本編 第一部後半

招待状

カリンに届いた謎の招待状。

内容的には、『インセグイーレ』とかいう人物がカリンを食事会に招待するものだった。

そこにはあの忌々しいガキ……カリンの妹も待っているという。

カリンは「一人で行ってきまッス」と言った。

当然みんな止めた。怪しすぎるどころか、確実に罠だから。

でも僕が止めた理由はそこじゃない。

あのクソ妹に、復讐させてほしかったのだ。

釘を投げつけて殺されかけた報復がしたかった。それなのに。

 

「カリンちゃん大丈夫かなぁ」

「知るかボケ」

 

頭が痛くてかなわない。

僕にしては珍しく、気分を害されたまま何も行動していないから、そのストレスだろう。

 

「あらいぐま、頭痛薬くれ」

「おや、またかぃ。さっき飲んだだろう?」

 

薬は飲みすぎると逆に体に悪い。オーバードラッグというやつだ。

あらいぐまが親切心で指摘しているのはわかる。

だが、それが気に障る。

 

「いいからよこせ!」

「あっ。ダメだってば」

 

薬箱をひったくって、手早く薬を取り出した。

こらー、とか言いながら薬箱を取り返そうとぴょこぴょこ跳ねるが、チビだから手が届かない。

水が手近に無かったが、取りに行くのも面倒だったので錠剤を噛み砕いて飲み込んだ。

ひたすら苦くてまずい。

 

「どうしてそんなにイライラしてるんだぃ?」

「欲求不満。復讐できねぇから」

「ふくしゅう……」

 

言葉をゆっくり咀嚼するあらいぐま。

僕の口からその言葉が出てくる意味がわからないのだろう。

無理もない。こいつは、僕が人殺しだなんて知らないのだから。

 

「あーー……」

 

僕は気分を害されると、わりとあっさり人を殺めてしまうことがある。

僕自身、それについては反省も後悔もしない。

だが心に残りはしているらしく、そいつらの幻覚を見ることもある。

僕を殴った中年男。僕の読書を邪魔した若い女。

その時によって見るものはまちまちだ。

しかし今はただひとつに限定されている。

僕が養父だと思っていた男である。

 

「チッ……うぜぇ」

 

幻覚が恨めしげにこちらを見ている。

腹立たしい。

幻覚だか亡霊だか知らないが、生者である僕にそんな目を向けるな。

……テッド・アンダーソン。

僕を勝手に助けて勝手に死んだ男。

僕を裏切ったあの男には復讐してやりたい。

だがやつはもう死んでいる。

何かないだろうか、あの世にいるテッドの鼻をへし折れるような策は。

……あぁ、そうだ。

もう一度、殺せばいいんだ。

腐りかけた額に銃口を突きつけて、引鉄を引けばいい。

いつも通りに『裏切り者』を葬り去ればいい。そして綺麗さっぱり忘れよう。

 

「あらいぐま……ちょっと頼みがある」

お姉ちゃんのはなし

あたしの最愛のひとは、あたしを世界一憎んでいる。

生まれてきた時から差別されてきた片割れ。

その痛みは計り知れない。

さぞ憎かったろう。殺したかったろう。

どんな言葉をかければあの子は安らぐのか、今でもわからない。

そして、とうとうあの子は壊れてしまった。

全てを捨てて、全てを手に入れようとして、失敗した。

なんて馬鹿で、不器用で、純粋な子なのか。

……でも。

それでもあたしはあの子が好きだ。

どんなに壊れてしまっていても、あの子があたしに純粋に笑いかけてくれた時もあった。

思い出に残るあの子の笑顔を、愛している。

あの子を救ってあげたい。

工場に、従業員として招くのはどうだろう。

釘を投げつけて殺しそうになったことでみんなぶーたれるかもしれないが、なんとか説き伏せよう。

大丈夫、あたしは工場のボス。一番偉いんだから。

それであの子が、晴れてあたしを許してくれたなら。

名前をあげよう。

とびきり可愛くて素敵な名前を。

そしたら、今度こそ……ずっと一緒にいようね。

 

――――

地下監獄。

全てが石造りの薄暗い廊下を、迷いなく進む赤い光がひとつ。

光の正体は鮮やかな髪の少女、カリンである。

光を発しているのは彼女の髪飾りだ。

昔、暗闇を恐れて泣いたカリンのために、ラスカルが蛍光塗料を塗ってくれた。

それが今、ランタン代わりになっているおかげで怖さはない。

 

「あれれ、招待したのはチョウチンアンコウじゃなかったと思うんですけどね」

 

脇の暗がりから、馴染みのある声が聞こえて、カリンは足を止めた。

 

「お待ちしてました〜」

 

ひらひら陽気に手を振り妹が現れる。

招待状に書かれていた通り、本当に妹はいた。

 

「ご無沙汰ですね、カリーナお姉ちゃん」

「カリンって呼んでください」

「あんたの名前でしょ、カリーナが」

「偽名の方が好きなんスよ、語呂いいですし」

 

カリーナとは、カリンの本名である。

イタリア語で意味するところは『可愛い』など。

両親が、彼女だけを贔屓してつけた名前だ。

偽名を名乗るほどだから当然というか、カリン自身は好んでいない。

 

「こないだはよくも顔面ぶん殴ってくれやがりましたね」

「アレはあんたが悪いんでしょ。逆恨みしちゃいけませんよ」

「姉貴風吹かしやがってムカつきます〜」

 

吐くセリフの割に、妹は終始にこにこしている。なんというか、嬉しそうだ。

 

「っていうか、よく来ましたねー。絶対罠だと思うじゃないですか、普通」

「もちろん罠だと思ってますよ。なんスかあの差出人名」

 

妹がにやにやしている。仕掛けたいたずらが上手くいくか見守っているような顔だ。

 

「うちらの名字じゃないスか、インセグイーレって」

 

カリンの本当の名はカリーナ。カリーナ・インセグイーレ。

招待状を送ってきた人物と同じである。

妹の嫌がらせか?

それならわざわざ『妹も待っている』とは書かない。

カリンは予感している。文面から察するに、その正体は……。

 

「父さんと母さん、生きてたんスか?」

「そーでっすぅ!!あははははっ。生きてますよ、生きてたんですよ!しかも昔と違って優しいんです〜」

「……?優しいってどういうことですか」

「昔は違ったけど、今はあたしを大事にしてくれるんです」

 

思い起こすのは妹に裏切られた日のこと。

彼女は、屋敷にいる人間全てを釘で刺殺した。

両親が死んでいるのを、カリンは目撃した……と思っていた。

生きていた上に、虐げていた妹を可愛がっているらしい。

一度死にかけて、考え方が変わったのだろうか。

はたまた記憶喪失?

考えにくいがありえなくは無い。

 

「ささ、こっちですよー」

 

妹に手を引かれ、廊下のさらに奥まで進んでいく。

静かな地下監獄に響く、二人分の軽やかな足音と妹の鼻歌。

目的地に到着するまで、カリンは楽しそうな妹の横顔を見つめていた。

 

「さぁ、着きました。パパとママがお待ちです」

 

たどり着いたのは廊下の突き当たりの大きな扉。

ご丁寧にノッカーまで付いたその扉には、『大広間』と表記してあった。

待ちきれないと言ったふうに妹に促される。

重厚なドアを両手でゆっくり押し開け、カリンは中に入った。

中にいた人物は、悠々と椅子に座り、カリンを迎え入れる。

 

「ようこそ、カリーナ」

 

そこにいた人物を目にして、カリンは目を見開いた。

 

復讐行脚

同時刻、地下監獄。

カリン達が向かった方角とは逆を目指して、二人の人影が歩を進めていた。

キースとラスカルだ。

 

「死んだ人の幻覚が見えちゃうのかぃ?」

「あぁ、ストレス過多だとな」

「ふうん。おっかないねぇ」

 

キースはラスカルに、自分のざわついた気分の理由を話して聞かせていた。

正体を明かさないギリギリのラインを守りつつ。

 

「でもどうしてそんなもの。誰かに化けて出られる事でもしたのかぃ」

 

キースの足が止まる。

そのせいで背後を歩いていたラスカルが、彼の背中にぶつかった。

鼻をさすりながら不思議そうにキースを見上げているラスカル。

彼女に、自分の正体を打ち明けるべきだろうか?

ただでさえ、昔の友達に似ているから気に入られているだけなのだ。

きっとあっさり嫌われてしまう。

……いや、待て。

だったら何故ラスカルを連れてきた。

少なからず信じているからではないのか?そもそも信じていいのか?

 

「キース?」

「……あぁ、悪ぃ」

 

キースは再び歩きだした。

彼らの目的はひとつ。

キースが長年恩人と勘違いしていた相手、テッド・アンダーソンを『もう一度殺す』こと。

一人で行くべきだろうが、キースはラスカルに同伴を頼んだ。

ラスカルは二つ返事で応じてくれた。

ニルからは、あの後テッドの遺体は正式な死体安置室に移されたと聞いていた。

彼らが目指す先もやはりそこである。

死体安置室はすぐに見つかった。

中に入れば、ひんやりした空気と静寂に包まれた空間が構えていた。

中央には布のかけられた、ひとつの遺体。

 

「これかぃ、きみのお義父さん」

「……だと思ってた野郎だな」

 

早速銃を取り出すと、キースは反対の手でテッドの顔布を取り払う。

顕になる青白い顔。

どんな理由があろうと、キースにとっては意味もない希望的観測をさせた男の憎たらしい顔だ。

額に銃口を向けて、構えるが……彼の手は震えていた。

自分で望んでここまで来たのに、彼の心には迷いがあった。

 

「キース。おーい」

「……」

「大丈夫かぃ。無理そうならやめても、」

「やる!やるよ、やるけど、なんか……」

 

キースの迷いの理由は、ラスカルへの疚しさにある。

今更、人の命を奪うことに躊躇いはない。だがラスカルは、キースを無条件に慕ってくれるただ一人の人間だ。

慕うのに事情はあれども、それを失いたくはない。

それでも、やり遂げねば。

さもなければ彼はきっと前には進めないだろう。

 

「……あらいぐま。一個、言っときたいことがある」

 

全てはキースのエゴであり、わがままだ。

『家族』に裏切られたからと人を殺めたことも。テッドを憎むのも。ラスカルに嫌われたくないと思うことも。それを反省も後悔すらしないのも。

キースはどうしようもないクズである。

クズならいっそクズらしく、我を通そう。そんな風にキースは腹をくくった。

 

「僕さ……人殺しなんだよ」

「……ひとごろし?きみが?」

「一回、お前のことも殺そうとしただろ」

「あぁーそうだったねぇ。道理で躊躇ないと思ったよ」

 

懐かしいなー、と。依然としてのんきな笑顔のままでいるラスカル。

不可解なほど、怒りもしないし罵りもしない。

 

「何とも思わねぇのかよ」

「んん」

「友達と似てるのに?失望しないのかよ」

「だって、きみはただの他人の空似だろう。どんなに顔が似てようがぼくの友達は世界にひとりきり。たかだか他人の空似ってだけのきみが、成り代われる訳ないだろう」

 

諭すような突き放すような、不思議な口調だった。キースは思い知る。

ラスカルにとって大事なのはあくまでも過去の出来事。

現在未来など知ったことではない。

過去にしがみついて離れないのが彼女なのだ。

 

「ぼくに嫌われると思ったのかな?」

「……まぁな」

「気にすることないさ。さくっと二度目の死を与えてやるといいよ」

「ドライだな……」

 

過去に執着しすぎているからこそ、ラスカルはキースに何も望まない。

無理に飾って、しくじらなくて済む。

どこまでも自然体でいられる。全て知りながら、そばで見守ってくれている人がいる喜び。

それを噛みしめ……さぁ、殺そう。

過去を断ち切るために、自分の追い求めた『過去』そのものを、消し去るんだ。

改めて死体の額に銃口を向け……引鉄を引いた。

今度は微塵の迷いもなかった。

一度、二度、三度……何度も撃つ。

弾倉が空になって、ようやくキースは銃を下ろした。

 

「……終わったぞ」

「ん。おつかれさま。おいで、頭を撫でてあげよう」

 

そんなガキじゃあるまいし。

そう思いつつも、ラスカルの穏やかな笑顔に誘われ、キースはその温もりを求めた。

子供の姿だからだろうか体温が高めらしく、その体は温かかった。

甘える子をなだめるように背中を滑る手が心地よくて、小さな体にさらに密着する。

 

「ほっそいな、お前」

「まぁね」

「おめーほんとに女かよ。ペッタンコな胸部しやがって、ナメてんのか。これ多分肌がどうとかじゃなかったとしても嫁の貰い手ねーぞ」

「ガンガン罵るねぇ。ぼくを女扱いしていいのは今だけだぜ」

「……僕が嫁に貰ってやろうか?」

 

完全なる冗談だった。

ラスカルとキースはお互いが特別だ。

けれどそこに恋愛感情はなく、かといって友情もなく。

ただの、特別な同僚である。

 

「んー、無理じゃないかな。ぼくが知ってる愛情って友愛だけなんだ。惚れた腫れたの愛情は分からないよ」

「ほォ、面白い。愛しのルークにも同じ答えで返すのかァ?」

 

不意に会話に割り込んだ、陰気な声。

いつからいたのか、そこにはクローバーがいた。

 

「クロー、バー……」

「よォ」

 

クローバーが声をかければ、以前と同じくラスカルがかたかたと震えだす。

キースは咄嗟にラスカルを背に隠して、彼に銃を向ける。

だがクローバーは身動ぎもしなかった。

 

「やめとけ。お前が弾使い果たしたのは見てた」

「ッ、テメェ……何でここにいやがる。また僕をボコりに来たのか」

「そこのチビに話がある」

 

そう言ってキースの陰のラスカルを指し示してみせた。

小さな体がびく、と跳ねる。

クローバーの足元すら見ていなかったラスカルだが、恐る恐るその顔を見上げた。

ラスカルとクローバーの目がようやく合う。

 

「ぼくに、話……?」

「来い。大人しくついてくれば何もしない」

「待てよ。話ならここでしろ。僕も聞く」

 

横から飛んできたお門違いな提案。

途端、クローバーは心底煩わしそうにキースを睨みつけた。

 

「お前になんの義理がある。お前はこのチビの何なんだ。ただの同僚だろうが。ただの同僚ごときが口を挟んでくるな」

 

妙に早口だ。

クローバーは何かを焦っているように見えた。

文字通り目標との障壁となっているキースを、クローバーは蹴り飛ばした。

そばにあったストレッチャーを巻き込んでキースが倒れ込む。

大きな音に過剰に怯えて、逃げることもままならないラスカル。

そして、その目の前に立つと、クローバーは。

 

「えっ……」

 

おもむろに、跪いた。

途方もない身長差を補うよう、視線を合わせ。

ラスカルと同じ目線で話をするために。

彼女を怯えさせないために。

 

「落ち着け。危害を加えたいわけじゃない」

「…ぁ…う、」

「ただ二人で話がしたいだけだ。怖いことも痛いことも、何もしないと約束するから……来てくれ」

 

その目はひどく切なそうで、敵意も殺意も有りはしなかった。

ラスカルはとろくさい頭で考えた。

少し時間がかかったが、クローバーはまばたきもせずに待ってくれていた。

考えて考えて、そして。損得勘定なしに、クローバーの話を聞いてやろうと決めた。

 

「……わかっ、た」

 

知らない両親

カリンが連れてこられた大広間。

その中では豪勢な食事の席が用意されていた。

部屋の中はシャンデリアの灯りで照らされ、高級感溢れる長テーブルの上では和洋折衷の料理が並べられている。

部屋の隅では、武装した黒服の男達が大勢構える。

そんな中で、カリン達双子と両親は食事をしていた。

 

「おい、そこの取って」

「月餅ですか?好きですね〜」

「お前にゃやんねーぞぉ」

「えー、パパとママのいじわる」

 

カリンの正面、重厚な長テーブルの向こうにて隣合って座り、食事をする妹と『両親』。

両親は自分で料理に手をつけることもせず、妹に食べさせてもらっていた。

カリンはその様子を、食事に手をつけもせずにじいっと見ていた。

 

「おいおいカリーナどうしたんだよ。全然食ってねーじゃん」

「そうですよ〜。お姉ちゃんが好きな物ばっかりでしょ?」

「……えぇ」

 

カリンは非常に食いしん坊である。

そこいらの成人男性の何倍も食べるから、食費は毎度とんでもない事になる。

しかし、今回ばかりはカリンは食事する気になどなれなかった。

目の前に広がる光景が異様すぎたのだ。

 

「なぁに見てんだよカリーナ。俺様の愛らしさがそんなに気になるかぁ?」

 

何故ならば。

妹にもてはやされている『両親』は、どう見てもひとりの小さな子供だったのだ。

黒っぽい服を着て、首がすっぽり隠れる大きな帽子を被っている。

顔も隠れている上に服も中性的で、男子か女子かはわからなかった。

少なくともカリン達の両親などではなかった。

 

「誰ですかあんた」

「誰って、お前の両親だろ」

「ツッコミどころ満載すぎるでしょーが」

「どこら辺が疑問なわけ?言ってみろよ聞いてやっから」

「まずあんた誰ですか」

「お前の両親」

「両親て何スか、あんた一人でしょ」

「分裂できるかもしんねーだろぉ」

「じゃあしてみてください」

「無理寄りの無理」

 

のらりくらりとかわされて埒が明かない。

騙されたのか?

妹を見やるが、幸せそうに両親()に擦り寄っている。

とても騙したり嘘をついている顔には見えない。

 

「ねぇねぇ、パパとママ」

 

と、妹が両親()に甘えた声をかけた。

 

「お姉ちゃんの名前ばっかり呼んでないで、早くあたしにも名前つけてくださいな」

「あ?あーはいはい、ちょっと待ってろな」

 

ぞんざいで面倒くさそうな返事する両親()

それでも頬を緩ませ嬉しそうにしている妹。

二人のその様子を見て、カリンはある程度察した。

 

「……名前をつけてやるって言って、その子を利用したんですね」

「利用ってなんのことですか?」

 

首を傾げる妹。

彼女は精神を病んでいる。

正気を失くした人間は大抵の場合、自分の思考を信じて疑わない。

妹もやはり、この馬鹿げた状況に気づけないでいる。

カリンの胸がざわつく。

何が両親だ、ふざけるな。

 

「人聞き悪いなぁおい。こう見えてちゃんとギブアンドテイクよ?」

「どんな目的のもとにその関係は成り立ってるってんですか」

「成り立ってるよぉ。現に、お前はここにいるしな」

 

突然妙なことを言い出す両親()

言い回しとしては、カリンをここに来させるために、妹を利用したということらしい。

だが、何故。

 

「俺様はな、カリーナ。お前が欲しいのさ」

「……は?」

 

お前が欲しい?あいうぉんちゅー?

ここでまさかの求愛か。

 

「残念ですけどカリン、心に決めた人がいるんで」

「ばぁか!勘違いすんなよ。欲しいのはお前の肉体だけだ」

「肉体?」

「うん、お前心身ともにいい感じだからさ」

 

ますます意味がわからない。

徐々に刻まれつつある眉間のしわ。

 

「ひゃっ!?」

 

両親()が、傍らに座る妹の胸を無造作に鷲づかんだ。

妹の口からあがる悲鳴。

いや、これは嬌声か。

荒っぽく揉みしだかれて反応しているのか、妹は体を震わせる。

 

「なかなかいい体してるよなぁ、お前の妹。双子だからお前も同じなんだろうなぁ」

「……いきなり何やってんですかカリンの妹に。殺しますよ」

「やめさせたいかぁ?」

「当たり前でしょ。早く離れてください」

「お前の乳も揉んでやってもい――」

 

ざくっという鈍い音とともに、両親()が目深に被った帽子にナイフが突き刺さる。

キレたカリンが、手元のものを投げつけたのだ。

両親()が椅子ごと後ろに倒れる。

音は若干の水気を含んでいた。

つまりは、頭に刺さった。殺したわけだ。

辺りに妹の悲痛な叫びが響き渡った。

 

「パパ、ママ!!やだ、死んじゃダメです!」

「そいつは偽物です」

「本物だもん!!あたしに酷いことしないし、名前つけてくれるって、言ったんですよ!」

「それどころじゃないでしょ、うちら敵に囲まれてんスよ」

 

そこで不可解なことに気付く。

護衛と思しき黒服達が、微動だにしていない。

……だが気にする必要はない。

奴は死んだ。

間違いなく脳天に刃物が刺さった。

妹を回収すべく、カリンは長テーブルに乗り上がって向こう側へ行く。

「パパ、ママ」とすすり泣きながら繰り返す妹の腕を掴んで立たせようとするが、振り払われてしまう。

やれやれと小さいため息をついとところで、もうひとつおかしなことに気付く。

 

「……あれ」

 

両親を騙っていた子供。

その遺体が、どこにもない。

どこへ行った。

 

「ねぇ、どこに行きやがりましたあのチビ」

「……あ、パパとママ。そこにいたんですかぁ」

 

妹が安心したような顔で、カリンに顔を寄せてきた。

今度は姉を両親と錯覚したのか、と思ったカリンだが、違った。

妹の視線の先は、カリンの頭上だった。

 

「健全なる魂は、健全なる精神と健全なる肉体に宿る。って、言うよなぁ」

 

頭上に、奴がいた。

つま先で、カリンの丸く鮮やかな頭の上に立っている。

 

「俺ぁな、そんな健全なる魂を探してたのさ。で、お前に目をつけたってわけよ。同じ見た目でも妹《そいつ》じゃダメなんだよな。壊れちまってるから不健全で、使えねぇ」

「……人の頭に乗って演説しないでもらえますか。下りろコノヤロー」

 

ヘッドバンギングよろしく頭を振り乱すと、両親()はテーブルの上に飛び移った。

先程椅子ごと倒れた拍子に落としたらしく、あのやたら大きな帽子は取り払われていた。

顕になったその顔は、可憐な子供。

少女のようにも少年のようにも見える。

東洋人なのか、黒い眼と艶やかな黒髪が特徴的だった。

 

「お初にお目にかかる」

 

わざとらしいほどに恭しく、その子は腰を折る。

 

「俺はこの愉快な国の統率者。愚民どもはメシモノとか、社長とか呼ぶ」

「社長……?」

「クローバーっているだろぉ。あいつの上司だよ」

 

クローバーの上司。

ということは、ラスカルを閉じ込めさせた張本人だ。

さらに、クローバーに命じてキースをこの国に呼び寄せさせたらしいのもこの人物である。

 

「で、結局どういう理由でこんなことしたんスか」

 

カリンをここに呼んだことは、どうやら肉体が欲しいらしいとだけ判明した。

だが他に謎が残っている。

なぜこの国の統率者たる者が、カリンの妹に対して両親を騙っているのか。

 

「俺様ってさ。すげえ可哀想な奴なんだよ」

「……はぁ?」

 

可哀想な奴とは、どういう意味だ。何故急にそんな卑屈な事を言い出す。

というか自分で言うかそんなこと。

 

「あ、今卑屈とか思ったな?」

「実際そうでしょ」

「ちっげーよ、わかってねぇなぁ……いいか?俺様は、生い立ちが悲惨でな?長いから省くけど、結論から言えば『無理くり不死身にされた人間』なのよ」

 

不死身。

またずいぶんと非現実的だ。

馬鹿馬鹿しい……とは思いつつ、思い出す。

そういえばさっきも、カリンが投げつけたナイフが頭に刺さっても死んでいなかった。

 

「お前さ、マジの不死身ってどんなもんか考えたことある?」

「……怪我したら治って便利でしょうね」

「あー、まぁそうなんだけど。悪い面もあるわけよ」

「悪い面?」

「周りが、どんどん死んでいくんだ」

 

社長は、急に淡々とした口調になった。

 

「すっげ寂しいんだよ。ひとりぼっちになるって」

 

好いていた者も嫌いだった者も、等しく社長を置いて逝く。

病気、飢え、寿命。

死因は様々だが、結局は残されてしまう。

不死身ゆえ、誰とも同じ時を生きられない。

そんな人生が何百年も続いているのだそうだ。

 

「そんな長生きしてるように見えませんけどね」

「一口に『不死身』っつっても、体は老いてくんだよ。だから、健康で健全な素体見つけて引っ越してくのさ。ヤドカリみたいに」

 

それでカリンに対して健全がどうとか抜かしていたらしい。

 

「ちなみにラスカルくんちゃん、いるだろぉ」

「ラッさんが何スか」

「あいつ閉じ込めたのも、引っ越し先候補だったからなんだよ。ダチ殺したらぶっ壊れてそれっきりだから、廃棄しようとしてんのにしぶといのなんのって」

「……。うちの妹の件は?」

「あぁ、それな」

 

大した問題じゃないといったふうに、社長は話す。

一ヶ月ほど前のこと。

社長は監獄を散歩中、たまたま通りかかった独房の前で、妹に出会ったという。

彼女は狂っているため、自分に話しかけた社長を親と勘違いした。

名前をくれるなら何でもすると言うから、それを利用していたと。

そういう訳だ。

 

「俺は何しても許されるんだよ。可哀想な人間だから」

 

社長はそう締めくくった。

 

「はあ、そうッスか。お疲れ様です。じゃ」

「えっ」

 

社長の話を聞いていたのか疑わしくなるほどあっさり受け流して。

カリンは妹の腕を引いてその場を去ろうとする。

 

「おい、俺様の話聞いてた?」

「一から百までばっちりと」

「じゃあわかんだろ。可哀想な俺様のために、お前の身を捧げろよ」

「いや意味わかんないんで」

 

社長はただただぽかんとしている。

こんな事になるとは予想もしていなかったようだ。

カリンは最初こそイライラしていた。

しかし社長の勝手が過ぎる言い分、理屈にすらならない理屈に、呆れてしまった。

度を越した呆れによりいつも以上に表情がない顔を向けると、まくし立てた。

 

「あんたが可哀想だからってうちらになんの関係があるんスか。ってか可哀想って言葉、ほとんどの場合ただの悪口ですから。馬鹿にされてるだけですから。そんな事にも気づかず何百年生きたとか、ほんと『可哀想』ですね」

「馬鹿に、されてる……?」

 

その目は、同情どころか興味の欠片もなく。

社長は悟った。

彼女は自分と相容れない存在だと。

だが、わかっていても諦めたくはない。

この娘が欲しい。

健全で、健康で、才能もあるその心身が。

 

 

「やっ……離して、お姉ちゃん!あたし名前まだ貰ってないです!」

「お姉ちゃんは今すぐ帰りたいので、ご同行願います」

「嫌ッッ!!」

 

カリンが引きずってでも連れて帰ろうとするが、妹は力の限り抵抗する。

意地でも偽の両親から離れないつもりらしい。

 

「っ……」

 

妹が滅茶苦茶に振り乱した腕。その爪先が、カリンの目元に当たる。

カリンの顔に三つほどの爪痕を残し、更には結構深手らしく、血が滴り落ちていた。

傷に意識がいった姉の手から逃れて社長のもとへ舞い戻る。

今度は彼女が腕を引っ張る番だった。

 

「ねぇ、早く名前、つけて?ねぇ――」

「……うるせぇな」

 

社長の声に、妹が固まった。

声が低い。怒っている。パパとママに、また怒られる。

水をかけられる。怒鳴られる。物を投げられる。……妹のあたしだけ。

 

「あぁ、名前、な。名前。そんなにつけて欲しいかよ、あん?」

「は、い……お願い、します……」

「じゃあ」

 

社長は妹の髪をわし掴んで、耳元で命じた。

――姉貴を、殺せ。

 

その時ようやく、妹は違和感を抱く。

両親は、双子のいらない方である妹を塵のように扱い、カリンだけ愛していた。

その両親が、「カリンを殺せ」だなんて言うだろうか?言うわけがない。

 

「……ほんとに、パパとママですか……?」

 

