を一気に解消してみせてくれた。
ここまでに至って、キースは「うるさい」としか言っていない。
勝手に心を読まれたのだ。
勝手に他人の心を読んで、勝手に名乗った男――ロールベルト(長いからベルトと呼ぶ)。
改めてそのたたずまいを観察してみる。
年の頃は、だいたい三十代半ばほどだろうか。
何故か燕尾服姿で、更にはモノクルを付けている。
酒でも飲んだのか顔は全体的に赤らんでおり、口元はニヤニヤと締まりがない。
髪型はアホ毛付きの七三分けだ。
……一言で表すならば、『変なおじさん』である。
ハイテンションが過ぎた酔っぱらいが、ジョブチェンジでもしたのか。
さっき自分で自分を貴族とか褒めちぎっていたが、安い三文芝居の脇役と言った方がしっくり来る。
そしてふざけているのはその風貌通りだった。
ベルトは何を血迷ったのか、キースが寝そべるストレッチャーに自らも飛び乗り、まるで車かなにかのように床を走り始めたのだ。
斜面だったらしく、なかなかの速度がある。
危ないからやめろと言ってもアホは聞かず、それどころか更に加速させてキャッキャと盛り上がるため、キースはもう諦めた。
そんなこんなで今に至る。
「さっきからずいぶん熱い視線くれるじゃねーのよ」
「みなぎる殺意をお届け中だからな。死ぬほど受け取れこの野郎」
「あらやだピリピリしてる」
ゲラゲラと下品に、ベルトは笑う。
みぞおちを歳の数だけ殴りたい。
一発入れようと試みたがぬるりとかわされるだけだった。
ストレッチャーの狭い面積でよく回避できるものだ。
歯ぎしりしながらも、周囲を見渡す。
走行中なため大雑把にしか説明できないが、おおよそが壁も床も石でできていた。
鉄格子で仕切られた個室の中には、ボロボロのパイプベッドと簡易トイレが設置されている。
一言で表すなら、『映画で出てきそうな監獄』だ。
「いやここマジもんの監獄だから」
「やっぱりか!」
えっ、監獄!? 落とし穴の先に何で監獄?
疑問しかないキースに対して、アホはまた心を読んだ。
「秘密組織が作ったらしいぜ。落とし穴が完成して、うっかり俺が落ちちゃってさぁ。あ、パンフレット持ってるけど見る?」
「監獄にパンフレットって完全に物見遊山じゃねぇか……」
「えーっと、現在地がここだから出口は……あ、真逆だわ」
「は!?お前自分で進路わかってなかったのかよ!」
「ごめーん。懲罰坊でも見てく?」
「見る訳ねぇだろバカタレ! ――ちょ、前見ろぶつかっ……アァーッ!」
斜面を下りきった先にある独房がようやく視界に入ったころには、時既に遅し。
ストレッチャーは猛スピードで独房に衝突した。
男二人は勢いのままに独房内の床に投げ出され、彼らがそこにいるという事実が轟音によって明かされた。
鉄格子は無残にぶち破られ、跡形もなくなっている。
「あははは!やっべ、なにこれ超楽しい!」
「てんめぇえ……!」
大の字になって笑い転げるベルトに対して、キースは持てる腕力の全てでぶちのめそうとした。
だがしかし、独房にはすでに人がいた。
パイプベッドで、毛布をかけて横たわる、恐らく囚人であろう人物。
病気なのだろうか、ひゅーひゅーとか細い呼吸をしている。
そのあまりの弱弱しさに、できるだけ静かにしなければならない、そしてすぐに立ち去ろうとキースは思った。
――のだが。
「それでな!取引なんだけど、あんた今めっちゃ困ってるだろ?助けてやってもいいぜ!」
早速騒ぐベルトだった。
事の元凶がずいぶんさらっとしらばっくれたものだ。
というか、なんとまぁ空気の読めない男か。
「代わりと言っちゃなんだけど、俺ね、今仕事探してんのよ。お役立ち度半端ないってどっかに口利いてくんない?あ、ワイン飲み放題が希望条件な」
「酒蔵の地縛霊になりたいのはわかった」
「副賞もついてくるぜ!ポットとか毛布とか。入れ歯の方がいい?」
「歯が無いの前提かよ」
鬱陶しい、というかうるさい。
すぐそばで人が寝てるのだから、静かにすべきなのに。
適当にあしらっていれば、その内黙るはず……と思っていたがなかなかにしつこい。
何だこいつ。宗教勧誘のエキスパートか。
視線を合わさないように俯いても顔を覗き込んでくる。
たまりにたまったイライラで爆発しかけた時――上から何かが降ってきた。
その『何か』は、ちょうどベルトの頭上に降り立ち、必然的に彼を押し倒す形で着地した。
「キィイ~スゥ……やっと見つけたわよあんた」
落下してきたのはニルだった。
ベルトにまたがっているため、スカートの中身が丸見え状態で仁王立ちしている。
その表情は、鬼の形相というのだろうか。
禍々しい効果音が聞こえてきそうだ。
そんなことよりも、彼女は着地地点が中年男性の顔だと気づいているのだろうか。
おまけにベルトはじっくり見ているらしく、ピクリとも動かない。
更にニルの「見つけた」という言葉は、イコール用事があるという意味だろう。
暗殺にでも来たのかと警戒するが、キースは子供の追いはぎにも負けるザコである。
よって、借りてきた猫を見習うことにした。
「まぁいいわ。連れ戻しにきたの。帰りましょ」
「……あらいぐまに何も聞いてないのかよ」
「聞いた上で無視したわ。でね、私による私のための私の審査会議を開いたの。満場一致で連れ戻すことに決定したから、泣いて喜ぶがいいわ」
「あらいぐまも?」
「あの子はまぁ……ちょっと拷問、……いえ何も」
やっぱりというべきか、どうやら穏便には事が運ばなかったようである。
それはそうと、目の前で繰り広げられているラッキースケベが気になる。
そろそろ気づいた方がいいのではないか。
ニルの方はというと、未だにベルトに気づいてない様子だ。
ベルト自身、女性の下着を見たのは初めてではないだろうが、これ程の美女のものはそうそう見れない。無駄にキリッとした顔でスカートの中を覗いている。
ちょっと羨ましいついでに、そのままぶっ飛ばされればいいのに。
ちょっと試してみようか。
「ニル、足下。覗かれてる」
「あらまぁ。ごめんなさいね」
軽く詫びて案外あっさりとニルは退いた。
初対面の時の反応から、てっきり理不尽系男嫌いだと思っていたが、事故は事故だと判別してくれる男前なお姉さんだったらしい。
内心、舌打ちした。……しかし。
キリッとした顔のまま起き上がろうとしたベルトだったが、いきなりニルが右頬をぶん殴って馬乗りになってきたため、それは叶わなかった。
胸倉を掴まれ、ニルは更に二、三発ほど往復ストレートを入れる。
「見た?私のパンツ、見たの?」
「逆に聞きたいんだけど答える度胸あると思う!?」
「殺す」
簡潔に殺人予告をするニルは、にっこりと笑っているのに、アメジスト色の瞳は笑っていなかった。ざまぁ。
顔を真っ赤にしてギャーギャー言いながら殴ってくるとかの方がまだ可愛げがあるというものだ。
復讐は、図らずも理由ができてしまったニルに任せることにしよう。
そして逃げよう。
厄介事が増える前に、だ。
そう思った矢先。
「あ〜らどこに行くのかしら、キース」
見つかった。
「いやちょっと所用のインフルエンザが……あーーっそうだ!カリンはどうしたのかなぁ!?」
「カリン?そういえばいないわね。天井裏ではぐれちゃったみたい」
何故天井裏なんて通るのか甚だ不可解だ。
どの辺だったかしら、と考えている隙に逃げ出そうとした時。
「まってぇ」
フルボッココースを施されて床に転がっていたベルトが、足を掴んできた。
しかも両足である。ホラーゲームのゾンビかとツッコむ余裕も無く、見事にバランスを崩したキースはべちゃりと倒れ込んだ。
それだけならばまだ良かった。
問題はベッドで寝ていた囚人の腹に倒れ込んでしまったことである。
キースはたちまち青ざめた。
「うわーーっすいませ……ッ」
急いで謝ろうと囚人の顔を見た。だがしかし。
「あら、あんた誰に謝ってんの?それ死体よ」
死体。そう、囚人は既に死んでいた。だがキースの関心は他にあった。
「やだ、私ったらこんな所にいたのね。ここは亡くなった囚人を一時的に置いておくための場所よ。死体安置所の仮設スペースって言うのかしら。でもそいつがいるなんて」
「そいつ……?ってことは、知り合いか?なぁこれ誰だ?」
キースは訊ねた。深呼吸を思い起こさせるような、静かな声だった。
今の今まで逃げようとしていたのが嘘のようだ。
何故キースはそんなことを聞くのだろうかと、怪訝に思いつつ、ニルは一言、答えた。
「テッド・アンダーソンだけど」
テッド・アンダーソン。
彼の、キース・アンダーソンの父親である。
その父親が、今、目の前に『ある』。
義理の父だから、当然容姿は似ていない。
だからニルも知る由もなかったのだろう。ニルはぽかんと口を開けている。
テッドの亡骸はまだ腐り始めだった。
つまり、つい最近まで生きてたという事だ。
そんな馬鹿な。いや、生きてたのはいい。
だがそれなら何で僕に連絡してこなかったのか。
他人じゃあるまいし。
「何で……何で親父がこんな所にいるんだよ!!おい!説明しろや!!」
「親父って、うそ。あんたのお父さんってテッドなの?」
「なぁんだマドモアゼルパンツ、知ってんの?」
キースを見ているのが苦痛になったのか、ニルは目を逸らした。そして語り始める。
「テッド・アンダーソンは……、ラスカルと並ぶ国賊よ。昔何かヘマをやらかして、国の暗部組織が見限って、民衆に売り渡したの。それで……」
「……ッ!!」
そんなわけはない。そんなわけはない。偽物だ。
テッドは、親父は、僕を守って死んだのだ。
僕の命を救ったヒーローだ。
国賊だと?ふざけるな、そんなもの信じられるか。
キースは半狂乱でその場から逃げ出した。ニルが何か言った気がしたが、どうでもよかった。
頭が痛い。目が回る。きっと誰かに殴られたんだ。
誰だ、僕を殴ったのは。復讐してやる。頭を撃ち抜いて殺してやる。
出て来い出て来い出て来い出て来い出て来い………………
「出て来やがれえッ!!!」
気付けば、キースはとある真っ暗な房の前に立っていた。
そこにも大量の囚人が『あった』。
狭い房に、全部で十人程度だろうか。彼らの足は、皆一様に地面についておらず、宙に浮いてゆらゆらと揺れている。
首吊り死体である。
……そして。
「うわああああああ!!」
「キース!ちょっと、どうしたの!?お願い落ち着いて……」
「親父だ、親父が!おいニル、何で親父が何人もいるんだよ、何で首吊ってんだよ!なあ!どういうことだあああああ!」
「なに?まさか死体が全部テッドに見てるの?ねぇ、落ち着いて!キースったら!」
追いかけてきたニルが必死にキースを宥めるが、彼は完全に錯乱していた。誰の言葉も届かないだろう。
「おーおー思いっきり発狂しちまって。どーしちまったのかな、帽子くんは」
「……ッ!」
苛立ったニルが、のんびり高みの見物をしているベルトに掴みかかる。半ば八つ当たりだが、それだけ余裕がなかったのだろう。
ベルトは特に驚くこともせず、ニルを見つめる。
「なんじゃらほい」
「あんた……ちょっと黙っててくれる?うるさいのよ」
「そんな喋ってねーべ。あんた精神科医だろ?俺に当たる暇あったらあいつに鎮静剤でも打ったら?」
ベルトは冷たく突き放すような言い方で返した。
自分が精神科医だと見抜かれていたことにも驚いたが、それどころではなく。
ただただ叫び続けるキースを、ニルは愕然と見つめていた。
遡ること少し前。
キースを追い出した後、ラスカルは部屋に閉じこもって塞ぎ込んでいた。
何とかしてキースを自分のそばから引き離したかった。
彼が亡き友人と瓜二つだから、守りたかった。単純にそれだけだ。
だがしかし、キースが友人とは別人というのも理解していた。
だからこそ、キースがいることで友人の一切を風化させたくなかった。
……しかし、やけどさせたのは可哀想だったかもしれない。
さぞかし痛かっただろう。
今頃泣いてはいないだろうか。
そうでなくとも昔から泣き虫だったから、……あぁしまったそれは別の方だった。
後悔と葛藤はとめどなく続く。
「そんなことしなきゃ良かったのになぁ〜」
「……………」
「……」
「…………うわーーー!びっくりした!」
「あーはははは!反応おっそ!のんびりし過ぎだぜ、おチビちゃん♡」
ケラケラ笑い転げる男の声が部屋に充満する。
いつの間にか、ラスカルの隣には見知らぬ男が座り込んでいた。
無精髭を生やし、薄汚い肌にはずた袋のような服を纏っている。
誰だこいつは。いつからいた。ぼくのテリトリーで何をしている。
「俺?ダン・ロールベルト。ベルトでいいぜ。何って、俺一応客なんだけど。あとしばらく前からいたぞぅ」
「!?な、何で考えてること……」
「んー、俺エスパーだから。それより、ここ便利屋だろ?ちょっと依頼があるんだけど」
「……きゃく……お客?おや、そうだったのかぃ?ようこそクズ工場へ、さぁさ座って。疲れたかぃ?肩揉もうか?今お菓子出してあげようね。カルピス飲むかぃ」
はたから見たら悪徳セールスマンに引っかかるおばあちゃんの図である。
あるいは、遊びに来た孫をお婆ちゃんがもてなしているかのようだ。
どちらにせよおばあちゃんに見えることに変わりはない。ちなみにラスカルは、九歳児の姿をした二十一歳である。
ベルトと名乗った男の要求は、「服を貸してほしい」というものだった。
パーティー用のコスプレ衣装くらいしかなかったのだが、ベルトは大層気に入ったようである。
「トレビアン!!トレビアン!!」を連呼していた。ジェネレーションギャップとはこういうのを言うのだろうか。
「どーよどーよこれ!思わず見とれちゃうだろ?」
「んん。そうだね、ぼくよくわからないけど」
髪型に至っては七三分けだ。
『工場』という牢屋に長らく閉じ込められているラスカルには、流行がよくわからない。というか理解する気もさらさらない。
唯一無二の友人がいない世界に興味が無いため、置き去りにされているのだ。
「でさぁ。さっきあんたが考えてたことだけど」
「んん?ぼく何か考えてたっけ」
「男のこと考えてたろ?キースとかいう。申し訳なく思うなら早く謝ったらいいんじゃね?そいつ多分、今日殺されるから」
ラスカルの幼い顔がさーっと青ざめた。珍しく、すぐに言葉の意味を理解できたらしい。
「ど、どういうことだぃ!?キースに何が起こるって言うのさ?」
「ふんふふーん♪追っかけた方がいいんと違う?様子見だけでもさ」
ベルトの胸倉を掴んで問い質すラスカルだが、彼は鼻歌を歌ってごまかす。
更には、監禁中であるラスカルに外へ出ろとまで言う。
ぼくをただの引きこもりだと思っているのだろうか。
キースがどうしてそんな物騒な目に遭うというのか。
この安い三文芝居の脇役みたいな男は何が目的なのか。
色々な思いが交錯するものの、ラスカルはとりあえず事情を話した。
「きみはよそ者みたいだから知らないんだね。ぼくはここから出られないんだよ」
「じゃあ試してみっかね」
ラスカルの小さな体を軽々持ち上げ、ベルトはどこかへ向かった。
ぼーっとされるがままで運ばれていると、とある場所へたどり着いた。地下への扉である。
「カリンちゃんの実験室?ここで遊びたいのかぃ?」
「いや、その奥」
「?」
「あんた知らないだろ。この奥に、地下監獄に繋がる穴があるんだぜ」
「……?それで?」
「つまり、『外』さ。解る?そーとー」
「そっか。外か」
……………ん?
