俺は今年、大学を卒業してとある一流企業に就職した。
世界中に拠点を構える若年層向けメーカーであり国民の憧れの的、ブライクイン社。
今日はその本社の新入社員研修会なのだ。だだっ広いホールに集められた俺達新入社員。
司会者が立つのであろう舞台上はまだ照明も付いておらず、誰もいない。
あー緊張してきた……もう帰りたい。やべ、鮮血吐瀉しそう。
かくいう俺は昔から身体が弱く、こういう緊張感に包まれた状況に置かれるとすぐ血やら何やらを吐き出してしまう体質なのだ。
無事に終わるといいなぁ、この研修会。
「あーあーテステス。研修生の皆さーん。私の顔はよく見えますか?」
声が聞こえたかと思ったら壇上の照明が付いた。
眩しい光に照らされるは二つの人影。
一人は、サングラスをかけて着流しにコートを羽織っている男。
ヘアゴムで束ねられた前髪は、頭頂にてちょんまげ状態だった。
全体的に妙なコーディネートが目立つ男である。
その隣にちょこんと立つのは、艶やかな黒髪をした黒い服の子供だ。
こちらの方は中性的というか、性別が微妙に分からない。
「初めましてー。私この度の研修会で司会を務めさせて頂きます、ブランクイン社総合企画部部長、ミフネと申します。以後よろしく」
え、それって結構偉い人じゃん。
緊張に包まれるホール内。俺は少し胃が締まった。
だがミフネさんの隣の子は、そんな俺達に苦笑いを浮かべ、宥めた。
「そんなに緊張しないでいいぜぇ?今回の新人研修会は、歓迎会を兼ねてのお遊戯大会だから。なぁ?」
「えぇ。皆さんには我が社で開発したゲームで遊んで頂きます」
「え……」
黒い子の言葉に周囲がざわつく。
お遊戯だって?ここはどこよりも厳しいって聞いていたのに、何だか拍子抜けだ。
こっちはどんなシゴキにも耐える覚悟で来ているのに。
舐められているのだろうか?
すると同じことを思ったのか、周囲から声が上がった。
「ふざけるな!お遊戯会だって?馬鹿にしてるのか!」
「ゆとり世代だと思って舐めてんじゃねーぞ!」
誰もがあこがれる超一流企業に何とか就職しようと、必死に勉強漬けの毎日を送ってきた。
遊びになんて目も向けなかったという者も少なくはないだろう。
よって今更ゲームなんてしたくもないというお堅い奴も多く、こんな状況は馬鹿にされているとしか受け取れないのだ。
「だいたい何でお偉いさんがこんな所で油売ってんですか!仕事しろよ!」
「そうよ!ていうかアンタほんとにそんな上の人?実は偽物なんじゃないの?」
「言われてみればそうだ。大会社の幹部が、こんな所でニコニコ愉快に司会なんかしてるはずがない」
「きっと試されてるんだ!本物を出せ!!このいかれコーディネート野郎!」
赤信号みんなで渡れば怖くないの精神を掲げ、温厚そうな司会者二人に猛攻する新入社員たち。
おいおい、いくら何でもちょっと言い過ぎなんじゃ……と思った刹那。
何かが頭上を勢いよく通過していき、ドスッとぶち当たる音がした。
振り返ってみると、壁に日本刀が突き刺さっている。
「黙れクズども」
急にミフネさんの態度が豹変した。
さっきまでの態度はどこへやら、新入社員一同をクズ呼ばわりした。
「わしだって好きでこんなことしてる訳ではないわ。本当なら他のモンがやるはずじゃったのにマイコプラズマにかかったとかで急遽わしが引き受ける事になったんじゃ……こっちだって忙しいっちゅーのに使えんやつめ……五体不満足にしてくれるわ」
普通に怖い事をぼやいている。
さっきまではライトが眩しすぎてよく見えなかったが、彼は目つきが犯罪者のごとく凶悪だった。