壊れた感受性の歯車が、動き始める。

 

「何だよ。名前いるのかいらねぇのか、どっちだ」

「っ、いります!」

「じゃあちゃっちゃと殺ってこい。虫の息ぐらいでいいからな」

 

妹の背中を蹴飛すようにして無理くり送り出す。

傷の痛みが落ち着くまで経過を観察していたカリンは、二人の様子を見、言う。

 

「あーーーだっる。社長さんあんた自分じゃ何もできないんスね。ボンボンですか」

「パパとママを悪く言うと許しませんよ、お姉ちゃん」

 

得物の巨大釘の先端を、まっすぐ姉の鼻先に向ける。

対するカリンは、スカートのポケットに手を突っ込む。

このポケットは改造されており、どんなに質量のあるものでも関係なく出し入れ可能になっている。

まさぐる内に出てきたのは、あの巨大ハンマー。

 

「あんたもいい加減に目ぇさませってんです。いつまでも自己中な勘違いしてんじゃねーぞコノヤロー」

「何言ってるか全然わっかんないですねっ!!」

 

妹がカリンに向かって、釘を大きく振りかぶる。

それを皮切りに……姉妹喧嘩《ころしあい》が、始まった。

 

 

しないで

無法地帯のような国においても、警察は一応存在する。

地下監獄がある時点で、それは確定事項だ。

ほとんど体裁を整えるためではあるが、無法のもとででも市民を犯罪から守ろうとする者も、少なからずいるのである。

そしてここにもひとり、罪なき市民を傷つけた罪で収監された犯罪者が。

 

「よぅ」

 

牢の外から、男の低い声がした。

影からひょこっと出てきたのは、時代錯誤甚だしい燕尾服の男。

 

「……ベルトさん」

「冷やかしに来ちゃった

 

悪戯っぽくぺろりと舌を出してウィンクするベルト。

対してパティは会釈を返す。

 

「会いに来てくれたんですね。ありがとうございます」

「話聞いてた?冷やかしだっての」

「そうですか」

 

パティはにこにこと愛想良く笑顔を見せる。

お茶を出しかねないような和やかな雰囲気だった。

ベルトの口元が一瞬引きつった。

が、悟られないようにうまく取り繕って、彼は鉄格子に寄りかかる。

 

「なぁ、あんた俺に何か言うことあんべや」

「何でしょうか?全然心当たりがないです」

「俺のこと撃っただろ」

 

蛇のような金色の瞳に不穏な光を宿し、パティを睨みつける。

 

「あぁ……謝って欲しいんです?」

「欲しい欲しくないじゃなくてさ。それが礼儀だろ」

「謝りませんよ」

 

優しい口調はそのままに、きっぱり言い切った。

 

「謝る必要は無いと思います。むしろ貴方が謝った方がいいんじゃないでしょうか」

「なんで」

「貴方は自分の都合で他人様を傷つけて貶めて、困らせましたよね」

「俺の場合、全部わかっちまうんだからしょうがねーだろ」

「いいえそれは違います。貴方は、私を傷つけたいだけだから。そのために手段を選んでないだけでしょう」

 

それを聞いたベルトが、鉄格子を蹴りつけた。

やかましい音が立てられ、監獄内に反響する。

パティは身動ぎもしなかった。

 

「お前、黙っとけよ。もっと傷つけてやろうか」

「どうぞ。私を貶して穢して、次はどうするのか楽しみです」

 

依然として笑顔のままながら、意外なほど挑戦的な台詞。

その一挙一動が気に入らなくて、たまらなくて。

牢を閉ざしている鍵穴に、ベルトは手に持ったステッキの先端を突っ込んだ。

数回細かく捻ったところ、呆気なく鍵は開いてしまった。

ずかずかと牢の中に足を踏み入れる。

 

「わあ、鍵開けて下さったんですね。ありがとうございます」

「黙れよ」

 

パティのスーツの胸ぐらを掴み上げて、ベルトが凄む。

明らかに、彼女は怯えていなかった。

 

「泣けよ」

「どうして泣く必要があるんです」

「散々嫌がらせされたんだから悲しいはずだろ」

「たしかに悲しいけど、平気ですよ」

「いいから泣けよひっぱたかれてーのか!!泣いて、さっさとその気持ち悪い目やめろよ!もう俺のこと嫌ってくれよ……!」

 

心から苦しそうな顔でベルトは言う。

パティを突き飛ばし、ふらふらと彼女から距離をとる。

四畳ほどの独房。

その片隅に、膝を抱えて座り込んだ。

 

「何なんだよ。あんた本当、気持ち悪ぃーよ。全然理解できないんだけど」

 

理解できない。

駄々をこねる子供を根気よく諭すようなその態度が。

こんなに嫌がらせをしてるのに、自分を見捨てないでくれるその優しさが、心底気持ち悪かった。

 

「なぁ……面白くもない話、してやろっか」

 

……昔昔。

あるところに、若い警察官がいた。

その男には妙な能力があり、目を見れば人の心を読めた。

そのせいで周囲から気味悪がられ、彼はいつも孤独だった。

だからこそ、その能力を困っている人のために使おうと思ったのである。

けれど残念、警察組織は金と権力至上が渦巻く世界だった。

男は失望しながらも、懸命に人助けに勤しんだ。

そしてある日、男は事件の捜査に関わった。

大富豪の屋敷で起きた殺人事件。

アリバイ的にも物証的にも、明らかに犯人はその屋敷の主人だった。

しかし、疑われたのは屋敷の主人と愛人関係にあったメイド。

 

「もう泣くなって〜」

「えぇ……もう泣かないです」

「そう言いつつ号泣してんじゃん」

 

彼女は心優しい女性だった。

疑われたのも彼女が愛人だったからというだけで、人格自体は非常に善良。

目を見ればわかる。

彼女は誰も殺したりなどしていなかった。

 

「あんたさ、もうあの豚野郎と別れた方がいいぜ」

「でも……」

「カミさんが相手してくれねーからって構ってやってるうちに情が移っちまったのね」

「はい……なんだか、可哀想だったから。身寄りの無い私をメイドとして迎え入れてくれた方ですし……あれ?なんでわかったのかしら」

 

つけ込まれていることにまるで気付いていない。

それほどまでに優しすぎる、優しさをこじらせた女だった。

 

「なぁ、俺さ。エスパーなんだぜ」

「えすぱー?」

「そう。だから安心しな。あんたの疑いは、俺がまるっと晴らしてやんよー」

 

そう言ってやれば、彼女はふわりと表情をほころばせた。

その後、見事に事件は解決したのだった。

 

「素敵なお話ですね」

「あぁ、その女が自殺しなければな」

「えっ……」

 

事件は解決した。させられた。

屋敷の主人が、愛人である彼女を売ったことによって。

主人は「その女が金目当てで」とか、「よくも妻を」とか、豚のように喚いていた。

見事な大根芝居だった。

彼女は庇ってやろうとしていたのに、卑しい豚は裏切った。

 

「誰が見ても明らかな濡れ衣だったよアレは。笑っちゃうぜ」

「……どんな亡くなり方を?」

「そこらにあった刃物で、喉ぶっ刺した」

 

な、面白くもねーだろ。ベルトはわざとらしく、からからと笑う。

 

「……ま、そのエスパー警官って、俺なんだけどさ」

「言われなくてもわかりますよ……」

「その女が死ぬ時さ、俺そこにいたんだよ。一生懸命止めたんだよ。でもさ、言われたんだ」

「何て仰ったんでしょうか」

「『ありがとう』」

 

それは大きな傷として残った。

ありがとうと言われることなんて何もできなかった。

自分だけは全部わかっていた。

知っていた。

なんとかしてやれたはずなのに、助けられなかった。

 

「もしかして、囚人になった理由って……」

 

ベルトはそれについては何も言わなかった。

その話を聞き、パティは泣いていた。

憎らしいほど透明で、綺麗な涙だった。

他人の、しかも散々自分を痛めつけた男のために涙を流す様に、ベルトの心は万力のごとき力で締めつけられる。

 

「何かあるだろうとは予想してました。けどそんなことがあったなんて……話すのお辛かったでしょうに、ありがとうございます……っ」

「そんなだから俺はあんたが嫌いなんだよ」

 

ベルトは努めてパティから目をそらした。

 

「優しい奴はやたら他人に感謝する。俺感謝されることなんてしてねーのに」

 

ベルトは思う。

自分はエスパーだけど、いつも役立たずだと。

優しい誰かを助けたかったのに、結局誰も助けられない。

もう誰も助けたくない。

誰かの優しさが、自分の無力さ故に潰されてしまう。

優しくされる理由が分からない。

分からないから怖い。

怖いから助けたくない。

だからいっそのこと人に嫌われたかった。

けれど彼はどうも子供じみていて、いざ見限られるのは寂しかった。

 

「じゃあどうしてここに来てくれたんですか?」

「冷やかしだっつの」

「私をいじめたのを後悔して、助けに来てくれたんでしょう?」

 

パティはおもむろにベルトの傍らにしゃがみこむ。

そしてゆるゆると背中を撫でる。

まるで、ぐずる子をなだめるように。

 

「私、ベルトさんは子供っぽい人だと思ってます」

「……は?なに急に」

「きっと若い頃に囚人として社会から隔絶されたせいで、心が成長しきれていないんですね」

 

やっと貴方のことが分かりました、と嬉しそうな声がする。

鼻声まじりだからまだ涙を流しているのだろう。

彼女の目を見たくない。

きっとまた優しい目で見られる。

けれど何故だろう、無性に興味をそそられる。

恐る恐る、顔を向ける。

 

「助けに来てくれてありがとうございます」

 

その表情に、かつて自分に感謝して最期を迎えた女の面影を見た。

パティも、面影も、泣いていた。

だが微笑んでいた。

誰も彼も優しいばかりで、不甲斐なくひねくれたベルトを責めてなどいなかった。

 

「…………なぁ、エスパー手品見たい?」

「手品、ですか?」

「ほれ」

 

ベルトが急に握り拳を突き出してきた。

次の瞬間、ぱっと拳から一輪の赤い薔薇が飛び出す。

 

「わあ……!すごいです!」

「まぁ、俺手品とかこれしかできねーんだけど……ごめんな」

 

ベルトが、パティに対して初めて謝った。

パティは驚きのあまりきょとんとしていたが、すぐにまたにっこりする。

 

「もっと色々見たいです」

「いや、これしかできねーって言ってんべや」

「なら私も一緒に覚えますから。もっと、たくさん手品見せていただけませんか?」

「……急に積極的になっちゃって、どったのよ。またいじめるぞ」

「い、いじめるのはダメです……!」

 

 

憎悪の空と後悔の赤

キースの意識が浮上した時、そこには誰もいなかった。

クローバーに蹴り飛ばされた拍子に、彼はしこたま頭をぶつけて軽く気絶していた。

クローバーはどこへラスカルを連れ去ったのか。

助けに行かなければ。だが武器である銃は弾切れした。

 

「……武器庫」

 

武器庫で、武器を調達しよう。

ここは監獄だし、看守たちが囚人を制圧するための武器庫があるはずだ。

勢いよく死体安置所から飛び出した。

長い通路を走り抜けながら、看板や道標なんかはないものかと辺りをきょろきょろする。

すると通路の向こうに、見知った姿を認めた。

長く艶やかな髪と少女チックな服装は見間違うわけもない。

 

「ニル!!」

 

名を呼ぶが、遠くて聞こえなかったようだ。

髪をなびかせながら曲がり角を曲がって、そのまま行ってしまった。

何故ニルがここに。

そういえばいつの間にか工場から居なくなっていた。

カリンが心配でこっそりついてきて、また迷子になったのか?

そうだ、ニルならクローバーの所在を知っているかもしれない。

 

「ニル、おい待て!」

 

手がかりを求めて、見失ったニルを追いかけていくことにした。

憎しみは、人間の持つ感情の中で最も強いものだ。

そして許すという行為は、最も難しいものだ。

 

「……どうした。俺の顔に何かついてるか」

「これは何の真似だぃ」

 

目の前に広がる光景を見るにつけ、ラスカルは顔を歪ませる。

テーブルに並べられた色とりどりのケーキ、クッキーなどの菓子類。

いきなり現れたかと思えば、こんな天国のような地獄に連れてこられ。

反応に困る。不信。その一言に尽きる。

 

「食わないのかァ?」

「あぁ」

「お前が昔よく食ってたから、喜ぶと思ったんだが。他に何が好きだ。お前のことをあまり知らないから分からない」

「知る必要ないだろう、気持ち悪い」

 

クローバーが席から立ち上がった。

ほとんど条件反射でラスカルが身を硬くし、身構える。

 

「怯えなくていいと言っただろォ。大丈夫だ、何もしない」

「きみがしなくてもぼくはするぞ。昔やったみたいにもう一方の目も潰してすっきり盲目にしてやろうか」

「そうしたければすればいい。一向に構わないぞ」

 

ここに来てからというもの、敵意の光を宿した目で彼を睨みつけ続けている。

だがクローバーは怒りもせず、酷く冷静だった。

それどころかしおらしささえ覗く表情で、ラスカルを静かに見つめていた。

ラスカルにはそれがひどく気持ちが悪かった。

 

「何なんだよ。何を考えてるんだ。また昔みたいに誰か殺そうとしてるのか」

「違う。むしろ殺されるのは俺だ」

 

ラスカルが微かに反応を示す。クローバーがそれに気付いたかは定かではない。

 

「社長……メシモノに命令された。お前を殺せと。できなければ俺が死ぬ」

「……そうかぃ。じゃあ残念――ぼくは殺される気なんてさらさら無いから、なッ」

 

ラスカルが服の中に潜ませた巨大シャボン玉棒を取り出し、振りかぶる。

クローバーは予想していたようで難無く回避した。

が、振った拍子に出た泡については予想しきれなかったらしい。

酸を含んだ泡がクローバーの身を焼き焦がす。

 

「ラスカル」

「ぼくの名前を呼ぶな……!」

「聞いてくれ。ルークのことは……」

「黙れこのクズ野郎!!お前に彼の名前を口にさせてたまるか!!」

 

半狂乱でシャボン玉棒を振り回し、泡を次々と生み出す。

元よりぼさぼさの頭は更に乱れている。曇り空の瞳はやはり憎しみに燃えていた。

大小無数の泡の群れが大量に浮かんでいる。

ラスカルがそれを棒で殴れば、クローバーに向かって飛んでいった。

想像を絶する苦痛がクローバーを襲う。

酸で身体を生きたまま溶かされる痛みは計り知れない。

普通ならのたうち回るだろう。

だがクローバーは歯を食いしばって、黙って耐えている。

 

「何で抵抗しないんだよ。痛いだろう」

「……まァ、お前はもっと痛かったはずだしなァ」

「よく言うよ。自分がやった事なんて、何も覚えちゃいないくせに」

「……殴ったし、蹴った。作ってくれた食事を投げつけた。首も絞めた。真夏に長時間外に出してたこともある」

 

記憶とともに寄せては返す感情。

それがどんな感情なのか、霞みがかった頭では判別しきれないけれど、覚えてはいる。

瀕死で捨てられた先で拾われたけれど、毎日毎日、意味も無く虐待された。

それでも笑顔でそばにい続けた。

拾ってくれて、命を繋いでくれて、恩を感じていたから。

それが間違いだった。

 

「……ッぐ」

 

服が焦げ穴だらけになって、血が滲む頃。

クローバーがとうとう片膝をつく。

声を張り暴れた末、あまり体力のないラスカル側も疲れてきてしまい、少し大人しさを取り戻しはじめた。

 

「そろそろ俺の話を聞いてくれる気になったかァ?」

「話って、何の。ぼくを殺す許可でもしろってのかぃ」

「お前は絶対殺さない」

 

陰鬱な声。だが、意志の籠った声だった。

 

「絶対、絶対に……殺したくない」

「なんでだよ!!ぼくはいいのに何でぼくの友達は殺した!?」

「俺だって殺したくなんかなかった」

「はぁっ……?言い訳する気か、このっ……」

 

もう一度腕を振るおうと改めてクローバーの顔を見た。

ラスカルは思わず、憎しみによる衝動が鎮まった。

辿る記憶の奥底で、見た覚えのある目だった。

 

「なんで」

 

震える声で言葉を紡ぎだす。

 

「なんできみはいつもそんな目をしてるんだぃ」

「……鏡が無いからどんな目だかなァ」

「助けて欲しそうな目だよ」

 

思い出すのは、子供の時分。

親に酸をかけられ、ゴミ捨て場にて死を待っている時、彼は現れた。

全身黒の服を纏って大きな刃物を引きずっている姿。

一目見て、恐ろしいと思った。

けれどその目は、ひどく辛そうで、悲しそうで、誰かの助けを願っていた。

 

「きみはいつも苦しそうで、助けを求めるような目をしてる。どうしてだぃ。きみは地位も金も、あんな美人の恋人もいるじゃないか」

「その恋人が……ニルギリスが、辛いからな」

 

ラスカルは不思議に思う。

ニルが辛いとは何の事だろう?

いつもいつも、自由奔放に生きて楽しそうに見えるのに。

 

「あいつ、男嫌いだろォ」

「……みたいだね」

「何故だか知ってるか」

「知らないし、聞いたこともないかもね」

「ニルギリスは、十四歳の時に誘拐された」

「誘拐?」

「それで乱暴された。半年後に俺が助けに行くまで、ずっと」

 

だから今の男嫌いなニルがいる、とクローバーは締めくくった。

……乱暴。

ぼかした表現であるが、その意味が分からないほどラスカルは子供ではなかった。

ニルにそんな過去があったとは知らなかった。

 

「そしてその半年間、俺が何をしてたか。答えは、ダチを作って遊んでた。間抜けな義妹もどきも一緒に。お調子者でのんきで、馬鹿な連中だった。だが大切だった。ニルギリスと同じくらい」

 

お前達が、大事だったのに。

……言いながら、半ば倒れるようにうずくまった。

クローバーはずっと悔やんでいた。

ラスカルを閉じ込めたこと。

ルークを殺してしまったこと。

二人の人生をぶち壊してしまったこと。

自分だけ、のうのうと生きてきたこと。

全部謝りたかった。

この十一年間、ずっと。

 

「ニルを攫ったのは、誰だぃ」

「社長の野郎だ。そしてニルギリスを助けるために、俺はルークを殺した」

 

辛かった。

長年後悔に苛まれていたクローバーも、それを聞いたラスカルも。

ラスカルは、全てクローバーのせいだと思っていた。

だが今の話を聞いて、誰を恨めばいいのかわからなくなった。

社長を恨めばいいのか?

否、ルークの首を落としたのはクローバーであることに変わりはない。

ニルを恨めばいいのか?

否、彼女を巻き込むのはお門違いだろう。

 

「だから殺すつもりは無い。ただ、ひとつ伝えたいことがある」

「……聞くだけなら」

 

クローバーがゆるゆると顔を上げる。

さっきまで憎悪に染まっていたラスカルの頭は、やるせなさでいくらか余裕が取り戻っていた。

今ならば聞いてくれないことも無いだろうと、彼は勇気を振り絞る。

 

「……俺、は」

 

クローバーは必死になって声を絞り出そうとする。

だが肝心の言葉が出てきてくれない。

彼は、ただ伝えたかったのだ。

後悔とともに温め続けた、孵化しそうな気持ちを。

 

「……、……ッ、……ッッ」

 

だが、ダメだった。

言えない。

口が裂けても言うべきではない言葉だ。

彼女の最愛の友人を殺害しておいて、一番心に傷を負わせることをした後で、そんな無責任なことはできない。

 

『おい、クロちゃぁーん』

 

ねっとりした声が降ってくる。

社長だ。

見上げると、天井の隅にスピーカーが設置されている。

 

「……何か」

『お前なにやってんの?そこに居んだろぉ、ゲテモノ。ちゃっちゃと殺っちまえよ』

「お断りさせていただきます」

『……あぁ、そうか。やっぱあの話マジだったんだぁ〜?お前そいつのことが』

「うるせェ黙れ、クソ上司。殺らねェっつってんだろうが」

 

クローバーが社長に反抗した。

上司が絶対の社畜にあるまじき言動に、社長の声が止む。

 

「俺を始末するならすればいい。だがこいつだけは絶対に守り抜く。俺はもう後悔なんて真っ平御免だ。次に誰か殺るとしたら、それはテメェだ馬鹿が」

『……ふぅん、そう』

 

じゃ、もーいいや。

そう聞こえるや否や、部屋を閉ざすドアが荒々しく蹴破られた。

複数人の黒服の男達が押し入り、クローバーとラスカルに襲いかかる。

しかしながら、ラスカルは疲弊しきっている。

一方クローバーはというと得物が手元にない。

 

「ぐえっ」

 

黒服のひとりがラスカルの首をわし掴み、持ち上げた。

すぐさまクローバーがその黒服の首を殴ったので、少し咳き込む程度で済んだ。

 

「げほ、あ、ありがと……」

「馬鹿野郎それどころじゃねェ」

 

じりじりとにじり寄ってくる黒服集団。

クローバーは咄嗟に部屋の中央に存在するテーブルの上から、ケーキ切り分け用のナイフをひったくった。

ラスカルを背にかばいながら威嚇するが、効果の程は望めない。

 

「……くそッ」

 

逃げようにも出入口はひとつ。

背後にはドアこそ無いが、小さなダストシュートだけがある。他に逃げ場は無かった。背に腹はかえられない。

 

「わっ……ちょ、なになにっ」

 

ラスカルを抱き上げ、更にダストシュートを開けるクローバー。

 

「え、ちょっとまって、ぼくをゴミか何かと間違えてないかぃ?さすがにこれはぼくも怒っ……」

 

まくし立てるラスカル。忙しなく動く小さなくちびるに、クローバーはそっと口付けた。

触れるだけ。それ以上は何も無い。清らかな口付けだった。

ラスカルが目を見張る。初めての経験だった。

口唇はすぐに離れた。クローバーは手早くダストシュートにラスカルを突っ込む。

 

「クロっ……!!」

「生き延びて、幸せになれ」

 

ダストシュートの暗闇に包まれる寸前。

目に映ったのは、悲しげな、それでいて満足げな、憎たらしい男の顔だった。

 

 

「あぁ、うん、そうそう、クローバーは処刑部屋に連行な。……ったくあの幽霊野郎、何が守るだ。腹立つぜぇ……」

 

黒服からクローバーを捕縛したという報告を受け、社長はぶつぶつと独り言ちる。

片手間に処刑命令を投げれば、黒服のひとりが頷く。踵を返してドアへ向かう。

しかしドアへの道すがら、急に飛んできた釘に頭を貫かれ、痙攣しながら倒れ伏した。

 

「あーあー。すっげえ、派手にやってんなぁあいつら」

 

社長が感心する。どこかわくわくとした様子である。

視線の先には、遠慮なしに殺し合う双子の姉妹。

 

「おーう、そろそろ疲れてきたんじゃね?どっちか殺す手伝いしてやろっかぁ」

「黙らっしゃい」

 

ぴしゃりと、双子の姉・カリンが拒絶する。

大きな釘を持った妹が、蜂が針で乱れ突くように猛攻を仕掛ける。

 

「あー怖い怖い。先端恐怖症になりそうッス」

「それなら心療内科にかからなきゃ、ですねっ!」

 

カリンはハンマーを上手く振り回してかわしていく。

攻撃をいなされるばかりの妹は後手だった。

妹がちらりと社長を盗み見た。

双子の少女を闘わせておいて、笑っている。趣味の悪い奴である。

 

「お姉ちゃん、あれ、誰に見えます?」

「逆にあんたがどう見えてるかが重要なんですけど」

「パパとママ……ですか?」

「違いますよ。どっかの馬鹿チビ野郎です」

「そんな……そんなわけ、ない!!!」

 

妹が渾身の力を込めて、釘を突き出した。

カリンはハンマーの柄の部分で受け止める。

 

「!」

 

カリンの顔に向かって妹が唾を吐きかけた。

一瞬、力が緩んだ隙に、カリンが押し負けた。

重力のまま、顔目掛けて釘が降ってくる。

咄嗟に首をひねって避ければ、頭ギリギリの所に釘が刺さった。

 

「……!」

 

カリンは改めて至近距離で妹の表情を見た。

妹は、明らかにさっきより意識がはっきりしていた。

目にも妙なとろみは無く、焦点も合っている。

……正気に、戻りかけている。

 

「っ!?」

 

不意打ちで足払いを仕掛ける。

注意力散漫であろう妹だ、床に転がすことは容易だった。

上手く決まりすぎたようで妹は背中をしたたかに打ち、悶絶している。

すかさず、馬乗りになるカリン。

 

「一緒に帰りましょう」

「はぁ!?どこにですか!」

 

暴れる妹の手首を力一杯掴んで、押さえ込む。

その暴れっぷりは、狂人というより駄々をこねる幼子だった。

 

「あたしに帰れる場所なんて無いですよ!!全員殺しちゃいましたもん!」

「お姉ちゃんという居場所が残ってます」

「くだらない事言ってんじゃねーですよ!あんたが一番あたしのこと邪魔だと思ってたくせにっ」

「なんの話ですか」

 

ぎゃあぎゃあと喚きながらも、暴れ疲れたのか、次第にただ息も絶え絶えにがなるだけになってきた。

加えて、負けが決まった自分への不甲斐なさから涙も溢れる。

 

「だってっ……お姉ちゃん、昔は一緒に笑ってくれたのに、いつからか笑わなくっ……あ、あたしが一緒にいると、辛かったんでしょ……!?」

 

むせび泣きながら妹は訴える。

カリンは常に無表情で、笑わない。それに起因するのは幼い頃の話。

妹がひとり辛い思いをしているのに、ひとりだけ幸福な自分が笑っていいのか、と。

考えているうち、いつしか表情が消えてしまった。

妹の為だったが、逆に彼女を苦しませていたらしい。

 

「……ごめんなさい」

「はっ……?何を、あやまって」

 

妹がカリンの顔を直視して……驚いた。

 

「……どうですか、うまく笑えてます?」

 

目に映るのは姉の不器用な笑顔だった。

長年笑ってこなかったため、表情筋が凝り固まっているのだろう。

口元を不自然に釣り上げているだけのものではあったが、その奥に滲む慈愛のかけらが全てを補う。

 

「あんたが気にするなら、また笑います。だから、もう大丈夫ですよ」

 

姉からの愛を糧に、洗脳じみた狂気が、解けてしまう。

現実に戻りたくない一心で、妹が再び暴れる。

 

「ど、どいてください!お姉ちゃんも殺さなきゃ、パパとママの命令聞かなきゃ」

「まだそんなこと言ってんですか。あれが本当にうちの馬鹿両親に見えてるんですか」

 

カリンに無理くり顔を向けさせられ、『両親』の方を見た。

彼女の目には、小さな子供が意地悪く笑っているのが映っている。

……違う、両親には見えない。だが見えるふりをしていたい。

望みを叶えて愛してくれる存在だと思い込んでいたかった。

 

「今まで、カリンはあんたを守ってきました。でももうそろそろ、しっかり自分の頭で考えなきゃいけません。お姉ちゃん手伝ってあげますから、ね」

 

姉さえいれば、何とかなると思う。

だから、そろそろ正気を取り戻さなければ。

 

「あたしは……、名前が欲しいだけです。そのためなら何でもします」

「姓名判断はお姉ちゃんがしてあげます。ずっと考えてたんですよ」

「……ほんとですか?」

「任せてください。世界一可愛い名前つけてあげますよ」

 

ずっと押さえつけていた手首を解放する。妹が暴れることはなかった。

 

「じゃあ、お姉ちゃんにつきます」

 

妹が屈託なく笑った。

 

「おい、おいおいおい、なーにコロッと寝返ってくれてんの?」

「えへへ、すいません偽パパママ」

 

カリンに助け起こされながら、妹がぺろっと舌を出す。

仲睦まじげに手を繋いでいる双子を目の当たりにし、社長が忌々しげに舌を打つ。

 