「まてまてまてまて。ここはダメだよ。ぼくは外には出られないんだって。バチバチってなるんだ、すごく痛いんだよほんとだよ?」
「知ってるよ」
「おーや知ってたのかぃ、なら何でまっすぐここに来たのかな。いじめかな、ちょ、っわぁああ!?」
ぽーい。その光景を表すならそんなポップな効果音がふさわしいだろう
ベルトは、ラスカルを地下入り口へ放り込んだのだ。
ラスカルは再び青ざめた。
牢から出てしまった。襲い来るであろう痛みに耐えるべく、ぎゅっと目をつぶるが。
「……?」
痛くない。無事だ。
なんの痛みもなく牢から出られた。どうして。
「ほーれ出れたべ」
「う、うん、ありがとう……?」
「で、どーする?俺この先に行くけど、一緒に来るか?」
「……ぼくは……、でも」
渋るラスカル。その頭を、くしゃくしゃ撫でてベルトは言った。
「ま、いいけど。最終的に決めるのはあんただからな。せいぜい後悔しないようにした方がいいぞぅ」
鼻歌を歌いながら、ベルトは地下への道をすいすい進んでいく。
燕尾服のしっぽが機嫌よく揺れながら、やがて闇に溶けて消えた。
残されたラスカルはひとり、考えていた。
ベルトは、キースが殺されると言っていた。だがいったい誰にだろうか?
可能性があるとすれば、そう。
キースをイブムニアへ招いた者。キースがラスカルと接触すると何か起こると知っていた者。キースを殺す大義名分がある者。
キースに対して、私情を持っているであろう人物は。
「……まさか、」
――キースか?お前よく電話してこれたな!!よくも俺の家族を……!許さない!
――何よ今更。まさか謝る気?あれだけのことしといて、図々しいにも程があるわよ!
電話を切られてはかけ、また切られてはかけ。キースはその反復を繰り返していた。
連絡先は全て、キースが旅先で縁を結んだという『家族』である。
が、依然として響く罵詈雑言を聞く限り、向こうはそうは思っていなかったようだ。
とうとうかける相手も尽きたらしく、最後の一人に一方的に通話を切られると、キースはスマートフォンを無造作に放った。
膝を抱えて座り込む彼の周囲には、大量の本が散らばっていた。ベルトとニルは気付けばいなくなっていた。
が、それについてキースは特に興味も関心もなかった。
今は、お気に入りのロックミュージックを大音量でかけて気持ちを落ち着かせているところである。
「おい……、そこの奴。それ、止めろ……やかましいんだよォ」
不意に、暗がりの中から男が出てきてクレームを入れた。
眼帯と、やたら高い背が特徴的な男。
クローバーだった。
真冬だというのに暑いのだろうか、いつも羽織っている真っ黒いマントを脱いで、首元をくつろげている。
更にはぜえぜえと息まで上げていた。
墓場でお化け大運動会でもしてきたのか。
「……なんだお前かよォ」
キースの姿を認めると、クローバーは露骨に顔を嫌悪で歪ませ舌打ちした。実に失礼な男である。
「何だァこの不協和音は。俺の脳細胞を破壊する気かァ?今すぐ止めろ」
「止めりゃいいんだろ止めりゃ……」
売り言葉を買う気分にもなれず、大人しくスイッチを切った。
「ずいぶん立派な身なりだなァ。誰にやられたァ?」
「分かってて言ってんだろ。ラスカルだよ」
「だろうなァ」
ぜえぜえ苦しそうなくせに鼻で笑う元気はあるようだ。
「お前こそ何でそんな汗だくなんだよ」
「猿を閉じ込めてきたところでな」
「猿?」
「どの道お前には関係ない」
チラと、クローバーが床一面の本に視線を向けた。
本のタイトルは、ほとんど同じもの。この国の暗部についてである。
「……知ったのかァ?」
クローバーは主語を交えず質問したが、キースはすぐわかった。テッドのことだろう。
「……」
テッド・アンダーソン。
ニルが言っていた通り、彼は大罪人だった。それどころか、このイブムニアという国のトップだった。
統率者一族に当たる人物である。統率者一族はラスカルの家系の者と知られているが、それは表向きのもの。
つまりは、ラスカル・スミスとその家族は影武者だった。
裏で糸を引いていた者達は別にいた。それは。
「メシモノ。本物の悪党であるテッド達はそう呼ばれてるらしい。まぁ意味は調べても出てこなかったけど」
「……本当の意味は誰も知らねェ。召し物。歳を召した者。飯を食う物。色々と解釈はあるがなァ。……小僧、隣いいかァ?」
「ダメだ座るな」
クローバーはキースの却下を無視して、勝手に座ってしまった。何故わざわざ聞いた。
「お前の親父はどんな奴だった」
「……はあ?なんだ藪から棒に」
「そういえば聞いたことがないと思ってなァ」
そんな訳があるか、と記憶を辿ってみる。
しかし彼の言った通り、本当にその話題には触れていなかった。
「せっかく自慢の父親について聞かれたんだ。鼻高々に語ってくれるだろォ?」
クローバーに煽られるまま、キースは淡々と喋り始めた。
「親父は僕と同じく旅人だったよ。落ち着きがなくて、あっちこっちに行ったりしてた。あ、あとファッションセンスが壊滅的だったな。ツナギに帽子かぶってたし」
「もっと具体的な情報は?誕生日とか家族構成とか」
「誕生日なんて聞いたことねぇな。家族は……僕だけだ」
「それはお前だけの情報だろォ。知り合いなら誰でも知ってる事とかないのかァ?」
だんだんと、クローバーの質問が尋問に変わっていっている気がする。
自慢の父親を紹介するだけなのに、何がそんなに難しい?
キースはテッドの何を知っているのだろう。
……あぁ、頭が痛い。
「どうした。都合の悪いことを思い出しそうで頭でも痛いか」
「……うるせぇ」
「結論から言うと、テッドはお前の親父じゃない。それより死んだ理由が問題だ」
養父……否。
テッドは、十一年前、イギリスの貧民街から孤児達を大量に拉致した。
だがしかし、途中で何か、良心の呵責が襲ったらしい。
テッドは偶然残っていた最後の一人を守るために、崖から落として、逃がした。
それが理由でテッドは見限られ、その後は……大体想像できるだろう。
本にはそういう真実が記されていた。
そして、その守られた一人こそがキースだったのだ。
彼が水恐怖症になった理由と合致している。
「たしかにお前はテッドに助けられた。だが愛情故じゃあない。たまたま生き残ってたからだ。お前は、偶然助けられただけだった。お前に養父はいない。それどころか兄弟も、親戚も、誰も。家族は一人もいない。全てがお前の妄想だったわけだ」
「……ッ、」
血は繋がっていなくとも家族だと、信じていたかった。
心から尊敬していたかった。愛していたかった。
だから謎を解き明かそうと思ったのに、その末に待っていた答えがこんなものだなんて。
「あァ、それからなァ小僧。お前人殺した事あるだろォ」
膝を抱えてうつむいているキースの肩がぴくりと跳ねたのを、クローバーは見逃さなかった。
「その辺はよく知ってるぞ。泣き叫ぶ子供も命乞いする女も関係なく殺ってきたんだろォ?あのチビも半殺しくらいにはしたのか」
チビ。チビとはラスカルのことだろうか。
いささか、不自然なタイミングではないか。
何故今クローバーはそんな話を持ち出してくるのだろう。
もしかして、とキースはあることを悟った。
「で、どうする。もちろん逃げるよなァ?正体がバレる前に逃げなきゃ、他の連中が、あのチビが知ったらどう思うか」
「で?」
冷静な声だった。
静かな静かな夜の海のように、怒りも憎しみも無い。
有るのは無関心という感情だけ。
「確かに僕は人殺しだ。家族だと思ってたのに裏切った連中は復讐としてぶっ殺してきたさ」
「それが悪事だとは思わねェのかァ?」
「お前だけには言われたくない。それについて僕は反省も後悔もしてないし、多分この先ずっとそうだろう。……で、何だって?チビがどうたらって?僕が人殺しだってのが、あいつになんの関係があるんだよ」
「……な、」
キースの言う通りである。キースの送ってきた人生について、ラスカルは一切関係ない。
だがクローバーは動揺した。キースの言動が完璧に予想外だったのだ。
「……親父については、『やっぱり』の一言だ。そんな様な気はしてたんだ。あまりにも思い出が綺麗すぎるからな。第一、どう考えても時間の計算が合わないんだよ。親父と僕はそう長い時間を共にしなかったはずだから」
ひたすら淡々と語るキース。その顔は能面のようだった。
「それよりテメェの方こそだ。何をそんなに必死になってんだ?僕を貶めた先に何を期待してるのかと思ってたけど……“チビが知ったら”、ね……なるほど。やっとお前が考えてることがわかった気がするよ。そんなもんが僕を貶めた理由か?くっだらねぇ」
クローバーはラスカルを閉じ込めた一人だ。
ずっと監視している内、何か感情の変化があり、許されたいとでも思ったのかもしれない。
そこで亡き友人の生き写しを送り込んで、機嫌を取ろうとした。
だがそのままキースが彼女のそばにいるのは気に食わなかった。
おそらく、クローバーはラスカルのことを……。
「……。何を勘違いしてやがる。俺は、」
「いい。興味無い」
キースは言い切った。キッパリと、簡潔に。
クローバーの言い訳を、彼が抱える何かを、興味が無いの一言で切り捨てた。
あ然とするクローバーの胸倉を掴み、キースは叫んだ。
「この際だから、言いたい事をハッキリ言っといてやる。他人の僕を巻き込むな!僕はただ旅してただけだったのに、痴情のもつれで散々巻き込みやがって……!うんざりだ、いい加減にしやがれ!……あぁ、そうだ。仕返しに、あのチビに手ぇ出してやろうか?あいつガキみたいに小さいから痛いだろうな。どうだ、あぁん!?」
「………お前、」
お前はいったい誰だ、と。
クローバーはのどからこぼれそうな言葉を飲み込んだ。
……何故逃げないのか、と。
クローバーは戸惑っていた。
クローバーは、ここまで落とせばキースが逃げ出すと思っていた。
だが。
逃げも泣きもしないどころか、歯向かってくる。復讐される。
かつて手にかけた少年と顔が瓜二つなだけで、完全なる別人なのだと悟る。
そもそもこいつは、平気で自ら絆を断ち切るようなことを繰り返しておいて、それでもなお絆を信じている。
図々しい。
なんと図々しい男なのか。
この開き直ったクズ加減は、もはや一種の強さと言えるだろう。
強さ。
そう、強いのだ。
「……そうか。お前は思っていたほど弱虫じゃないらしい」
なら。
「なら、殺しちまってもいいよなァ?」
不意にクローバーが、キースの腹を渾身の力を込めて殴った。
痛みと吐き気に襲われ、キースがうずくまる。
しかしクローバーはそれを許さず、首を掴んで、そのまま押し倒した。
馬乗り状態になると、クローバーはキースの顔面を殴りつけ始めた。
喧嘩慣れしているのか、痩せているくせに腕力がある。
ゴリッと鼻が折れる音がした。鼻血がキースの顔を汚していく。
「なァ小僧。俺はお前が心底気に入らねェ。目障りだ。情けはかけてやった。逃げ道も用意してやった。だが逃げないなら後は知った事か。地獄に堕ちろ」
「がは、……は、ぁ"……!」
「……顔だけのくせに、調子に乗るな……ッ」
何度も何度も、何度殴ってもクローバーは手を止めない。
このままでは撲殺されてしまうだろう。
「……ッ!」
鼻血まみれになりながらもキースはクローバーに向かって血の唾を吐きかけた。
目元に付着したそれにひるむクローバー。
隻眼ゆえ、目へのダメージは致命的だ。
その隙をついて、キースは膝でクローバーの鳩尾を思いきり蹴り上げた。
痛みに呻いてクローバーが体勢を崩した隙に、キースは転がってできる限り遠ざかる。
ホルダーからかっさらった銃を構えると、クローバーは武器を手にしている所だった。
クローバーの得物は、彼の身の丈ほどある大きな剣。盾にも似た剣だ。
いっぺんの躊躇もなくキースが引き金を引く。
一発や二発ではなく、何発も。
殺意のまま銃撃するも、クローバーは大剣をやはり盾として使い、身を守った。
「どうしたよ、防いでばっかじゃねぇか!それしか能がねぇのか!?」
「雑魚は威嚇が得意らしいな。お前こそ数打ちゃ当たると思ってんのかァ?」
クローバーが間合いを詰めてきた。
キースが再び鉛を撃ち込もうと構えた次の瞬間、バラバラと銃のかたちが崩れ落ちる。
信じられないことに、銃をチーズか何かのようにスライスしてみせたのだ。
その見た目通り重いだろうに、クローバーは軽々振り回している。
痩せ型のくせにアニメみたいなことを、とキースは忌々しげに舌を打つ。
