一方、植物園では、ニルによるカウンセリングおよび診察が続いていた。
患者……もといオズワルド・ユジーヌだが、彼はあくまでもクレオは未だ生きているものと思い込んでいる様子だった。
ついでに言うと、女性すべてがクレオに見えているというのも本当だった。
試しにその辺にいたオズの子きょうだいから適当に女を選んで、嫌がるのを説得してオズワルドのまえに連れてくれば、「クレオちゃんが増えた」とか驚いていた。
「ねーぇ?もうそろそろお開きにしましょ?アタシ眠いわァ」
そう言うやいなや、返事も待たずにオズワルドは寝入ってしまう。
あろうことかバスタブの中でだ。寝違えたりしないのだろうか。
ともあれ、ニル自身も少し休もうと、別室へ移動する。
「……あ、ハイジ」
廊下を歩いていたところ、ハイジが壁にもたれかかって俯いていた。
近づくにつれて異様なにおいがした。
植物園にふさわしくない、血の匂いである。
「何してんの、こんなところで」
「……あァ……オマエか」
虚ろな目つきでニルのほうを向くハイジは、なんだか酷く疲れている様だった。
というよりも精神的に参っている……そう感じさせた。
「どやった。親父、治りそうか」
「どうかしら。私はむしろ他のことが気になったわね」
「他て何やねん」
ニルは診察中ずっと、オズワルドの言動に違和感を覚えていた。
言うまでもなくオズワルドは明らかにおかしかった。
それはそうだ、女全員が自ら手にかけた者に見えるのだから。
だがそうではない、そこではないのだ。おかしかったのは。
「オズ……あいつ一体、どれだけ性格とか感情とかころころ変わるの?」
性格が、分刻みで変わるのだ。
泣き虫になったり。
怒りっぽくなったり。
照れ屋になったり。
ひょうきんになったり。
のんびり屋になったり。
ころりころりと、性格が変わる。忙しいくらいに。
「多重人格……が一番近いかしらね。まるで感情デパートよ」
感情にはいくつもの種類がある。
基本感情は怒り・嫌悪・恐怖・喜び・悲しみ・驚きなどを含め、グラデーションのように数十種類ほどあるそうなのだが、それらをさらに組み合わせると数千種もある。
感情デパートとはよく言ったものだ。
「あっそ。で、治るんか?治らんのか?」
ハイジは冷たい口調だった。
「急かさないでちょうだい。こういうのはデリケートなの。患者に寄り添っていかなきゃ」
むすっと不機嫌そのもののハイジに、ニルは多少気まずさを覚えた。
だが、ふと思い出した。
ここにはラスカルが居るのだった。
何故一緒に連れて来られたのか知らないままだから聞いてみよう、と。
「ねえ、ラスカルどこなの。まだ寝てるの?」
「あいつは死んだで」
ニルは凍りついた。
「……ラスカルが……死んだ、って、老衰で?静が言ってたみたいに」
「オレが殺したんや、アホ」
ニルは背筋に冷水が伝ったような感覚を覚えた。
「何で……!?何で殺したのよ!あんた、あの子のこと気に入ってたはずでしょ!?」
「オレの目的のためや」
ニルは気が遠のきかけ、膝から床に崩れた。
ラスカルが殺された。私の同僚が。キースに続いて、ラスカルまで。
たちまちニルの心を占める絶望。
けれども彼女が絶望した理由は、悲しいからではなかった。
「……ッッ」
同僚が次々に死んでいく。
しかも自分は今や不死だし、取り残されるのが確定している身だ。
挙句の果てには、彼女はせっかくいた味方さえも裏切って、オズ陣営についてしまった。
「そんな……っ」
ニルはさめざめ泣く。
ラスカルを悼むためではない、取り残されるであろう未来の自分のために。
ハイジはやはり冷めた目で彼女を見ていた。
彼女の心中を見透かしていたのか違うのかは、定かではないが。
「オマエ、何で裏切ったん」
「え……?だって、あんたが……」
「誘ったな、オレが。その後オマエどうしたかってん。オマエの目的は何や」
「……、……えっと」
言い返せなかった。何も思いつかないから。
ニルの目的は、なにもなかった。
「なんも無いんやろ?オマエの人生空っぽやな、ご愁傷さん」
「っ、……なにが目的よ……!」
せせら笑われたうえに図星を突かれ、焦りと恥でニルが逆上する。
泣き濡れた顔、瞳でハイジを睨みつけ、罵倒しはじめた。
「目的なんて知らないわよ!そんなのただの執着でしょ!?」