「ったく使えねぇな、どいつもこいつも。著しい人材不足だぜぇ」

「愚痴はスタッフサービスにどうぞ」

「まーーったく何でこうなるかね。俺はただ目的の手段を選んでないだけだぜ?」

「あんたまだカリンの体が欲しいとか思ってるんスか?」

「あったり前」

 

そのために全部用意してきたのだと。ひどく誇らしげに社長は言う。

社長は死ねない体である。

死ねないが故に死にたくない。

だから体を取っかえ引っ変えして命を繋いでいる。

あらゆる人々を巻き込んでまで生き延びようとする醜悪さ。

 

「化物じみてる」

 

瞬間、社長が凍りつく。

 

「……あ?何つった、今」

「化物みたいです、あんた。人間と呼ぶには気持ち悪すぎる。だから誰もついてこないんですよ、きっと」

 

社長の顔から血の気が引く。同時に頭には血が上っていく。

遠目にもその変化は顕著だった。

社長が、ばっと腕を振り上げる。

すると今まで居ないも同然だった黒服たちが、一斉に銃火器を双子に向けて構えた。

 

「……俺は人間だよ、誰よりも」

「なんですか?化物って言って欲しくなかった感じですか、化物さん」

「カリーナ。お前の肉体は絶対に俺が手に入れる。……けどまぁ」

 

社長の愛らしい顔が、ぐしゃりと握り潰されたように、これまた醜く歪んだ。

 

「多少傷が付くくらい、別にいいよなぁ?」

 

社長によって撃ての合図が出されるまさのその時。

 

「ストップ」

 

制止の声とともに何か刃物がひとつ降ってくる。見ると、医療用メス。

メスは社長の足元に落ちて、小気味の良い音で刺さった。

 

「誰だぁ?」

 

何者かが待ったをかけた。声は上、天井から聞こえた。その場にいる全員が一斉に顔を上げる。

天井には豪華なシャンデリアが吊り下げられている。

シャンデリアの上には人がいた。

長い長い髪と乙女チックな服。

ニルだ。

 

「ダメよ、この子達を殺しちゃあ」

 

双子と社長を隔たる壁となるように、間に降り立つ。

かなり高所から落ちてきたが、その重力をものともしないのはご都合主義と言うやつか。

 

「ニルさん……いつからいたんですか」

「ついさっきよ」

「何がどうなったらシャンデリアから登場ってことになるんですか?」

「知らないわよ」

 

歩いてたらいつの間にかここにいたの、とニル。

大方、また盛大に迷子になったのだ。

 

「それより、待ってたわよ。カリンの妹」

「はぇ?あたし?」

「あんた正気に戻ったんでしょ?なら話があるわ」

「待ちたまえですニルさん。うちのハニーに話しかけるならカリンを通してからに――」

 

カリンの声が唐突に止まる。

彼女は、喉元を押さえていた。

その手に覆われた滑らかな肌には一筋の裂傷が刻まれ、血が溢れる。

 

「ゴチャゴチャうるさい。黙ってなさい」

 

ニルだ。

ニルが手に持ったメスを一振り、カリンの喉を切り裂いた。

呼吸は苦しいができる。

だが声が出ない。

声帯を傷つけられたらしい。

喉を両手で押さえるにあたって、カリンは武器を取り落とした。

軽々振り回していたがやはり相当重いらしく、落ちた時にはとんでもない音がした。

 

「お姉ちゃっ……」

「ねぇ、あんた」

 

片膝をついて足元にうずくまった姉に寄り添おうとする妹。

だがニルはそれを許さない。

妹の胸倉を引っ掴んで、ニルは尋ねる。

質問はひとつ。

たったひとつだけ。

 

「何を見たの?」

 

ーーーー

ーーーー

「うお、何かすっげー重い音聞こえた」

 

カリンの取り落としたハンマーの衝撃音は、ちょうどワンフロア真下の辺りにいたベルト達の耳にも届いていた。

地下だからというのもあるだろう、とにかく響く。

 

「何でしょうか、この上からみたいですけれど」

「ってか、ここ他に誰かいるのけ?」

「えぇ。副社長と、社長がいらっしゃってて……あ、あとニルさんも来てます」

 

あぁ……と。ベルトは感嘆を吐く。

前回クローバーがキースと一戦交えたことを、ベルトは知っている。

だからクローバーが居ることはごく自然に思う。

その上司たる社長がいるのもそう不思議ではないだろう。

更にニルもいることも、ベルトには予測の範疇だった。だが。

 

「……ベルさん、どうしました?」

「あ?ベルさん?」

「あ、えっと……服飾品のベルトって、私ちょっと苦手なんです。だから親しみを込めて、ベルさんって呼ぼうかなって」

 

ダメですか……?

拒まれるか不安なのだろう。

黒目がちな瞳を潤ませてベルトの顔を上目で見つめる。

可愛い。

ベルトは素直にそう思う。

けれど彼女に悟られないようポーカーフェイスを貫いた。

 

「じゃああんたはベルちゃんな。俺の母国語で『美女』」

「美女……!?あ、あわわ、照れますぅ……」

 

パティがはにかんでいるが、彼はそれどころではなかった。

彼の頭は、嫌な予想が渦巻いていた。

 

「なぁ、あんた武器どこいった?」

「仕込み日傘ですか?牢の外の物置スペースにあるはずですよ」

「ちょい待ってな、取ってくるわ」

「急にどうなさったんです?」

 

ベルトは多くは語らなかった。

が、どこか緊迫感の滲む顔つきだった。

 

「嫌な予感がする」

 

 

――――

――――

目の前に、無数の黒服の軍団が居た。

彼らはどれも青白い肌をしていて、まるで生気がない。

一様にサングラスをかけているため全容は分からないが、よく似た顔をしているように見えた。

サングラス奥で目が合ったと思った瞬間、黒服達はキース目掛けて走りだす。

 

「うっわ……ッ」

 

全速力で来た道を駆け戻る。

連れてかれた仲間を連れ戻そうとして。

武器庫を探して。

他の仲間を見かけて追いかけて。

かなり急勾配で目標が変わりながらも、今に至る訳だが。

キースは弱い。

しかも今は丸腰だ。

孤立無援で、どうなるとも思えない。

 

「うおっ」

 

逃げている途中、道に転がっていた何かに躓いた。

何か大きな塊のようなもの。

敵の大軍に追われ余裕が無いながら、キースは律儀に一瞬足を止めて、その何かを確認した。

 

「……!?あらいぐま!?」

 

正体はラスカルだった。

また眠っているのかと思いきや、抱き起こしてみれば、頭から大量に出血して気絶しているだけだった。

何があった?クローバーにさらわれた後、あいつに何をされた?

問い詰めたいことだらけだった。

とにかく揺り起こそうと試みるも、頭の傷はかなり深いようで起きる気配がない。

 

「……ッ」

 

そうこうしているうちに、黒服軍団に追いつかれた。

連中はじりじりと間合いを詰めてくる。

銃は弾が尽きている。瀕死の味方もいる。

万事休すか?いや、ダメだ。

諦めたら死ぬだけだ。今まで散々人を殺めてきた自分だから、死んでもきっと地獄に堕ちるだけだろう。

それはまだ覚悟が決まっていない。

死ぬのはまだ先がいい。

 

「……!!」

 

そうだ、ラスカルの武器を使おう。

あのシャボン玉は酸だ。

触れるだけでも相当な苦痛を伴うはずだ。

あれでこの場を切り抜けよう。

ラスカルを抱き上げて、服の中をまさぐれば……手応えがあった。

シャボン玉棒だ。一気に引き抜き、軍団に向かって構える。

 

「おらぁッ」

 

片腕で一振り二振り。すると見事に巨大なシャボン玉が作り出される。

それを野球の要領で殴って飛ばせば、酸の泡達は黒服共に吸い付き、溶かした。

 

「ギイイイイイイ」

 

数十人分の金切り声が上がる。

その声は大層おぞましいものだった。

苦しみのあまりのたうち回る黒服軍団。

暴れた拍子に、サングラスが落ちた。

顕になった彼らの顔に、キースは目を見張る。

 

「……あらいぐま。おい、生きてるか」

 

焼け焦げゆく黒服軍団を尻目に、ラスカルに声をかける。

返事は無い。

ラスカルが簡単に死ぬとは思わない。

が、このままでは本当に危ないかもしれない。

やはりこのままニルを追いかけるべきだ。

ニルは曲がりなりにも医者だし、仲間である。

ラスカルを見殺しにするはずはないから。

キースはラスカルを抱えたまま、もう一度走り出した。

 

 

 

――――

――――

声が、出ない。

ニルさんに、仲間に、喉をかき切られた。

裏切られたのか?目の前の光景が信じられない。

信じたくない。けど疑いようもない。

出血のせいか足に力が入らない。けど動かなければ。

さもなくばあたしの妹が、殺される。

 

「見たか、……って何をです?」

「とぼけないでくれる?あんた私の金庫から何か盗んだでしょ。なら見たはずよ」

 

妹は混乱しながらも、記憶を辿る。

姉になりすました時、ついでに金目のものを盗もうと工場の全居室を回った。

その際、たしかにニルの部屋には入った。

ぬいぐるみが随所に置かれた、女の子のいるような部屋だった。

部屋の片隅に、大きめの金庫があった。

姉ほどではないが、手先が器用なのを利用して、見事金庫を開けた。

 

「……あ」

 

妹は思い出した。

あの時見た金庫の中身を。

金庫に納められていたのは、意外なことに金ではなかった。

あったのは大量の紙束。

手紙である。

 

「手紙……でした」

「思い出したのね。そう、手紙。ラブレターよ。で?内容は見たのかしら」

 

ニルは尋問しながらもメスを持ったままである。

彼女を刺激しないようゆっくり慎重に、首を左右に振る妹。

ラブレターを見られたか確認したいがために、同僚の喉を切ったらしい。

動機としては些か異常ではないだろうか。

妹は更におかしなことに気付く。

 

「ラブレター、なんですよね?あれ」

「そうよ。私が最も愛する男性への気持ち」

「でもそれならあの宛名、ちょっと変じゃないです?」

 

ニルの美しい紫眼が、すっと細められた。

 

「トオヤマシズカ、って誰――」

 

ふと、下腹に痛みが走る。

同時に何か違和感を覚えた。

局部に視線を落とす。

ニルが握る銀色に光るメス。

その柄だけが、妹の腹から突き出していた。

 

「ーーーーー!!!!!!」

 

一部始終をずっと見ていたカリンの、声にならない叫びが上がる。

妹の腹からメスが引き抜かれた。途端、鮮やかな赤が溢れ出ていく。

妹は少しの間呆然としていたが、すぐに膝から崩れ落ちる。

出血によって、脚の力が抜けてしまったようだった。

 

「ぉま、え」

 

カリンが、出ない声を絞り出す。

表情などなかった顔が、今ばかりは憎悪に染まってニルを睨めつける。

妹同様、脚に力が入らない。

けれどもハンマーに全体重をかけ、力を振り絞って、無理やりにでも立ち上がった。

 

「……カリン、大丈夫?」

 

ニルは声をかける。いつも通りの声色だ。

朝挨拶する時や、世間話の相槌を彷彿させる、なんでもない声。

今し方人を刺した人間と思えないような、異常なほど『普通』の様子。

 

「そんな顔しないでちょうだい。さっきは悪かったわね。喉、痛いでしょ?後で看てあげるわね」

「……なんで……こ、んな゛……」

「何でこんな事したか?あんたの妹が私の秘密を知ったからよ。誰だって秘密バレたら怒るでしょ?」

 

至極当たり前のことであるように、淡々とニルは語る。

傷による諸々を上回る怒りが、瞬時に殺意に変わる。

数歩分先にいるニルに向かって、カリンがハンマーを振りかぶった。

 

「……!」

 

その時。

突如としてカリン、ニル、妹がいる辺りの床に異変が起きた。

ぴしぴしと音を立てて、ひび割れていく。

かと思えば、一瞬にして床が崩落した。

いち早く異変と危険に気付いたニルは、大股で後ろへ下がる。

床に大きな穴が、ぽっかりとあいた。

吸い込まれるように双子の姉妹が穴へ落ちていく。

 

「ぎゃははははは!!落ちた!落ちてったんですけどぉ!」

「笑ってる場合じゃないでしょうが。どうなってんのよここの造り。建築基準法満たしてる?」

「それ言ったら、登場がほぼ頭上からのお前の方がおかしいだろぉ」

 

気にしない気にしない。

社長は機嫌よく、くるくると回ってみせた。

 「久しぶりだなぁ、ぶりっ子クソ女」

「そうねクソガキ」

 

社長とニルは挨拶を交わす。

軽口を交わす気安い態度を見る限り、二人は旧知の仲らしい。

 

「ところでところで、ちゃんニルよぉ。お前がお探しのブツって、コレかぁ?」

 

自身の服のポケットをまさぐり、ある物を掲げる社長。

封筒と、手紙と思しき紙束。

妹が盗んだと思われていたものだろう。

ニルの細く繊細な眉根がぎゅ、っと寄せられる。

 

「何よ。あんたが持ってたの?」

「そりゃそうだ、俺様が名無しの妹の司令塔だったんだからなぁ」

「最初からそう言いなさいよね。早く返して」

「だぁーめぇ♪」

 

部屋の真ん中にて鎮座している、料理が乗った長テーブルに乗り上がった。

料理と言ってもしばらくの時間放置されていたため、せっかくの食材はかぴかぴに乾ききっている。

社長はそんな可哀想な料理達を皿ごと蹴散らし、空いたスペースにべしゃりとあぐらをかいた。

 

「トオヤマ、ねぇ。お前まだあの野郎に執着してんだぁ」

「執着ではないわ。恋よ」

「知らな。あっちは見向きもしないままもう十一年だろぉ。諦めれば?」

 

ニルは返事をしなかった。

 

「っつかお前カリーナ殺す気かよ。俺様の獲物だぞぉ」

「馬鹿言わないで。殺したかったのは妹の方だけよ」

「頼むぜぇおい、何のためにお前と組んでるかわかんねぇだろぉ」

「――おい、今何て言った?」

 

若い男の声が割り込んできた。

見れば、キースがいた。

いつの間にか開け放たれていたドアのそば。

頭から出血しているラスカルを抱いたまま、強ばった顔でニルと社長を凝視していた。

 

「おい、ニル」

 

長い髪をたなびかせて、振り向くニル。

カリンの喉を裂いた時と同じく、やはり何でもなさそうな顔をしている。

その態度に繕っている様子はまるでなく。

普通という異常性を帯びていた。

 

「キース……あんたいつからいたの」

「お前がカリンの喉切り裂いたあたりから」

「趣味悪いんじゃない。乙女の秘密の話を盗み聞くなんて」

「今そんな場合じゃねぇだろ!!何やってんだてめぇ!」

 

どかどかとニルに向かっていくキース。

しかし、その顔面に向かって、純銀製の皿が飛んできたことで、足は止まる。

意外なことに投げつけたのはニルではなかった。

では誰か。

 

「このくそが……ッ」

 

社長だ。

ふーふーと荒い息をして、愛らしい顔を歪ませてキースを睨みつける。

初対面だろうに、相当な敵意を露わにしている。

投げられた皿はキースの頬にぶつかった。

 

「いってぇな!!なにしやがんだこのチビ!!」

「何でてめぇがここにいる!!」

 

社長が叫ぶ。彼特有のねちっこい喋り方ではない。

かといって憤怒する声でもなかった。

心からの、焦燥。恐怖。それらが色濃い緊迫感溢れる声だった。

 

「あーーーもうあの幽霊野郎、使えねぇなッ!何のためにあいつに任せたと……クソッ」

 

訳の分からないことをぶつぶつ言いながら、頭を掻きむしる社長。

艶やかな黒髪が乱れ、動揺しきった心情がより顕著に見てとれた。

 

「何してるグズ兵共、撃て!!」

 

双子に向けて銃火器を構えた時のままで放置されていた黒服達に、社長が狂ったように叫ぶ。

咄嗟に、腕の中のラスカルを庇うように抱きしめてうずくまるキース。

 

「……?」

 

ところが、不思議なことに攻撃されない。

黒服達は銃を構えたまま、固まったように。一時停止した映像のように、動かない。

キースはひとつの推測を立てる。

まさか、僕は狙われない……のか。

 

「チッ、また不具合かよ」

「不具合って、人間でしょうが」

「……いや。機械だ、多分」

 

多分とは言いつつ、キースは半ば確信していた。

その根拠は、先ほど見たもの。

酸のシャボン玉に溶かされもがいた黒服達が、サングラスを落とした時、晒した素顔。

 

「サングラスの下、同じ顔してるしな。そいつら全員」

「なんですって?」

 

ニルが怪訝そうに眉根を寄せる。

あの時キースは見たのだ。

彼らのサングラスの下は、キースが知っているようで知らない人物。

過去の象徴として執着し続け、そして、ラスカルに付き添われながら断ち切った亡霊。

 

「あれはテッド・アンダーソンの顔したロボット共だ」

「テッド……あぁ、そういえばあんた錯乱して幻覚見てたわね。きっとまた幻覚よ」

 

ねぇそうでしょ、と社長を見遣る。

が、彼は視線を合わさない。

何がそんなに不安なのか、青い顔で俯いている。

それを見るにつけ、ニルは思う。

キースの幻覚でも憶測でもない、事実なのだ。

 

「……どういうこと?」

 

ニルは若干焦り始める。

 

「そんな、嘘よ。だって私ブルーノから聞いたのよ。何で話違うの?」

「お前も嘘つかれてたってだけだろぉ。今どうでもいいんだよ、んな事ぁ」

 

社長はおもむろにポケットから何かを取り出す。

長方形の、リモコン……恐らく黒服達のためのものだろうか。

ボタンをどれかをひとつ押せば、謎の不具合が生じていた黒服人形が再び動き出す。

 

「待って!私の同僚を殺さないでっ……!」

「あーん?何言ってんだぁお前」

 

銃口を向けられているキースとラスカル。

ふたりを守るべく、ニルは間に入る。

ニルは社長に内通していた。要は仲間である。

社長にとって、自分の命には助ける価値があると思ったのだ。

しかし社長は嘲笑する。

 

「お前も射殺対象だよ、ばぁか。――死ね、クズ共」

 

 

 

――――

――――

『ラスカル』

 

誰かが、呼んでいる。

 

『ラスカル。起きろ』

 

いやだ。起こさないでくれ。このままずっと眠ってたい。

起きたとして、ぼくに何をしろって言うんだ。

なんか、ぼく今、頭が痛いんだ。すごく辛いんだよ。

だからもう少し眠らせておくれ。

 

『あいつが死んじゃってもいいのか?』

 

死ぬ……?

いきなり何を物騒なことを言ってる。

だいたい、死ぬって、誰が。

気になって、頭に激痛を感じつつも目を開けた。

誰かに抱きしめられている。温かい。けど、香水臭い。

キースだ。あ、キース怪我してる。

あんまり怪我して欲しくないのに、誰がやったんだろう。

首を動かして、周りを確認してみる。

 

「……!」

 

あの、黒っぽい服の子供がいる。

十一年前にルークが死んだ時にもいた。というか、あいつが親玉だ。

そうか、あいつか、キースを怪我させたのは。

許さない。殺してやりたい。

霞みがかりつつも、ぼくの頭は沸々と怒りが込み上げる。

そうだ、守らなくちゃ。

このままだと、またぼくの大切な人が殺される。

それはいけない。動け。動け。動け!

 

「撃て!!ぶっ殺せ!」

 

非情にも射撃の号令が出された。

死を覚悟しつつも、依然として腕の中で眠るラスカルを(ついでにニルも)守ろうという意識が働き。

キースは三人分の頭を床に押し付ける。

ふと、キースは僅かに抵抗するように胸を押される感覚を覚えた気がした。

それが何かを確認する間もなく。機関銃での一斉射撃が開始された。

 

「殺れやれ、殺っちまえ!!」

 

社長の高笑いが響く。十秒、三十秒、一分。

無慈悲なる飽和攻撃は長らく続いた。

しかし弾は無限ではなく、やがて銃撃は止んだ。

硝煙の匂いとともに煙が立っている。

霧のようなそれが晴れていく様を、社長はほくそ笑みながら眺めていた。

そしてとうとう認められたものに目を見張る。

 

「……な」

 

血の海、死体。彼が望んでいたものはそこになかった。

ラスカルが、ゆらりと佇んでいた。

彼女の背後にはキースとニル。いずれもぽかんと口を開けて、放心状態だ。

よくよく見れば、ラスカルの周囲には無数の何かが浮かんでいるではないか。

小さなシャボン玉の群れだ。その中には、銃弾がまるで埋め込まれたように食い込んでいた。

 

「お前、何……ッ」

「キースに、手をだすな」

 

ラスカルが呟く。

瞬間、ぼこりとへこんだ泡玉が、食い込んだ銃弾を跳ね返した。

四方八方に跳ね返り、銃弾は元の方角へ飛んでいく。

自分が撃ち放った銃弾により、黒服達はたちまち蜂の巣になった。

そして、跳ね返った銃弾は社長の元にも。

 

「がッ」

 

ちょうど額の辺りに当たり、社長はふらりと後ろに倒れ込む。

やはり死なないようだ。被弾箇所を押さえてもがいている。

そんな社長のざまを見届けるやいなや、ラスカルはまた気を失った。

 

「あらいぐまッ!!」

 

倒れたラスカルの様子を確認するキース。虫の息ではある生きている。

とにかく今は逃げるべきだ、そう判断した。

 

「きゃあっ。ちょ、何よ!」

「うるせぇ黙ってろ!」


 いささか雑にニルとラスカルを両肩に担ぎ、キースは双子が落ちていった先……ぽっかりあいた大穴に飛び込んだ。

階下だよ全員集合

「きゃあああああ!!落ちるぅううううう」

「うるっせえ!静かにしろ殺すぞ!」

「何もしなくてもこのままいけば死ぬわよおめでとう!!」

 

真っ逆さまに、落ちる。落ちる。

絹をさくような悲鳴を聞きながらも、キースはニルと喧嘩する。

ああ、床が近づいてくる。

石造りの床に頭をぶつけた経験はないから、なんだか新鮮な脳みそが飛び出そうだ。

 

「そんなことになる前に助けますしおすし」

 

ぼふん。

やわらかな感触とともに、そんな音がした。

怪我しなかった……らしい。何故。

実際はワンフロア分しか落ちていないが、かなり長い時間落ちていたように思える。

落ちた拍子に目を回したままで混乱していると、不意に聞こえるテンションの高い男の声。

 

「いよーぅ、キースとニル。ついでにラッスー」

 

声とともにひょっこり視界に現れたのは、ベルト。それにパティだった。

 

「何で穴落ちたらお前らがいるんだよ……色々とどうなってんだ」

「あ、えっと、あの穴は私があけました」

 

おずおずと手を挙げるパティ。

 

「天井に大量の銃弾を撃ち込んで、おっきい穴あけました……すみません……」

「いや、謝ることねぇだろ」

「あ、えっと、ご、ご無事です?」

「重傷数名。見れば分かるでしょ」

 

淡々と述べながら、それとなく輪の中から距離を置いている彼女。

それとは対照的に、ベルトがずずいと輪の中心に踊り出る。

 

「お前ら俺がいなくて寂しくなかったけー?戻ったついでに助けてあげちゃったぞぅ」

 

妙にテンションが高いベルトがフラメンコを踊っている。

キースが怪訝に思っていると、隣からパティが咳払いをひとつ。

 

「ベルさん、皆さんに言う事、あるでしょう?ちゃんと言いましょうね」

「あぁー……うん、そーね」

 

至極嫌そうな顔のベルトがキースに向き直る。

向き直るといっても、目を逸らして顔を直視していないが。

ともあれ何を言う気かは知らないが、キースを代表と定めたらしい。

 

「えっと、本日はお日柄もよく」

「ベルさん遠回りしないで、すぱっと言ってください!」

「わーーったよもう!!皆さん色々すいませんでした!」

 

一昔前の携帯電話のごとく、思いっきり腰を折る。

しかし謝られた当の本人達……キースもニルも、きょとんとしていた。

 

「なに急に謝ってんだお前。何についての謝罪だよ」

「えっ?いや、色々あんじゃん?」

「例えば?」

「えぇー……っとぉ……」

 

逸らしていた視線をキース達の顔面、その目に向ける。

二人とも、本当に心当たりがないという目だ。

要するに工場メンバーズは、ベルトの嫌がらせをものともしていなかった。

それどころか、許すのを通り越してもはや忘れてしまっていた。

ベルトがいくら反省しようが、関係なかった。謝り損である。

 

「……そっか。もう忘れちゃったか。へへ」

「何笑ってんだ気持ち悪ぃおっさんだな」

「好きに呼べよ。今はおっさんでもいいもん」

「あぁそうかよ。おっさん、双子の容態は?」

「ごめんやっぱ腹立つからおっさん呼び疾くやめてくんね?」

 

喉を切られた姉・カリンと、腹を刺された妹。

さらにラスカルを入れた三名は、パティに応急処置を施されている。

応急処置といっても、素人である彼女にできることはたかが知れていた。

けれど懸命にできることをしようとしていた。

 

「あの、申し訳ないんですけれど、どなたかお洋服の布を分けていただけませんか?」

 

言葉通り申し訳なさそうに申し出るパティ。

止血帯を作りたいのだろう。

けれどパティは、自分のシャツを裂いて使っていたため、もう必要な分の布が提供できない状況にあった。

 

「俺の使っていいぜ。肉体美披露しちゃう」

 

軽口を叩きながら、ベルトは服を脱ぐ。ついでに燕尾服をそっとパティの肩にかけた。

 

「容態は?」

「えっと、カリンさんは声は出ないけど、傷口は案外浅いです。病院できちんと診てもらえば大丈夫。ラスカルさんは、意識がないけど、反応はあるみたいなので、多分じきに目が覚めます。問題は……」

 

ちら、とカリンの隣に横たわる、双子の妹に目をやる。

 

「……妹さん、ですね。血が止まらないんです。内臓が傷ついてしまわれたみたいで」

 

このままだと、死んでしまう。言いにくそうにパティは言った。

と、キースがニルの胸倉を掴んだ。

 

「何か言うことは」

 

キースが冷たい声で訊ねる。ニルは何も言わないで苦い顔をしている。

 

「何とか言ってみろ!!仲間とその妹半殺しにしといてどんな言い訳が飛び出てくるのか楽しみでしょうがねぇんだからよ!」

「……仲間、ね。付き合いの浅いあんたが言うセリフなのかしら」

 

そう吐き捨てて鼻を鳴らした。完全に不貞腐れている。

 

「だいたい、殺そうとしたのは双子の妹の方だけよ。あんただって復讐がどうとかで殺そうとしてたじゃない」

「ッ……それは」

「それよりもブルーノどこなの。多分ここにいるんでしょ?確認したいことがあるのよ」

「あー、アレだべ?あのオヤジロボットについて」

「ええ、そうそれよ」

 

ニルはまた眉を寄せた。

 

「彼から聞いた話と違うわ。どうなってるの?」

「何であいつがあんなもんのこと知ってるってんだよ」

「彼がテッドの情報についての責任者だったからよ!信じられない、あの男私にまで嘘ついたのね……!」

 

ニルは今まで、一度もクローバーに嘘をつかれたことなどなかった。

どんなにクローバーが嘘つきでも、彼はいつだって誠実に恋人に向き合っていた。

少なくともニルはそう思っていた。

だからこそ腹が立った。

 

「そのブルーノさんだけどさぁ」

 

ベルトが口を挟んだ。

 

「もう死ぬぜ」

 

簡潔なる宣告。

途端にニルは青ざめる。

ベルトはそれを見て何を思ったのか、目をすっと細めた。

彼女自身は見るからに美しいのに、まるで汚いものを見る目だった。

 