スペアの銃を装備しなければならない。もう一度間合いを取るべく、後退した。
「がッ!?」
背中に痛みが走る。
後ろは壁だった。前にばかり気を取られていたキースの注意不足である。
キースが痛みで動けずにいてもクローバーには関係なく。
むしろ好機と見たクローバーは、勝ち誇った笑みを浮かべている。
暗く赤い目がギラギラ輝く様子はもはや、狂気じみてさえいた。
「残念だったなァ小僧、俺の勝ちだ……!」
クローバーが剣を振り上げた。そして。
突然、クローバーがキースから勢いよく離れた。
いや、吹き飛んだという表現が正しい。そう、まるで何かが猛スピードで衝突したかのように。
「キース!!」
誰かに名前を呼ばれ、キースは振り向いた。
ラスカルだった。
彼女の手には巨大なシャボン玉棒が抱えられていた。
どうやらシャボン玉を使ってクローバーを弾き飛ばしたらしい。
ラスカルが泣き出しそうな顔でキースに駆け寄った。
助け起こすなり、ぎゅっと抱きしめる。
「あぁ、よかった、間に合った……!」
「お、おい……!」
「キース、ごめんね、ひどいことしてごめんね……!」
「わかったわかった、大丈夫だから落ち着けってば!」
「……チビ?」
暗く淀んだ声が割って入った。
クローバーだ。
弾き飛ばされたが早々に持ち直したらしい。
ラスカルはびくりと弾かれたように立ち上がる。
そして、キースとクローバーとの間に立ちはだかった。
クローバーは右目を見開き、じっとラスカルを見つめている。
「お前、チビのラスカルかァ?」
「っ……くろー、ば……」
「何故ここにいる。どうやって牢から出た」
「……キース。歩けるかぃ」
クローバーの問いかけには答えず、ラスカルは背を向けたままキースに声をかけた。
震えた声だった。
「いや、できれば無理にでも走って逃げてほしい。大丈夫、大丈夫だよ。きみだけはぼくが守るから……っ」
果敢なことを口走りはするものの、気休めにもならなかった。
瞳孔が開き玉のような汗をかいている。
挙句、息が上手くできていない。
どんなに鈍感でも一目でわかるほどに、ラスカルは怯えていた。
それを知ってか知らずか、クローバーは喋りかける。
久しぶりに会った旧友と話すように。
「……十一年ぶりだなァ。なんだお前、相変わらずちんちくりんな風体しやがって。もうハタチ超えてるくせに」
「……」
「無視かァ?引きこもってる間に口でも縫………」
クローバーの軽口は最後まで紡がれなかった。
凄まじい瞬発力で一気に間合いを詰めたラスカルが、得物をクローバーに叩き込んだのである。
が、クローバーは少しバランスを崩した程度で耐えてみせた。
キースには効いたが、クローバー相手では力の差がありすぎたようだ。
「どの面下げてぼくに口聞いてる」
「あ?」
「ぼくの友達殺して、ぼくを閉じ込めて、どの面下げてぼくに口が聞けるのかって言ってんだ!!」
憎しみを込めた叫びが、監獄に響く。
確かな敵意の光を瞳に宿して、ラスカルは得物を手に攻撃を仕掛けまくる。
が、クローバーは打撃を回避するだけで、一切反撃をしない。
彼が何故戦わないのか。その理由を、ラスカルは知っているのだろうか。
「お前のせいだ、ブルーノ・クローバー!全部お前が悪いんだ!!お前がいたからぼくの人生は狂った!お前さえ居なければ、ルークは死ななかったのに!!」
幼い顔を歪ませて。
いつも穏やかな声を荒らげて。
ラスカルは呪いの言葉を吐きかけ続ける。
クローバーは何も言わない。
その長い前髪が邪魔で、表情は見えない。
彼が何を思っているのかは、わからない。
「それで次はキースまで手にかける気か!?どこまでぼくを痛めつければ気が済むんだよ!そんなにぼくが嫌いかよ!」
「……ッ」
その時、突然クローバーがかわすのをやめた。
ラスカルが振り回している巨大シャボン玉棒を、ぱしっという小気味のいい音を立てて受け止めた。
猛攻を腕ひとつで止められ、ラスカルが怯む。
素早くシャボン玉棒を取り上げ、クローバーはラスカルの腹を蹴り飛ばした。
小さな体はいとも簡単に吹き飛ぶが、うまく加減したらしい。
痛みで動けないといった様子は見受けられない。
しかし丸腰になったせいか、ラスカルは腰を抜かしていた。
とうとう息が上手くできなくなったらしく、呼吸音が聞こえない。
幼い顔を染めているのは、まさしく恐怖の色だ。
小さな体を震わせる。
もはやクローバーは完璧に無言だった。
「ぁ、……っぅ……」
「……」
それまで自分から動くことは無かったクローバーが、一歩、ラスカルに歩み寄った。
瞬間、ラスカルは絶叫する。
内蔵に火がついたような絶叫だった。
そして激しく嘔吐し始める。
食事を摂っていなかったのだろう、吐瀉物は胃液しか含まれていない。
これは演技ではない。
体が。
心が。
命が。
魂が。
全てがクローバーを拒絶している。
「やだやだやだやだやだぁあ……くるな、近付くな……!ぼくに、近付かないで……っ」
完全に収集がつかなくなっていた、まさにその時である。
「ブルーノーー!!ここにいたのねっ」
またしても頭上からニルが降ってきた。
空気をぶち壊すハイテンションぶりを発揮しつつ、彼女は人様の頭を踏み抜いた。
今度の被害者はラスカルである。
いつの間にか、天井に大きな穴がぽっかり開いていた。
これは狙っているのか、にわかに疑わしい。
もはやこれは、巷で流行りのラッキースケベのようなものではないか?
いきなり降ってきて理不尽に痛い目にあうののどの辺がラッキーなのかはわからないが。
「やだ、何か踏んじゃったわ。……って、ラスカルじゃない。どうやって牢から脱獄したのよ」
言いながらも、ニルはさして興味は無いようだった。
コツンと軽快な靴音を立てて、改めて地面に降り立つ。
ラスカルはピクリとも動かないが、生きているのだろうか。
よく見ればラスカルが自らの吐瀉物でダイイングメッセージを残している。
……とても口では言えない暴言が書いてあった。
頭に着地されて、それなりに腹を立てているらしかった。
「……ニルギリス。お前まだ方向音痴治ってないのかァ?」
「何のこと?」
「……いや、何でもない。俺の勘違いだった」
ニルがきょとんとしている。
察するに、彼女は方向音痴を自覚できていないようだ。
一番タチの悪いタイプである。
「会いたかったわ、ブルーノ!」
言うやいなや、ガバリとクローバーに抱きついた。
そしてそのままの勢いで、彼に口付けた。
クローバーは特に抵抗せず、ニルの腰に手を回して受け入れる。
舌を絡める音や乱れる呼吸が非常に生々しい。それはまさに愛し合う恋人たちの営みだった。
それも、見ているこちらが恥ずかしくなるほど濃厚なもの。
「……恥ずかしくねぇのか、リア充め」
勝手に見せつけられていたギャラリーがボソリと呟く。
そう、今の今まで完全に空気と化していたキースである。
そして同時に、キースは思っていた。
『クローバーはラスカルに恋しているはずなのに、何故ニルとこんな事ができるのだろう?』と。
単にキースの勘違い、だったのか。それとも……。
「っぷは、っは……はぁ」
彼の一言が耳に届いたためかは不明だ。
が、クローバーがニルの肩を押してキスを終わらせた。
細い銀の糸が弧を描いて、やがてプツリと切れた。
「ねぇブルーノ、私汗かいちゃった。久しぶりに一緒にお風呂入りましょう?」
「……あァ。わかった」
すり寄るニルの艶やかな髪をひと撫ですると、不意にクローバーがキースに顔を向けた。
「おい死に損ない。今回は見逃してやる。そのチビガキ持って帰れ」
「持って帰れって、ゴミみたいに言うんじゃねぇよ」
「ゴミだろォ?汚いボロ雑巾なんだから」
未だ倒れ伏したままのラスカルには目もくれず。クローバーとニルは腕を絡め合って、その場を後にした。
カップル二人の足音が完全に聞こえなくなった頃。
「ふぅ、行ったか」
ひょこっとラスカルが起き上がった。
その顔は、いつも通りののんびりした表情を浮かべている。
「キース、大丈夫かぃ?生きてるかな?」
「鼻血で失血死しそうだよ」
「血は止まってる。死にはしないよ、多分」
キースの顔をぺたぺた触って調べた後、ラスカルは彼の頭を撫でた。
キースはキースで、ラスカルの吐瀉物まみれの口元がどうにも気になり、カーディガンの袖で拭ってやった。
ラスカルは何が嬉しいのかにんまりしている。
「何で追っかけてきた?」
「きみが殺されるって教えてくれた人がいてねぇ。ベルト、とか言ったかな?」
「あーそいつならさっき会ったな。ふざけた燕尾服のおっさんだろ」
「あの服ぼくが貸したんだよ。ちょうどいいパーティーグッズあったから。本当に焦ったけど……でも間に合ってよかった」
うっとりと潤んだ眼差しを向けられる。特別な感情を持っているであろう目だ。
まだキースを他の誰かと勘違いしているようである。
「……何かあったのか。クローバーと」
ふとキースが尋ねる。
聞くのも野暮かとは思った。
だがあれだけ派手にやり合う光景を見た上、キースは事実上巻き込まれている。
聞かない訳にはいかない。
「お前、クローバーの野郎と何かあったんだろ。ルークを殺した以外に、もっと何かが」
「何かあったか……?」
穏やかな微笑みが一瞬にして消え失せた。
「あぁあったとも。ぼくを黒幕の所に連れてったのはあの野郎なんだからね」
黒幕、とはメシモノと呼ばれる存在だろう。
「クローバーはぼくの兄貴だったのに裏切ったんだ」
「兄貴ってお前ら全然似てないじゃねぇか」
「義理の、だから。親に捨てられたぼくを拾ったんだよ」
「……なるほど。で、裏切ったってどういう意味だ」
「あいつは助けなかったのさ。ぼくのこともルークのことも。あいつ強いからね。その気になれば敵を全滅させるなり逃がすなり守るなりできたはずなんだよ。でも助けてくれなかった。理由がどうあれ、あいつのせいでぼくは全て失くした。それが真実だ」
ラスカルは淡々と、クローバーへの冷めた想いを語る。
「……そうか」
正直、キースは彼女が哀れだった。
と同時に怒りを覚えた。
ここまで地獄に落とされたのに、今し方友人の仇にあったばかりなのに、何をへらへらしているのか。
クローバーが憎いゆえか、他人事に思えなかった。
自分のことのように、復讐したい。
それにはまず、ラスカルを焚きつけるべきである。
キースは、おもむろにラスカルの頬をつまんでみた。
子どもの姿だけあって、ぷにぷにと柔らかい。
ラスカルはというと、きょとんとしつつも様子を伺っているようである。
思い切って引き伸ばしてみた。
すると十秒くらい遅れて「いたたたた」とリアクションが返ってきた。
「いたい、いたいよ、ねぇ」
「お前の友達はもう戻ってこねぇぞ」
「は」
ラスカルが呆けた顔でキースを見上げた。
いつもぼんやり微睡んでいる、曇り空のような瞳。
その瞳には、友人と瓜二つの男の、冷淡な顔が映り込んでいた。
「なに、言ってるんだぃ」
「寝ぼけて現実見えてねぇみたいだから」
「戻ってくるよ」
「死人が戻るかよ馬鹿」
「きっと戻るよ!!戻ってこなかったら、困るんだよ!ぼくの生きる意味なんか何も無くなるんだから!」
「あーーーーうぜぇ!!お前どんだけアホなんだよ、てめぇの人生決定権を死人ごときに左右されてんじゃねぇ!」
「きみに関係ないだろ!?」
ラスカルが、未だ引き伸ばされている己の頬からキースの手を振りほどく。
きっ、と懸命にキースを睨みつけるが、その顔にはありありと怯えが浮かんでいる。
中途半端な敵意に晒されたところでキースは怯まない。
「お前、生きる理由がほしいのか。目的がほしいのか」
「……だったら何だぃ」
「クローバーに一矢報いるのを手伝え」
ラスカルがきょとんとする。
完全に意表をつかれた。
「……てつだう?」
「お前あいつが嫌いなんだろ?僕もあいつが嫌いだ、死んでほしい。あいつのこと考えるとじんましん出てくる」
「でも、あいつ強いよ?きみじゃあ絶対勝てないよ。ルークみたいに殺されちゃうよ。ぼく、そんなの……っ」
「あぁ、だからそのルークみたいに殺されないように、お前が身を呈して僕を守り抜け。それが今からお前の役目だ」
役目。
彼女の人生は亡き友人を待つためだけにあった。
生きることだけが命を守る理由だった。
何の楽しみもなく、ただ生きるだけ。
終わりたい。けれど終わってしまったら、もう幸せにはなれない。
忘れ難いぬくもりを知ってしまった彼女は、ただがむしゃらに、空虚な未来を信じるしか無かった。