「ああ、せやな、執着や」
「最低!!他人の命何だと思ってんのよ!」
「オマエが言うん?それ。滑稽やわァ」
「ッ、……あんたなんてッ……、きっと、誰にも好かれてないわよ!」
「それでも死ねへんから目的のために生きとんのや!!」
苦しまぎれの罵声だったが、急にハイジがキレて怒鳴った。
肩で呼吸して、憤怒の表情を浮かべている。
おそらく「誰にも好かれていない」と言われたのが逆鱗に触れたのだろう。
「誰だって無意味に生まれて、無意味に死ぬのは嫌やろが……!!だからこそオレは、生きてる意味を探して、見つけたんや!家族を幸せにするために生きるのが目的や、オレは!!文句あんのかクソアマ!!」
ひと息で絶叫してみせたハイジ。
常時どこかふざけた言動をしているハイジからは想像できないほどの激情具合だった。
あまりの剣幕にニルは呆気にとられ、涙も引っ込んでしまった。
「……、はぁーーー……、スマン。取り乱してもうたな」
叫ぶだけ叫ぶと、ハイジは落ち着きを取り戻した。
少なくとも表面上はだが。
「で、親父は。治りそうか?」
「……ええと……まだ、何とも言えないわ」
「さよか。ほな引き続きあんじょう頼むわ」
それだけ言って、ハイジは廊下の向こうへ歩いて行ってしまった。
「……目的か」
ニルは独り言ちる声は、誰の耳にも届かなかった。
遠山静句の最も愛する者は、遠山静句である。
……という、国語の正誤判定問題であれば「誤」を選びそうなこのひとこと。
ところがどっこい、これはこのままで正しいのである。
遠山静句は、わたくしは、わたくしが一番好きだ。
というかわたくしに限らず「自分自身」のことが可愛くない人間などいないだろうとも思う。
定期的に希死念慮ちらつかせて周りを困らせる人間も然り。
……まあ、希死念慮持ちで本当に死んでしまった人をわたくしは知っているけれども、それはそれ。
「そんな自分可愛いわたくしは、現在激おこなのですー」
「……あんまり、怒ってるって感じ……伝わらないけど……」
甥っ子のツッコミをさらりと躱し、わたくしはオムライスを頬張る。
そして腕時計を確認した。
もうじき、『待ち人』が連れてこられる頃だろう。
「うーす。お待ちどぉ」
待ち人来たれり。
ゆったりオムライスを咀嚼しつつドアの方を見遣れば、燕尾服のおにいさん。ベルトさんだ。
彼は所々血塗れの中年男性をふん縛って、半ば簀巻きのごとく連れてきた。
「お疲れ様なのですー」
わたくしはオムライスを飲み下し、チキンライスがまとわりついたフォークをぺろぺろ舐めながら歩み寄った。ベルトさんが、簀巻き男を無造作にその辺に放った。
床に転がる簀巻き男を見下ろし靴の先で小突くけれど、男はぴくりとも動かない。
死んでいる。
どうもベルトさん、拷問の末にうっかり殺してしまったようだ。
「ベルトさん、敵さんの情報は得られましたですかー」
「おん、そりゃもーばっちりよ。さーて今回のネタは?嫌な情報、クソみたいな情報、殺意わく情報の三本です」
ウケを狙って言っているのかもしれないが、到底笑える空気ではない。
鎮巳なんてわたくしの羽織った着物の袖を掴んで近づけないようにしているあたり、ドン引き通り越して怯えている。
何よりベルトさん自身、憎悪に染まった目をしていたし。
「まず、うちのラッスーがさらわれて殺された理由だけど。やっぱルークと死後婚させるのが目的だったらしいぜ、あのジジイ」
「やはりですかー。こちらの読み通りなのです」
「ただ、その後が問題なんだとよ」
「……?問題……って?」
拷問したササガワさんの弟いわく。
ラスカルを殺したあと、それまでどんな時でもポーカーフェイスだったササガワさんの様子がおかしい。
端的に言えばかなり苛ついている。さらには独り言も言っているそうだ。
例えば、そう……「違う」とか「そんなわけあらへん」とか。
ずっとなにかを否定しているのだという。
「ほかにも情報は?」
「あとは、オズもおかしいらしいぜ。女見ると誰でも喰っちまうんだってよ。カニバリズム的な意味合いで」
「ええ……?なんでそんなこと……」
「女全部がクレオに見えてるんだってよ。食べちゃいたいくらい可愛い、みたいな感じじゃねーのけ」
鎮巳がドン引きコンボ数を増やしている横で、わたくしはフォークをしゃぶりつつ、ただ静かに耳を傾けていた。