「ダメ」

 

ニルが蚊の鳴くような声でつぶやく。

 

「ダメよ……それは絶対ダメよ。すぐに彼を助けに行かなくちゃ。ねぇ、みんな助けるわよね?」

 

目の前にいる同僚達に尋ねかける。が、誰もが視線をそらす。

 

「どうして!?何で助けようとしないのよ!」

「お前が助けなくていいって言ったんだろうが」

 

キースが何食わぬ顔で言う。

思い起こすは、工場での同僚達の会話。

クローバーが助けを求めている、という趣旨で議論した時の事。

あの時、確かにニルは言っていた。『助けなくていいわ』と。

 

「ぅ……でも、でも……」

「何だ、急にしおらしくなったな。自分のセコムがくたばるって聞いてビビったか?」

 

キースが悪意を込めてせせら笑う。

 

「そもそもあいつはな、皆から嫌われてるんだよ。そんな奴を誰が命張って助けたがる?馬鹿も休み休み言えや」

「違うの……違うのよぉ……」

 

ニルが冷や汗をかきながら、胸を押さえてうずくまる。

生地をたっぷり使用した服と長い髪がふわりと広がっている。

それをベールに頭を垂れる姿はまるで、神に懺悔する様だった。

 

「何が違う。本当の事だろうが」

「……」

「もういい、時間の無駄だ。とにかく地上に戻――」

 

ニルを見限るように背を向けるキース。

ところが、ベルトの大きな手のひらが肩口に置かれ、立ち止まる。

蛇のような金の瞳が向ける視線はニルを見下ろしていたために、かち合うことはなかった。

けれどその目はキースに、耳を傾けるよう促していた。

 

「……ブルーノは……彼があんな性格になったのは、私のせいなのよ……」

再会

「ラスカル」

 

誰かが呼んでいる。

懐かしい声。大好きな声。

声変わりした後だけど低すぎない、優しい声。

『彼』の声だ。

 

「ほら、起きておいで」

 

声に誘われて目を開くと、そこは知らない場所だった。

晴れわたる空と、ふかふかの草原が果てしなく広がっている。

ここはどこだろう。

さっきまで、ぼくはたしか……ええと。

ふわりといい匂いがした。

甘いものと、お風呂好きゆえのいい香り。

この匂いは覚えがある。

まさか、と思い恐る恐る顔をむけると。

 

「ルーク……?」

「よっ」

 

ずいぶん昔、死んだはずの友達がいた。

焦げ茶色の短髪。

整った顔立ちを無駄にするような野暮ったい黒縁メガネ。

春夏秋冬変わらず黄色いロングコートが特徴の服装。

紛れもない。ぼくの大好きな友達、ルーク・ローレンスその人だ。

 

「ルークっっ!!」

 

すかさずルークに駆け寄って、強く強く抱きつく。

ぼろぼろとこぼれる涙が、ルークのコートへ染みを作る。

これが夢ではないなら、ぼくはきっと死んだのだろう。

あんなにしがみついた命だったけれど、でも、もういい。

ルークにまた逢えたなら、それでいいんだ。

 

「ねぇルーク、ぼくがんばったよ。閉じ込められたけど、ひどいことされたけど、何があっても死なないで、ルークのことずっと待ってたんだよ。ほめて」

「ん。約束守ってくれてたんだな。いい子だな、ラスカルは。さすが俺の友達だ」

 

言葉と声は優しい。

けれど、生前と違って、抱きしめてくれない。

一旦縋り付くのをやめて、ルークの顔を見上げる。

ルークは笑っていたけれど、何か含みがあるような、不自然な顔だった。

 

「ねぇ、ルーク?」

「んん?」

「……、どうしてここにいるの?ぼくのこと迎えに来たんだろう?」

「違うよ。ラスカルはまだ死んでないからな」

「え、ぼく死んでないの?じゃあ何で……」

「お前に伝えたいこと、あるんだ」

 

ルークは笑顔でぼくを見下ろして、言った。

 

「よくも、俺を死に追いやってくれたな」

「……え」

「俺が殺される時どんなに辛かったか、わかるか?体の色んなところを潰されて、絶望しか無くなって。お前と友達になったこと、心から悔やんだんだぞ」

 

ルークの顔が崩れていく。

海みたいに綺麗な目も、甘いもののにおいに敏感だった鼻も、優しい言葉をかけてくれる口も。

全部焼けて爛れて潰れていく。

 

「ラスカルお前、俺がいないでも幸せになってもいいかな、なんて思ってなかったか?俺がそんなこと望んでると思ってたのか?」

「…………そ、そんな事ないよ」

「キース・アンダーソン。あいつに絆されて、俺を放って勝手にひとりで幸せになろうとしただろ」

「……ッッ……!」

 

見透かされてる。

ぼくの考えていたこと、すべて。

顔をぐちゃぐちゃに崩れさせながらも静かに微笑むルークに、心が揺さぶられる。

 

「違うよ。俺は、俺だけいなくなった世界でラスカルが幸せなのよりも、俺も一緒にいる世界がよかったんだ」

 

ほとんど恨み節に近いそれの意味が理解できないほど、ぼくは子供じゃあない。

ルークは、ぼくが憎いのだ。

それはそうだろう。

ぼくを助けようとしなければ、ルークは今も元気に生きていたはずだから。

夢だと語っていた時計職人にもなっていたろう。

 

「……そっかぁ」

 

緩やかに感じ取れるルークからの憎しみに、安堵を覚えた。

何となく、彼はぼくを縛り付けたいのだと思えた。

彼は、ぼくの唯一無二。言い換えるならば神様だ。

どんな理由であれ神様に執着され、縛ってもらえるなら、こんな嬉しいことはない。

もちろん悲しくもあるけれど、仕方ない。

むしろルークの本当の気持ちが聞けて本望だ。

 

「やっぱりぼくのこと、憎かった?」

「うん」

「連れていきたい?」

 

ルークがぼくの首に手をかけた。

絞め殺すのだろうか。

ぼくは黙って目を瞑った。

けど、いつまでたっても苦しみも痛みも訪れない。

目を開く。ルークの顔は元に戻っていた。

首に感じる重みに目を落とせば、いつも提げている懐中時計。

自分の形見であるそれを、ルーク自ら提げ直してくれたらしい。

ルークはというと、神妙な面持ちだった。

 

「ルーク……?」

「ラスカル。俺、たしかにお前が憎いよ。憎たらしいけど……連れていくのはダメだ」

 

聞いたことも無い、きっぱりとした言い方だった。

昔はこんなはっきりした性格じゃなかったし、死んで性格が変わったのかもしれない。

 

「お前にはまだ生きて、やらなきゃならない事がある」

 

強い言い方ではあった。

けれどその目には、生前と同じ優しい色が滲んでいた。

ルークはぼくのせいで死んだと言って、憎んでいる。

それは一種の責任転嫁にもあたるけれど、それでもぼくをまだ友達と見なしている。

ルークは良くも悪くも人間らしい。

だからぼくを憎しみつつも、大事にしようと思ってくれているのだ。

だから……連れて行って、くれないらしい。

 

「やらなきゃならないこと……?」

「うん」

「ないよ、そんなもの」

「あるよ」

「ない!!ルークと一緒にいたいのに、なんでダメなの?」

「クローバーを助けてやってくれ」

 

時が止まった気がした。

彼は、何を言ってる。

 

「笑えないよ、その冗談」

「冗談なんかじゃない。あいつがずっと後悔してたのはもう知ってるだろ」

 

思わず唇を噛み締めた。

いくらルークの言う事でも聞けない頼みだった。

反抗の意を示すために下を向く。

ルークはぼくの目線まで屈んで、追いかけてきた。

 

「……わか、った。きみが言うなら、ぼく従うよ。がんばる……」

「ラスカル」

 

急に、叱るような声になった。

 

「大事なのは俺じゃなくてお前の意志なんだ」

「え……」

「俺のせいで『自分』がなくなったのは悪かったと思ってる。でもそろそろ目を覚まさなきゃダメだ」

「目を、覚ます?」

「眠ってる心も、そろそろ起きる時間だよ」

 

そんなもの知るもんか。絶対起きたくない。

だって起きても、世界のどこにもルークはいないのに。

 

「大丈夫。俺はいつでもここにいるぞ」

 

ルークがぼくの胸に触れた。

厳密には、さっきルークが提げてくれた時計に。

 

「さぁ、もうおはようの時間だ」

 

有無を言わさず終わりは来た。

とん、と。ルークの手がぼくの胸を押す。

景色がぐにゃりと歪んで、体が遥か後ろに引っ張られる。

 

「やだ、嫌だいやだ、まって、ルークお願い……」

「本当の事を見て聞いて知っておいで。忘れるなよ、ラスカル。自分で考えるんだぞ」

「嫌だぁああああっっ!!!」

 

手を伸ばしても伸ばしても、届かなくて。

必死に泣き叫んでいる間にも世界は暗くなっていく。

蘇る頭痛。絶望感に染まっていく脳髄。

ルークが完全に見えなくなる瞬間、最後にもう一度だけ、ルークの声が聞こえた。

 

「あ、そうそう。クローバーに言っといてくれ。俺とラスカルは――ずっとふたりぼっちだからなって」

 

私には好きな人がいる。

けどその人は私の恋人でもなんでもない。完全なる片想い。

その男に会ったのは、十一年前。

あの黒っぽい子どもに、突然拉致された私のお目付け役だった。

聖職者のくせに挙動がいちいち気だるいやつ。

囚われの身のくせにぎゃあぎゃあうるさくわがままを言う私に、その男はこれまた面倒そうに世話を焼いてくれた。

知ってる?監禁された人ってね、その場所で誰かとずっといると、いつしか好意を持つようになるの。私も見事にそうなったわ。

だから私……その男と、寝たの。

私ね、わかってなかったのよ。

自分が恋した相手だからって、一度くらい抱かれたからって、向こうは遊びを知ってる大人で。

つまりはそういうこと。

その後すぐに私は解放された。

私を自由にする代償として……、左目を潰された上に友達を殺してしまった、ブルーノのおかげで。

でも、私その時すごく怖かったの。

彼ってね、慎ましいものが好きなのよ。髪型なら三つ編み、服ならシンプルイズベスト。

とにかく大人しくて、清楚なものが好き。

だから、私のした事を絶対に許さないはず。

嫌よ。絶対嫌よ。だって、熱く体を重ねた初恋の人にも愛されなかった私よ。

その上、唯一無条件で愛情を注いでくれる存在まで失くしたら、私はどうしたらいいの。

考えた結果、閃いた方法はひとつ。

……『隠し続けること』だった。

 

「おい、まてよ」

 

キースだ。声は静かではあるが、その表情は強ばっている。

 

「それじゃあ、何か。僕が今ここにいるのもニルのせいってわけか?ニルがクローバーの野郎を追い詰めたから」

 

一見関係なさそうではあるが、確かにそうである。

ニルがクローバーを追い詰めなければ、クローバーは友人を殺さなかったし、遠い将来にその友人と瓜二つの青年を見つけることもなかったろう。

つまりキースはクローバーに騙され貶められることもなかった。

よって今もここにはいなかったはずだ。

それすらも、巡り巡ってニルのせいになるのだ。

 

「……そうなるかもね」

 

いまいち自分のせいだと思いきっていない口ぶり。

キースの頭が、瞬間的に沸騰した。

キースがポケットに片手を突っ込んで、大股でニルに近づいた。

彼が何をしでかすつもりか察知したベルトが止めに入る頃には、事は起きていた。

 

「あ゛ぁあ゛ああああああぁぁぁっ!!」

 

刹那、上がる絶叫。慌ててベルトが、キースを羽交い締めにして引き離す。

キースの手からこぼれ落ちたのは、ラスカルの酸入りシャボン玉の瓶。

それをニルの顔にふりかけたのだと観衆が気づく頃には、彼女の美しい顔は傷ついた後だった。

 

「よし、いくらかすっきりした」

「おっま、すっきりじゃねーべや!」

「どうだよ馬鹿女。これで小指の甘皮程度なら反省する気になったか?」

「わた、しはっ……ただ愛されていたかっ、だけ、なのぉ……!!」

 

みっともなく髪を振り乱し、咽び泣きながらニルは訴えかける。

 

「誰だって愛されるのは心地いいものでしょっ……?人間として当たり前の欲求じゃない。それを求めて何がダメなのよぉお……!」

「……愛、ねぇ……まぁ、俺もあんまり知ったようなこと言えねーけど。愛ってのは多分、他人を心から大切な存在だと想うことだ」

 

そう、想うことが大切なんだ。

カリンのように、いくら憎まれても守ってるのも。

キースのように、勝手に家族だと信じていたことも。

ラスカルのように、もう居ない友達のために生きるのも。

全部大切に想うからこそだろう。……だが。

 

「あんたは一方的に大切にされるだけされて、見返りを与えなかった。ちょっと状況が変わったからって、他に乗り換えようとして、そのせいで色んな奴が傷ついたんだ。そんなんでまだ愛されたいとか、ちゃんちゃらおかしいわ」

 

ベルトはおもむろにニルの眼前に片膝をついた。

潤みきった美しく醜い紫眼を覗き込む。そして一言。

 

「可哀想に。お前はいつか、独りぼっちで取り残されるぜ」

「じゃあ、どうすればいいのよ……」

 

ニルがめそめそ泣きながらも訊ねる。

 

「彼に謝ればいいの?追い詰めてごめんなさいって?きっと許してくれないわよぉ……」

「それくらいてめーで考えやがってほしいですね」

 

と、ここで感情のこもらない少女の声が割り込んだ。

意識不明だと思われていたと思われていたカリンが、いつの間にか起き上がっていた。

顔色は悪いが、動けはする様子だ。

 

「カリンさん、気付いたんですね。よかった……」

「あれ?お前喉やられたんじゃなかったっけ。何で喋れてんの?」

「てれれれってれーん」

 

某ネコ型ロボットでお馴染みの効果音を口頭で発し、自らの喉元を指し示す。

何か、チョーカーのようなものを付けている。

 

「こんな時のために作っといた発明品なんですけどね。重度の風邪とかで喉が潰れた時にこれ使うと声が出るんです」

「こんな時って、予想してたのかよ」

「いえいえ。カリンもまさか、喉裂かれる上に妹刺されるとは思ってなかったッスよ」

 

胡乱な目でニルを睨みつければ、びくりと震え上がる。

さっきまでは強気でいられたが、キースにやられたことを思うと身の危険を感じて、怖いのだ。

 

「ニルさん、ちょっと外に出てましょうか。私もご一緒しますから、ね?」

「いいっ……ひ、ひとりで……っ」

 

気を利かせようとしたパティだったが、彼女は足をもつれさせながら逃げるようにその場を去っていった。

ニルがいなくなっても、だれも追いかけなかった。

誰も興味を持たなかった。そうしてそのまま話は続く。

 

「ってか、ニルが言わなくてもクロさんは助けるべきだと思うぞぅ。元々、俺経由で頼んだ奴がいる訳だし」

 

その発言に場の空気が変わった。皆、興味があったからだ。

ベルトにそんな願いを託した者の正体に。

偶然か必然かその張本人であるパティがここにいるタイミングだ。

答えを黒か白かはっきりさせるなら今を置いて他に無い。

……が、ベルトは依頼者の明言を控えた。

 

「キースとかどーよ?クロさん助ける理由あるけ?」

「あるかよそんなもん」

「カリンは?」

「別に助けてあげてもいいとは思いますよ。カリンの妹刺した女の恋人でなければ」

「ぼくは助けるよ」

 

幼いわりに静かな声。

視線を向ければ、ずっと眠っていたラスカルが虚ろな目でこちらを見つめている。

カリンに続き、無事意識が回復したようである。

 

「あらいぐま!よかった、起きたか。どっか痛い所は?」

「頭痛、めまい、腹痛、胃痛、胃もたれ、吐き気あらゆる体調不良が起きてるよ」

「やべぇなそれ。すぐ病院に連れてってやるから」

 

抱きあげようと伸ばしたキースの手。けれど、ラスカルは煩わしそうに振り払った。

キースに対してそんな態度をとるのは最初期以来だ。

不思議に思う彼に構わず、ラスカルはふらふら立ち上がり、皆が集合している牢を出る。

そしてひとりでどこかへ向かおうとする。

そんなラスカルのちっぽけな体を易々と抱き上げ、ある意味武力行使して引き止めるベルト。

ラスカルは短い手足をぱたぱた動かして抵抗する。

 

「ラッスー。落ち着きなって」

「離せ……クローバーを、助けなきゃ」

「わかってるよ」

「何もわかるもんか!!ぼくが助けるんだ、助けなきゃ、ダメなんだよっ……」

「じゃ、理由は?クロさん助けるのに納得いく理由、あるか?」

「そんなものなくてもいいだろっ……とにかくぼくは行くんだ、邪魔するなよ……!!」

「あーもーうるしゃーわ。ほらよっ」

 

ベルトは何を血迷ったか、傍らにいるパティの胸元に、抱き上げたラスカルの顔を突っ込んだ。

パティは引きつった悲鳴をあげた。至極当然である。

 

「ベルさん!?な、何やってるんですか!」

「ちょっと天国を味わわせて、穏便に黙らせてやった的な?」

「発想がおっさん過ぎます。マジキモいッス」

「最低だな」

 

大顰蹙を買ったものの、実際ラスカルは大人しく豊かな谷間に収まっているので、結果オーライだろう。

しばらく間を置いてから、パティの胸元からラスカルの顔を引き離した。

ラスカルは妙にキリッとした顔をしていた。

 

「よぅ。どーだった?」

「……結構なおてまえだったよ」

「落ち着いたけ?」

「……んん」

「よし」

 

じゃあ改めまして、とベルトは景気よく手を叩いた。



助ける理由

「別にクロさんを助けてもいいとは思う。色んなものにがんじがらめになって生き地獄にいるのは、正直不憫だし」

 

パティの心に希望の火がちらつく。

……ところが。

 

「けどあいにく、カリン達にはクロさんを助ける理由がないんですよね」

「あー、やっぱりか。殺す理由ならあるんだけどな」

「ぼくも」

 

口々に同調するクズ工場メンバーズ。

そのどれもが、パティの願うものとは真逆だった。

……やっぱり、ダメなのだろうか。

たかが上司を、赤の他人を救おうとする事は間違いなのか。

少しばかり久しい不甲斐なさに、涙が出そうになるのを必死にこらえた。

 

「きゃっ!?」

 

急に、大きな手の平で尻を強く叩かれた。

ベルトだ。

ひりひりする臀部をさすりつつ、何事かと彼を見上げる。

ベルトはパティの顔を一瞥しただけで何も言わず。

しかしどこか真剣味を帯びた顔つきで、同僚たちに告げる。

 

「本当に、それでいいのか?全員が自分の欲求願望を満たせる機会だぜ」

 

一同は怪訝そうな目をベルトに向けた。

 

「考えてもみろよ。お前ら全員、この国をよく思ってないはずだぜ」

 

人差し指を立てて、くるくると宙を彷徨わせるベルト。

と、ラスカルの鼻先に指を突き立てる。

 

「お前は大事な友達殺されて、臓器取られて、閉じ込められた」

 

次にカリンを指す。

 

「お前は妹を操り人形にされた挙句、妹諸共半殺しにされた」

 

後半はニルがやったのだ、と喉まで言葉が出る。が、ふと思い直す。

数年間共に暮らしてきた間、ニルはなかなかいい同僚だった。

ニルだって自分が拉致されなければ、そんな未来はなかったはずだ。

だから、憎むべきは社長と名乗るあの子供である。

 

「お前も」

 

最後に指さされたのは、キース。

 

「あのオヤジロボ、逃げても追ってくるだろうからそのままにしとけねーし。それにどういう事情があったか知りたくね?」

 

言われてキースは、ニルが言っていた事を思い出す。

たしかクローバーは、あのロボット達の情報の責任者だったか。

曖昧なままだった情報を得たいし、国も潰したい。

クローバーを助けて一緒に暴れれば、一石二鳥だろう。

ベルトの指摘について、それぞれが考える。よくよく考え込んでいるのだろう、皆石畳の床を睨んでいる。

しばらく沈黙が続く。

が、やがて全員が決心したように改めて顔を上げた。

思うところはあれど、ベルトの言うことに、概ね納得したようだった。

 

「わかった。クローバーを助けよう」

「よーしよし、じゃ、五分後まで自由時間なー」

 

これまた景気よく打ち鳴らされたベルトの手。

その音を皮切りに、各自束の間の自由時間を過ごす。

キースはほんの少し迷ったが、ラスカルに話しかけた。

先程の、珍しく強情だったラスカルの態度が気にかかったからだ。

 

「あらいぐま、大丈夫か」

「……?何がだぃ。情報量が少なくてさっぱりだよ」

「頭怪我してるから。あの野郎にやられたか?」

「半分正解。ダストシュートに放り込まれて、落ちた時にぶつけたんだ」

 

偽りも誇張もなく、ラスカルはありのままを語る。

 

「それと、逆だよ。クローバーはぼくを守ってくれたんだ。あと何か、キスされた」

「キス!?」

「一瞬だけど。何でそんなことしたんだろう」

 

その表情からするにとぼけている様子はない。

本当に、クローバーの告白じみた行為の意味を理解できないようだ。

あいつも大胆なことするもんだ、とキースはあくまで口には出さずに、ただ思う。

 

「お前、さ。さっきすげぇ必死だったけど、そんなに助けたいのか?クローバーのこと」

「そんな訳ないだろう」

「じゃあ助けたくないのか」

「分からない」

 

分からない。そうとしか言えなかった。

ずっと意味も無く笑っているだけで、最低限の意思表示しかしてこなかった。

なのに、友人の亡霊は「自分で考えて行動しろ」と言う。

今更そんなことを言われても困る。

 

「どうしたらいいか、分からない……」

 

心の中で亡き友人に必死に謝る。

ごめん、ごめんね。

ぼくはクローバーを助けたくない。

あいつはぼくの友達を殺した男だ。

ぼくだけじゃなく、誰も彼もあいつを嫌っている。

でもルークが言うなら、助けなくちゃ。でもそれじゃダメなわけで。

 

「……?」

 

安堵を求めて、無意識に指先で触れていた懐中時計。

錆びかけた金属の感触に、カサカサした感触が混じった。

時計の中に、何か挟まっている。

好奇心のままに開いてみると。

 

「……あ」

「ん。どうした?」

 

小さく漏れたラスカルの声。傍らのキースが気付き、かがみ込んでその顔を覗き込んだ。

ラスカルは、少し目を潤ませて、唇をぎゅっと噛み締めていた。

 

「お、おい、マジでどうした」

「……決めた」

「あ?」

 

だるだるのパーカーの袖で、雑に目元を拭うラスカル。

吹っ切れたように前を見据える彼女の瞳は、変わらず曇り空の色だ。

ただ、いつもとは違って、夢の世界から覚めたかのようで、微睡んではいなかった。

 

「ぼく、やっぱりクローバーを助ける。誰に言われたからじゃなく、自分の意志で」

 

急に熱を帯びた曇り空の瞳。その変化は、傍から見ていても顕著だった。

 

「……」

 

羨ましい。キースは思った。何か行動するにあたっては、誰しもみんな目的がある。

カリンもベルトも、ラスカルも。理由は不明だがパティすらも。

旅をして、謎を残しながらも『養父について知る』という目的を果たしたキース。

彼には今、目的らしい目的がない。

明確な目的を渇望していた。

子にとって親が拠り所で、神と同等であり、必要であるように。

今のキースには目的という拠り所が欲しかった。

そうでなければ、持て余した数々のストレスが危うい。

 

「なぁ……あらいぐま」

「ん。なんだぃ」

「僕って、何がしたいのかな」

 

きょとりとしているラスカル。躊躇いながらも彼は続けた。

 

「僕の目的、覚えてるか?」

「えーっと……たしか、お義父さんについて調べるために旅してたんだったね」

「あぁ。それについては一旦カタはついた。その後は?」

「そのあとは……、んーと」

 

ラスカルが少し困っている。キースの目的が、はっきり思い浮かばないようだ。

 

「そう。僕、今何も生きる目的がないんだよ」

「もくてき……」

「旅してたけど、成り行きで工場の従業員になったし。クローバーに一矢報いるって言ったけど、結局やってないし。それどころか助けようとしてるし。振り回されすぎてるだろ」

 

カリンも、ベルトも、パティも、ラスカルも。

みんな、自分の信念のもと定めた目的があるのに。

自分にはない。

それがひどく収まりが悪い。

そう言ってキースはうなだれる。それを見るにつけラスカルはころころ笑う。

 

「小さい事を気にするねぇ、アンダーソン君」

「小さくはねぇだろ!重大だよ!」

「深く考えすぎだよ。目的がないっていうのは、自由の証拠だぜ?」

「でもっ」

「じゃあ、きみは何してる時が一番楽しかったんだぃ」

 

ラスカルは諭しつつ、質問した。

キースは考えてみる。僕の人生において、一番楽しかったこと。

 

「……旅。なんだかんだ楽しかった」

「旅かぁー。羨ましいなぁ。ぼくも行ってみたいや」

「行けばいいだろ。連れてってやろうか……って言っても、お前はきっと断るんだろうな」

 

友達のためにここにいなきゃとかで、と付け加えるキース。

返事の代わりに、ラスカルは微笑んだ。それはそれは嬉しそうに。

 

「気付いてないだろうけど、きみは人が羨むものをもう持ってるんだよ」

「たとえば?」

「すっごい行動力とか、コミュニケーション能力とか。少なくともぼくは羨ましいもの」

「……そうか?」

「そうさ。だからどうかそれを誇っておくれ。誇れるものがあれば自ずと目的は見つかるはずだよ」

 

ぽん、と勇気づけるように肩を叩かれる。なんとも胸がこそばゆい気持ちだった。

照れそうになるのを隠すため、キースはラスカルの髪をぐしゃぐしゃにした。

じっと石畳を見下ろしていたところ、声をかけられて視線を配った。

以前まで浮かべるものはぎこちない笑みばかりだったのに、すっかり全幅の信頼を滲ませて彼を見つめている。

 

「なに」

「ありがとうございます。さっきの、ほら、お尻叩いたの」

「ぶっ叩いてほしいならもっと全力でやってやんよ?」

「ち、違いますよ!そうじゃなくてっ……私のこと助けてくださったんでしょう、あれ」

 

その通りだった。

ベルトはひねくれ者故、あんな形でしか叱咤激励できなかった。

クローバーを救ううんぬんよりも、ただ彼女の力になりたくて。

 

「まぁ、金も純潔もいただいちゃった訳ですし?罪滅ぼしよ」

「ふふっ。ベルさんたら、本当にもう」

 

天邪鬼な態度をとろうが、パティは全部お見通し。

否、悪意ある言動こそ本心だろうとも、彼女は受け入れてしまうのだろう。

 

「……ベルさん、死なないでくださいね」

「あん?」

「不死身の社長や、ロボットとかと戦う訳ですし……元々危ない事だらけのこの国ですから、心配で」

 

ベルトは己の肩に置いていた杖を、おもむろにパティの頭に振り下ろした。

短い悲鳴が上がった。頭を押さえてうんうん唸るパティを前に、仁王立ちして彼は言う。

 

「なーに言ってんだあんたは」

「え」

「あんた武器は持ってても、所詮は一般人だろ。そんな女が勇気だして戦う気でいんだから、おにーさんが死ぬ訳にはいかないべや。守る為にも」

 

守るのくだりで、パティの顔が林檎のように赤く染った。

 

「……なに勘違いしてんの。守るって、約束のことだからな?」

「は、はい。でもどっちにしても嬉しいです」

 

さも嬉しそうにはにかみ笑うパティ。

 

「貴方は、やっぱり良い人ですよ」

「……見る目のないこと」

 

そんな風に言い放ちながらも、ベルトの口許は緩んでいた。

 

「そろそろ時間ッスね」

 

時間になったところで、工場メンバーが集まり始める。一番乗りはカリンだった。

みんな目を丸くして、意外そうにカリンを見ている。

彼女は、深手を負った双子の妹の元を離れたがらないものだと思っていたから。

 

「何スか」

「お前妹ここに置いてくんだろ?もっと名残惜しそうにするかと思ってたけど」

「ええ、だから顔中舐め回してきました」

 

うわあ、と。

誰もが心の中で揃ってドン引きした。

 

「カリンちゃんは愛が重めだねぇ」

「ヤンデレ()に言われたくないんですけど」

「さぁて、行きますかっと」

 

ぞろぞろと今まで居た独房を出ていこうと歩き出す。

しかしやはり名残惜しいのだろうか、カリンがひとり立ち止まった。

そしてこう申し出る。

 

「やっぱりあともう一回だけあの子の顔見ておきたいです」

「ダーメよ。早くしなきゃクロさんの首が胴体と泣き別れちまうべ」

「ワンチャンありますよ」

「ないから。デッドオアアライブだから」

「ねこちゃんもあるよー」

「あらいぐまお前ちょっと引っ込んでろ」

 

と、何か気配がして頭上を見た。

独房の天井に空いた大穴から、サングラスと黒服姿の男達が蜘蛛のように這い出てきていた。

場の空気が一気に緊張感に包まれる。

と同時に、半端に崩壊しかけた天井に負荷がかかり。

土砂のごとく瓦礫が一気に降り注いでくる。

 

「ぎゃーーーっっキッショい!!おにーさん蜘蛛嫌いなんだけどぉ!」

「言ってる場合ですか!全員早くここから出なくちゃ!」

 

しかし。

 

「カリン!何やってんだ早く行くぞ!」

「あの子が、まだあっちにいます」

 

カリンがうわ言のように呟き、そちらに近寄っていこうとする。

しかし既に彼らと妹の間には、瓦礫と黒服共によって厚い壁がそびえ立っていた。

 

「わあっ」

 

キースが有無を言わさずカリンを担ぎ上げる。

妹を置いていこうとしているのだ。

 

「離してください、あの子を助けなきゃ……ッ」

「無理だ、諦めろ!」

 

諦めろ?いやだ、諦めない。

だって、正気を失くしたあの子を長い間守り続けて、やっと口が聞けるようになったのに。

やっと和解できたのに。とてもとても嬉しかったのに!!!