そんな彼女に、役目という名の『目的』をくれると。
そう、キースが。
亡き友人と瓜二つの男が、言っている。
「………っ」
ラスカルは嬉しかった。そして思っていた。
もしかして、これがルークの言う『約束』の答えなのだろうか、と。
『死んだことなんて忘れて、また戻って来る。それまで、生き延びろ』
戻ったのかもしれない。
ぼくの生きる光が。
いや、この際違ったっていい。
ルーク、見てるかな。
ぼくに生きる理由をくれる人が、またできたよ。
きみとの約束は果たされないだろうと思う。
だから願わせてほしい。
きみのいない世界でも、死ぬまで生き続けることを。
「……わかった。約束ね。指切りげんまんね。へへ」
ラスカルは笑う。
いつも浮かべている曖昧な笑顔ではない。
それは、ふにゃふにゃに蕩けたような。
幸せそうな。
そんな笑顔だった。
笑いながら、ラスカルはぼろぼろと涙を流した。
大粒の涙がこぼれ落ちていく度、独りぼっちの気持ちが晴れていく。
しまいにはしゃくりあげて号泣する。
「なに泣いてんだよ、嫌だったか?言っとくけど謝らないからな」
「いいよ謝らないでも……」
「ほら、早く行くぞ。帰ったらお前百叩きな。復讐し足りねぇ」
「はあい。…………あ、キース」
「あ?」
「……おかえりなさい」
彼を守り抜こう。
そして、ぼくも生き抜こう。
ぼくの『生』はここから復活する。
ここは貧民街。
世の中のありとあらゆる汚れた物が垂れ流される場所。
略奪や放火は当たり前、どこからか何かが腐ったような臭いが漂ってくる。
住んでいる人間も表社会から追放されたような人間ばかり。迷い込んだ裕福な家の子供を騙したりさらったりして金を得る外道も少なくない。
「さぁさぁ、よってらっしゃい見てらっしゃい。そこのお嬢ちゃん、ちょっと見ておいでよ」
「えっ、私?」
一人の男が、道の脇に座って何やら叩き売りをしている。
叩き売りに声をかけられた女は困惑した様子である。
厄介なのに捕まったと思っているだろうが、逃げない。
というか逃げるタイミングを失ってしまったようである。
それを知ってか知らずか(おそらく知っている)、叩き売りは満面の営業スマイルを浮かべて女を呼ぶ。
「そうそう、君だよ。騙されたと思って寄っといで、今日は特別大安売りだよ!」
大仰気味に手を広げて声を張り上げる叩き売り。
それに誘われるように、女は渋々近づいた。
叩き売りの前にしゃがみこんで売り物をいじくりまわす。
売り物と言っても、それはゴミ箱から適当に漁ってきたようなものだけ。
割れたガラス瓶の蓋や、音の出ないラジオ等、ガラクタばかりだ。
そんなガラクタの山から、女はひとつの品物を手に取った。
「おお、さすがお嬢ちゃん、目の付け所がいいな!それはズバリ、人の心が覗ける眼鏡さ」
「えっ、でもこれ、どこからどう見てもただのヒゲメガネなんですけれど……」
「ところがどっこい、分かっちまうんだなぁこれが!」
女の手から眼鏡を取り上げ、一度咳払いして偉そうに語り始めた。
「いいかい?この眼鏡をかけて誰かを見れば、あら不思議!そいつの魂胆が全部まるっと見えちまうのさ」
身振り手振りのそれらしい語り口に女はとうとう呆れた。
「へ〜。そりゃあおもしれーや」
「そうだろうそうだろう。…………………って、あん?誰だあんた」
ところが聞こえてきた声は女の高い声ではなく、低い声。
男の声だった。いつの間にやら女の横に、時代錯誤な燕尾服を着た男が座り込んでいた。
「どれどれ、ちょっと貸してみ」
「あッ、おい……」
突然現れた男に叩き売りがぽかんとする前で、男は叩き売りの手から眼鏡を引ったくった。
そして自分でかけ、じーっと叩き売りの目を見つめる。
「ふーむ……ほほぉ……なるほどなぁ〜〜」
「な、なんだよ……」
まっすぐに見つめられ居心地の悪さにゴクリと唾を飲む叩き売り。
まるでやましい事でもあるかのようだ。そしてそんな叩き売りに、男は言った。
「えーっと、とりあえず。あんたの髪、それヅラだべ」
「なッ……!?」
「あーーでもみんなには秘密にしてんだ。あんた妻子持ちだろ?ずっと一緒でよく気づかれなかったな。あ、しかも浮気してんだ?三股?やるねぇ〜」
「な、何でそんな事までわかるんだ!!」
燕尾服男が喋るほど、叩き売りの表情が青くなっていく。
それもそのはず、燕尾服男が言ったことは全て事実だったからだ。
とうとう聞き捨てることができなくなって、叩き売りは大声で叫んだ。
すると燕尾服男は何でもないという風に言ってのけた。
「なーに言ってんの、あんたが自分で言ったんだべ?人の心が読める奇跡のメガネってさ」
「そんなの嘘に決まってんだろ!」
「あ、やっぱり嘘だったんです……?」
「あぁそうだよ!わかったらさっさとどっか行きな!今日は店じまいだ!」
そそくさと逃げるように立ち去ろうとする叩き売りに、燕尾服男はメガネを返そうと振り返った。
「チッ、気持ち悪ぃ野郎だぜ……」
その言葉を聞いた燕尾服男は、反射的にその場で固まった。
今まで何度となく言われてきた台詞だ。
男はただ静かに叩き売り去っていった方を見据えた。
「すごい!本当に目を見ればわかるんですね……!」
女が感心したように歓声を上げる。
男は彼女の方に振り向くが、その顔はあからさまに不機嫌だった。
何か不愉快な事でもあったのだろうか。
「あんた……名前、何だっけ?」
「あっ、はい!パティです。パティ・ホプキンス。貴方は、ロールベルトさん……でしたよね?」
「ベルトでいい」
ぶっきらぼうに言い捨てる燕尾服、ベルト。
どうやら彼女が嫌いなようである。
果たしてパティはそれを悟っているのか?答えはおそらくイエスだろう。
肩が少し震えているし、浮かべた笑顔もぎこちないからだ。
ただ、目が。黒目がちなその目だけは、優しい光を湛えている。
彼が気に入らないのはそれだった。無条件で、優しさを向けてくるその目。
それに対して彼の気分が良くなる事はなく、むしろ嫌悪感を隠そうともせず顔をしかめた。
優しい目の裏に、一抹の罪悪感が混じっていたからだ。
彼女はおずおずと、何やら分厚い封筒を差し出した。
「あの、例の件で、お礼をしたくって……」
「礼?賄賂の引き渡しだろ、とどのつまり」
「あっ……えっと……」
分かりやすく動揺するパティに、ベルトの機嫌は更に悪くなる。
もっとオブラートに包んだ言い方も出来たはずだが、彼はそんなこと考えもしなかった。
パティの手元から封筒をひったくると、ぷらぷら揺らしてみせた。
「俺も安く見られたもんだな。貧乏人は金一封で尻尾振って言う事聞くはずだってか?」
「そんな……そんなつもりじゃ……」
「ま、別にいいんじゃねーの?存分に俺というクズを道具として扱ってくれよ。使い物にならないだろうけどな」
あからさまに嫌な態度をとられるのが怖くて、悲しくて。
パティのつぶらな瞳が潤いを帯びていく。
そんな姿を見て、ベルトはといえば嘲笑うように鼻を鳴らした。
女性を泣かしかけていることに対して、反省する気はさらさら無いようだ。
「にしてもずいぶん強い足腰をお持ちで」
「……何の事、です」
「昨夜あんなにガンガン突いてやったろ。もう忘れたのけ?パ・ティ・ちゃ〜ん」
不意にベルトが距離を詰めた。
パティを壁に押し付けると、むっちりした脚を撫であげる。
「なぁ、またヤらせてくんね?」
「…っ……!」
パティは泣きそうを通り越して、声を押し殺して泣いている。が、何故か抵抗しない。
彼女が何を考えているかは目を見れば読み取れるが、それでもベルトはわからなかった。
「……なーんで嫌がらねーの?」
「いい、んです、私の『依頼』聞いてくれれば、私の体くらいっ」
「本当に犯すぞ」
「はぃ、どうぞ楽しんでください……っ」
しゃくりあげながらも、行為を受け入れ続ける。
(……面白くないわぁ)
彼は性格が良くないため、女を手篭めにすることなどなんとも思わない。
だが、彼女は抵抗しない。怯えの色を湛えつつも、優しい目を向け続ける。
憎々しげに舌打ちをひとつ打ち、ベルトはパティから離れた。
「し、しないんです?」
「うん」
「何でですか……?」
「だってぇー。抵抗しない女とかつまんないもん」
「性格悪いですね……」
理由はどうあれ、もう危害は加えられないようだ。
そう判断したパティは、安堵のため息を漏らす。
そしてまたぎこちない笑顔を浮かべた。
「じゃ、じゃあお願いしますね」
「あー……何だったっけ?」
「も、もう!忘れないでくださいよ……クローバーさんって人を、助けてほしいんです!」
――――――
――――――
「重ッ……!おい新入り、お前ちゃんと持てよ!」
「持ってますぅ〜!お前こそもっと力入れてくんね!?」
雲一つない晴天の真っ昼間、クズ工場の庭にて男が二人で言い争っていた。
男二人……もといキースとベルトの腕の中には、やたら大きな袋。
まるで人間が入ってしまいそうなくらいの大きさだ……というか、本当に人が入っているのだが。
「ニル!ここでいいのか?」
「えぇ、そこで下ろして」
ニルの言葉を聞くなり、二人は今まで入れていた全身の力を抜き、無造作に袋を落とした。
汗だくでその場に膝をついて荒い息をする男二人。
袋が下ろされた位置には公園などでよく見かけるシーソーのような装置が設置してある。
袋の中に入っているのは、今日も今日とて天下の大悪党を捕らえようと町からやって来た、命知らずのチンピラ達だ。
ラスカルを殺し裏世界でその名を轟かせようと、武器を片手に意気揚々とやってきた御一行。
だが、たった四人の戦力にあっさり返り討ちにされ、全員仲良くのびた。
そして袋にすし詰め状態を食らってしまったのである。
「用意出来たわよカリン」
「了解ッス」
袋が乗っかっている方とは逆のシーソーの前で、カリンが巨大なハンマーを振り上げる。
「チャー・シュー・麺!!」
そう叫び、思いっきりハンマーを振り下ろした。
するとその反動で反対側のシーソーから袋が浮き上がり、そのまま町の方角へと空高く吹っ飛んでいった。
「ストライク」
僅かに浮かぶ額の汗を拭い、スッキリした様子のカリン。
ふぅと小さく吐息を漏らしている。
「いやー楽しいですねコレ。また早く来ませんかね刺客」
無表情ながらもどこかワクワクとした様子のカリン。
それとは対照的にげっそりとした顔でキースは肩をすくめた。
「テメェ……自分は勝てるからいいだろうけどな」
「弱いのに戦う方の身にもなれって? 無理ですよ。カリンは可愛いのに強い天才な子ですから。勝ちたいのに勝てない苦労なんて一生知ることはないでしょう」
また頭に来て殴りたくなったが、もう疲れてそれどころではなかったため、この復讐はツケにした。
「それより、カリン喉渇きました。お茶にしましょうよ」
「俺たちの方が断然喉カラッカラだけどもな〜」
「そうね。じゃあ室内ティーパーティーといきましょうか」
茶菓子は角砂糖と和三盆でね、と付け加えるニル。
シケたティーパーティーである。
「さぁ、お茶の時間よ」
仕事終わりのおいしい一杯へとシャレ込むため、工場メンバーズは家の中になだれ込んだ。
玄関を開けると、ラスカルがぱたぱた駆け寄ってきた。
彼女が誰より真っ先に向かうのは、キースの元だ。
「おかえりなさい、キース!」
「おう、ただいま」
「今日はどうだった?一人くらい倒せたかぃ」
「負けた。けど生きてる」
「命あっての物種さ。よくがんばったねぇ」
にこにこしているついでに、だるんだるんの袖を振り回している。
そのずいぶんな落ち着きの無さは、さながら夜のハムスターのようである。回し車に乗せたらとてもよく走るだろう。
「はーーー、しんど。一日目からこれかよ……」
ベルトがソファにどかりと腰かけ、愚痴を垂れる。
「きみもお疲れ。肩でも揉もうか?」
「いーよいーよ、ワインの力で回復すっから」
そう言うが早いか、酒瓶を取り出してグラスに注ぎ始めた。
勝手に酒蔵から拝借してきたらしい。
ベルト。この国に来たばかりと言う彼は、実に奇妙な男だった。
一瞬でも目を見れば国籍、住所、何でも見透かしてしまう。
聞けば数世紀前のフランスにて、無期懲役囚として生きていたが脱獄してきたらしい。
そして、逃げ回っていたらこの時代にタイムスリップしていた、と。
嘘か真か実に疑わしい。ちなみに肝心の罪状は、『ナンパのしすぎ』だそうだ。
「にしても本当強いッスね、ベルトさん」
「そうね。全員峰打ちで昏倒させてたもの」