「そんなだから、なんか敵さんの方もなかなかギスってるぽくてにゃー。全部ハイジ兄さんのせいだ、って目が物語ってたわ」
ベルトさんは話を終えると近くのダイニングチェアに雑に座った。
だるそうに首を反らし、突き出た喉仏を惜しげも無くさらしている。
「大丈夫ですかー。ずいぶん殺気立ってらっしゃるご様子ですがー」
「いや無理無理。立て続けに同僚に死なれたり裏切られたりで、もー流石のおにーさんも参っちまうよ」
「……パティさんに……癒してもらえば……いいのに」
「俺、別れるって言ったの撤回してねーもん」
ベルトさんは、じきに存在が消えてしまう運命だ。
彼はこの時代の人間ではない。世の理に反した存在であるが故、元の時代へ自ら戻るか消えるしかない。
ベルトさんは後者を選び、パティさんとの恋人関係を無理やりに解消した。
……パティさんは、その気は無いようではあるけれども。
「カリンちゃんはどうしてるのですー?」
「ラス殺されてから、頭痛やばいって寝込んでる」
にべもなく吐き捨てるベルトさんは、目を閉じている。
もう疲れたとでも言うように。何も見たくないとでも言うように。
気の重くなる沈黙が流れている時。
「……そういえば……みんなで遊べるゲーム……完成したって。ミフネ課長が、言ってた」
「あっそぉ。っつか普段どんなゲーム作ってんの、あの前方兄貴ヅラ野郎」
「今回のは……育成ゲーム、だって……倫理的に、アウトなやつ」
「倫理的にアウト?」
ほんの少しだけ関心を示し首を持ち上げ、鎮巳を見遣ったベルトさん。
「わたくしも手伝いましたのですー。開発には医療知識も必要だったので、ニルさんの手もお借りしましたー」
常人ならば、この説明だけでは伝わらなかっただろう。
だけれどもベルトさんは異能ですべて悟った様で、目を見開いた。
悟った物事に、少しだけ戸惑っているようだった。
「ところで、そのミフネくんはー?どこ行ったのですー?」
「さあ……おさんぽ、かもね……」
「お待ちなさいー。いま探しだしてやるのですー」
思う存分に舐めしゃぶったフォークをテーブルに放って、わたくし特製望遠鏡を覗き込む。
この望遠鏡は、建物や壁などのすべての障害物を透視する。
端的に言えば人間しか見る事ができない。
人探しにうってつけの逸品である。
「みーっけ、なのです」
さすがわたくし。自慢の発明品で見事にミフネくんを即発見してみせた。
どうやらコノハナちゃんも一緒の様子。
「あら、あら、あら」
兄妹の居所と、そしてもうひとつ、発覚したことがある。
彼らが北の方……敵の本拠地たる植物園のほうにまっすぐ向かっていることを。
あてがわれた私室のベッドにて、カリンは背を丸め横たわっていた。
頭が割れるようだ。とにかくひどく痛む。
妹が死に、キースが自殺してニルが裏切って、ラスカルまで殺された。
現実はもはや逃れられないレベルまで悪化してしまった。
彼女自身も、ゆくゆくは、この頭痛で発狂して死ぬ運命だし。
「おい」
……が、彼女は独りでそこに居た訳ではなかった。
寝ているベッドの傍らに、社長がいた。
無視し続けても、根気強くカリンに声をかけてくる。
それもいつもの尊大な態度と違って、ずいぶんしおらしく。
眉を八の字に下げ、小さめな声で、おずおずとした態度だった。
およそ社長らしくない。
「おい……なぁ」
「……何スか」
あまりにもしつこく粘るものだから、とうとう返事してしまった。
「……お前さ、今、何か言いたいことあるかぁ」
「は」
「聞いてやってもい……じゃねぇ、聞かせてくれねぇかなぁ」
急に傾聴モードに切り替わった。
こいつ、人の話に貸す耳があったのか。
「話……」
「何でもいいぜぇ。俺、ちゃんと最後まで聴くよ」
言いたいこと。話したいこと。
そんなもの山ほどある。
だがこいつのことが嫌いだし、話す義理がない。
断るついでに、今一度、社長の顔を見遣って……カリンは心底驚いてしまった。
社長は、涙ぐんでいたのだ。
「……あんた、どうしたんスか。何で泣いてんですか」
「? ……泣く?俺が?」
きょとん顔をさらす社長は、本当に自分が半泣き状態だと知らないようだ。
社長はカリンに執着し、憧れていた。
過去形なのは、その感情が今や完全に恋愛感情だからだ。
恋する相手が悲しみのドン底にいるのを見て、自然と涙ぐんでいる?