 

カリンの絶叫は、瓦礫の落ちる音に掻き消えた。

その声が愛する妹に届いたかは、わからない。

 

処刑部屋。

拷問部屋を兼ねたこの部屋は、社長のお気に入りの場所だった。

漂う血錆のにおいと、部屋の中央にそびえるギロチンに怯えて、大抵の人間は泣き叫んで命乞いする。

いつも非常に気分が良くなるのだが、今回は違った。

 

「くーろくろくろクローバーくーん。俺様社長様は失望したぞ?」

 

歌うような口調でクローバーをなじる社長。

その足元では、クローバーが踏みつけられていた。

手首には枷がはめられて、更には拷問にでもかけられたのか、あちこち傷だらけだ。

それでも彼は毅然として社長を睨んでいた。

 

「お前さ、何であの帽子小僧生かしておいたわけ?俺言ったよな、あいつだけは絶対消せって。そのために捜させたの忘れたのかよ」

「あんたが嫌がると思ったからなァ」

「いつからそんなに可愛くなくなったんだぁ?昔は命令すれば大人しく聞いてたのに」

「ハッ……みっともない。いつまで過去の栄光に縋ってんだか」

 

いちいち神経を逆撫でるような言葉を吐くクローバー。

社長が今一度クローバーの顔を思いきり蹴りつけた。

頬に派手なあざが浮かぶが、彼は決して動じない。

社長は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、それも一瞬。

愛らしい顔に意地の悪い笑みを浮かべ、言う。

 

「死んだ後、ラスカル君ちゃんに言っといてやろっかぁ?お前の気持ち」

 

極わずかに、クローバーが反応する。

 

「キミの穴にボクのブツをぶち込んでやりたい人生でした、さようなら。とかどーよ」

 

にやにやしながらクローバーのリアクションを観察する。

さぁ、こいつは開口一番何を言うだろう。

それだけはやめてくれ、とか?

なんでもいい、慌てろ。

死ぬ前にみっともなく俺に縋りついてみせろ。

 

「まさにクズの発想だなァ。いや、これはただの馬鹿か」

 

足元にて、クローバーは軽蔑の眼差しで社長を罵倒する。

思い通りにならなかったことに社長の心がざわつく。

精一杯の力を込めて、クローバーの顔や首を蹴りつけた。

 

「人の気持ちを傷つける事しかできないかしないのか知らないが、幼稚ったらない。完全に見た目通りだなァ?」

 

黙らせたくてやっているのに、クローバーは何度蹴られても口を忙しなく動かす。

社長の暴力はもはやヤケクソだった。

 

「そんなだからお前は誰にも好かれないんだ」

 

社長はおもむろに天を仰いだ。

ああ、何だか今日はやけに頭に血がのぼる。

クローバーの言うことは間違いではない。けれどこれから間違いになる。

なぜなら、あの日あいつを見つけたから。

 

街で、歩く人形のようなガキを見た。

無表情で、何にも興味を持たなそうな顔。

そのわりに挙動はいちいち突飛で、躍動感溢れるというか。

今まで行き会ってきた連中と違って、あいつは生きてるって感じがしたんだ。

一目見て、あの小娘が気に入った。

それからというもの、俺はあの小娘を眺め続けていた。

追い剥ぎ孤児集団を引き連れて街を練り歩きながら、小娘の姿を見つける度に胸が熱くムズムズした。

この感情が何かは理解できないしする気もない。

あいつと喋りたいとは思わない。

あいつに触れたいとは思わない。

あいつに認識されたいと思わない。

ただ、あいつを自分のモノにしたくて。

だから自分の引越し先として使ってやろうと思った。

可哀想な俺のそばに居させてやろうと。

それはとても幸せなことのはずだ。

だからあの小娘も、ありがたがるはずだ。

とどのつまり、生まれて初めて、俺が、好かれるはずだから。

 

「お前こそ、誰にも好かれちゃいないくせに」

「……は?」

「俺様な、ずーっと我慢してたんだぜぇ。ニルちゃんが絶対言うなって、代わりに何でも言う事聞くって言うから。でも、もーいいや、言っちゃお★」

「何を言ってる。ニルギリスが、何だってんだ」

「お前の恋人のヒミツの話、聞きたくねぇ?」

 

クローバーにとっては唐突な申し出だった。

が、社長にとっては今すぐ口が裂けて欲しいほど、言いたくてたまらない話だった。

お前が悪いんだ、クローバー。

お前が、俺に歯向かうから。

心も体も魂までも粉々に壊してしまいたいと思わせたからだ。

怪訝そうな顔をするクローバーに、いやらしい猫撫で声で全てを語る。

残酷で。醜悪な。

それでいて純粋極まりない地獄のような現実を。

と、社長の頭目がけて何か大きな物体が飛んできた。

カリンのハンマーだ。

嫌な音ともに社長の首が真後ろを向く。

 

「うぉらアアアアアアアアアア!!!」

 

裂帛の気合がほとばしる絶叫とともに処刑部屋に飛び込んでくる団体。

キース、カリン、ラスカル、ベルト、パティの五名だ。

その背後には大量の黒服達が追いかけてきている。

 

「皆の衆、段取り通りよろしくな!」

 

ベルトが叫ぶ。

言葉から察するに、何らかの作戦やら役割を決めてきたのだろう。

それぞれ一目散に目的を果たすべく動く。

キースとパティは枷をはめられたままのクローバーのもとへ。

ベルトとラスカルは障壁となり、襲い来る黒服達を迎え撃つ。

最後にカリンは、今しがた社長に投げつけたハンマーを拾いに、社長のもとへ。

鈍器が見事命中した社長の首。

しかしまたもや社長は死ななかった。

 

「いっっっっでええなぁ、おい!何してくれてん……」

「うるさい」

 

首の骨が折れている状態ででも文句を垂れようとしたが間髪入れずカリンが更に攻撃を加える。

ハンマーを振り下ろす。

返り血で顔の大半が染まろうが、構わずひたすら振り下ろす。

ぐちゃ。ぶちゃ。ぐちゃ。水っぽくて嫌な音がする。

社長の首から上は、とっくに原型を留めておらず。

それでもなお、カリンは社長の頭を潰し続ける。

もはや鬼の所業だ。

彼女はキースと同じく、復讐に取り憑かれていた。

 

「カリンさん……」

 

その背中にパティが声をかける。

別に、カリンの凄惨な復讐劇を止めようとした訳ではない。

クローバーの枷が、開かなかったから。だからそれを外すための鍵。

それを社長が持っているのではと思っただけの事だ。

 

「あの、副社長の枷の……」

 

言い終える前にカリンは社長の服をまさぐって、鍵を見つけるやいなやゴミのように後方に放った。

さっさと拾ってあっちに行け、とそういう事らしかった。

 

「パティ急げ!!」

「は、はいっ」

 

声をかけるべきか迷う。

が、この状況を並大抵の語彙力で収めるのは無理だ。

何より明らかにカリンはキレているし、下手なことを言っても火に油を注ぐ。

鍵を拾い上げ、パティはクローバーの元へと走っていった。

 

「起きろ。どうせまだくたばってないんでしょ」

 

社長の舌根までも潰しきった辺りで、カリンはようやく手を止めた。

最悪の気分だった。

喉は切られるわ妹は死んでしまうわ、踏んだり蹴ったりだ。

ニルに仇討ちするべきかとも思った。

けれど妹があんな目に遭う理由を作ったのは、こいつも一緒だ。

怒りで全身が粟立つ。

吐気がするのを抑えられるのは、あとどのくらいだろう。

許さない。許さない。許さない。

社長への憎悪が、彼女の脳髄に染み付いて離れない。

 

「さぁ起きやがってください。仇討ちショーの始まりですよ」

 

肉片を足先で小突けば、それらが蠢く。

にちゃにちゃ音を立てながら肉片が集合し、やがて社長の形に戻っていく。

発声器官が回復しきったあたりで、社長はカリンを挑発する。

 

「おいおい、俺ぁ不死身なんだぜぇ?何回潰したって仇討ちは成立しねーよ。無駄無駄」

「無駄上等。死ぬまで殺すだけです」

 

その瞳は憎しみに澱み、光を失くしていた。

社長が求めた『健全』なカリンの姿は、もうそこになかった。

あるのは殺意という不健全な感情のみ。

社長の背中を、一雫の冷や汗が人知れず伝った。

 

 

――――

――――

何やら周りが騒がしい。誰かいるようだ。

しかし今の彼は文句を言ったり、辺りを見渡す余裕も気力もなかった。

だから、ただ耳を澄ました。この音を、この世最後の音を味わうために。

 

「パティの奴おっせぇぞ!鍵取りに行くだけで世界一周でもしてんのか!?」

「おーい、ベル!ベルちゃーん!何やってんのかなー!お前急がないとまたいじめるぞ!今度はエクストリームレベルだぞ、いいのかなー!」

 

……キースの声。すぐ傍からだ。

背後でがちゃがちゃうるさい辺り、枷を外すつもりなのか。

次にベルト。

これはクローバーの傍を付かず離れずの距離で動き回っている。

 

「あああ頭痛いよぅ〜〜……視界が霞むよ……」

「頑張れあらいぐま!今お前めちゃくちゃイケメンだぞ!」

「そうだぞぅ、これはまさに……そうアマゾネスみたいな感じ!」

「結局性別どっちなんだぃ」

 

……ラスカルもいるのか。

声を聞いている限り、生き生きとした印象だ。

楽しそうでなによりだと、場違いにも思う。

助けに来てくれたらしいけれどもういいから死ぬ前に帰った方がいい。

誰といるとしても、どんな事をしていても、彼女の幸福を願う。

そんな資格はないかもしれないけれど、どうか……どうか幸せに。

ゆっくりと大きく口を開け、息を深く深く吸い込む。

勢いよく、上下の顎を噛み合わせた。

 

「……ッ?」

 

がり、っと歯ごたえを感じる。

けれど痛みが伴わない。期待していたものと違う。

 

「い、っっっっっでぇええな、おい!!」

 

キースだ。

彼の企みを察知して、己が指を突き込んだのだ。

 

「テメェ!!助けに来てやった傍から死のうとしてんじゃねぇよ!」

「……ほっとけ、死なせろ」

「だから助けに来たって言っ……」

「俺には生きる価値がない。誰にも愛されない。必要とされない。俺は生きる害悪だ。だから今すぐ死なせろ。殺してくれたっていい。……そうだ、殺せ。小僧、お前俺が憎いんだろォ?なァ、殺してくれ。なァ……」

 

キースの指をかじりながら、病んだうわ言をつらつら並べる。

キースはさぞ引いていることだろう。

社長に、全て聞いたのだ。ニルの隠し事についてを。

友人を殺したこと。

ラスカルを閉じ込めたこと。

恋人が傷つけられたと思い込んで、庇護していたこと。

自分が今までやってきた事全て、何の意味もなかったという真実を。

 

「てんめぇえええッ……大方、ニルのこと聞いたんだろうけどな!女に裏切られたくらいで何だよ!」

「裏切られたと知らなかったせいで、俺は大事なもの全部壊しちまったんだぞ」

「自分のせいじゃないと思えばいい話だろ!ニルに責任転嫁しちまえば楽になれるのに、何でそうしない!責任感強すぎかお前!」

「分からない。俺はなんなんだ?何のために生きてきた?なァ、誰でもいい。教えてくれ……!俺の人生は何だったんだ!!答えろ!!」

 

クローバーの口の中で何か湿った感触が弾けた。

喋りながらも噛み締め続けたキースの指が、とうとう千切れたらしい。

上がる絶叫。クローバーの顔が新鮮な赤で汚れる。

 

「……?」

 

不意に感じる視線に、彼はしばらくぶりに顔を上げる。

ラスカルだった。小さくか細い体は血だらけの傷だらけだ。

何を言うでもなく、ただ突っ立ってクローバーを見ている。

 

「……何だ。何見てる」

「死にたいのかぃ、きみ」

「だったら何だ」

「別に。死にたいなら死ねばいいと思うよ」

 

やはりそう来るか。ただでさえどん底の気分が更に下降する。

しかしそれで終わりではなく。ラスカルは「ただ」と続けた。

 

「もしきみがここで舌を噛み切って死んだら、ぼくは万が一にもきみを許さない」

 

許さない。そう、許されない。

彼のしでかした事は許されない。特にラスカルには、絶対に。

もう責任をとるのは疲れた。義務でしか生きられない人生はいやだ。逃げたい。自由になりたい。

 

「もう逃げたいんだ。死ぬ自由くらいよこせ。そろそろ俺にも自由をくれ……」

「いいよ」

 

思わぬ即答だった。クローバーは呆気にとられた。

いいよって、何が。自由になりたいと言ったのが?

驚愕のあまりラスカルの顔を直視してしまう。

笑ってこそいないが、怒ってもいない顔だ。

 

「きみをしがらみから自由にしてあげるよ。ただし仕事として」

「仕事……?」

「そう。ぼくは便利屋だからね」

 

クローバーの眼前まで近寄っていくと、ラスカルは床の血溜まりに指を浸す。

今し方指を食いちぎられたキースの血液によるものである。

その血で何かを書き始めた。文字だ。

汚い字ながら『くらいあんと』だとか『さーびすないよう』とか書いてある。

便利屋従業員として、接客しようとしている。

戦場のど真ん中。血文字でビジネスを展開するラスカル。なんとも奇妙な絵面だった。

 

「……えっと、まず、今回のお客さんは、クローバーさん。男性、やたらデカブツ。クローバーさんの依頼は、『逃げたい』。シンプルでよろしい」

「……」

「次に、ぷ……プラン説明?です。提案できるのはふたつ。Aコース。何もしないでこのまま変な黒服野郎どもに殺されて、この世から逃亡&ご退場」

「それでいい」

「そうかぃ?でもこれはおすすめしないな。逃げるっていっても死んだら不幸なまま終わりだし。何よりそんな理由であの世のルークに会わせる訳にはいかない」

「生きてるお前には関係無いだろォ」

「となると、Bコースだね。これはいいと思うよ。命も捨てなくていいし、幸せになれるかもしれない」

 

幸せになれる。不覚にも、ほんの一瞬ながらそのフレーズに魅力を感じてしまった。

 

「……どんな、内容だってんだ」

 

聞いてはいけない。そう思いながらも口が動いてしまった。

ラスカルは挑戦的に口角を上げる。

 

「きみが、クズになること」

「クズ……?」

「クズっていうのは、主に自分勝手に生きるものだ。きみが楽に生きるために必要なことさ。だからきみも少しクズになるといいよ」

 

ラスカルは至極気楽な調子で宣う。クローバーは信じられないものを見る心境だった。

クズになれだと?クズになってどうなる。真っ当に生きてきた今でさえ誰にも好かれちゃいないのに、この上どんな嫌われ方をしろと。

 

「どうだろう、ぼくの提案」

 

ラスカルが訊ねかける。クローバーは無言で首を横に振った。

できることならばお前の言うことを聞いてやりたい。

けれどこれ以上生きていたくない、という意思表示だった。

 

「どうしても、もう生きているのは嫌かぃ」

「……あァ」

 

そっか、と一言。あっさりラスカルは引き下がったようだった。

 

「じゃあもうそれでいいけど、最後に一言、冥土の土産にぼくから言うことがある」

 

ふらりと立ち上がり、そしてクローバーの前に仁王立ちする。

きっと殴るか蹴るかでもするのだ。いや、首を締めるのか。

目を閉じて『冥土の土産』とやらを待った。

 

「悪かったよ、クローバー」

 

ラスカルが喋った。

 

「……っ、……ーーっ」

 

顔を見れば、鼻と目元を赤く染め、パーカーの袖を握りしめて……泣いている。

何故。怯えているからかと思ったが違うようだ。

なら何故。訳が分からない。

 

「何についての謝罪だそれは」

「きみのこと独りぼっちにさせちゃったからっ……」

「……俺は傷つけるしかしてないんだ、気にする必要あんのか」

「ルークに巡り合わせてくれたし、今日だってぼくを守ってくれたろ」

 

怨恨は余り腐るほどある。

その憎しみは、何をしようとも決して消えない。

けれど、良いことや楽しかったこともあった。それを忘れたくはない。

クローバーがいたから今自分は生きてここにいる。

その恩は、忘れない。

 

「だから、死なな、でっ……ぼくが、絶対助けるから、頼むから……」

 

きみまで死ぬなよと、力一杯抱きしめられた。温もりを感じる。

ずっと感じていたようで、初めて感じた温かさだった。

片方しかない眼から涙が溢れる。

ラスカルは、「友愛しか分からない」と言っていた。

だから別に彼に恋愛感情など無いのだろう。

ちゃちな恋心からではなく、ひとりの人としてクローバーの心を救おうとしている。

 

「……ッ」

 

もしも。こんな自分でも、生きていていいのなら。

誰かに、他でもないラスカルに、生きることを許されるのなら。

命の限り生きていたい。

そうしていつか人並みに幸せになりたい。

そのためにも、ラスカルの気持ちに報いない訳にはいかない。

応えるべきだ。

とはいえ、これは義務ではない。もう義務なんかで動かない。

だから、どこまでも自由に、気の向くままに彼女の気持ちに応えたい。

 

「ラスカル、離れろ」

「ダメ。まだ死のうとしてるだろ」

「いいから離れろ……抱きしめられたままじゃ枷を外せないだろォ」

「えっ?」

 

素っ頓狂な声を上げて、ラスカルが離れた。

案の定泣き濡れた顔だ。さらには鼻水が垂れている。丁寧に拭ってやりたい。

白くてふっくらした頬を撫でてやりたい。否、必ずそうしてやる。

それにはまず、彼女とともにこの場を生き延びねば。

 

「お前らみたいに、俺もクズになってやる。お前の提案通りなァ」

 

歓迎してくれるんだろうと挑戦的に訊ねれば、ラスカルは戸惑いながらも、しばしの間を置いて言った。

 

「……えー、えっと……ようこそ、こっち側へ」

 

「キース」

 

誰かが呼んでいる。

キース。キース・アンダーソン。僕の名前。

貧民街の孤児として生まれて、家族がいなかった僕だったから、名前は自分でつけた。

自分自身が名付け親だった。キースは、なんか響きが憧れたから。

アンダーソンは……あれ、何でそんな名前にしたんだっけ?

そういえば僕が勝手に養父だと思ってた野郎も、同じ名前だったよな?

どういうことだ。……ああ、それにしても、手が痛い。

そりゃあそうだ、たった今噛みちぎられたんだから。

もたらされる尋常じゃないほどの痛みは、頭の中で怒りに変わっていく。

あぁああ、腹が立つ。どうして誰も彼も僕にストレスを溜めさせるのか。

やめろよ、ストレスが溜まるとまた変なものが見えたり聞こえたりするんだから。

 

「キース」

「キース」

「キース」

「キース」

 

うるさい。脳に響く雑然とした音の群れにイライラする。

全ての音を振り払ってしまおうと頭を振り乱したら、帽子が落ちた。

僕の帽子。大事な帽子。……何で大事なんだっけ。

確か、これもあの似非養父のものだったような。いや、そんなことはいいから拾わないと。

 

「……!」

 

黒服を着たロボット共が、帽子を拾い上げた。

僕の帽子を奪ったのだ。そう認識したと同時に、僕の脳内で何かが切れた。

騙されたことや、殺されかけたこと、その他もろもろ。溜まりに溜まったあらゆるストレスが爆発した。

 

「あ゛あ゛あ゛ああああ!!!」

 

声の限り絶叫して、力の限り奴らを殴りつけた。

その間にも「キース」と誰かの呼ぶ声は聞こえたが、気づかないふりをした。

 

 

――――

――――

キレたカリンから預かってきた枷の鍵を持って、パティが戻ってくる。

その頃には、ちょうどラスカルとクローバーが(ひとまず)和解した後だった。

クローバーはどこか生気のある表情だったため、聡い彼女はそれを察知する。

よかった、救えたんだ。助けられたんだ。

 

 「ベル!!お前半べそになってる場合じゃねーべや!鍵!急げ!俺もうそろそろもたねーんだわ!」

 

感極まって泣き出しそうなパティを、ベルトが叱りつける。

そうだ、まだ終わってない。他人を救って自分の命が助からないんじゃ意味が無い。

足をもつれさせながらクローバーの元へたどり着く。

ラスカルを見つめていたクローバーの視線がパティの方を向いた。途端に、彼はいつも通り冷たい表情になる。

 

「やっとか馬鹿秘書。さっさと鍵外せ」

「は、はいっ、ただ今っ」

 

そう返しながらもパティは大パニックだった。それはそうだろう。

一般人がこんな乱闘のど真ん中に立たされ命の危機に晒されながら、細々した作業を急がされているのだから。

汗と血で手が滑って何度も鍵を取り落としそうになりながらも、なんとか鍵を穴に差し込めた。

 

「あ、あれ」

 

鍵が回らない。まさか錆びているのか?

どうしよう。力を入れて回してみる他ないが、折れる心配はないだろうか。

 

「おい!!」

「はいぃっ!!」

 

怒号が響いた瞬間、必要以上に手に力が入った。

……妙な音がした。何の音だ。過剰に働く嫌な予感で腹痛がする中、恐る恐る手元を見た。

 

「……おい、何してる。鍵は開いたのか」

「すいません」

「何謝ってんだ。まさか」

「すいません、鍵、折れちゃいましたあああああああああああ」

「はああああーーー!?」

 

誰かが怒りのあまり叫んでいる。それが誰の叫びなのかも判別できなかった。

どうしよう、どうしよう。とにかく皆さんに謝らなくちゃ。

 

「ご、ごめんなさ……」

「危ない!!」

 

謝罪のために頭を下げようとしたら、乱暴に突き飛ばされた。

体幹がいまいちしっかりしていない体は、いとも容易く吹っ飛ぶ。

見渡すと、処刑部屋の端の方。

打ちつけた顎を擦りながら見上げれば、私と敵の間に立つベルさんの広い背中が見えた。

声をかけよう。でも何て?私も戦いますって?武器を持ってるだけの、ただの一般人の私が?

 

「ベルさん……」 

「あんたもう引っ込んでてくれる」

 

なんとか紡いだ彼の名前。対してかけられた声は、ひどく冷たい声だ。

せっかく少し打ち解けられたかと思ったけれど、きっと許してくれないだろうな。

 

「っ……ぐす」 

 

ああ、まただ。また失敗した。いつもこうだ。

仕事でもプライベートでもしくじってばかり。立派なのは体つきだけで、中身はポンコツの極み。

私は本当にダメなやつだ。まともに鍵を開けることもできないんだから。

 

「っ……?」

 

ひとりで涙に暮れていると、足元に何か落ちているのを見つけた。

視覚的にはなにか、ふさふさ、ふわふわ……いや、もふもふしたもの。

ベルさんの邪魔にならないようそーっと手元に手繰り寄せる。

 

「……しっぽだ」

 

落ちていたのは動物のしっぽだった。

茶と黒の縞模様……アライグマのしっぽだろうか。

なぜこんな所に?