「器用なことするものだねぇ」
そして、彼はとても強かった。
今し方の迎撃でも、得物であるステッキを駆使して、ほとんど一人で倒してしまった。
「あっはっはっ。そーかぁ?もっと褒めてくれてもいーぜ?」
「調子乗ってんなよ酔っ払いが」
「あいあーい」
ワインで酔っているのか、おちゃらけた態度でベルトは笑う。
が、心の中では。
(くだらない)
そう吐き捨てていた。
あのムチムチちゃんが泣き寝入りしてまで頼むから、仕方なくここに居るだけだ。
ずいぶん良くしてもらってるのに申し訳ないが、仲間ができたとも楽しいとも思わない。
どうせこの連中も、ちょっと『心の奥』を掘り下げればすぐに自分から遠ざかっていくだろう。
まず、キース。
こいつは真面目で真っ直ぐだが、いかんせん正気じゃない。目的のためなら仲間でも殺す危険人物だ。
ラスカル。
にこにこして大人しいが、善人ではない。ただ、生きること以外全部諦めてるだけの薄っぺらい人間だ。
ニル。
男嫌いと謳っているが、実際は少し違う。やましい事があるから、近付くのが怖いってのが正解だ。
それから最後の一人、オレンジ頭の小娘。こいつは……まぁ、ほっといていいか。
「そういえばベルトさん」
「どったのお嬢ちゃん」
「その呼び方やめてください。あんたさっき、うちに頼みたい事があるとか言ってましたよね」
カリンがそう言うが、ベルトはきょとんとした顔をしている。
そうだっけと言わんばかりに首まで傾げ、心なしか頭上にはてなマークが見える。
どうやらわりかし興味のない願望だったようである。頼んでおいて何事なのだろうか。
「……あーはいはい、思い出したわ。クローバーって奴をさ、助けて欲しいんだけど」
瞬間、工場内に妙な緊張感が流れた。
ラスカルは笑顔が掻き消え、キースの表情はまるで修羅のごとし。
ただ不思議なのは、恋人であるはずのニルまで微妙な表情を浮かべている事だった。
何も思うことが無いらしいのはカリンだけだ。
「クローバーさん……を、何ですか?ぶん殴る?」
「いや助けてちょ」
「きみ彼を知ってるのかぃ?」
「知らなーい。会ったこともないし」
「どうして助けたいなんて思うんだよ」
「頼まれたから」
「誰に?」
「黙秘しまーす」
真面目に答える気がないベルトの回答。
空気がどんどん張り詰めたものになっていく。
このままでは、ベルトは勤務初日から血祭りにあげられかねない。
「……ブルーノは」
そんな時、ニルが口を開いた。
「ブルーノは助けなんて求めてないわよ。彼は何でも持ってるもの。地位。金。私という恋人。ひどく恵まれた環境にいるんだから。だから助ける必要はないわ」
彼女は妙に早口だった。
「でもさ〜……」
「必要はないわ」
ぴしゃりと拒絶するようにニルは告げた。癇癪を起こす寸前の声だった。
ベルトは特に気分を害する様子もなく、数回瞬きして「おっけ」と軽く了承の意を示しただけだった。
「……クローバー、か。たしかにあいつを助ける理由は無いな。僕騙されたしボコられたし、踏んだり蹴ったりだよ」
「そもそもなんであの人キースさんをこんな目に遭わせたんでしょう。目的は?」
「あぁ、それは、」
そこまで言って、キースは口を止めた。
あの男は仇敵とはいえ、他人である。
他人のプライバシーを侵害してはならない。
言いふらしてクローバーを傷つけたい気持ちもあるが、僕はあいつとは違うのだ。
そう心に言い聞かせた。
「ねぇ、やめてくれないかしら、ブルーノの話は」
ニルがぽつりと呟く。
何やら様子がおかしいように見える。
クローバーの話が都合でも悪いのか。
いつも他の話題でも恋人自慢話にすり替えるほど溺愛しているのに。
「なんでだよ。いつも幸せオーラ振り撒いてるし、地下でもキス見せつけられたの覚えてるぞ」
「幸せよ。でも今は聞きたくないの。新入り、あんたもいい加減なこと言わないでちょうだい」
「俺じゃなくて他の奴が言ってたんだってば〜」
ベルトは年甲斐もなく、ぶうぶうと唇を尖らせて言い訳する。
ニルの美しい顔が、緊張しているように強ばっている。
やがて周りも彼女の異変に気づき始めた。
「みんな、もうその辺にしておいた方がいいんじゃないかな」
ラスカルがやんわり窘める。キースやカリンは空気を読んだのか、素直に従った。
だがしかし、ベルト一人だけは口を閉じない。むしろニルを追い詰めるように、言葉を続ける。
「それに、案外助けてほしがってるかもだぜ」
「そんなわけ無いじゃない。私はとても愛されてるわ。物心ついた時からずっと護られてきたのよ。いまさら捨てられるなんてありえないわよ!」
そこまで言って、ニルがハッとしたように口を押さえた。
捨てられる。彼女はたしかにそう言った。
誰も、一言も、そんな事は言っていないのに。
ボロが出たというやつだ。
その時、工場メンバーズは察した。
突き詰めて考えるに、彼女には、クローバーを助ける理由に心当たりがあるのだと。
「~~、私部屋に戻る!気分が悪いわ」
ニルは長い髪を翻し、逃げるように二階の自室へ上がっていった。
残されたメンバーは、何とも居心地の悪い空気の中にいた。
誰も話さない。
気まずい。
何とかしてこの状況を打破しなければ。
さもなければメンタルがもたない。
「そ、そういえば!あらいぐまお前しっぽどうした?いつの間にか無くなってたけど!」
勇気を出したのはキースだった。
言われてみればそうである。
ラスカルの腰辺りに構えていたはずのしっぽが、いつの間にか消えていた。
「……しっぽ?あぁ、あのもふもふ動くやつかぃ?あれ爆弾だよ」
「パードゥン?」
キースとカリンは思わず聞き返した。とんでもない台詞を聞いた気がする。
「たしかにいつの間にか無くなってたねぇ。神隠しかねぇ」
「いやいやいやいやいやそこじゃなくて」
しれっと何を言っているんだこのチビ。
爆弾?あのもふもふが?
ベルトはやはりと言うべきか、知っていたようで動じていない。
が、キースとカリンは相当衝撃を受けた顔をしていた。
常時表情ログアウトが特徴であるカリンすら、目を見開いている。
「ここって一応牢屋だろう。ぼくが万一脱獄した場合、すぐ殺せるように仕込まれたんだよ」
「じゃあ地下に出た時あれがあったら死んでたんスか?」
「それが何であんなファンシーな感じに……」
「ニルがどうせなら可愛くしようって」
「は?何であいつが」
「さぁ~、興味無いから」
のほほんとラスカルは言ってのける。
……結局またニルのことを考える羽目になってしまった。
キースはもういっそ開き直って、考える。
ニルといえば、とても美しい容姿が印象的だ。
背もすらりと高く、長い長い髪と宝石のような瞳を持つ。
町を歩けば、大体の人が振り向くだろう。
そんな彼女について、キースは思う所があった。
「ニルって、何か妙だと思わねぇか」
「みょう?」
「あいつ、すげぇ美女なのに不思議なくらい女として魅力感じないんだよ」
なんでだろう、とキースは考え込む。
彼はニルに対して、最初こそ美しい女性だと思っていた。
紅茶を飲む姿。つやつやの髪がなびく姿。
ふわりと香る女性特有の甘い匂い。
どれをとっても美しく、胸が高鳴るはずだ。
しかし、工場で共にいればいるほど、魅力を感じなくなっていく。
その違和感の正体は何なのか。
「ニルさんがキレッキレのどじょうすくい踊ってる所にでも遭遇したんスか?」
「遭遇したくねぇよそんなシーン」
「ニルは男嫌いだから、わざと魅力消すように振舞ってるんじゃあないかぃ」
「男嫌いというか男が怖いんだよ」
と、ここでベルトが口を挟んだ。
「怖い?危害を加えられるとか?」
「そうじゃなくて、男にやましい事があってそれがバレるのが怖いのさ」
「あぁ、金借りまくって蒸発したとか?」
「ふんふふーん♪どうだかな」
ベルトはまた言葉を煙に巻いた。食えない男である。
「ニルの話もいいけど、ぼく、それよりひとつ気になることあるんだよ。カリンちゃんのこと」
「何ですかラスカルさん。カリンの天才っぷりがそんなに気になるんスか」
「んん」
ラスカルは微笑みを浮かべつつ、少し不思議そうに首を傾げる。
そしてこう続けた。
「あのしっぽ、カリンちゃん自身が作ったのに、何でキースと一緒にびっくりしたんだぃ?あと、いつからぼくのこと『ラスカルさん』なんてよそよそしく呼ぶようになったんだぃ」
その奇妙な指摘に、カリンが固まった。
どういう事だろうかとキースはラスカルを見遣る。
が、ラスカル自身は依然として気の抜けた顔で笑っている。
気になった事を口にしただけで、特に他意は無いようである。
微妙な空気が漂う中、カリンは。
「ぐえッ」
突然、カリンがラスカルの首を締め上げた。
ラスカルの体重が軽いためか、はたまた掴む腕力が強いのかは定かではない。
が、ラスカルの足は宙に浮いていた。本気で命を取りに来ている。
「おい馬鹿、何やってんだ!」
唐突な暴挙に驚きながらも、キースが止めに入る。
するとカリンはぐるんと顔をそちらに向けた。
ぎょろぎょろと大きな瞳でキースを捉え、そして、ぞっとするような歪な笑顔を浮かべる。
今度はキースに殺意が向いたのだと悟るのは、容易だった。
カリンはラスカルを放ると、代わりにキースの顔をわし掴んだ。
彼女のもう片方の手には、長い五寸釘が握り締められている。
キースの目を刺し穿つつもりだ。
「あらよっと」
そんな掛け声とともに、ベルトがカリンの腹を思いきり蹴り飛ばした。
よほど加減なしで蹴ったらしい。
カリンは元いた場所よりだいぶ遠くまで吹っ飛んだ。
カリンは壁に激突し、動かない。
十五歳の少女相手に容赦のない男である。
「な、何が起こったんだぃ?カリンちゃん急にどうしたんだろう」
「んーー。あれ『カリンちゃん』じゃあないぞぅ」
「えっ?」
「だってほら、俺がいつあいつのこと『カリン』って呼んだのよ?」
確かにそうである。
ベルトは他のメンバーの名前はきちんと呼んでいた。
が、あのカリンもどきのことだけは、『お嬢ちゃん』としか呼んでいない。
一度も名前で呼んでいないのだ。
ではあの、カリンと瓜二つの少女は誰なのか?
「……は、ははは、ははははははっ」
カリンもどきが急に大笑いし始めた。
投げ出した四肢を、ちぎれんばかりにばたつかせて。
さもおかしそうに、げらげら笑っている。
相手がカリンであろうがなかろうが、きっと正気ではないのだろう。
ぞっとする。
やはりこの人物はカリンではないと、一同は確信した。
「あ、起きた」
警戒しつつ観察していると、カリンもどきがむくりと起き上がった。
そして、歪な笑顔のままラスカル達を目に捉えた。
「やべっ!」
不意にベルトが叫ぶ。
彼の声を皮切りに、カリンもどきが彼らに向かって何かを投げつけた。
さっきキースの目を貫こうとした五寸釘だ。
一本、二本なんてレベルではない。
無数。その言葉が最適だった。
ベルトがダイニングテーブルを、星一徹クラッシュよろしくひっくり返し、陰に隠れた。
テーブルを即席の盾にするつもりなのだろう。
瞬時に命の危険を察知し、残りの二人も倣って陰に飛び込む。
「あは、はははは、は、ははははっ」
壊れたように笑いながらひたすら釘を投げつけてくる少女に、一同は戦慄する。
……と思いきや。
「あぁああんのガキィ……僕の目刺そうとしやがった!許さねぇ!!」
「あぁ、カリンちゃんは釘投げても可愛いんだなぁ。結婚したいなぁ」
「あっはっはっはっは。おっかーをこーえーゆっこーぉよー」
キースは恐怖より復讐心に支配されていてそれどころではない。
ラスカルはのんき且つ変態じみたことを言って、悦に浸っている。
ベルトに至っては、声高らかに歌を歌っていた。
地獄にピクニックに行く気なのか。
どうやらこの場には素直に怖がる精神の持ち主はおらず、馬鹿しかいないようだ。
しかしゆったりたっぷりのんびりもしていられなかった。
あまりにも大量の釘を投げつけてくるせいで、家の至る所がボロボロになっていく。
テーブルも損傷が激しく、このままだと割れるかもしれない。
プロ野球選手もびっくりの剛腕だ。
いくら彼らが馬鹿でも、見過ごせない事態であるというのはわかった。
「そもそもあいつ誰だよ!」
「ベルト、きみ正体わからないのかぃ」
「さぁ〜。本人に聞いてみたらいいんでねーの?」
大きなあくびをしながらベルトがそんなことを言う。
何やら踵で床を叩いているが、貧乏ゆすりかタップダンスの真似事でもしているのだろうか?