そうだとしたら。
「人間ぽい……」
「あ?」
「いえ……何も」
社長は、本気でカリンを案じている様だ。
自分勝手な化物としか思っていなかったけれど、徐々に、人間味が出てきている。
そしてそうなった理由が、カリン自身への感情にあるのか。
そうだとしたら。
「……悔しいんです」
ぽつぽつと、カリンが語り始める。
悔しい。次々に大切な人がいなくなっていくことが。
自分はボスだったのに。本来ならば皆を支える立場だったのに。
なぜこうなってしまったのだろう。誰か恨めば気が済むのか?
ならば誰を恨むべきなのだ。
オズか?ハイジか?神父か?社長か?
……違う。
ちがうちがうちがうちがう。
違う。他人をいくら恨んでも、お門違いだ。
カリンが、あたしが、ちゃんとそばにいて支えられなかったから。
「あたしが恨むべきはあたしなんですよ」
静かな激情、とでもいおうか。
カリンは思いの丈を吐き出した。
涙は決して見せなかったけれども、口元は、抱えた全てを堪えるためにぎゅっと噛み締めていた。
「……そう思うのかぁ?」
社長はつぶやき、カリンと同じく、抱えた思いを語り始める。
彼も、考えていたという。何でこんなことになっちまったのかを。
でも意外と答えはすぐ出た。
「俺のせいなんだよなぁ……起こったことの元凶全部、丸ごと、俺だ。オズを不死にしたのも、遠山の家をぶち壊したのも、お前がこんなに苦しむことになったのも。俺のせいだ」
ごめん。
社長は、消え入るような声で謝ると、大きな瞳に溜まった雫を一筋こぼれさせた。
カリンは再び驚愕した。
社長が、なんと謝っている。反省している。
そんな事、今までの彼ではありえない。
「……何スか。何なんスかさっきから、らしくもなく泣いたり謝ったり。人間みたいじゃないスか」
「えっっ俺いま、人間ぽいのかぁ?マジか?え、どこが??」
急に元気になって嬉しそうに質問攻めしてくる社長に、カリンはつられて元気になった気がした。……ほんの少しだけ。
ラスカルが殺されたことは、ヨザクラ教メンバーたちの心に深い傷を負わせた。
生い立ちが最悪なので、決して人畜無害だったとはいえない。
だが彼女は、案外周りから大切な存在と想われていた。
そんなラスカルを、あろうことか結婚式当日に攫って殺したササガワハイジ。
今やオズと同等の憎しみを向けられているハイジを、殺してやりたいと願う者は少なくはなかった。
「おっかない顔じゃのう、お嬢さん」
早足で北へ向かう途中。
軽薄なノリで声をかけられ、コノハナは振り向いた。
ちょっと変なコーディネートが特徴の兄・ミフネが笑顔でそこにいた。
「どこ行くのかね?鬼ヶ島かの。お兄ちゃんがお供しちゃるよ」
「ついてくんじゃねェよぅ」
「いやじゃ。ついていく」
「おめえさん、すっかりあたしの兄貴ヅラが定着しやがったねィ」
「ああそうじゃの。ハナちゃんの前方兄貴ヅラ男じゃからのう、わしは」
嫌味で言ったのにミフネは受け入れるどころか、親しみ込めた呼称を自ら名乗る始末。
何を言おうが、殴ろうが、気にも留めずついて来る気だろう。
「なぁ……ミッフィーおめえさん、ほかのきょうだい連中についてどう思ってやがる」
「あ〜、そうじゃのう。シンプルに嫌いじゃよ」
北へ向かうにつれて、徐々に道が山らしくなっていく。
下駄でも構わず登っていきながら、ミフネは「きょうだいが嫌い」と答えた。
「彼奴らの考え方が気に食わん。全員生い立ちが最悪じゃし、卑屈なのはまあいい。じゃがのう、それ笠に来て全部他人のせいにするのは違うじゃろ」