 

「ベルさん……」

「ちょっと黙ってなって!」

「す、すみません……」

 

当然の事ながら怒られてしまった。

戦線は激化の一途を辿っているけれど、このしっぽを触っていると少し癒される心地だ。

どうせ今は守られるしかないのだし、しばしの間状況を忘れて、もふもふを堪能することにした。

 

 

――――

――――

自ら盾となり、仲間数人とさらに女ひとり庇いながら、攻防を続けること……どのくらいだろう。

さすがに疲れてきた。疲労困憊だ。

何で自分以外、まともに戦闘に参加していないのか疑問でならない。

疲れから、足がもつれた。その隙をついて黒服のひとりが、ベルトに襲いかかる。

もうダメだと観念しかけた時、黒服が目の前から吹っ飛んで消えた。

 

「大丈夫かぃ」

 

ラスカルが助けてくれたようだ。  

荒い呼吸もそこそこに、ベルトが文句をたれる。

 

「おっま、応援来るのおそくね!?俺めちゃめちゃ頑張ったぜ!?」

「そうだね、きみは今日一番のホイコーローだね」

「功労者な、功労者!勝手に中華料理にしないでくださいね!」

「それより、気づいてるかな。なんだか少しおかしなことになってるよ」

 

おかしなこと、とは。訊ねる前に、たしかに何かがおかしいことに彼は気づく。

あれほど大量に蔓延ってた黒服軍団が、近くから居なくなっていた。

辺りを見渡せば、少し離れた所にて彼らを見つけるに至る。

床に倒れていない者は全員そちらに集っていた。

その群れの真ん中には。

 

「キース!?」

 

群れの中央にてキースが頭を振り乱し、なりふり構わず黒服軍団に突っ込んでいっているのが見てとれる。

今すぐ助けなくては、雑魚代表のキースは死ぬかもしれない。

しかしながら傍らのラスカルを見れば、焦っている様子がない。

 

「助けなくていいのけ」

「んー、どうかなぁ。あの連中、別に襲いかかってる訳じゃないみたいだから」

 

注視してみれば、たしかにラスカルの言う通りだった。

黒服軍団は、キースにただ近寄っているだけだ。

それをキースが一方的に殴り倒している。

今度はキース単体に注目する。白目を向いてよだれをだらだら流している。

正気を失くしたわけではないだろうが、我を忘れている。

我を忘れている人間の心は、いくらベルトでも読み取れない。

考えていることがぐちゃぐちゃだから。

 

「あいつら、ボコられたいわけじゃねーべ。何がしたいんだ?」

「……あれ、キースが帽子被ってない」

「あ、マジだ」

 

キースがいつも被っている帽子。それを黒服が持っていた。

帽子を持って近付き、殴られ、取り落とし、拾い上げ、また近付き。

彼らは延々とその流れを繰り返していた。

 

「キース」

 

誰かがキースを呼ぶ声がした。

聞いたことの無い男の声だった。

ベルトとラスカルが同時に足元を見遣る。

既に殴り倒された黒服のひとりがそこに転がって、喋っていた。

 

「キース……キース……」

 

機械音声とでもいおうか、声はやはり無機質だ。

ちょうど人間で言ううわ言のように、キースを呼び続ける。

呼び声はいつまで続くと思われたが、損傷が激しかったらしく、やがて声は止まってしまった。機能停止したのだ。

 

「……呼んでたね、キースのこと」

「……まさか、なぁ……」

「ベルト?」

 

今し方機能停止した黒服の傍らに、ベルトがしゃがみ込んだ。

目元を隠すサングラスをそっと外してやる。

目は、開いていた。

その顔立ちは、やはり既に死んだはずの男の顔。

額を何発も撃ち抜かれたのを見たラスカルからすれば、さぞかし不思議だろう。

不意にベルトが呟く。

 

「読めた」

「ん、何が?あちらさん、この上まだ何か企みがあるのかぃ」

「いや、そーいう意味じゃなく。読めたんだよ、この機械人形が何考えてるか」

「おや、ほんとかぃ。きみって人間じゃなくても心が読めるんだねぇ」

「読めない」

 

少々面食らうほどにキッパリ返すベルト。

何事も予知せんばかりの彼らしくもなく、混乱しているようだった。 

 

「こいつら、心があるぞ」

 

ベルトは、人の目を見れば何でも悟れる。

元いた時代が時代だから今までロボットに出会ったことはないが、所詮は人工物だ。

心があるわけはない。ましてや生身の人間に対する情など、あるわけはない。

しかしながら彼らの目からは生きた人間と同じく、感情や魂を感じる。

 

「キースにあの帽子を返そうとしてるだけだ、こいつら」

 

なのにキースは片っ端から殴り倒しているわけだ。

正面から力の限り殴られて破損した彼らの顔面部は、どこか悲しげに見えた。

 

「と、とりあえず一旦キースを止めようよ」

「んだなー。完全にバーサーカー状態だもんな」

「俺に任せておけ」

 

すぐ背後から陰気な声が聞こえて、二人は飛び上がる。

振り返ればそこにはクローバー。

 

「あれっ、あんた枷どしたの。鍵折れて詰んでたじゃん」

「あいつを止めりゃいいんだったよなァ、チビ」

「えっ。あ、あぁ、まぁ」

「おい、おにーさんのことはスルーっすか?」

「何だァ?いたのかお前。ちょうどいい、頼みがある」

 

いつぞやの仕返しのつもりか、クローバーがやたら冷たい。

挙句、パシリにまで使おうとしている様子だ。

冷たい原因に自覚があるベルトは歯ぎしりしながらも、従う姿勢を見せる。

  

「水もってこい」

 

痛い。痛い。

でかいハンマーで体を潰されるたび、意識が飛びそうになる。

このガキ、全部治るからってばかすか殴りやがって。

 

「やっぱり死なないんですね」

 

俺の血で染まった顔を拭いながら、小娘は呟く。

心なしか足取りがふらついている。

巨大ハンマーを振り回しまくっているうち、さすがに疲れてきたようだった。

ただでさえ人形のような瞳には光は差し込まず、どろりと濁っていた。

 

「やめろよ」

「何がですか」

「その目!なんなんだよその死んだ目、お前もっと、なんか……違っただろ!」

「語彙力の欠けらも無いッスね。小学生もびっくりです」

 

最初と違う。

俺が今まで遠くから見ていた時とは違う。健全な光がない。

なんでだろう。なんでこうなったんだろう。俺が何か間違えたのか?いやいやまさか。

俺の宿主にしてやるって、俺のそばにいさせてやるって言ってやったんだから、嬉しいはずだ。

なのに。

 

「っつか、死んだ目……ね。誰のせいだと思ってるんだか」

「あぁ!?」

「あんたのせいでしょ。あんたがうちの妹殺したから」

「あれはニルが刺したんだろ、知らねぇよ!」

「こっちのセリフですね。知らないです。だから八つ当たりです」

 

再び、小娘がハンマーを振り上げた。

いくら潰されても、俺はこの程度じゃ死にはしない。

けど、こんなガキにいつまでも蹂躙されているのは腹立たしかった。

 

「あああ!!!」

 

渾身の力を込めて小娘の足を払った。

ただでさえ疲弊してふらついているから、転ばせるのは簡単だった。

面白いようにひっくり返った小娘の腹に馬乗りになる。半熟卵のような不完全な腕で、チョーカーが巻かれた首を締めつけた。

興奮しきった俺とは正反対に、小娘は不気味なくらい大人しかった。

 

「おい、どぉしたよ?反撃してみろよ!」

「……」

「抵抗くらいしてこいや!このまま殺すぞ!?」

「どうぞ」

 

静かで無感情な声で返事をよこされる。

 

「はやく、殺してください……あの子に会いに行かせてください」

「……ッッ」

 

頭にくる。なぜだ。なぜこうなる。

どいつもこいつも、俺の思い通りになりやがらねぇ。

中でも一番はこいつだ。

なぜ俺に必要以上の興味を示さない。

殺意を向けられたい訳じゃない。俺は、ただ……!!

 

「いぎッ!!」

 

刺すような痛みが俺の頭を襲う。

また攻撃された。謎の重力に押されて小娘の腹の上から転がるように下りる。

カリーナの野郎、不意打ちしやがったのか。

とにかく頭が痛いので触れれば、何かが突き刺さっている。

細長い、棒状の、鉄臭い物体……釘だ。

釘を刺してきたそいつに視線をやった。

 

「……うそだろ」

 

夢か幻か、はたまた亡霊か。そこには死んだはずの、双子のもう片方が立っていた。

 

「ども」

 

言葉を発した。

青白いながら生気がある顔といい、色濃い存在感といい、間違いない。こいつはまだ生きている。

あの約立たずのポンコツロボ共、またもやしくじったらしい。

ただ、生きているといっても棺桶に片足を突っ込んでいることには違いない。

腹の傷から、尋常ではない量の血液が流れ続けて床にこぼれ落ちている。  

 

「……っ」

「おわっ」

 

横たわっていたカリーナが瞬時に起き上がった。

かと思えば、妹にすがりつく。

顔は、妹の体に半ば埋まっているせいで見えないが、おそらく安堵した表情だろう。

……なんだろうこの気分は。

胸が苦しくて、焦りに似た感情が頭を支配する。

とにかくこの二人が。否、二人だけで、べたべたしているのが気に入らなかった。 

 

「死に損ないが何しに来たわけぇ?」

 

嘲るように、挑発するように鼻で笑う。

それに対して、名無しの妹はにっこりと笑顔を浮かべて、こう言い返した。

 

「死にに来ました」

「……え」

 

妹に限界までくっついていたカリーナが顔を上げる。

絶望一色だった。

 

「何馬鹿言ってんですか?死なせるわけないでしょ。せっかくまた会えたのにっ……」

「何か勘違いしてますねお姉ちゃん。あたしは、ただ犬死にしに来たんじゃなく、お姉ちゃんへの当てつけのために死ぬんです」

 

まくし立てるカリーナの言葉がぴたりと止む。

妹は、カリーナの顔なぞ見もせずに続ける。

 

「知ってると思いますけど……あたし、お姉ちゃんが世界一大嫌いです。自分だけ名前があって、愛されているあんたが何より嫌いです」

 

だから、自分はわざわざここに来た。

命を捨ててでも姉貴に当てつけ、復讐するために。

理由としてはくだらなすぎる理由に、愕然とするカリーナ。

妹は、自身に絡みつくカリーナの手を振り払うと、覚束無い足取りで俺に向き直る。

 

「いきますよ、化物」

「化物、だと?」

 

名無しの妹の口から、またあの言葉が飛び出す。

俺が一番嫌いな言葉を、よくもそんな簡単に向けられるな。

化物と呼ばれるのが嫌だ。人間じゃないと否定されるのが嫌だ。

というか自分の思っていることを否定されるのが……周りが思い通りにならないことが嫌だ。

俺は世界一可哀想なんだから、何しても許される。

そういう俺の中の常識を壊されるのが嫌だ。

……だから、黙らせてやる。

依然として自身の頭部に刺さったままの釘を引き抜いて、名無しの妹に投げつける。

妹は、容易く回避する。さすがに自分の得物ではやられはしないようだ。

ひとまず間合いをとる気なのか、へたり込むカリーナをそこに置いて駆け出した。 

 

「鬼さんこーちらっ、手ーのなるほーへ!」

「クソガキ待てコラァ!!」

 

命をかけた鬼ごっこが始まる。

しかし怪我ひとつもなく、更にはより小柄な体躯の俺の方が素早いのは道理で、すぐに追いつく。

背を向けて逃げていた名無しの妹の髪を引っ掴む。

バランスを崩した隙を狙い、背に飛びついて完全に転ばせた。

 

「俺を化物なんて呼ぶんじゃねぇ……ッ」

 

馬乗りになって前髪を引っ張り、妹の鼻先に顔を近づけて凄む。

 

「そんな言葉聞きたくもねぇ!!俺を化物なんて、そんなちゃちな一言でくくるな!俺をよく見ろ!見るからに無垢で可愛いだろ?人間らしいってのは、弱そうな見た目をしてればいいんだろ?人ってのは弱いものなのに俺だけ強い体だから一人になった!だからか弱い子供を宿主に選んでんだ!」

「じゃあ何でお姉ちゃん選んだんですか。別にか弱くはないし、そこまで子供でもないですよね」

「うるせぇ!!お前に言って解るかよ!」

「好きなんでしょ」

「……あっ?」

 

好き。って、どういう事だ。

あれか?男女が交尾するための、口実作りに言う言葉のことか?

俺があの小娘と交尾したいと思ってると?

 

「おやおや?顔が赤くなりました?」

「っ、そんなわけ……」

「まぁあんたじゃ無理だと思いますけど。だって」

 

あんたみたいな化物、誰も愛さないですから。

名無しの妹はそうほざいた。

また言った。聞きたくないと言ったのに。言うなと、釘をさしたのに。

気に入らない。気に入らないから、俺はその一言を遺言ととることにした。

妹の腹の傷。もう助かるかどうかも怪しい程の傷に、指をねじ込む。

絶叫が轟く。それを聞くにつけ、俺は幾らかすかっとした。

 

「死ね、死んじまえ。名前もつけてもらえない出来損ないはくたばれ」

「お前がな、です」

 

背後から聞こえた声。

振り向いた瞬間、頬に重い衝撃を感じた。

首の骨が折れる音。皮もちぎれてしまったようだ。

首っ玉だけで数メートル程遠くへ飛ばされる。

 

「うちのユーキちゃんに触んないでくれますか」

 

カリーナだ。また俺を殴り飛ばしたのだ。

 

「おねえ、ちゃ……」

「はい、お姉ちゃんですよ。大丈夫ですか」

 

妹の腹の上に未だ残っている俺の胴体を、カリーナが雑に蹴り飛ばした。

裏腹に、息も絶え絶えの片割れを優しく抱き起こす。

 

「なんで……見捨ててくださいよ……」

「見捨てますよ、あれが本心だったならね」  

 

カリーナは淡々と語る。

どれだけ憎しみが深くとも、嫌いな者に当てつけするためなんかにここまでするだろうか?

考えた結果、出た答えはこうだ。『違う』。妹はきっと、命を捨ててでも何かを成し遂げたいのだ。

この俺を殺すこと?否、それはほぼ不可能だと知っているはずだ。ならばどうして?

……姉のためだ。カリーナはこれから妹を失くす。それは残念ながら確定事項である。

問題は失くした後だ。カリーナは失意のあまり、死を選ぶ可能性がある。

現に、今さっき俺に殺される事を望もうとした。名無しの妹は、カリーナを救おうとしているのだ。自分が憎まれ役を担って死んでいくことで。 

  

「ユーキ、って?」

「あんたの名前です」

「えっ」

「昔、二人で見たアニメあったでしょ。主人公は勇者のユーキ。そこから取りました」

 

妹は目を瞬かせている。

 

「勇者、って……あたし、ただのクズなのに」

「違う。あんたはカリンにとって、れっきとした勇者です」

 

いくら迫害されても、笑顔を失くさなかった勇気。

やり方は間違えたが、全てを捨ててやり直そうとした勇気。

狂気に走ってしまったが、あんたは紛れもなくあたしにとって勇者だった。

カリーナはどこか優しく語りかける。

妹……ユーキの目からぽろりと一雫の涙がこぼれた。

しかし表情はうっとりしている。 

 

「……ユーキ……かぁ。ユーキ。あたし、ユーキ。えへへへ」

 

やっとつけられた名前は、いたく気に召したようだった。

死にかけてるくせに大層幸せそうな顔を晒している。

再びさっきと同じ気持ちで胸がいっぱいになる。

カリーナに差し伸べられた手をとり、ユーキがよろよろ立ち上がる。

双子の姉妹は、示し合わせたようにこっちを睨んだ。 

  

「……ッ」 

 

一目でわかる。俺を……不死身の俺が死ぬまで、殺す気なのだ。

ああ、そろそろ嫌になってきた。

俺はこんなに可哀想なのに、誰も助けないし。

それどころか殺意を持って襲いかかってくるし。

今の俺は首だけだ。胴体の自由は効かない。

そうなった今、逃げるしかない。

このままだとさすがに死ぬような気がする。

生まれて初めて感じる死の恐怖のまま、俺は出口を目指して転がった。

 

 

「あらら、生首が転がっていきますよ。逃げる気なんですかね?」

「ユーキちゃん、鬼ごっこしましょうか」

「鬼ごっこ?」

「あの化物が両親を騙ったのも、一種の運命かもしれません。あたし達の名前はインセグイーレ《追いかける》。追われてるんですよ、運命に。だからこの鬼ごっこ、二人で一抜けしましょう」

 

ユーキは静かに頷いた。

双子は肩を並べて、手を繋ぐ。

もう一方の手で握りしめたそれぞれの武器を、掲げるように俺の方へ向け……声を揃えて宣った。

 

「いきますよ」

  

転がりながら双子の様子を伺っていたが、冷や汗が浮かんだ。

やばい、追ってくる。

死に物狂いで逃げるために、ひたすら前に進んだ。

ユーキが駆けてくる。本当に鬼ごっこのつもりか、さも楽しそうににっこり笑顔を浮かべて。

アイスピックで氷を割る要領で、俺の頭を執拗に狙う。

得物が床に刺さる度に鈍い音がする。

地に足ならぬ耳をつけている俺には、想像を絶する恐怖感を与える。

 

「あはは。覚悟ですー」

「何が、覚悟だてめぇッ!調子のんなや死に損ないの分際で!」

 

双子の中でもより腹の立つユーキに嬲られ、素直に頭に来る。

転がりながらだから周囲を上手く把握しきれないが、カリーナは近づいてくる気配がない。

相手がユーキ一人ならば勝てる。

俺はひたすら前にだけ転がっていたのを止め、代わりに思いっきり妹の腹目掛けて跳躍する。

腹の傷に噛み付いてやろうと思ったのだ。が。

 

「やっぱりそう来ましたね」

 

目論見は見抜かれた。あっさりユーキに頭を鷲掴んで止められる。

罵詈雑言を浴びせる間も与えず、ユーキが俺の頭部を床に押し付けた。

 

「準備OKでっすよ、お姉ちゃーん」

「了解ッス」

 

ユーキの指越しにカリーナが見えた。

すぐ近くではなく遥か上。天井に吊り下げられたシャンデリアの上に。

ハンマーを肩に担いで、俺を見下ろしている。

……まさか、あのメスガキ。

 

「は、離せ!!」

「離すもんですかー。せっかく捕まえたんだから」

 

依然として笑顔を浮かべながら、妹は巨大な釘を俺の額に当てがった。

 

「離せ、おい!離せってんだメス豚!!」

 

けれどユーキは釘を離さない。むしろ暴言を吐く度に釘を押さえる力を込める。

俺にとどめを刺すために。ユーキはやはりにっこりと笑顔を浮かべていた。

 

「あの世で待っててください、偽パパとママ」

 

ユーキの頭越しに、カリーナが高く高く跳躍しているのが見えた。

その手に巨大なハンマーを振りかぶって。俺の脳天を貫く釘を打ち付けるべく。

重力に逆らうことなく、カリーナが近づく。

やめろ、来るな。俺のことを殺すな。嫌だ、死にたくない!やめろやめろやめろ!!

 

「いやだああああああああああ!!!!」

 

釘を打った音が、響き渡った。

痛みは生きている証だとはよく言ったもんだ。

痛すぎて、辛すぎて、一周まわって落ち着いた気分だった。

……まだ生きている。まさか首だけになった上に脳天に釘を打たれても死なないとは思わなかった。

これじゃ本当に化け物だ。 

 

「まだ生きてるんスか」

 

感傷にひたっていると声をかけられた。カリーナだ。 

 

「生きてるよクソが……」

「どんな気分ですか」

 

いやそれ聞いてどうすんだよ。とは思ったものの、俺も自分の気分感情に興味があった。

よくよく、今感じるものについて思考を巡らす。

気分。相変わらず妙な気分だ。欲しいものが手に入らないし、迫害されるし。

とか考えつつも俺は、本当はその気分の名前を知っていた。

『羨ましい』。羨ましかったんだ。

双子が仲睦まじいのも。カリーナのことも。

ただ単に、俺も仲間に入れて欲しかったのを拗らせただけだったんだ。

 

「……死にかけて初めて、自分が理解できた気がする」 

 

そう返した。

  

「俺だけ強かったから、って何ですか」

「あ……?」

「さっきそんなこと言ってましたよね。どういう意味ですか、あれ」

「……あぁ……それか」

 

俺が生まれた時代には、疫病が蔓延していた。

家族もおトモダチも死んだ。みんなみんな、死に絶えた。

ひとり残された俺は、研究材料とし て人体実験を受けさせられ。

いつしか普通の人間を辞めていた。どんな大怪我でも一瞬で治っちまうんだ。

でも肉体の寿命はそのままだった。肉体はいつかは朽ちる。

最後の一人になっても死ななかった俺でも、死ぬんだ。独りのまま。そんなの絶対に嫌だった。

以来、体が朽ちる度に次の体に乗り移って、もう何百年も命を繋いでいる。

なんて可哀想な俺。可哀想なら、その分人生のハンデが必要だ。

つまり何でも許されて然るべき。だから俺と一緒にいろよ。仲間はずれにするなよ。遊んでくれよぉ……。

 

「あーーー。なるほど、あんたの本当の人となりがチラッと見えた気がします。ただのかまってちゃんだったんですか」

「かまってちゃんって……」

「たしかに人間らしいっちゃそうかもしれませんね。いつだかラッさんが言ってました。人間らしいと面影を見やすいとかなんとか。そうですね。あんたの場合、子供じみたとこはベルトさん、わがまま三昧はニルさんに似てます」

 

でもね、と更に続けるカリーナ。

 

「人間味があるってのはすなわち弱さしかない事じゃないんですよ。あんたはそこを見事に勘違いしてる」

「……っ……」 

「うちらは、あんたの遊びの誘いには乗れない。一抜けです」

 

きっぱりと突き放される。目頭が熱くなった。溢れてくるものを止めようと試みるも失敗に終わり。

たちまち俺は、子供のように泣きじゃくる羽目になった。情けねぇ。

我ながら、あれだけ下衆でクズな振る舞いばかりだったくせにな。ははっ。

 

石畳の床を、一心不乱に走り続ける。

顔に火傷を負わされたショックから立ち直れない私は、身も心も逃げるのが辞められず、ひたすら走っていた。

視界の端に見えたドアには、『武器庫』という表記。

記憶が正しければ武器庫はだいぶ奥まった場所にあったはずだから、ずいぶん走ったのだと悟る。

けれど走りすぎたのかもしれない、足がもつれて派手に転んだ。

 

「……っ……」

 

……何してるんだろう、私。

雑魚も、チビッ子も、一般人のパティでさえ、みんな戦っているでしょうに。

どうして一人で逃げているの?逃げ切れると思ってるの? 

一度、目を閉じて考える。私は何がしたいの?

思い出して。私がした事。まず、恋人を裏切った。

仲間を刃物で傷つけて、その妹を殺しかけた。

今更できることなんてないじゃない!私みたいなクズに、何ができるっての!?

 

『ニル』

「……!」

 

誰かに呼ばれた気がした。実際には呼ばれていないとは思う。

けど、私はその声に何か確かなものを感じた。

……まだ遅くない。何とかしたい。今からでも。

まだ誰も死んでいない。

カリンもキースもラスカルもベルトもブルーノもパティも。

やったことが事だから、当然許してくれないだろうけど、罪滅ぼしだけでもしたい。

どんなにクズ人間でも、人に許され愛され認められたいなら、まず反省しなきゃいけないはず。

子供だって、悪いことしたら謝るもんね?

でもその前に、私なりのけじめをつけよう。

そんな覚悟を胸に、私は目の前の武器庫へのドアを開けた。

 

――――

――――

双子の活躍により、社長は倒された。

同時に、支配下にいる全ての黒服人形が機能停止する。

しかしながら、一人だけ依然として戦い続ける者がいた。キースである。

発狂寸前まで錯乱したまま、彼は暴れ続けていた。

もう向かってくる者も、立っている者もいないのに。

 

「おい」

 

不意に背後から声をかけられた。振り返りざまに一発叩き込んでやろうとするキースだったが、カウンターのごとく何かを浴びせかけられた。

冷たい。水だ。キースが一番嫌いで怖いもの。

まるで内臓に火がついたような絶叫を上げて、キースは目の前の人物にがなる。

 

「な、何すんだてめええええええ!!」

「正気に戻ったかァ?」

 

水をかけたのはクローバーだった。

彼が空になった木製のバケツを足元に放れば、その場にはやかましく落下音が響く。

そこでようやく、キースは周りの状況に気付く。

 

「あれ、何してんだ僕……」

「おい小僧。お前テッド・アンダーソンについて本で調べたんだよなァ?」

「あ?あぁ」

「どんなジャンルの本を読んだ」

「歴史と、過去の事件関連だけど……」

「そうか。ならこれは読んでないな」

 

クローバーはおもむろに、自分のスマートフォンを取り出した。

何かを検索していた様子だったが、やがて差し出される。

画面に映し出されているのは、電子書籍サイト。しかも絵本コーナーだ。

 

「読んでみろ」

 

促され、画面をタップした。

 

 

――――

――――

むかしむかしある所に、家族のいない男がいました。

彼は悪者でした。

ひとを傷つけて、泣かせて、死なせて。

嫌なことをたくさんしていたので、だぁれも彼を好きになりませんでした。

今日も悪者は悪いことをします。

今日の悪いことは子供をさらうこと。

遠く離れた国の貧しい子供たちをさらって、もっと悪いひとに差し出すのです。

大勢の子供たちがさらわれていきます。

みんな家族がいない子でした。

悪者は、なんだかいやになってきました。

ひとりで泣いていると、なんと最後のひとりの男の子が心配して声をかけてくれました。 

 

「だいじょうぶ?」

 

悪者は驚きました。こんなふうにだれかに優しくされたのははじめてだったのです。

悪者は男の子に優しくしかえしてあげたいと思いました。

どうすればこの子にうれしがってもらえるだろう。

考えた結果、悪者はいいました。

  

「僕と家族にならないかい」

 

ふたりは家族がいない同士、楽しくあそびました。

でもいつまでもあそんではいられませんでした。

もっと悪いひとが、しごとをほったらかした悪者に怒ってしまったのです。

お別れのとき悪者は家族のしるしに、自分のかぶった帽子と名前をあげました。

こうしてふたりの家族ははなればなれになってしまいました。

けれどどんなに一緒にいた時間がみじかくっても、けっして心ははなればなれになりません。

男の子が、家族のしるしをもっているかぎり。

 

 

「これって……」

「お前とテッドの話だ」

 

さらっとクローバーは言うが、キースは混乱の極地である。

どういうことだ。テッドは家族ではないはずではなかったのか?