恐らく、彼はカリンもどきの正体を知っている。
知っていてしらばっくれているのだ。
何が望みか知らないが、この状況下だというのに意地の悪い男である。
「おい、釘のやつ!」
「はぁー?」
へらへら笑いながらも返事はくれた。
「おい!お前誰だ。何でカリンの顔してる。何が目的だ。名前は?」
「名前?あたしの名前は名無しさんですよぉー」
「真面目に答えろ!!」
「好きに呼んでくださいってことじゃん?」
なるほどそういう事か。
ぽんと手を叩き、キースとラスカルの二人は納得した。
それが上手くシンクロしたのか、彼らはカリンもどきを各々勝手な名前で呼び始めた。
「マロニーちゃん」
「マドモアゼルザワークラウト」
「卵ボーロ」
「きゃははは、全部違うぅー」
名無しと名乗った少女は、依然として大笑いしたままだ。
が、勝手に酒の肴とかお菓子とかの名前をつけられたことには少なからず腹を立てたらしい。
ただでさえ大量だった釘の数が、倍くらい増えた。
バリケードは崩壊寸前。飽和攻撃は止むことを知らない。
説得も恐らく無理だ。
このままでは彼らは家の中で磔刑に処されてしまう。
テーブルには大きな亀裂が入っている。
この分だと、あと十秒もつかもたないかだろう。
「うわぁぼく釘だらけになっても生きてられるかなぁ……」
「あああもう、何だよ!何が気に入らなかったんだよ!」
「ちゃんと名前で呼ばないからですよ」
聞き覚えのある声が聞こえて、一同ははっとする。
視線を向けたのはベルトの足元。
そこには、ちょうど人ひとりが通れるくらいの穴があいていた。
そしてその穴の中から這い出てきたのは。
「カリンちゃん!!」
カリンだった。
いつも通り無表情なのは変わらないが、何やらひどくよれた格好をしている。
「ちょっと、カリンが作った家に勝手に穴あけたのあんたですか」
「そろそろ本物が戻ってくると思って♡」
「誰てめ&ぷんすこなんですけど」
ベルトが舌をぺろりと出してウィンクする。
俗に言うてへぺろである。
タップダンス紛いのことをしていたのはこのためだったようだ。
カリンは、家に知らない人間がいるのが気に入らないのかもしれない。
いつにも増してじとーっとした目でベルトを見ている。
その時。
ばきりと大きな音を立てて、とうとうテーブルが割れた。
重厚なテーブルが無造作に床に転がる。
姿を晒した一同に、五寸釘のつぶてが容赦なく浴びせられる。
「う、うわああああああああ!!」
一同が死を覚悟した刹那。
「どいてください、そこ通ります」
「えっ」
横倒れになったテーブルを一息に踏み越えて、本物のカリンが高く跳んだ。
その手には大きなハンマーを握っている。
「はあっ」
本物のカリンが、手にしたハンマーを空中で振りかぶった。
かと思うと、偽物の顔面を躊躇うことなくぶん殴った。
ごきり、と鈍い音が聞こえた。
先ほどベルトに蹴られた時よりも強い衝撃だったらしい。
偽物は窓を突き破って、そのまま外まで吹っ飛んでいった。
あんぐり口を開けている観衆。
それを振り返り、カリンは言った。
「どうも皆さん。どうやらうちの妹に会ったみたいッスね」
「双子の妹!?」
「はいもぐ」
「お前双子だったのかよ!」
「あれ。言ってませんでしたっけ?もぐ」
おかわり六杯目のカツ丼をもぐもぐ頬張りながら、カリンは言う。
カリンになりすましていた偽物は双子の妹だったらしい。
そしてその妹をぶっ飛ばしたカリンはというと、何事も無かったように食事を要求した。
いやそれどころじゃないだろう。
食う前に、ハンマーで殴った妹を何とかすべきではないのか。
言いながら、慌てて妹がぶっ飛んでいった場所を見た。
が、そこに妹の姿は無く。
「カリンの妹がこれくらいでくたばるわけないじゃないですか」
その一言で完結してしまった。
「何で妹がなりすましののち釘投げつけてきたのかな」
「さぁ。ヤッチマイナーって気分だったんじゃないスか?」
「あの子ハリウッド映画に出れそうだねぇ。名前は何ていうんだぃ?」
「ありません」
「可愛い名前だねぇ」
「あらいぐま。お前あんまり適当なこと言うんじゃない」
キースは咎めるようにラスカルの脳天に手刀を落とした。
それを無視して、カリンは更に続ける。
「名前が無いんです、あの子。親がつけなかったから」
「何で?」
聴衆の疑問を解消すべく、カリンは話し出した。
「まず、カリンの家ギャングのボスの家系なんですけどね。後継者として生まれたのが双子だったのがまずかったんです。後継者が二人もいたら面倒じゃないですか」
カリンはそう語った。
色々と衝撃的な話だった。
そういえば、とキースは思い出す。
研修の時、自己紹介でカリンは言っていた。
元ギャングだと。
横ピースで言うから冗談かと思っていたが、事実だったようである。
「それじゃああの子、相当傷ついただろうね」
「傷つくどころかメンタル壊れてんぜ」
それまで沈黙していたベルトが、不意に横やりを入れた。
何やらカツ丼を食べる姿を指をくわえて見つめている。
そういえば彼はこの時代の人間ではないのだった。
カツ丼が珍しいのかもしれない。
「相当姉ちゃんに嫉妬しまくってたんだろな。あの子の目、イカれながらも劣等感がやばかったもん」
「ええまぁ。殺されかけましたし」
「殺されかけたのかよ!!」
さらっととんでも発言をしでかしたカリン。
彼女はいつもさらっととんでも発言をするが、彼らが聞いた中でもこれはダントツだった。
しかしベルトだけは淡々とこう返す。
「同じ顔同じ家に生まれたのに自分だけ名前すらもらえなかったんだぜ?虐げられ具合と怒りはお察しレベルさ。そりゃあ殺意もわくだろーよ」
そう言って、妙に明るくベルトは笑ってみせた。
その笑顔に対して、思うところがあったのかもしれない。
カリンのいつも無表情な顔がわずかに憂いを帯びる。
が、次の瞬間にはまたおかわりに手を伸ばした。
「うまうま」
「そんなにお腹空いてたのかぃ」
「まぁ、二日間何も食べてなかったんで」
「っつーかお前どこで何やってたんだよ。やたらボロボロだけど」
「地下監獄あるじゃないスか」
「うん」
「あそこの懲罰房に監禁されてました」
「えっ、誰に?」
「クローバーさんですよ」
クローバーの名前を耳にした瞬間。
「アウチッ」
キースがちょうど横にいたベルトの顔面に裏拳を叩き入れた。
「おまっ、いきなり何すんの!?」
「いや悪ぃ……お前なら避けれるだろうと思ってたんだけど」
「不意打ちすぎて反応できなかったんですぅー!俺がエスパーだからって勝手に超人と思うなよ!」
「またあの野郎か畜生!!」
またもやクローバーの話である。
キースが激情のままに頭を掻きむしる
。大嫌いなクローバーの話が出てきたこともあるが、あの『妹』に一方的に攻められたせいもあり。
負けっぱなしの彼は復讐したい欲求不満に苛まれていた。
「なんだか、何かある度にあいつの名前が出てくるねぇ」
「そりゃそうだろ黒幕なんだから!」
「そうでしょうか」
カリンが横やりを入れた。
「クロさんは自分の仕事してるだけでしょ」
「あ?どういう意味だよ」
「あの人は黒幕じゃないってんです。あの人は副社長、つまりナンバーツーでしょ?命令してくる上がいるんですよ」
たしかにそうだった。
クローバーは二番目。彼より更に上がいるのだ。
上層部の賭けがどうとか、クローバー本人も言っていたではないか、とキースは少し思い直す。
更に言えば、ラスカルの過去の件もそうである。
たしかにクローバーに友達の首をはねられ殺されただろう。
が、やはりそれだって、それを命じた者がいるのだ。
「メ、メシ……メシアだったか」
「メシモノ、だよ。世界救ってどうするんだぃ」
「あぁそれな。いまいち覚えづらいな」
「あ、今は『しゃちょう』って名乗ってるらしいよ」
「称号コロコロ変えやがって、覚えさせる気あんのかよ……」
読んで字のごとく、その人物がクローバーの上司なのだろう。
「さっき聞きましたけど、あんた……えーと、ボタンさん?」
「ベルトな、ベルト」
「ああそう、それです。あんたたしかクロさんを助けたいんでしたっけ?」
「俺ってか俺に頼んできた奴がな?」
「ちょうどいいじゃないスか。助けてあげたらどうですか。いやまぁその前にちょっと事情を聞いてからがいいッスね」
「はは、やだなぁカリンちゃん。そんな馬鹿なことまさか本気で言ってるんじゃないよね?」
ラスカルが訊ねかける。
声は穏やかだし、いつも通り笑みも浮かべている。
が、目に激情の色が浮かんでいた。
クローバーに対する怒り、憎悪。
その目は言っていた。
『事情なんて知るか』と。
「平常運転ですから、本気って程じゃないですね」
「あいつは、クローバーはぼくの友達を殺したんだよ」
「でもそれクロさんに事情聞きました?」
「閉じ込められてるのにどうやって聞くんだぃ」
「聞けるでしょ、ニルさんに。聞かなかったってことは現実見てない証拠なんじゃないッスか」
ラスカルの顔から笑顔が消え失せた。
「ははっ」
不意にベルトが笑う声が割り込んだ。
せせら笑うような声だった。
必然的に皆の意識が彼に向く。
ベルトはしまった、と言わんばかりに口元を抑えた。
「おっとぉ、わり。なんか感動してさ。よっぽど大事な友達だったんだなーって」
ベルトは感慨深いと言わんばかりに、わざとらしくうんうん頷いた。
「ルーク君、だっけ。そんな風に自分の気持ちを見失ってでも忘れたくないくらい、立派な友達だったのな」
「……え」
「さぞかしおやさしーい奴だったんだろな。自分をこんな馬鹿げた状況に追い込んだ張本人だけど、それでも憎めないんだもんな」
いちいち含みのある言い方である。
口喧嘩の弱いラスカルは言い返そうにも、何と言い返せばいいか迷っているようだった。
「でもさ、そんないきり立たなくてもいいべ?人なんて毎日いくらでも死んでるんだしさ。友達のひとりやふたり、また作んなよ」
ベルトはまたわざとらしく明るく笑った。
最低だ。
誰もがそう思うだろう。
友人を失って心に傷を負った人間にかける言葉としては残酷すぎる。
「おい、いくら何でも言い過ぎだろ。あらいぐまに謝れ」
「え、慰めてあげてんだけど?」
「お前さっきから、人の神経逆撫でて遊ぶのやめろよ」
「んー?そんな風に見えるか?」
「……頼まれたとか言ってるけど、本当は誰にも協力する気ねぇだろ」
キースが指摘すると、ベルトはにやりと歯をむき出しにして笑った。
「バレたか」
悪どく、下品で、醜い笑顔だ。
これがベルトの本来の姿なのだろう。
「アッチョンブリケェエエエエエエ」
突然、奇怪な絶叫とともに天井から何者かが降ってきた。
長い艶やかな髪。
フリルがたくさんあしらわれた服。
もはや工場名物に認定される勢いの、我らが性悪お姉さん。
ニルである。
「カリンンンンンンン!!カリンはどこよ!ぶっ殺してくれるわ!」
「いった、ちょ、俺ベルトなんだけど!カリンじゃな、ぐっはあ」
前回同様、ベルトの腹に馬乗りになって、一方的に往復ストレートを入れるニル。
よほど腹の立つことがあったらしく、怒り狂っている。
前回はパンツを見られたせいだったが、今回は何が理由の暴挙なのだろう。
「おい、ちょっとお前ら何ぼけっと見てくれてんの?助けよう!?」
「ぼけっ」
「ぼけっ」
「ぼけっ」
「ちょっとぉおおおお!?」
ラスカルもカリンもキースも、全員すっとぼけてベルトを見捨てた。
これぞ天罰。
即行でバチが当たったようだ。
人に嫌なことをすると自分に返ってくるのである。
「カリンに金庫の金を盗まれたのよ」
ニルがようやく落ち着きを取り戻したのは、ベルトに思いつく限りの素手での暴力を加え、亀甲縛りで天井から吊り下げた後だ。
ラスカルが淹れてやったミルクたっぷりのミルクティーを飲みながら、ニルは語った。
「金庫には当然ロックがかかってるけど、機械に強いカリンなら難なく開けられるはずでしょう?あの子ったら私が一所懸命貯めたお金を持っていったの。そのショックで私さっきまでずっと気絶してたのよ」
アンニュイに頬杖をついて、長いまつ毛を憂鬱そうに揺らしている。
まるで恋愛に失敗したキャリアウーマンが、バーか何かで飲み明かすような雰囲気だ。
「ああ、だから何もかも風穴だらけになってるのに出てこなかったのか」
「ニルさん、それは多分カリンじゃありませんよ」
そうだ。
それはおそらく『妹』の仕業だ。
だがニルは妹のことを知らない。
だから勘違いしてバーサーカーのごとく荒れ狂っていたわけだ。
カリンの妹が成り代わっていたこと。
妹に殺されかけたこと。カリンに撃退されてそのまま逃げたこと。
全て話すと、ニルは納得したように感嘆を吐いた。
「なるほど、あの子だったのね」
「おや。妹ちゃんのこと知ってるのかぃ」
「ええ、あの子は…………まぁ、一応」
急にニルが言葉を濁した。
原因は、その視線の先だ。
カリンがいつも以上にじっとりした目でニルを睨んでいた。
『黙れ』とでも言うように。
「ってな訳で。誰か、カリンの妹をとっ捕まえて連れてきてくれない?」
「いやお前自分でやんなよ」
自身の体に絡んだ縄を解きつつ、ベルトが文句を言う。
いつの間にか吊るされた状態から抜け出していたらしい。
縛られていたはずだが、どうやったのだろう。
「あんたは一番新人だから強制参加ね」
「パワハラじゃんよ、それ」
「ラスカル、あんたもよ。せっかく牢から出れるんだから、散歩がてら行ってきてちょうだい」
「んん?んーー……」
曖昧に微笑んで返事を考えているラスカル。
その肩に、ぽんと手が置かれた。
カリンだった。
「ラッさんとカリンは一抜けです。これからイチャイチャしますから」
それだけ宣言するとカリンは、ラスカルの服のフードを掴んで、どこかへ引きずっていった。