「何だィ、おめえさんも同じこと考えてやがったのかァ?」
どうやらコノハナも全く同意見らしい。
「自分が嫌な思いしたら他人のせい、人生が上手くいかないのも他人のせい。そういう負け犬根性が嫌いじゃ」
コノハナは色々特例ゆえ知らない。
だがミフネはきょうだい達と少なからず交流があった訳で、よく知っている。
彼らは何かある度に、だれかのせいにして逃げていたのだという。
オズのせいにするのはもちろん、職場の人間、友人、恋人。
あらゆる他者に責任転嫁している、とのこと。
「特に口癖が気に食わん」
「……口癖、って何か言ってたかィ?忘れちまった」
いつも通り健忘気味のコノハナに苦笑いをこぼしたミフネ、だったがそれも一瞬だった。
ミフネは、顔を嫌悪で歪ませこう続けた。
「死にたい。……そう言いよるんじゃ。事ある毎に、いや何も無くとも。しょっちゅうな」
「……ああー。そういや言ってた気ィがすらァ」
世の中には思い通りにならないことなどいくらでもある。
ある程度大人になれば、理不尽も仕方ないと流せる余裕が出るものだ。
だがしかし、オズの落し子たちは違う。
希死念慮をちらつかせれば、人は哀れんで要求を飲んでくれる。
落し子一同には、そういう考え方の癖がこびりついている。
というか、悪知恵が働くところが浅ましくて甘ったれている様にしか見えず。
「軽蔑しかできん。あのクズどもの愚痴聞くハイジ兄さんも、バカなりに苦労したのかもしれんのう」
「愚痴聞いてたのかィ、あのバカが?」
「おうとも。そもそも落し子まとめて育てて援助しとったのはハイジ兄さんじゃしの」
「へえ」
いつの間にか岩肌の坂は過ぎていた。
眼前には、森の中に佇む寂れた植物園……敵陣営のアジトである。
「さぁて、カチコミタイムじゃな」
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アヴァホテル跡地の、一番豪華な部屋。
だだっ広い部屋の片隅に、クローバーは佇んでいた。
車椅子に座ってうなだれている彼は、ひどく塞ぎ込んでいるように見える。
「クローバー。薬の時間ですよォ」
トオヤマシズカ神父が水と薬らしき物を持って部屋に入ってきた。
クローバーは返事をしなかった。
無視されようが関係ないと言わんばかりに、クローバーの鼻先に持ち物を差し出すが、やはり黙殺だった。
「飲みなさい。痛いでしょォ、それ」
神父がちらっとクローバーの片腕を見遣る。
黒いシャツの腕部分は、くたっと平たく。
要は右腕が無くなっていた。
「……別に」
「ダウト。切断して日も浅いのに痛くねー訳ありますかっつのォ……」
ぶっきらぼうに一言だけ返し、クローバーはまた黙った。
事情が事情のうえ、クローバーが心底ラスカルを愛していたのはもちろん知っている。
なにせ、彼らが少年だった頃から見知った間柄なのだから。
「まァ、そりゃあ気持ちは分かりますよ。俺も嫁が若いうちに尊厳死してるんで」
「櫻子ですか」
急にクローバーがはっきりと口をきいた。
「ラスカルが最後に話していました。ハイジについて、ルークも櫻子も怒っていない……と」
神父は目を見張る。
ルークはいいとしても、櫻子だと?
櫻子……神父の、遠山静の亡き妻だ。
だが櫻子が死んだのはもう何十年も前だ。
なぜまだ成仏していない。
櫻子がハイジについて怒ってないというのも謎だ。
色々と事情が読めない。どういう事だ。
櫻子についてクローバーを問い詰めたくなったが、何をどう問えばいいのかわからず。
結局、神父は何も言わずに部屋を後にした。