 

「お前、言ってたじゃねぇか。助けはしても情は無かったって」

「俺が嘘つきだっての忘れたのか」

「また嘘かよ!?」

 

そこでクローバーはいつも通りせせら笑う。

……と思いきや、少しバツが悪そうにうつむいて「すまなかった」と謝罪した。

初めてクローバーがキースに謝った。

 

「この本読めばわかるだろォ。羨ましかったんだ。極々短期間しかそばにいなかったのに、確固たる絆を紡げたお前らが」

 

クローバーとの関係はそれこそまだそう長くない。

けれど、彼が嫌な奴だということはよく知っている。

だからこそ嘘をついた理由は納得ができそうだったが、いまいち信じきれなかった。

 

「嘘だ」

「本当だよ」

 

遠巻きに見ていたベルトが割り込んできた。

 

「このロボット共は心がある。その心の中心にいたのはお前だ。その証拠に、お前だけは襲わなかったべ?さっきだって帽子を落としたお前に帽子を返そうとしてたし」

 

言われて思い出す。自分がキレた理由を。

大事な帽子を奪われたと思い込んだからだ。

そもそもなぜ帽子をそこまで大事にしていたのだったか。

ずいぶん昔のことだから、思い出すのに苦労する。

 

「あ、キースちょい来てみ」

「……?」

 

ベルトが呼ぶので目を向ける。

彼は何やらしゃがみこんでいて、その足元には機能停止した黒服人形の一体が横たわっていた。

手招きされるままに近づけば、次第に耳に届く自分を呼ぶ声。

 

「キース……キース……」

 

テッド・アンダーソンの顔をした機械人形が呼んでいる。

機械音声ながら、どこか感情の滲む声で。壊れかけていても尚、キースを呼ぶ。

……僕は間違っていなかったのか。最初に抱いていた目的は、理由は、正しかったのか。

テッドは血は繋がっていなくとも、たしかに家族だったのか。

でもどうしよう。僕はこんなにクズになってしまった。

テッドの、親父の額を、何発も撃ち抜いてしまった。

せっかく家族として愛してくれていたのに。

 

「気にすることねーよ」

 

心を蝕むような後悔を、ベルトが見透かす。

 

「だってほら、よく見てみろよ。こいつらのこの顔」

 

言われて、改めてテッド人形の顔を覗き込む。

優しく安らかな顔だった。目と口元は気持ち微笑んでいる。

人間でさえ相当心が満たされている状態でなければ、こんな表情はできないだろう。

 

「親父……」

 

ぽつりと、テッドをそう呼ぶ。

小さいながらその声が届いたのだろう。

その場に倒れ伏す全てのテッド人形が、満面の笑みを浮かべたのを最後に、動かなくなった。

 

「……ッッ」

 

テッド達の死を見届けた途端に、疑問と怒りが湧き上がる。

何故だ、なぜこんな事になった。キースは考える。

たしか親父は僕を助けた後、イブムニアに連れ戻された。

きっとろくでもない目にあわされたに違いない。

よく似たロボットを複製され、戦わされた挙句、監獄で弱りきって死んだのだから。

誰がそうしたのか?そんなもの愚問だ。

 

「おい……あの黒いガキどこだ」

 

もふもふ。もふもふ。

戦況が落ち着き、辺りがすっかり静かになった頃。

尚もパティは謎のアライグマしっぽの触り心地を堪能する。

 

「ベル、大丈夫け」

 

だだっ広い処刑部屋の隅にて小さくなっていたところ、ベルトが寄って来た。

七三分けの髪は乱れに乱れて、いかにも疲れきっている。 

 

「は、はい、お陰様でっ……」

「よしよし元気そうで何よりですこと。っつかあんた何抱っこしてんの?」

「あ、これですか?見てください!」

 

未だ腕の中に収まり、癒しを提供してくれる存在を高々と掲げてみせる。

それを見るにつけベルトはぽかんとしている。

  

「何ぞそれ」

「しっぽです!何故か落ちてたんですけれど、触ってみます?すっごくもふもふでいい気持ちですよ」

「いや、そうじゃなくてさ」

 

ベルトの顔が次第に引きつっていく。

更には、青ざめているようにも見える。

不思議に思いながらも視線でどうしたのかと尋ねれば、ベルトは言った。

 

「なんで、あんた、そんな物騒なもん持ってんの……??」

 

 

 

――――

――――

辺りがすっかり静かになった。

なかなかの負け戦だったものの、勝ったのだ。

つまりは生き延びれた。友達との約束を果たせたわけで。

それが彼女にとっては、とても嬉しかった。

 

「ラスカル」

 

けれど、突然かけられた暗く低い声に気分は台無しにされる。

 

「く、クローバー……」

「話したいことがあるんだが、少しいいかァ?」

 

正直、彼とはあまり接したくなかった。

和解したとはいえ、許した訳では無いから。

クローバーもそれは察しているようで、目が泳いでいる。 

 

「お前なんで俺のことを助けようと思ったんだ」

「……、……臨死体験」

「は?」

「死にかけてルークに会ったんだ。その時にきみを助けてやれって言われた」

「それだけかァ?」

「違うよ。ルークね、ぼくにコレよこしたんだ」 

 

そう言って首に提げた懐中時計を開いて見せた。

時計の中には、一枚のポラロイド写真が挟まっていた。

写っているのは黄色いコートを着たメガネの少年、濃いクマがある暗い表情の少年、首に包帯を巻いた中性的な子。

十一年前のルーク、クローバー、ラスカルだ。

 

「全部壊れたけど、たしかにぼくら三人組で楽しい思い出を作ったこともあったろ。それを忘れたくは無いんだ」

「……、なァ」

 

クローバーが片膝をついた。

かと思えばラスカルの両手を握りしめ、更には顔を近づける。

 

「え、ちょ、なに……」

「こんな事急に言われても困るのは百も承知だ。傷つけるのも承知だが、それでも聞いてくれ」

「へっ?」

 

状況が上手く飲み込めないラスカルは混乱する。当然といえばそうだ。

ただでさえ史上一番のトラウマそのものに至近距離で話しかけられているのだから。

恐怖によるストレスで目が回る。

彼の方も緊張からだろうか、ラスカルの様子に気付かず。それどころか握ったラスカルの手に、祈るように額を寄せる。

 

「チビ……ラスカル。この11年間、お前のことばかり考えてた」

 ……はぁ」

「お前にしたことは決して忘れないし、許されるとも思わない」

 ……はぁ」

「だが、それでも伝えたいことがあるんだ」

「……はぁ」

「……俺は……俺は、お前が大切だ。多分ニルギリスよりも」

……はぁ」

 

言う事を言おうと思っているのに、何を言っても同じリアクションしかない。

さすがに気づいたクローバーが、半ばしがみついた状態の手を離す。

……ラスカルは、目を回して失神していた。

恐怖のあまりキャパシティオーバーを起こしたのだ。

 

「……、……、……、………………ハァーーーー……」

 

とんだ負け戦だ。先が思いやられる。

クローバーの谷底のごとく深いため息が、処刑部屋にこだました。

 

 

 

――――

――――

執着していた相手にも突き放され、自身は首だけになり。

痛いわ寂しいわで、社長は依然として泣きじゃくっていた。

泣いてもどうにもならない。

けれど地獄にも蜘蛛の糸が垂れたように、こうしていれば自分にも救いがあるように思えた。

 

「何を泣き喚いてやがんだ」

 

……間違いだった。蜘蛛の糸どころか、帽子を被った鬼が来た。

 

「よぉ」

「ッ……お、お前……」

 

キースが来たことにより、社長は一瞬で泣き止む。

喜びからではない。度を超えた恐怖心からだ。

 

「化物、お前よくも僕の親父を死に追いやってくれたな」

「……何の話だか」

「とぼけなくてもいい。クローバーに全部聞いた」

 

大広間にてキースと邂逅した際、社長はキースに対して怯えたような様子を見せた。

社長は、キースが怖いのだ。

起因するのは十一年前。アンダーソン親子を引き裂いた後、残されたキースを物見遊山で見物に行った時のこと。

キース少年を見た社長は、戦慄する。

彼はとても少年の目とは思えない憎悪に染まった目で、まっすぐ前を睨みつけていた。

その時社長は確信した。この小僧は、いつか必ず俺を殺しにくるだろうと。

だから、クローバーにキースを殺すよう命じたのに。

 

「遺言は聞かない。死ぬかどうかも怪しいし。さて、覚悟してもらおうか?」

「よ、よぉ、待てよ!」

 

銃を構えてさっそく引鉄を引こうとするキースに、社長が待ったをかける。

 

「いいのかよ?俺にゃあ、もうひとつだけ切り札があるんだぜぇ」

「……切り札、だぁ?」 

 

往生際の悪いあがきだとばかり思ったが、社長はどこか本気めいた顔だった。

 

「ゲテモノチビのケツに尻尾付いてただろぉ?あれな、爆弾なんだぜぇ」

「……あぁ、そういや本人が言ってたな」

「本当ならゲテモノが牢を脱走した時点でドカン、なんだが故障してるらしくてよぉ。俺が今スイッチ入れて、お前ら全員道連れにしてやってもいいんだぜぇ?なぁ、どうする!?」

 

どうやらそれが社長の最終兵器らしい。

口ぶりからするに少なくともこの場にいる全員を吹き飛せるほどの威力はある模様だ。

しかしながら、この話は交渉にも脅しにもならなそうだった。何故ならば。

 

「で、その尻尾爆弾はどこにあんだ」

「………………えっ」

「あらいぐまの尻尾は休暇とってベガスにでも行ってるぞ。つまり、ここには無い」

 

社長は開いた口が塞がらない。改めて社長の詰みである。

鼻を鳴らし、再び引金に力を込める……が。

背後から何かが突進してきたせいで未遂に終わった。 

 

「キース〜〜〜!!」

 

ベルトだ。

何やら極度の興奮状態のようである。

当然キースの機嫌は最悪で、今度は彼を撃とうとさえする。

 

「ンっだてめぇは、こんな時にいい歳してはしゃいでんじゃねぇ!」

「誰がはしゃぐもんですかっての!!やばいって、アレ、アレ!」

「あ!?」

 

ベルトが指さす先には、立ち尽くすパティの姿。

その腕の中には、いかにももふもふしていそうな動物の尻尾が抱えられている。

そう、尻尾だ。茶と黒の縞模様の、アライグマの尻尾。ラスカルの、爆弾が付いた尻尾。

 

「えええええええええ」

「あわわわ……ど、どうしましょう……」

 

物が物なだけにどうすればいいのかわからず、ただただ立ち尽くす。

手放せば爆発するかもしれない。持っていれば社長が爆発させる。

ほら見たことか、やっぱり私はダメな奴だ。

爆弾なんて恐ろしいものを抱きかかえて、あまつさえ癒されていたなんて。

また泣きそうになっていると。

 

「きゃ!?」

 

バレーボールのトスよろしく腕を下から力一杯押し上げられ、尻尾爆弾を手放してしまった。

見ると、社長の首無し胴体が動いている。

そんなのありかと言いたくなるが、きっと化物に限界はなく無限大なのだろう。

 

「何を騒いでる、……ッ!?」

 

しばしの間姿が見当たらなかったクローバーが、ラスカル(何故だか気絶している)を背負ってやって来る。

彼の無駄に長い足、その脛に、社長(胴体)が蹴りを入れながら通り過ぎていった。 

 

「どーやら、俺の形勢逆転勝ちらしいなぁ?」

 

社長()がいやらしく笑う。

言うまでもなく、スイッチを入れる気満々という顔だ。

スイッチは恐らく奥歯かどこかに仕込んであるのだろうか、口をやたらと大きく開けている。

 

「まて、早まるな!」

「社長……死ぬ時くらい他人に迷惑を振り撒かないでいただけませんか」

「うるせぇ!!俺は一人で死ぬのは御免なんだよ!」

 

社長の可憐な目は血走って、明らかに正気ではなく。

やばい、と誰もが直感せざるを得なかった。

一目散に出入り口へ駆け出していく一同に向かって、社長は叫ぶ。

 

「逃げてんじゃねぇぞテメェら!!今更命が惜しくなりやがったのか、あぁ!?」

「そりゃそうだろ、こんな事で死んでたまるかよ!」

「死ぬんだよ!どうせ俺もお前らもみんなクズだ、生きる価値ねーんだ、なら道連れにしてやらぁ!!」

「なら、私だけ連れて行ってください、社長」

 

と、ここでまさかの人物のまさかの申し出に、その場にいた全員が目を見張った。

 

一人だけ逃げもせずにその場に留まっていた人物、パティ。

彼女の行動挙動をその場の誰もが不審に思う。

何をしているのか、こいつは?吹っ飛んで死ぬのが怖くないのか?

 

「誰だしお前」

 

不審なあまり、少しだけ理性が取り戻った社長が訊ねる。

 

「あっ、も、申し遅れました。私ブランクイン本社副社長秘書、パティ・ホプキンスと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」

 

初々しさは残しつつもきちっと自己紹介し、パティが腰を折った。

 

「社長、お、お言葉ですが、先程の発言を撤回していただけませんか」

「あん?」

「み、皆さんはクズで生きる価値がない、と仰ったでしょう……っ」

 

怒っているのか緊張しているのか定かではないが、パティの桃色のくちびるは震えていた。

 

「この場にクズなんて呼ばれるべき人は、私だけのはずです」

 

ここに自分以外クズはいない。私からすれば社長でさえクズだとは思わない。

社長はただ誰かにそばにいてほしかっだけ。そしてそのために懸命に生きてきた。

どんな事をしようが何を言われようが、人間は生きていればそれだけで誇れるものだから。

だけど、私は違う。何をしても上手くいかない。

人助けしたくても、戦おうとしても中途半端に関わるだけで、まるでダメだ。

生きる価値がないと言われるとするならば、私のはずだ。

パティは、つっかえながらも演説しきる。そうして更に続けた。

 

「だから、一緒に地獄におちましょう」

「……何言ってんの、あんた」

 

ベルトが不機嫌を隠そうともせず唸る。

 

「くだらない演説して満足かいおねーちゃん。ふざけたこと言ってねーでさ、逃げるぞ。来いよ」

 

ベルトは雑に彼女の手をとろうとするが、振り払われる。

 

「おい……!」

「すみません、いいんですよ」

 

パティははにかんでいた。

この状況で何を笑っているのか。見ようによっては狂気の沙汰ともとれる表情。

その裏にあるものを、ベルトだけが悟れた。

彼女は嬉しいのだ。生まれてはじめて人の役に立てると思っている。

ポンコツな自分が、最期にようやく他者に感謝してもらえる。意味のあることができると。

 

「そっか。一緒に死んでくれるんだぁ」

 

社長が満面の笑みを浮かべた。

天使の顔した悪魔は、愛らしく笑ったまま宣う。

 

「じゃ、みんな死んどけ」

 

カチリ。社長の歯が噛み合わされた。

 

社長を倒し、戦いを終えた双子。

最後まで社長を取り押さえるのをやめなかった妹……ユーキを姫抱きにして、カリンは処刑部屋の隅に移動した。

 

「お姉ちゃん……そこにいます?」

 

比較的綺麗な所にユーキを横たわらせた。

もう目も見えないのか、ユーキはそんな事を言う。

出血し過ぎた。致死量はとっくに超えて、まだ生きているのが不思議なくらいだ。

死は、じきに彼女の命をさらっていく

 

「ずっとそばにいますよ」

「それは、ダメです。離れて、あたしみたいな奴のこと、忘れてください」

「嫌です」

「お姉ちゃんは、前に進まなきゃ。生きてる、んだから。約束、してください」

「嫌です」 

「お願いしますよ……あたし、お姉ちゃんに呪いかけるみたいなこと、したくない」

 

このままだとカリンは、ユーキのことを忘れられず、縛られ、呪われる。

ちょうど友人を失くしたっきり縛られ続けるラスカルのように。

カリンはいつも、ラスカルのそれが不憫だと思っていた。

けれども今ならラスカルの気持ちがわかる。

人によっては呪われる事が救いであることもあるのだ。

いっそ呪われたい。妹を忘れるくらいならば、一生涯縛られた方がいい。

 

「カリーナお姉ちゃん……」

 

困った様子のユーキをただただ抱き締める。

 

「……?」

 

部屋の向こうから、騒ぎ声が聞こえる。

何だろうと視線を向けた時だ。

眩しい光が目を刺した。

 

 

――――

――――

社長が全員を道連れにするべく、爆弾のスイッチを押した。

全員が爆風、爆熱にさらされ、吹き飛ばされた。果ては爆発の衝撃で床が抜けてしまい。

それでも尚、ちゃっかり全員が生き残っていた。煤にまみれて傷だらけながら、何の恩恵か知らないが生き延びた。

現在は底が燃え盛る大きな穴に落ちかけているのを、縁に掴まって耐え忍んでいる。

まるで地獄だ。落ちたら確実に死ぬだろう。呼吸が苦しい喉と、何かが燃える臭いがとにかく不快だ。 

 

「……おい、みんな生きてるか……?」

「死んでるよ……」

「滅多なこと言うんじゃねェ、本当に死ぬぞ」

 

縁に掴まっているのは三人。クローバー、ベルト、キースである。

クローバーの体にはラスカルが。

ベルトの体にはパティが。

キースの体には双子がぶら下がっている。

……ただ一人、社長の姿だけはなかった。炎に落ちたようである。

 

「何でクローバーの野郎は一人だけ荷が軽そうなんだよ……」 

「偶然だろォ」

「とにかく早くよじ登ってくださいよ、人間チャーシューになりそうなんスけど」

 

ぶら下がった腕に力を込め、男達は這い上がる。

やはりというか、一番荷の軽いクローバーが一番最初に這い上がることがかなった。

ベルトとキースはなかなか這い上がれずに悪戦苦闘中だ。

クローバーはというとそんな二人をじっと見下ろしたまま、何もしない。

人間観察だろうか。アサガオでも観察していた方がよほど建設的だろう。

  

「よ、……っと」

 

続いてベルトも、パティと共に床上に這い上がった。

残るはキースのみである。 

 

「おおおお重ぉぉおおおッ……ダイエットしろよ二人とも!」

「します、すればいいんでしょ。わかったから早く。この子が限界なんです」

「おい!お前らなに高みの見物してくれてんだ、仲間助けるって頭ないのかよ!」 

「助ける理由はない」

「俺はほらドSだから」

「最低か!!登ったら絶対しばき倒すからな……ッ!!」

 

漲る復讐心に力を与えられた矢先、キースの全身にかかる重力が増した。

双子がふざけて暴れたりしているのか?何にせよシャレにならない事をするなと叱るために下を向いた。

目に飛び込んできたのは世にもおぞましい光景。社長がいた。

火傷にまみれた頭部だけでカリンの脚に齧り付いている。炎の中に落ちたのにまだ生きていたらしい。

 

「カリーナぁあ……」

「あんた、いい加減にしつこいですよ」

「ひとりは嫌だ、お前を連れていく、さっさと落ちろっ……」

 

キースはもちろん、双子に負荷がかかるのもまずい。

妹・ユーキはもう意識が朦朧としているし、カリンはそんな妹を抱えながらぶら下がっている。

瀕死で力の入らないユーキの体は相当に重いはずだ。三人全員に負担が大きい状態である。

ただでさえ非力な一般人女性だからと隅で小さくなっていたパティが、一目散に前へ躍り出る。

が、ベルトに腕を掴まれあっさり引き止められてしまう。

  

「ベルさん離してっ……!」

「あんたただの秘書さんだべ」

「だから何です!いいんです!私みたいな約立たずの命なんかっ……」

「約立たずなんかじゃねーから簡単に命捨てようとすんなよ!!」

 

ベルトが初めて怒鳴った。

基本ふざけているというかちゃらんぽらんな彼だから、ショックで硬直するパティ。

硬直ついでに泣きそうになっているところ、不意にベルトに強く抱きしめられた。

今までの加虐的な態度とまるで違う、気遣いに満ちた力で。

 

「あんたはな、とびきり勇気があるのに優しすぎんだわ。他人に甘く自分に厳しすぎて、自分の価値がわかってない。あんたは愚かしいほど立派な人だよ。誰かのために生きて、死のうとするんだから」

「……り、っぱ……?」

 

体つきはともかく、人として立派なんて初めて言われた。

 

「大丈夫だから。あんたはちゃんと認められてるよ、少なくとも俺には」

「……っ……」

 

状況を完全に忘れるほど、嬉しい気持ちで満たされる。

認められた。やっと。

自分でも自分を愛せなかったけれど、人間として愛されるに値すると認めてくれた。

歓喜でいっぱいになる。とともに、感じたことの無い胸の高鳴りを覚える。

それに、抱きしめてくれる腕から伝わる温度がとても心地よくって。

 

「……ベルさん……あの……」

「あ?」

「私、今ちょっと形容しがたい気持ちになってます……だから、目を見てほしいです。この気持ちを悟って、教えてください。自分じゃ分からないので」

「やだよ。嫌いだもん、あんたの目」

「じゃあ……しばらくこのままでいてください」

 

そんな二人を尻目に、クローバーがキース達を引き上げようと懸命になっていた。

ところがキースの手は人差し指がちぎれているため、血でぬめって上手く掴むことがかなわない。

こんなところで自業自得というものを味わうとは。

 

「カリン、そいつ早く落とせッ、もう限界ッ……」

「……っ」

 

極限状態の中、カリンは考える。

この状況で、優先すべきは誰の命か。

キース?彼は同僚。そしてカリンが雇っている従業員である。

長年の目的がようやく報われたようだし、このタイミングで死にたくはないだろう。

 

ユーキ?彼女は最愛の人であるが、いかんせん瀕死だ。もうじきに死んでしまう。

 

ではどうする?……決まっている。

 

「カリンが、」

「あたしが落ちればいい感じ、ですねー?」

 

カリンの無感情な声と、もうひとつ。

場違いなくらい明るい声が重なる。ユーキの声だ。

自分が落ちればいいというユーキの台詞。

それは、今まさにカリンが言い放とうとしたものだった。

珍しく本気で驚いた表情を見せたカリンに、ユーキはいたずらっぽく笑った。

 

「かっこいいとこ取りしようとしても無駄ですよ、お姉ちゃん?」

「なんでわかったんですか……?」

「双子だからとしか言いようがないです〜」

 

カリンの腕の中で、ユーキが身動ぐ。

ただでさえ腕の力が限界なのに、そんな事をされたら、離してしまう。

意地だけでユーキを抱え続けるカリン。けれどユーキは抵抗を止めない。

 

「離して、カリーナお姉ちゃん」

「やです」

「カリーナ。あたしどうせもう死ぬんだから、ね?最後くらいあんたを守らせてくださいよ。恩返ししたいよ」

「やだ」

「カリン!!」

 

初めてユーキが、姉を。カリーナではなくカリンと呼んだ。

親に決められた死んだ名前ではない。自ら決めた、新しい生命に満ちた名前を。

はっとした途端、ユーキを抱いているカリンの腕から、とうとう力が抜けた。限界が来たのだ。

ユーキは滑るように落ちていく。落下しながら、カリンの脚に齧り付く首だけの社長の頭をかっさらう。

 

「ユーキ!!!」

「カリン、お姉ちゃん」

 

社長を抱きしめたまま、炎の中に落ちていく。

ユーキは最後の最期まで明るく笑っていた。

 

「ッ……?」

 

急に自身の負担が軽くなったのを、キースは感じ取る。

しかしながら下を確認する余裕はあるはずもなかった。

血でぬるぬると滑る手が、もう限界だった。

 

「おい、小僧、絶対離すんじゃねェぞテメェ……」

 

辛うじて掴まれている手を離さないためか、下手な鼓舞をするクローバー。

 

「お前が死んだら、困る」

「はぁ!?」

「お前を光だと思ってる女がいる。お前が死んだせいでそいつが笑わなくなったら、困る。だから絶対離すな」

「こっちだって離したくねぇよ!けどっ……」

 

言っている傍から、力がかくんと抜けた。

一瞬だけ時が止まった錯覚に陥ったが、すぐに気持ちの悪い浮遊感に襲われる。

疲労困憊で絶叫する余裕もなく、キース達は落ちていく。

……刹那、顔に何かが触れた。柔らかい、いい匂いのする長いもの。

それが何なのか理解するよりも、藁にすがる思いで腕を絡ませた。

 

「キース、カリン、大丈夫!?」

 

涼やかな女の声が降ってくるので、顔を上げるとニルがいた。

ただし先程とは打って変わった様子である。

左頬にハートマークに似た大きな火傷があるのと、あれだけ特徴的だった長い長い髪が短くなっている。

まさかと思い目の前の、今自分がしがみついている物を確認する。ニルの髪の毛だ。

髪を切り落としてロープ代わりにしたらしい。

 

「早く、上がってきてちょうだい。私の髪細いから、長くもたないわ……!」

「お、おう」

 

 

――――

――――

ニルが戻ってきたおかげで、地獄のような空間から抜け出す事がかなった。

地上へ這い出て、生還者たちが地にひれ伏す。

見上げる空は明るく、吹く風は爽やかで、生を実感することができた。

 

「なぁ……あの化物、あれで死んだと思うか」

「さぁ〜〜。でもさすがにくたばってて欲しいわ」

「……あの」

 

すっかり髪が短くなったニルがおずおずと声を立てる。

過半数がじとりとした視線を向けた。

痛いくらいの敵意を肌が感じ取る。非道な行いをしたが彼女も人間だ。

こんな空気に晒されたくはない。

怖い。嫌だ。誰かに助けてほしい。けれどダメだ。もう甘える事は許されない。

 

「皆、本当に、ごめんなさい」

 

そろりと跪く。そっと地に指先を付けて、頭を下げた。土下座である。

 

「私のせいで皆が迷惑したこと、心から謝らせてください。どうか許してください……っ」

「許されると思うのか。あれ見ろよ」

 

冷たい声をかけたのはキースだ。

あれ、と指差した先には、カリンがへたり込んでいた。

彼女は喉を掻きむしっていた。

チョーカーは足元に無造作に放られ、下に隠れていた傷をこじ開けるように。

開いた傷から血が流れる。痛々しい姿に、誰もが不憫に思う。

けれど誰も止めなかった。止められない。

最愛の人を失くした痛みを知っている者はなおさら。

 

「カリン……」

 

ニルが声をかけても反応しないで、ただ喉を掻きむしる。

取り返しのつかないことになったのを、痛感した。

 

「おい」

 

自らを引っ掻き続けるカリンの右手を掴んだのは、意外にもクローバーだった。

掴んだとはいえ、カリンは掻く手をもう一方の手に変えただけだったが。

 

「片割れ失くして辛いのはわかるが、そうウジウジするな。お前は何も約束しなかった。呪いになるようなもの残されなかったんだ、それでいいだろォ」

 

優しいような冷たいような、不思議な言葉だった。

クローバーはこんなふうに他人を叱咤激励する男だったろうか?

皆疑問に思いながらも、彼の次の言葉を待つ。

  

「なァ、やめろと言ってるんだが」

「……」

「そのまま死ぬ気かァ?お前の妹はそれを望まなかったのに」

 

ぴた。カリンの血濡れた手が止まる。

そしてクローバーを振り返った。涙も枯れきった、色のない瞳だった。

その瞳は無言で訴えかけていた。どういうことかと。

 

「手枷壊してやる代わりだとかで、あいつに頼まれた。お前が後追ったりしないように止めろってな」 

  

パティが鍵を折って、クローバーの手枷を外すのはほぼ不可能になった。

そこへユーキが現れて、手枷を破壊してくれたのだという。

自分はもう死ぬから姉をよろしく、という条件つきで。

 

「だからそんなに自分を傷つけるな。死にたいなんて微塵も考えるな。誰も恨むな。それがあいつからの最後の情だ」

 

「クローバーの言う通りだぜ、皆の衆」

 

と、ここで気の抜けたような声が、張り詰めた空気をぶち壊す。

一斉に視線を集めた声の主は、ラスカル。

今までずっと気絶していたのが、このタイミングで起き出したようである。

 

「みんな、巻き込まれて怒るのもわかるけど、ニルを恨んじゃあダメだよ。罪を憎んで人を憎まずって言うだろう?」

 

だるんだるんの袖を振り回して、ラスカルは宣う。

自分とて、友人が殺されるきっかけを作られただろうに、恨んでいないのだろうか。

 

「ね。頼むよ、みんな」

「……あらいぐまお前、どうしたんだよ。ちょっと前までほぼ流れ任せだったのに」

「はははー。理由はあるけど秘密」

「許して、くれるの?」

 

ニルが先程よか幾分明るくなったトーンで、ラスカルに話しかけた。

あんな事をしても、仲間だから許してくれるのだと、希望を見出したのだ。

ラスカルがゆっくりとニルの方を向く。……言動とは似ても似つかない目だった。

背筋に冷たいものが走ると同時。

ラスカルの右拳が彼女の顔目掛けて突き込まれた。

ちょうど、顔面の火傷辺りに。

思いがけない衝撃を受けてニルは草原に倒れ込む。

 

「ちょ……ま、待っ」 

「勘違いしないでくれるかね。きみがやったことは許せないし許さない。きみのせいで失くしたものは二度と戻らないんだから」

 

ただ、とラスカルは続ける。

 

「きみには少なからず恩がある。それを忘れて手を汚したくはない」

 

恩。ラスカルが閉じ込められた後ニルは、世話係になった。

ラスカルはなかなか心を開いてくれはしなかった。が、ニルは諦めず。

やがて精神科医の免許をとるまでになって、ラスカルに寄り添い続けた。

今となってはその行動の裏が読める気がするが、ラスカルにとっては紛れもなく恩なのだろう。

ニルがやってきたことは、全てが全て悪ではなかったのだ。

 

「……」

 

ただ、ラスカルは。

否、その場に居るほぼ全員が感じ取っていた。

ニルの手酷い裏切りとその事実を知っているかぎり、いつか誰かが彼女の寝首を搔くだろうと。

爽やかな野風に、ざらつきが混じりかける。

 

「ニルさん」

 

と、ここでとある人物が声をかけた。

無感情な上にがさがさな少女の声。カリンだ。

 

「あんたは何がしたいんでしたっけ」

 

投げられる不思議な問いかけ。

その場の殺伐とした空気が、一瞬緩む。

 

「愛されたい、とかなんとか、言ってましたよね。今こんな状況でも変わんないッスか」

 

カリンはニルの顔を見ようともせずに、淡々と喋る。

 

「仲間を裏切ってまで叶えたかった目的なら全うしたらいいです。ただ、このままのうのうと受け容れられるとは思わないでください」

「ぅ……じゃあ、どうすれば……」

「よく話し合ってください、クロさんと」

 

喉を掻きむしったせいで自らの血に濡れた手、その指先をクローバーへ向ける。

 

「許し合うならいいでしょう、キレて殺されるもいいでしょう。全てはクロさんに任せます。皆さんもそれでいいッスか」

 

同僚たちは各々視線を合わせ、頷いてみせた。

カリンは呼びかけておきながら、やはり俯いて誰の顔も見ないままだったが。

 

「それよりさ、もうバタンキューしていいっすか?」

「ああ、もう限界だ、指痛てぇし……」

「ぼくも、頭痛い……」

「俺ももう疲れたんだが……」

「私もですぅ……」

「ちょ、皆大丈夫!?」

 

ニル以外の、満身創痍な全員が草原に倒れ伏した。

引きずって病院まで連れていこうにも、女の細腕では無理がある。

救急車ははたしてこんな山奥まで来てくれるのか。

 