「あーあ、逃げられちゃった……最後、キースは?」
「僕はやる」
「あら、意外。どういう風の吹き回し?」
「あのガキ僕に危害加えやがったし、復讐しなきゃ気がすまねぇ」
言葉通り、キースの額には青筋が浮いている。
目も据わっているあたり、過激な復讐劇は回避出来なさそうだ。
「復讐ねぇ……ま、いいわ。他ならぬ同僚の妹さんだし、肝臓片方売る程度で勘弁してあげなさいね」
「全然勘弁できてねーけどな?」
――――
―――――
「立派な友達だったのな」
ベルトの言葉が、頭に焼き付く。
ぼくには昔、友達がいた。
生涯にひとりだけの友達が。
名を、ルーク・ローレンスという。
ぼくが必要以上に執着するせいで誤解されているかもしれないが、はじめに言っておく。
ルークという人間は、さして出来た友人ではなかった。
まず、彼は弱虫で泣き虫で、逃げたい時は逃げていた。
時計が大好きで、将来は時計職人になりたいとしきりに語っていた。
ヘタレの中のヘタレ。
情けない男。
時計大好き野郎。
ぼくが彼に抱くイメージはそんなところだ。
弱さこそ最大の人間らしさだという持論を持つ者からすれば、彼はとても人間らしかった。
良くも悪くも人間らしいからこそ色々な面を持ち、色々な人に面影を見ることができるのだ。
その証に、ルークはぼくの命を救って死に。
そして今もぼくはあらゆる場面で面影を見ている。
それがぼくの友達。ぼくの唯一。ぼくの光。ぼくの世界のすべて。
ぼくはルークを守りたい。
死んでも尚、ぼくの脳を占める憎たらしくも愛おしい友達を。
だから、誰かがルークのことを知ったふうな口を聞くのは許せない。
本当なら誰かが名前を口にしただけでも殺したいと思っている。
ルークが許してくれないだろうから、しないけど。……今のところ。
――――
――――
クズ工場の風呂場。
一般的な家庭よりひと回りは大きかろうその空間で、現在二人の人間が肌を晒している。
一人は鮮やかな色の髪をした少女。
もう一人は……何故か姿が見えない。
いるにはいるはずなのだが、一体どこへ行ったのか。
「ぶくぶくぶくぶく」
「ラッさん」
「ぶくぶくぶくぶく」
「それ以上はさすがに死にますよ。出てきてください」
とんとんと、カリンが猫足バスタブに浮かぶつむじをつついた。
それを皮切りに我慢の限界が来たらしい。
カリンともう一人の方、つむじの主。
ラスカルが水面から顔を出した。
「げほげほ……あぁー、死ぬかと思った」
「ここが事故物件になったらどうしてくれるんスか」
「だって嫁入り前の女の子と人魚姫タイムなんて、いろいろとまずいだろう?紳士としてせめて目を背けるくらいしないとね」
「カリンのパーフェクトボディが何か?」
「うわわわ。カリンちゃん、見せつけないで!」
手で顔を覆うラスカル。
しかし、実は指の隙間からこっそりカリンの裸体を観察していた。
程よく肉付きのいい手足。
胸は気持ち大きめに膨らみ、ふるりと揺れている。
腰はきゅっとくびれ、尻までのラインは滑らかな曲線を描く。
よく動くせいか、年齢のわりになかなかいい身体だ。
(……それにひきかえ、ぼくは)
ラスカルは絶対に鏡を見ないよう努めた。
「ラッさん、特別サービスで背中洗ってあげましょうか」
「どうやってだぃ?」
「普通にスポンジででしょ」
「風俗的な意味じゃないのか……残念だ」
「たまにラッさんって中におっさん入ってるのか疑う時ありますよ」
「ちちもんだろかー」
手をわしわしするラスカルを黙らせるように、シャワーを浴びせかけた。
与太話もそこそこに、カリンがスポンジを泡立てる。
十分に泡立てたら、ラスカルの少し細すぎる体を柔らかい泡で包んでいく。
女子らしいきゃあきゃあ楽しげな会話はなく、しばらく無言が続いたが、不意にカリンが口を開いた。
「さっきのこと怒ってますか」
「……?さっきのことって?」
「クロさんの話ですよ」
「ああーそれかぁ。怒ってるとも」
ラスカルはさらっと言ってのけた。
怒っているという割には、声色はいつも通りのんびりしたままだ。
背を向けている状態では、カリンにラスカルの表情は分からないが、おそらく嘘ではないのだろう。
「ド正直ですね」
「嘘はダメってルークが言ったから」
親指をぐっと立てる姿に、カリンは目を伏せた。
いつも無表情ながらも、カリンには『色』がある。
感情という名の色が。
今彼女の凝り固まった表情の奥に潜んでいるのは、歓喜。
カリンの気配が変わったことに気づいたラスカルは、不思議そうに振り向く。
「ラッさんは嘘ついたり裏切らないでくれるから好きです。代わりに『自分』がサヨナラバイバイしてますけど」
「じゃああの子は嫌いなのかぃ」
「誰です。まる子ちゃんですか」
「妹ちゃんさ。裏切られて殺されかけたんだろう。更には、さっきぶっ飛ばしてたろう。嫌いかぃ」
事情を知らないから聞いた。
それだけだが、いかんせん家庭の問題だ。
少々不躾ともいえる。
カリンのことだから、乙女のプライベートがどうとか言うかもしれない。
そしてそんな質問に、カリンは。
「いえ好きです。愛してますよ」
「そうかぃ。まぁ家族なら普通そうだろうね」
「いえ、性的にです」
「せいてき?」
「こういう意味ですよ」
カリンは泡でぬるぬる状態のラスカルの体に、背後から手を滑らせた。
突然のことにラスカルの口からは上ずった声が上がる。
まるで成長していない胸をひと撫ですると、そのまま突起をつまんだ。
びくっとラスカルの肩が跳ねる。
「か、カリンちゃん……っ」
「静かに。みんなに聞こえます」
逃げようとする腰を抱き、今度はラスカルの股に手を差し込ませる。
半端に溶けた泡のせいでぬめりを帯びたそこには、やはりというか男性の象徴は存在しなかった。
最中、カリンが誰とも知れない名前を切なげに呼ぶ。
女性名詞だ。
妹のことをそう呼んでいたのだろうとラスカルは察する。
「っひゃは、くすぐった……」
ラスカルがおピンクな空気に似つかわしくない声を上げた。
体が子供のままだと反応も子供じみるもののようだ。
空気が艶かしいものでなくなったせいか、ぱっとカリンがラスカルを解放した。
「……と、まぁこのように可愛がってたわけです」
こほんと咳払いをひとつすると、再びラスカルの背中を洗い始めた。
まるで何事も無かったように。
何事も無かったことにしてくれとでも言うふうに。
「それでいいのかぃ、姉妹なのに」
「こういうことしなきゃ、他に誰もあの子を愛してくれる人がいなかったんで」
「ふうん。じゃああの子は愛されたかったんだねぇ」
「どうでしょうね」
指摘とも反論ともつかない曖昧な言い方。
違和感を覚えたラスカルが首を捻る。
振り向けば彼女は、いつも無表情な顔の眉間にしわを寄せていた。
何かに憤っている。
「……分からないんです。親から正しい愛情を受けず、名前も貰えなかった苦しみが。カリンは双子なのに、お姉ちゃんなのに分からない」
「そっか」
「でもね。あの子を心から大好きなのは本当です。信じてくださいね。カリンは何度裏切られても裏切らない」
「んん。わかってるよ」
知恵が足りないか興味がわかないのか、ラスカルはかける言葉が思いつかなかった。
だからせめて相槌だけでも打った。
それは聞きようによっては不満を持ちそうな拙いもの。
だがカリンは、妹への愛を語るのに夢中で気にかけることもなく。
「でね、あの子にいつか、名前をあげたいと思ってるんです。可愛い名前を。みんなであの子を囲んで、何度でも呼んであげるんです」
同調を求めるためか、はたまた妹を思い出したのか。
カリンがラスカルを背後から抱きしめた。
「どッスか、カリンの夢」
「トレビアン!いいんでねーの?じゃあ早速その夢叶えに行こーぜ」
声が返ってきた。ラスカルとは違う男の声が。
驚いた二人が振り向く。
湯気で曇った視界の中に、燕尾服のシルエットが浮かんで見えた。
いつの間にか浴室に侵入していたベルトが、ニヤニヤしながらそこにいた。
その手に持つは、一通の便箋。
「レッツパーリーだぜ☆」
俺は目を見れば何でも知ることができる。
生まれついての能力だ。たまに鬱陶しいが、基本的には便利だ。
女を引っ掛けたい時なんかが、一番使える。
けど、ひとつ厄介なことがある。
俺は何かを知ることはできても、理解はできないんだ。
「招待状?」
「ああ。カリンだけ招待されてる」
「誰から?」
「んーと……ねぇ、これ何て読むんだぃ?何語?」
「インセグイーレ。イタリア語で『追いかける』って意味ッス」
「ふぅん。じゃあ、そのインセグイーレさんがカリンちゃんに用事なんだねぇ」
「誰だよインセグイーレって」
「手紙もついてるよ。えーっと……あ、妹ちゃんも待ってるよってさ」
数日間、このクズ工場とかいう場所にいた。
そして飽きた。
元々ただの暇つぶしだと思っていたし、もうどうでもいい。
去る前にちょっと悪戯してやろう。
そう思って、ゲテモノチビガキと乳臭いDV娘の風呂を覗いたのが運の尽きだ。
現に俺は今ひどい状況に置かれている。
天気予報でたとえるなら、血の雨のちハリケーンだ。
……意味がわからない?
散々タコ殴りにされたあとでシーソーでどっかに吹っ飛ばされかけてるって事だよ!!
「待って!マジ待ってって!」
「三分間待ってやります」
「そう言いながら準備進めんのやめてくんね!?」
飛ばされる。物理的に飛ばされる。
プライドなんかかなぐり捨てて、みっともなく喚くベルト。
それを工場メンバーズは呆れた顔で見ていた。
特にニルだ。虫けらを見るような目で見下ろしている。
「あんたが悪いんじゃないの。女の子のお風呂覗くなんて」
「だからってこれはなくね?もはや処刑じゃん!やめよう?どこ飛ぶかわかんねーし、危ないから!」
彼らは一応仲間のはずだ。
仲間をタコ殴りにして、縛って、吹っ飛ばす気でいるのは一体全体どういう了見か。
遊園地でももう少し安全性に配慮している。
彼はもがきながらひたすらそんな事を喚き散らした。
「なぁ悪かったって工場長!」
「ダメです。工場長って称号が気に入らないんで」
「そこかよぉおおおお」
目を見て察する限り、カリンは望み薄だ。
無表情ながらも怒りは一丁前にある模様である。
「ラッさんなら許してくれるべ!?」
「んー……なんていうかな。いい機会だから空を飛んでみるのもいいと思う、命ごと」
言い回しがずいぶん優しいが、要約すると『死で償え』と言われている模様。
ダメだ、笑っているくせにむしろめちゃくちゃ怒っている。
そして最後の頼みの綱のキースはというと。
「……」
彼は無言でベルトを見ていた。
ただ。嫌な目だと、思った。
その目に滲むのは呆れでもなく、怒りでもなく。
それでいて厳しく、ベルトをまっすぐ見つめていた。
ベルトにとって、その反応が一番不快だった。
(……お前らも、俺を見限るのか)
ベルト。
彼は実に奇妙な人物で、何を考えているかわかりづらい。
だがその本質は案外わかりやすい。
大きな子供。その表現が適切だ。
今のように自分が悪くて叱られても、ふてくされ、自分の非を認めない。
身体ばかり大きくて、性格はまるで子供のまま。
それが彼である。
「ほんじゃ行きますよ」
「えっ嘘マジ?こんだけ嫌がってんのにまだやる気満々なの?お前ら鬼なの?」
カリンが巨大ハンマーを振り上げた。
それを見てベルトは一際慌てふためく。
もちろん誰も耳を貸さなかった。
「チャー、シュー……」
「イヤーーーーーーーーッッッ待ってぇぇぇぇ」
「麺!!」
非情なるチャーシュー麺の掛け声とともに、ベルトは空の彼方まで飛んでいった。
ああ、コーラ飲みたいなぁ。そんな事を思った。
ペットボトルのキャップを開けた時、炭酸が抜ける音。
あれに似た音が、頭痛がするほど鮮明に聞こえたからだ。
ただしこの場にコーラはない。あったとしても飲めるわけがない。
鬼の形相をした上司に、殺されてしまいかねないから。
「すみませんでした」
「何が。説明してみろ、ニワトリ語で」
「……こ、コケーーーーーコッコココ、コッココッコーーーー!!」
「ふざけやがってそこに直れぶっ殺してやる」
「わぁああんごめんなさいいい」
きっちりクリアしてみせたミッションにすら腹が立つらしい上司に、必死で命乞いした。
私達は仕事で商談に向かっていた。
目的地はとても遠く。
電車に乗って終点まで行くところだったのだ。
ところが。
タイミング悪く、途中で私のハイヒールが折れた。
裸足で歩くわけにもいかず、折れたままのヒールでひょこひょこ移動した。
我ながら妙ちきりんな姿だったと思う。
しかし、結局間に合わず。電車のドアは目の前で閉まった。
ものの見事なギリギリアウトである。
「どうしてくれんだ。電車行っちまったじゃねェか」
「次のスケジュール、間に合わないですね……タクシー呼びます?」
「もういい、どの道遅刻だ。お前のせいでなァ」
ドスの効いた声とともにため息を吐き出すクローバー副社長。
手が届くか否かのギリギリまで離れて、できるだけ縮こまる。
どうしようどうしよう土下座した方がいいかしら、今すぐヒールを脱いでこれで私の頭を叩いてもいいですよって言おうかしら、あーダメだそんなことしたら脳漿炸裂ガールになっちゃう。
私の葛藤をよそに、副社長はどこかへ歩き出した。
「ど、どちらへ?」
「他の仕事片付けに行く」
「サボるとかって思考はないんです?」
「できるかよォ、そんな責任感のない真似」
副社長。クローバーさん。
初めて会った時から、私は彼の背中を『小さいなぁ』と思っていた。
実際の彼の体はとても大きいのだろうけれど、私にはそう見えないのだ。
私の背が、女性にしては高めだからかもしれないのを差し置いても、だ。
私はそんな彼の抱える何かが、何故か気になって。無性に知りたくって。
就職一日目に人事に土下座して、即行で彼の秘書の座に就いた。