「……どうしようかしら」

 

途方に暮れるニルだった。

mission:病院脱走せよ

地下での大騒動収束から早くも一週間が経った。

全員満身創痍だったため、やはりというか病院に担ぎ込まれる羽目になり。

現在全員が入院中である。

傷ついた心身をゆっくり癒すべく、束の間の療養生活を送っている。

……かと思いきや、どうやらそうではなさそうだ。

 

「……なぁ、頼むよ、勘弁してくれって」

「ダメだ」

「俺が何したっつーのよ!?俺はただっ」

「お前もニルに負けず劣らず、人様に迷惑かけまくったろうが。その報いは受けてもらう」

「忘れてたべや!」

「思い出したから復讐する」

 

ベルトの額に押し当てられたものが、無機質な音を立てる。

 

「くたばれ」

 

無情にもベルトの額に向けて、それが発射された。

じょろじょろじょろ。

冷水が、ベルトの顔を伝って滴り落ちていく。

 

「キースくーん……」

「泣け喚け叫べ!このクソ野郎が!!」

「叫ばねーよこんなちょろちょろ程度で」

「叫べよ!!」

「キース、何やってるんだぃ?」

 

その時、出かけていたラスカルが、病室へ戻ってきた。

売店のものだろうか、腕に袋を提げて、口にはシガレットチョコを咥えている。

 

「あ、ラッスー!ちょっとコレやめさせてくんね?地味に辛いんだよ、真冬に冷水浴びせられるって!」

「キース、八つ当たりはおやめ」

「ちぎれた指を、勝手に万能高枝バサミに改造されたんだぞ!?八つ当たりしなきゃやってらんねぇんだよ!」

「いいじゃん別に。水撒きもできてガーデニングが捗るぞ」

「よしお前の頭も手入れしてやるそこに直れ!!」

「絶対更地にする気じゃんやめて!!」

 

彼らが入院した病院はとんでもない所だった。

表向きは教会運営の、慈善的な経営理念を謳っているが、実際は患者を人体実験の被検体のごとく扱う。

現にキースも、前述の通りちぎれた指を改造された。

水も出るし草木も刈れるし、庭師募集中なら喜んで彼を雇うだろう。

結構便利だからいいじゃないかと思うが、キースとしては冗談では無い模様。

 

「まぁまぁ、落ち着きたまえよアンダーソン君。看護師長が来たらもっと改造されるよ?」

 

その一言でキースは途端に大人しくなり。しずしずと自分のベッドに戻っていった。

 

この病室に入院しているのは、ベルト、キース、ラスカル、カリンの四名。

男女混同されているのは、病院側が適当だからである。

特にカリンは、何かあったらどうするのかとも思うが、彼女については誰もそんな雰囲気ではなかった。

彼女は、ここに来てから誰とも口をきかず、何も食べていなかった。

布団を頭まで被っているものの、泣き声も寝息すらも聞こえないあたり、起きてはいるのだろうが。

 

「にしてもひまだなぁ、入院生活って」

「ちょっと改造されてくれば?」

「どんな苛烈な選択肢だよ。あ、これでも読むか?」

 

キースにとある本を放り投げられる。

見事に顔面でキャッチし、文句を言う頭もなくその本に目を落とす。

旅行雑誌だった。キースがよこしたのだから当然彼のものだろうが、付箋が所々貼られているのは何故だろうか。

 

「ねー」

「あ?」

「何でこれ付箋貼ってあるのかな。また旅にでも出るのかぃ?」

「出るよ」

 

即答だった。

 

「親父のことがあって思ったんだ。僕、やっぱり家族がほしい。今まで間違いしかなかったけど、やり直していこうかなって」

「子作りは計画的におなしゃすねお兄さん」

「そういう意味じゃねぇよボケ」

 

ベルトを片手間にしばきながらも、キースはラスカルの様子に注目する。

訳ありのお気に入りであるキースが、自分から離れていこうとしている現状。

その事についてラスカルはどう思うかが心配だった。

 

「そっか。行ってらっしゃい」

「って、あっさりしてるなおい。お前実はそんなに僕が好きじゃないのか」

「同僚として好きだよ。きみがいなくなったら寂しいし」

「じゃあ……」

「でもきみはぼくが止めたら聞くような弱い意志で旅に出たいのかぃ?そんなのキースじゃないよ。ぼくのこと気にかけてくれるのは嬉しいけど、きみはきみのために生きておくれ」

 

ぽーんと軽やかに、ラスカルは何か投げ渡した。綺麗にキースの手中に収まったそれ。

見れば、シガレットチョコ。今しがた売店にて買ってきたものだ。餞別にくれたようだ。

 

「帰ったら、たくさん旅の話聞かせてね。みんなでずっと待ってるから」

「みんなってことは俺も待ってんのけ?俺が待つのは可愛い子からの差し入れもしくは退院だけなんだけど」

「可愛い子といえばさ、ベルト」

 

ここで話題が切り替わった。

 

「あのおっぱいとお尻大きい子とはどういう関係なんだぃ」

 

言わずもがな、パティのことだ。

彼女は先に退院していったが、入院中はよく彼らに……というかベルトに会いにきていた。

やたらと世話を焼く姿を見るに、何かあると考えるのが妥当だろう。 

 

「どういう関係って、付き合ってるけど」

「はあ!!?嘘だろお前!ちょっとリネン室来い!」

「なに、何か文句あんの」

「よろしい、取り調べタイムだ」

 

ラスカルとキースが、ベルトのベッドに集まる。

病室のカーテンもドアも全て閉め切り、ベッドの備え付けテーブルに照明を置く。

取り調べお約束アイテムのカツ丼はさすがに用意できなかったため、たまたまその場にあったうさちゃんリンゴがそっと添えられる。  

 

「まずいつの間にそんな関係になったんだよ!!当然告ったのお前だよな?お前が五日間神頼みして五百回粘ってようやく得た関係だよな?」

「そんな情けねー勝利嬉しくねーし告ってきたのあっちだし」

「なんだその余裕の目はァアアア」

 

パティは、世間一般的には『良い女』と呼ばれる部類に入ると思われる。

スタイルは少々過剰なほどに豊満だし、性格も擦れていなくて、素直で優しい素敵な女性だ。

そんな素敵な女性をものにできたのに、何故だろうかベルトは浮かない顔である。

 

「どうせすぐ別れるだろ。幸せになんかしてやれねーだろうし」

「髭のことはそこまで気にしないでいいと思うぞ」

「個性も大事さ、だいじょうぶ大丈夫」

「あっはっは、だれが髭気にしてるって言ったのよ?お前ら密かに俺の髭馬鹿にしてたべ」

「なんだ違うのかよ」 

「違うよ失礼な。考えを改めてどうぞ」

「じゃあどうしたんだぃ」

「どうもしねーよ。ほっといておくんなまし」

 

軽い言葉のわりに、拒絶の色が強く。

キースとラスカルはそれ以上言えなくなった。

ので、ベルトに聞こえないよう半身を後ろ向きに、コソコソ話をする。

 

「……やっぱり髭が自信ないんだな」

「だね。後で髭剃りしてあげよう」

 

二人にとっては本人に秘密のつもりだろうが、目の前でコソコソ話は無理がある。

当然バッチリ聞こえているベルトは、己のチャームポイントに迫る危機を感じ、そっと髭を手で隠した。

 

 

「あ、そーだ。さっきクロさん来たぞぅ。ラスにこれ渡しとけって」

 

手渡されるのは一枚の封筒。

重要機密書類をしまうような格式ばった茶封筒だ。

 

「履歴書かぃ?」

「開けて読んどいたけど、手紙だったわ」

 

さらっと最低な事を言うが、ラスカルはそれについては無反応だった。

プライバシー侵害されたのに気付いていないらしい。

きっと数十分後くらいに気付いて、ちょっとあたふたするのだろう。

封のあいた封筒を受け取り、中を確認すれば、やはり手紙だ。

雑で汚い字のわりに、何事かを長々と書き連ねている。

 

「えーーーーっと……」

 

ラスカルが声に出しながら読み上げる内容は、こういったもの。

 

親愛なるラスカル・スミス。

元気か。傷は深めだったから心配してるが、お前のことだからそろそろ治った頃だろう。

わざわざ手紙を書いたのはあの時のことについてだ。

あの時、地下で小僧に口説かれた時にお前は、友愛しかわからないと言っていた。つまりは恋が解らないわけだ。

そりゃあそうだろう、お前の時間は子供の頃で止まってやがるからな。そこで、これは自慢だが、俺は愛も恋も持て余すほどに知ってる。

だから、教えてやる。俺がお前の時計の針を無理くり動かしてやる。

俺はクズになったから、お前がいくら思い出にひきこもりたがっても聞いてやらない。

これから毎週水曜日に手紙を送るから、返事をよこせ。忘れたりしたらすぐに仕置に行くから、覚悟しておけ。

 

「うわあ」

 

男性陣が声を揃えた。

言葉のチョイスはひねくれているが、紛れもなくラブレターだ。

あの身も心も幽霊みたいな奴が、このご時世にラブレターを書いた。

して、ラスカルの反応は。

 

「……結局どういう意味だぃ?」

「えっ」

「もしかして果たし状かな、これ」

「いやいやいや見たまんまだろ。とりあえず、告白されたのはわかったか?」

「なんの?」

「えっと、あのほら、お前に恋を教えてくれるって」

「なんで?」

「だから!お前が好きだってこと!!」

「……??」

 

キースが半ばヤケになって手紙の真意を理解させようとするも、ラスカルは終始きょとん。

クローバーが手紙で言っていたのはこういうことだ。ラスカルは、ただでさえ性愛が解らない。

ましてや自分を虐待した過去がある男からの恋心など、理解できるはずもない。

だからこそ、わざわざクローバーは文通をしようとしているのだ。

ふと、とある音がキースの耳に届く。

廊下からだ。何か、大勢の人が走ってくるような音がする。

 

「あ、まだ続きがある」

「ん、あぁ……何て?」

P.S.小僧に伝言伝えておけ。……『お前はここから逃がさない』」

 

刹那、病室のドアが蹴破られた。

驚いた彼らが目を向ければそこには知った顔。

この病院のドクター、看護師、果ては掃除のおばちゃんまで、従業員一同が集まっている。

 

「お前ら、クズ工場の従業員だったのか!!」

「え」

「指名手配犯の、キース・アンダーソンとその他だろ!?」

「とっ捕まえて警察に突き出してやるわ!」

 

いつにも増して急に状況が変わった。大雨後の川下りといい勝負だろう。

入院生活で身も心も平和ボケしきった工場メンバー達は、頭が働かずぽかんとしている。

病室に病院スタッフがなだれ込んできた。全員がキース目掛けてアメフトよろしく突進、押し倒す。

 

「おいいいいいいい!!どういうことだこれぇ!」

「クロさんの手紙の通りだろ?逃がさないって」

「は!?」

「お前をこの国から出してやんないって意味だっちゅーの。まだお前に嫌がらせしたいんだよあいつ」

「ふざけんなクソがァアア」

「っつかラッスー、助けてやんなよ」

 

病院スタッフの猛攻を、病室の隅に移動しちゃっかり回避したベルトとラスカル。

彼がそそのかすと、ラスカルはのこのこ救いの手を伸ばす。

が、ちっぽけな図体はあっさりと人の腕の群れに呑まれ。ものの見事に巻き込まれてしまった。

 

「あっはっはっは、タタリ神に呑まれた。アシタカーーー……ァアッ!?」

 

奇妙な声とともにベルトがひっくり返った。

タタリ神もといキースが、もみくちゃにされながらも這い出てきてベルトの足を引っ掴んだのだ。

バランスを崩したベルトと一緒にキースが再びタタリ神化する。

 

「なにしてんのお前!?おにーさんになんの恨みがあんだよ!」

「恨みしかないわ!」

「じゃあぼくにも恨みがあるのかなきみらは、痛たたた傷口が開きそう!助けて!」

 

とばっちりの者も含めて年貢の納め時かと思われた時。

唐突に重圧が無くなり、タタリ神状態が解けた。

取り押さえられていた三人は混乱するが、そんな彼らに言葉をかける者が一人。

 

「お困りですか、マイ従業員ども」

 

カリンだった。

 

「カリン……お前、寝込んでたんじゃないのかよ」

「なんの話かサッパリです」

「妹のことでヘコんでたべや」

 

その指摘にカリンは目を瞬かせる。

 

「カリンに妹なんかいました?」

 

カリンはさらっと言ってのけた。

いつも通り無表情のため、何を考えてそんな事を言っているのかは不明だった。

そんな事より、今カリンがやらかした暴挙への報復が来そうな予感だ。

床にドミノ倒し状態でいる病院スタッフ一同が立ち上がろうともがいている。

怒りと賞金欲しさに目を血走らせているのもチラッと伺える。

 

「どうする?逃げるか、工場長?」

「いいえ、退院です。皆さん早くこっちへ」

 

カリンがつい今しがたまで潜り込んでいたベッドに飛び乗った。

瞬間、それに反応したようにベッドが、車よろしくエンジン音を立て出す。

 

「カリンちゃん、ベッド改造したのかぃ。いつの間に?」

「入院初日ですけど」

「はやっ」

「さあ早く乗ってください。マッハで行きますよ」

 

一際大きく稼働音を立てるベッド。

冗談ではなく置いていかれたら困ると、彼らは慌ててベッドに飛び乗った。

 

「待っーーー」

 

逃走を察知したスタッフ達が取り押さえるべく行動を起こした頃には、時すでに遅し。

改造ベッドは、暴走車のごとく病室の壁をぶち破って飛び出した。

 

「あぁッ逃げた!先生、患者が脱走しましたぁ!!」

「追え!逃がすな!」

 

ドクターが叫ぶ声を背中で聞く間にもベッドは、廊下を爆速で進む。進む。

途中何人か轢いた気がするのは気のせいであって欲しい。

 

「アッハッハッハッハッ!早っ!なにこれ楽しい!」

「とりあえず目指すは外です。ニルさんも、途中で会えば拾っていきましょう」

 

カリンの言葉には『絶対』の二文字はなかった。

見つからなければ置いてけぼりにする気なのだ。

まぁこんな状況だし仕方ないとしておこう。

廊下を歩いている患者、医者、見舞い客らは、笑えるほどに素っ頓狂な顔で工場メンバーを見ている。

 

「オラオラどきな、愚民ども!クズ工場一行のお通りでぇい」

「お通りでーぃ」

「あ、そうだコレ配るのお願いします」

 

注目されて悪乗りし出すメンバーが数人。

そんな従業員にカリンがある物を押し付ける。

『便利屋・クズ工場リニューアルオープン』と書かれた紙。チラシだ。ざっと5000枚はあろうか。

 

「せっかくですから宣伝して帰りましょう。ただでさえまともな客が来ないですから」

「あ、そういえばウチって便利屋だったっけ」

「カリンが徹夜で作りましたから、集客見込めると思いまッス」

「え?落ち込んでたんじゃあなかったのかぃ?」

「カリンが落ち込むような大層な理由なんか思い当たるんスか?」

「チラシ配るったって、どーやんの?このマッハスピードで配れねーべや」

「それなら種みたいに撒いてください」

 

アバウト。けれどある意味効率的ではある。

試しに五枚ほど風向きに沿わせて、そっと手放してみた。

チラシはふわりと舞うように飛んでいき、何人かに拾われたのが遠目に認められる。

 

「おい、やばいぞ前!」

 

キースが指さす先に、病棟から外へ出るためのドアが立ちはだかっている。

患者脱走防止用か、鋼鉄製の重厚なドアだ。

暴走ベッドはまっすぐドアへ向かっており、このままだとぶつかってしまう。

 

「あーどうしましょ、何かいい方法は……」

 

目まぐるしくキョロキョロしたりポケットを探ってみたりするカリンだが、状況打破の手がかりは見つからない。

と、目に止まったのはキースの、改造されて万能高枝バサミになっている指先。ピッキーンと閃いた。

 

「キースさん、指をドアの鍵穴に向けてください」

「はあ!?」

「ハサミで鍵開けてください。一か八かです」

「若手芸人もびっくりの無茶振りだなおい!僕の指をなんだと思ってんだこのっ」

 

言い争っている間にもドアは目前まで迫っている。

考えている時間はなかった。背に腹はかえられないと、キースが指先をドアへ向け、照準を合わす。

 

「今です、伸ばして!」

「いけええええええええええええ」

 

キースは雄叫びを上げ、右手指先のハサミを如意棒よろしく伸ばした。

病棟から外へ通じるドアの鍵穴に、刃を突っ込む。

思いっきり傾ければ……小さな音を立ててドアは見事開き、四人を乗せたベッドはそのままぶつからず走り抜けた。

普通ならこれで開くはずはないが、今日の彼らにはきっとご都合主義の女神が抱腹絶倒しているのだ。

これでもう安心……とはいかない。今度は真正面、曲がり角もない一直線のところで病院スタッフが待ち構えていた。

アメフト選手のごとく肩と肩を組んで待ち受けているスタッフ一同。避けることは不可能だ。もうぶつかるしかないだろう。

誰もが逃走失敗を確信した矢先。

 

「おい、ベルト。酒持ってねぇか」

 

キースが尋ねた。

 

「え。ちっちゃい瓶のなら持ってっけど」 

「よこせ。あぁ、あとハンカチ」

「おいおいおいアンダーソン君!?お前まさかっ」

 

意図を理解しながらもうっかり晒してしまったベルトの酒瓶をかっさらうと、雑にハンカチを詰め込んだ。

そのままそれを進行方向へ向け、高く掲げる。

極めつけは瓶に銃を向けたことである。

キースの一連の言動から、この先に何が起こるのか悟った同僚達は青ざめた。

 

「しっかり捕まっとけよてめーらァアア!!」

 

キースが瓶を空中に投げ、間髪入れず撃ち抜く。

即席の爆弾はしっかりと仕事をしてくれて、大爆発が起こる。

病院内に地響きのごとき爆音と衝撃が広がる。

爆風で病院スタッフは皆なぎ倒され。叫ぶ逃走者達を乗せたベッドは、切り開かれた道をひたすら進んだ。

 

 

――――

――――

別れというのは、案外簡単に来てしまう。

気まぐれで連絡をよこしてはストレスのはけ口のごとく使っていた友人に、とうとう愛想を尽かされたり。

ちょっとした気の弾みで、職場の人間関係が崩れ、解雇されたり。

親兄弟が事故や急病で亡くなったり。

別れは常に、人々の足元に転がっている。

絶対に別れが来ないと思い込むのは危険だ。

だからこそ常に細心の注意を払って、人間関係を構築していくべきである。

 

「……こんな所に連れてきてどうする気」

 

病院の裏庭に、別れが決まりきった一組のカップルがいた。

彼氏である長身隻眼の男・クローバーは、目を合わそうともしないどころか、すっかり後ろを向いていた。

彼女の顔を見るくらいなら景色を見る、ということだろうか。

 

「ねぇ、私のことどうしたいの」

「……正直言えば、危害を加えたくてしょうがない」

 

危害と聞いて、ニルは頬の火傷跡に触れる。

先日、同僚にかけられた薬品によるもの。

痛かった。怖かった。寂しかった。誰も助けてなどくれないから。

あれと同等かそれ以上の目に遭わされるのかと思うと、震えが止まらない。

 

「お前のせいで俺はダチの首を切り落としちまった。お前のせいで全て失くした。お前のせいで……人生御破算だ」

「ごめんなさい……」

「別に謝って欲しいわけじゃない」

「どうしたら許してくれる?」

「これだけのことをしてまだそんな甘ったれた事言うのかァ?」

 

ゆっくり振り向いたクローバーは、いつにも増して暗い色の目をしていた。

彼にこんな目を向けられたのは初めてだった。

クローバーは、いつも穏やかな目で彼女を見てくれていた。

義務感からの感情だったとしても紛れもなく愛だった。

しかし、それを台無しにしたのは他でもないニルだ。

 

「ニルギリス。俺はもうお前のことは愛せない」

 

その報いが下る。

世界でいちばん自分を愛してくれていた人の気持ちを、失ってしまった。

目頭が熱くなる。悲しくて辛くて寂しくて、叫び出したい。

けれど、そんな被害者面はもう誰にも許されない。

 

「別れよう」

「……ええ。別れましょう」

 

あっさりした別れではあるが、今ここに全てが完結した。

愛を求めて愛を失うとは皮肉な末路である。

 

「話は以上だ。またなァ」

「えっ?」

 

そのまま立ち去りかけるクローバーに、思わず素っ頓狂な声をあげた。

慌てて彼の服の袖を掴んで引き止めれば、クローバーは立ち止まる。

 

「私のこと殺さないの!?」

「殺す理由はない」

「だってさっき危害加えたいって……!」

「たしかにお前のやった事はろくでもねェ。けどお前は物心ついた時から俺の相方だった女だろォ。名前をつけてくれたのも、同じ釜の飯食って育ったのも、お前ひとりだった。俺にはそれだけで命をとらない理由としては十分だ」

 

クローバーは淡々と、しかしどこか優しさの滲む声で語った。

要するに、許してくれるのだ。別れこそするが、命は取らないと。

ニルへの甘さか、愛情か微妙なところではある。

たしかなのは意外にもクローバーはそれだけ懐が深い男だった、ということ。

 

「…………っ……!あり、がと……っ」

 

耐えきれず、今度こそ涙が出た。

悲しみでも恐怖でもなく、歓喜の涙。

両手で顔を覆いさめざめ泣きながら、ニルは思う。

 

(……やっぱり少しだけ、もうしばらくだけなら甘えていいかしら)

覆った顔の口許は、にんまりと弧を描いていた。

 

「……?」

 

遠くで騒ぎ声が聞こえた。

さらには何やら焦げたにおいがする。

火事だろうかと周囲を見渡せば、遠くから走ってくる複数の人影。

ニル以外の工場メンバーだ。

 

「あんた達なにやって……」

 

声をかけようとして、途中でやめた。というか言葉が詰まった。

彼女の方へ走る工場メンバーたちの背後から、とんでもない数の人が憤怒の形相で追いかけてきていたから。

 

「あ、ニルだ。ニル〜〜〜」 

「ニル〜じゃないわよ!ちょ、こっち来ないで!他人のフリするから!」 

 

逃走しようとするニルだが、ひらひらした服の袖を引っ掴まれ失敗。

彼らはたちまち周囲一帯を取り囲まれてしまう。 

だいぶ長いことすったもんだの鬼ごっこに興じていたのだろう。誰も彼も血眼だ。

特に敵側は髪を振り乱し衣服は破れ、顔面に貼り付けるはまさに修羅の様相。

ブツブツと呟くは、殺意を漲らせたうわ言ときた。

 

「……何しやがったお前ら。めちゃくちゃキレてんじゃねェか」

「話せば長いですね」

「おい!!そこのひょろ長い眼帯のやつ、そいつらの仲間か!?」

 

と、ここでクローバーが巻き込まれそうになる。

クローバーは誤解だと抗議すべく口を開き……かけたが、思い直す。

仲間ではないならば、何故普通に指名手配犯やその仲間と喋っているのか?とか追求されたら面倒だから。

それならばとクローバーがとった行動は。

 

「た、助けてください!!殺される〜〜」 

 

猿芝居を打った。 キースとのファーストコンタクト時にやっていたように。

両手のひらを高く上げて、もともと悪い顔色を利用し、あたかも自分が人質であるように振る舞う。

今にして思えばこんな胡散臭い芝居に騙された自分が、キースは情けなく思う。 

他のメンバーたちは、やはりというかドン引きしている。

 

「なにやってんのあんた」

「うるせェ適当に合わせろ」

 

目には目を。芝居には芝居だ。自分に言い聞かせ、キースはクローバーの頭に武器を突きつける。

武器といっても銃やナイフではなく、改造された指先の万能高枝切りハサミなのだが。

 

「動くな!この幽霊野郎がどうなってもいいのか!」

「は、早まるな!何が望みなんだ!?」 

「あ?あー……」

 急に言われても思いつかない。

ということで一旦、顔を寄せ合って話し合いモードに入る工場メンバーたち。

 

「何が望みかってよ」

「え、時計」

「アイスティー」

「そんなプライベートな望みはいらねんだよ」

「もっと逃走経路確保しろとかあるべ。車用意しろとか」

「じゃあ車にしよっかぁ」

「そんな夕飯の献立決めるみたいなポップさでいいの?」

 

和気あいあいさまで覗かせる逃走者一行のプチミーティング。

ゆるい。人質のクローバーに至ってはあくびする始末。

病院スタッフたちは、まるで発表当時のピカソの絵を拝観した群衆のような顔だ。

 

「おい、ぐだぐだじゃねェか。もっとしっかりやれ」

「しっかり?あぁ、こんな風に?」

 

と、ここでキースの万能高枝切りバサミの水撒き機能が発動。

クローバーの頭目掛けてシャワーを浴びせかけ始めた。

 

「ひい、私の頭に水が伝っていく!水がァ!」

 

とか口では怯えたフリをかましつつ、水をかけられてとてもむかっ腹が立っているであろうクローバーがめちゃくちゃキースの足を踏んでいる。

そのコンボ具合は、一秒あたりに何回蹴っているのか判別しかねるほど。

人質作戦が芝居というのも、じわじわと明らかになりつつある。

この場の空気に呑まれシュールさに気づけずにいた病院スタッフたちだったが、何人かが微妙な顔をし始めた。

 

「おい、あいつら本当は仲間なんじゃないのか」

「んなもんもうどっちでもいいわ!!全員警察に突き出して懸賞金貰うんだよ!」

「かかれェエエエエエ」

 

戦場で敵を前にした戦士のごとき勢いで、工場メンバー+αに突っ込んでいく病院スタッフたち。

そんな追跡者たちの間を、何かが縫うように横切った。

車かと思いきや、違う。それは芝刈り機だった。カリンとその愛車である。

そういえばいつの間にか居なくなっていたが、芝刈り機を取りに行っていたらしい。

 

「カリン!!」

「はいカリンですよ。見惚れてないでほら、早く乗ってください」

 

芝刈り機の後部にはトロッコが付いていた。そこに乗れという。

 

「あれ、クローバーがいない」

「あぁ、あいつならカリンと入れ違いで逃げていったぞぅ」

 

トロッコは男女三人、子供一人乗るにはいささか小さめだったが、贅沢は言っていられない。

急いで体をねじ込ませる彼ら。

突然の芝刈り機の登場に怯む病院スタッフたちは、それでも逃がしたくなくてがなる。

 

「逃げられると思うなよ犯罪者ども!!お前らの味方はどこにもいないことを思い知れ!」

「必ずお前ら全員、また会いに行ってやるぞ!」

 

脅し文句のつもりで言ったのに、彼らは嬉しそうに笑う。

 

「ええ、どうぞ会いに来てちょうだい」

「家事手伝い、買い物代行なんでもやるよ。オプションで占いもついてきちゃうぜ」

「荒事も、やってやらねぇでもないぞ」

「まぁ、お金さえ貰えれば、だけどねぇ」

 

芝刈り機が走り出し、彼らは猛スピードでその場を後にする。

怒号の応酬を浴びせれば、彼らが走り去っていった方から大量のチラシが舞うように飛んでくる。

耳に届くのは、高らかに歌うような、こんな宣伝文句。

 

「我ら便利屋・クズ工場!五人の従業員が、どんなお客様も丁寧に『お相手』いたします!おいでませ、クズ工場へ!」

 

チラシが風に飛ばされ、どこまでも飛んでいく。

彼らの噂は噂を生み、尾ひれ背びれをつけながら情報が広まっていくだろう。

当然危険だし死ぬかもしれない。

けれどそれでいい。彼らは死ぬまで生きる。

たとえどんな事をしてでも、譲れない目的を持つ限り。

 

……これは、理由あって性根の曲がったクズどもの言い訳《はなし》。