そして知ったのである。彼は責任感の塊過ぎる人だと。
「こ、コーヒー一杯くらいなら奢ってあげなくもないわよ!」
「何なんだ、お前のその急に割り込んでくるツンデレもどきは。ヒールで頭かち割るぞ」
「すみませんでしたッッ」
「お前は何でそんな完成度の低いツンデレかましやがるんだ」
「……自警団やってる姉が、気弱な態度だとナメられるから、って言うもので……」
「どっちにしろグズだからナメられるだろうな、お前は」
「で、でも副社長!何にせよ少しは休むべきですよ。毎日働き詰めで気が滅入っちゃってそうですし」
「気が滅入るコンボ決めてきやがったのはお前自身だろうが」
もっともである。
私は反省も後悔もしているとはいえ、その行動のせいで副社長は80コンボほど入れられたのは違いないのだから。
冷や汗をかきながら話題を考える。
「ゆ、有給とか取らないんです!?」
「社長が受理しない。あの野郎、仕事全部ほったらかして逃げ回ってるせいでオフィスにいないからなァ。当然有給申請書なんか見ちゃいないわけだ。クソ上司が」
地の底を這うような声色で懇々と恨み節を語る副社長。
「社長……社長ってどんな人なんです?たしか中年の、聖職者の男性でしたよね?」
「それは表の社長だ」
「表、ですか?」
「うちには社長が二人いてなァ。表の社長は影武者で、裏の社長を秘匿しながら会社経営してる」
裏の社長の顔は誰も知らない、と副社長は締めくくった。
ずいぶん変わった社風だ。
私はなんだか好奇心がくすぐられた。
自分の働く環境を、もっと詳しく知りたくなった。
……株式会社ブランクイン。
『イブムニア』という国で、一番の大手企業。
社長が表裏両方いるだけあり、必然的に裏の顔を持っている。
幹部は全員裏側の人間。
そこには当然、ナンバーツーのクローバー副社長も含まれる。
私は、そんなクローバー副社長の直属の部下であるため、裏の顔を知ってはいる。
けれど、こんな堅気でも生者でもなさそうな上司の下で働いていても、私は一般人だ。
「副社長、前言ったお話、覚えてますか?」
「何の話だ」
「私にお稽古をつけてほしいんです」
「そろばんなら塾通え。3丁目にある」
「いやそろばんじゃなくって。鍛えてほしいんです。私、強くなりたいんです」
「お前なら強くなれる。そろばん界の長になれ」
「算数に強くなったってしょうがないんですよ!」
私も武器のひとつでも持っていた方がいいのでは、と度々論じる。
けれど副社長はそれでいいのだと言う。
部下である限りは守ってやると。
……実に不満だ。
なぜなら私は、戦いたいのだから。他でもない副社長のために。
「あ、あのっ……私、武器持ってます。日傘です。銃が仕込んであります」
「あ?だから何だ」
「だから、絶対、御負担はかけませんから……!!」
彼はいつも悩んでいる。
その悩みを解決させてさしあげるために、私は見知らぬ男性に純潔を捧げた。
馬鹿な事をしたとは思う。
けれどこれが私にできることだと信じた。
だから、どうか。
食い下がり続ける私のすぐ横を、何かが掠めていった。
方向的に、おそらくははるか空の彼方から。
本当にこの国はしょっちゅう空から何かが降ってくるなぁ。とか考えてる場合じゃなかった。
「なんでしょう今の……」
「どうせまた工場の客だろォ。お前見てこい」
「え!?なんでです?」
「ちょうど話が終わったから」
「終わってませんし!」
「いいから早く行ってこい」
しっしっと手で払われる。
まだ話はあったけれど、このままだと減給だとか言われそうだ。
大人しく、未確認飛行物体の正体を確認しに行った。
――――
ーーーー
工場メンバーズを怒らせた罰として、袋詰めにされて吹っ飛ばされたベルト。
彼が入った袋は町外れの拓けた場まで飛んだ。
一生に匹敵するような長い飛行の末、着地する。
何度かのバウンド、そして地べたを滑って砂埃を立てた後、ようやく勢いが止まった。
「おえぇっ、気持ち悪……」
質の悪い酒をしこたま飲んだ時と同じくらい不快な吐き気を覚える。
這いつくばりながら脳髄や胃の揺れを鎮めることに注力する。
「あの連中マジ許さねー……トップシークレット軒並みバラしてやるぞぅ……」
「だ、大丈夫ですか?」
「あぁ……?」
頭上から、心配そうな女の声が降ってきた。
顔を上げたら、そこには彼の嫌いな人物がいた。
むっちりとした、見るからに柔らかそうな体躯が特徴的な女。
「……パトリシアちゃん」
「あ、はい。合ってるんですけれど、親しみを込めてパティって呼んで欲しいです」
「どうでもいいけどそこで見てんなら立つの手伝ってくんね?」
相も変わらずの無愛想な、彼女への態度。
傷つくのもそこそこに、パティはとりあえず言われた通りに手を貸した。
「どうしたんです?なんで袋に入ってらしたんですか?」
「あー……ガキの風呂覗いたらキレられた」
「えっ」
「ありえなくない?たかが覗きじゃん。罰ゲームレベル高すぎだろ、エクストリームじゃん」
不機嫌を隠そうともせずにベルトは愚痴る。その様子をパティはぽかんとした顔で眺めていた。
が、不意に、なにがおかしいのか、微笑みをこぼした。
ベルトは例の如く、その心情を見抜いた。
だが、またもや理解出来なかった。
彼女は、温かい目をしていた。
甘える子供を見守るような、そんな目。
「……何よ?」
「ふふ。別に」
「……あっそ」
と、パティが何か思い出したように「あっ!」と声を上げる。
「ベルトさん、ちょっと来てください!デリバリーおじさんです」
「なんて?」
「クローバー副社長が近くにいるんです!直接お話してみてください!『あの人』についてとか!」
「いやそこじゃなくてさ。デリバリーおじさんてネーミングよ。俺風俗なの?」
「とにかく早く!」
よほどこの状況が好ましいのか、目を輝かせているパティ。
彼女に半ば引きずられるようにデリバリーおじさん、もといベルトは連行されていった。
俺は責任感がない奴が大嫌いだ。
仕事も手を抜かずしっかりやるべきだし、約束も果たすまで守るべきだ。
恋人への情も然り。
一度愛情を抱いたなら、責任を持って死ぬまで守り、愛情を注ぐべきだと思う。
少々徹底しすぎな気がしなくもないが、自分の言動や行動に責任を持つのは当たり前のことだろう。
だから自分にもそれが当てはまらなければならないと思っている。
だが、子供の頃、とある二人組を裏切ってからというものその生き方に綻びが生じた。
俺は嘘をつくようになったのだ。くだらない嘘、深刻な嘘。あらゆる嘘を。
嘘は一番いけない。責任感に欠ける行いだからだ。
そんな責任感のない行為、してはいけないのに。したくないのに。
だが仕方ない。それも全てはあいつの。ニルギリスのためなのだ。
どんな事情があろうとも、俺はあいつを守らなければならない。愛していなければならない。
嘘をつくのがつらくても、誰かを裏切った過去に苛まれても、絶対に逃げてはならない。
でも時々思う。疲れた……と。
突如として空から降ったものをパティが確認しに行っているのと同時。
クローバーは複数の子供に絡まれていた。
以前、キースに追い剥ぎを働いた孤児達だ。
ただでさえ長身で目立つからかもしれない。物の見事に集られている。
が、それにしたってかなりの数だった。
「……なんだガキども。金なら恵まねェぞ」
「ねーえいゆーのおにーさん、悪者もう殺したー?」
「……」
「ねーねーえいゆーのお兄さん。早く殺人鬼やっつけてよぉ」
「悪者やっつけるのがお兄さんの仕事でしょー!」
「そーだよー。いつまでちんたらやってんだよー」
やかましい。その一言に尽きる。
しばらく耐えていたクローバーだったが、とうとう限度を超えた。
「うるせェ。俺が殺りたくないんだからそれでいいだろうが」
「ひらきなおった!ひらきなおった!」
「いーけないんだぁ、いーけないんだぁ」
総勢数十名の子供たちがオウムの如く繰り返す。
近所迷惑だ。ゲンコツで黙らせようかと悩む。
「上司の命令に背くなんて、いけないんだぁ」
クローバーの背筋が瞬時に凍る。
聞き覚えのある声だった。
低いような高いような、子供のような大人のような、奇妙な。
それでいて悪意を孕む声。
「社、長……」
「おぉ?よくわかったなぁ。さすが俺様の部下だ」
目を向ければ、そこにはやはり子供がいる。
黒っぽい服装と、首がすっぽり隠れるほど大きな帽子をかぶった子供。
追い剥ぎ孤児集団のボス格だろうか。
「ご無沙汰しております。貴方様と気が付かず申し訳ありません」
「堅苦しい挨拶は抜きにしようぜぇ、なぁクロちゃん」
大きな帽子を揺らして傾けた。
クローバーの顔を覗き込んでいるらしい。
「お前、あのゲテモノチビガキどう思ってる?」
どくり。
クローバーの心臓が大きく跳ねる。
「ゲテモノ……?失礼ですがどこの誰のことでしょうか」
「ラスカル君ちゃんだよ。俺様言ったよな?早くあのガキ殺っちまえって。何で殺さねーの?なぁなぁ」
ねっとりした口調。
だがその声色は、本当に疑問に思っている風であった。
この社長に、クローバーの持っている感情は理解できないらしかった。
しめた。
このまま口八丁で誤魔化してしまおう。
いつも通り。嘘をついて。
「副社長ーーーー!!」
幸か不幸か、絶妙なタイミングで部下が戻ってきた。
だが。
誰だか知らない妙な男の手を引いている。
しかもものすごく機嫌が悪そうだ。
眉間のシワが谷のように深い。
パティに引きずられるようにして、やがて男がクローバー達の前に立つ。
「副社長っ、ご紹介します!こちらデリバリー……じゃなくて、ダン・ロールベルトさんです!」
違う、知りたいのはそこではない。
何者かが不明なのであり、名前はどうでもいい。
クローバーはツッコミを入れようか迷った。
が、真っ正面から探るような嫌な視線に曝されていることに気づき、口を噤んだ。
蛇のように細い金の瞳と、どんよりした赤い瞳の視線がかち合う。
「あーーー!あんたが噂のクローバーさんかぁ。悪趣味なんだってなあんた」
「……あァ?」
いきなりそんな事を言われたクローバー。
素性を知られていることもそうだが、開口一番『悪趣味』とは。
たしかにクローバーはセンスが良いとは言い難いだろうが、失礼にも程があろう。
「いきなり何なんだテメェは、喧嘩売ってんのかァ?」
「だってさぁ、あんたあの火傷まみれのチビッ子が大好きなんだろ?」
再び、クローバーの背筋が凍る。
反射的にパティの顔を見やったが、彼女もまた、愕然としているではないか。
どうやらこんなつもりじゃなかったらしい。
「ねーおじちゃん。やけどとかちびっことかって、だれのことー?」
「ラスカル・スミスだよ。山にあるクズ工場の」
幼い子供たちの率直な疑問に、ベルトは丁寧なほどに答える。
「好きなんだべ?俺風呂覗いたけど、ひっどい体してるよなー。あんたあのゲテモノのどこに惚れたわけ?」
「……ッ」
まずい。
普段パティしかいない時ならばまだ良かった。
だが今は社長が目の前にいる。
しかもちょうど今ラスカルについて話している所だった。
この状況はまずすぎる。
どうすればいい。
怖くて、すぐ足元にいる社長の顔が見れない。
その時、つんざくような高い破裂音が辺りに響いた。
そして倒れふす男がひとり。
「いッッッてぇ……!」
ベルトだった。
その肩口からは血が溢れて、燕尾服を汚す。
彼は撃たれたのである。
その犯人の正体は誰が見ても一目瞭然で、そして誰もが目を疑った。
「……い、いい加減に、してくださひっ……」
犯人はパティだった。
携帯していた日傘。
先程彼女自身が述べていたように、銃が仕込まれた正真正銘の武器で、ベルトを撃ち抜いた。
「わーーー!お姉ちゃんが撃った!撃った!」
「けーさつ!ひゃくとーばん!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる孤児共。
その喚き声は近くに居合わせた市民を呼び寄せ。
あっという間に、野次馬達が集まってきてしまった。
「おい……いってぇんだけど。何してくれてんの、オネーチャン」
「……あなたが、わるいんでしょう……」
「謝れよおい。普通、人傷つけたら謝るべや……なぁ」
「そっちこそ謝ってください!!あなたこそどれだけ人の心をいたずらに掻き乱して傷つけてるかわからないんですか!?この、子供親父!!」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしてパティは怒る。
ベルトは彼女の目を見た。
どこまでも優しさに満ち溢れる目だった。
クローバーを心から案じている。
誰にも触れられたくないであろう秘密を大勢の前でバラされた事を、心から怒っている。
感情は読み取れる。
だがやはり理解できない。
優しさをこじらせすぎている彼女が、分からない。
取り押さえられる前もあとも、パティは足ががくがくと震えて泣きっ面だった。
ただし、絶対に謝ろうとはしなかった。
そのまま連行されていく部下を、放心状態でクローバーは見ていた。
「……」
社長は、もちろん全てを聞いていただろう。
彼が隠してきた想いを。
あらゆる事情にがんじがらめになりながらも守ってきたものを壊されることは確定した。
終わりだ。もうダメだ。
「くーろーちゃーん」
社長に、ねっとりした口調で呼ばれた。
感情が死んでいくのを感じる。
クローバーはほとんど全てを諦めて、ゆっくり振り向いた。
「そっかぁ、お前、あのチビガキが好きだったんだ?恋ってヤツぅ?お前もう女いるのに、浮気かよ」
さも楽しそうに大きな帽子ごと首を揺らす社長。
社長が次に何を言うかは、クローバーにはもうわかっていた。
「反逆罪で殺されたくなければ、ラスカル・スミスの首をもってこい♡」