眉間にしわを思いっきり寄せて仁王立ちする姿は、まさにやくざの幹部。
視線がかち合えば、即座に海に沈められそうだった。
「だいたい少し下手に出た程度で簡単に上司を舐め腐るでない、新入社員ごときが」
「いやアンタが自分で緊張しなくていいって言ったんじゃないですか」
「んなもん嘘に決まっとるじゃろが。まだまだ考えが青いのう。罰としてゴチャゴチャ言った奴言わなかった奴も全員クビじゃ」
「えええええ何で⁉ 連帯責任⁉ 厳しすぎでしょ!」
「それが社会ってもんじゃよ。どこでも共通の掟じゃ」
アンタ限定だよコーディネートやくざ、と誰もが思った。
が、口に出すと死より酷い目に遭いそうなので、皆黙っていた。
「分かったらとっとと出てってくれるかの。目障りじゃ」
しっしっと手を振るミフネさん。
そんな……入社早々クビだなんて……しかも連帯責任なんて軍隊みたいな理由で。
せっかく入れたのに……やべえ、泣きそう。むしろ吐血しそう。
「……大丈夫だよぉ。果てしなく質悪ィただの冗談だから」
「えっ」
あと五秒で俺の口から赤いペンキが噴き出そうになった時、黒い子が救いの手を差し伸べてくれた。
「せっかく入社した社員をこの短期間で一斉解雇する訳ねぇだろぉ」
そうなの? そうなの⁉ と、突き刺さらんばかりの視線で訴えかける俺達新入社員一同。
するとミフネさんは渋々といった感じに頷いた。
「……さすがに新人が一人もいないのは仕事に支障が出る。しゃーないから、今から始まるゲームをクリアした奴だけ社員として迎えちゃるよ」
「ま、マジですか…よかった…」
「え? じゃあ今までの何だったんですか?」
「ドッキリじゃよ」
(マジでタチの悪い上司かもしれねえこいつ)
恐らくその場に居合わせた全ての人間がそう思ったはずだ。
ていうか、結局ゲームになるのか……。
でもまあ元々ここ、玩具全般のメーカーだしな。
理不尽なパワハラのせいでクビになるのが回避できた事だけは、喜ぶべきだろう。
「さっさと終わらせるぞよ……霞み目が限界に近い」
長い前髪をかき上げ、ため息混りに呟くミフネさん。
足元もふらついていて、相当具合が悪いようだ。
「本当なら今すぐ帰って寝たい所じゃあ……何日も寝てなくて目がショボつくのが鬱陶しい」
「いっそ眼球破裂してスッキリ盲目になればいいのになぁ」
「やかましいわ小童。ナマ言ってるとシバきたおすぞ」
「やってみろよぉ。裁判沙汰にして地位、生命ともに総合的に潰してやんぜぇ」
ミフネさんに物怖じせず、悪口雑言を吐く黒い子。
小さいわりに意外としたたかだ。
ていうか、さっきから気になってたけどこの子誰?
「あの、ミフネさん……その子は?」
「俺様かぁ?社長」
「え?」
「社長。よろしくなぁ」
しれっとトップが目の前にいたんですけど。
ていうかちょっと待ってくれ。こんな子供が社長やっていいのか?
飛び級?天才?
「さて、ほいじゃあこれからゲームの説明を始めるぞい。今日お前達が体験するのは、最新式体感型RPG。一時的に催眠状態になって実際にゲームの世界に入り、クリア目指して冒険するんじゃ。タイトルは“DVD”」
「DVD?映画ですか」
「略称じゃ。本当の名前は……あれ、何だっけ。確か、ときめき何とかドキュメンタリー”的な感じだったと思うがの」
「超うろ覚えじゃないですか」
自分が開発したのに忘れるもんなのか。
だが今のでちょっと吐血感がやわらいだ。
“ときめき”という類の名前が付くなら、ゲームジャンルは恋愛ものに違いない。
恋愛ものだったら、ゲーム初心者な俺でも何とかなるかもしれない。
イケる! これはイケるぞ!
周りに分からない程度に小さくガッツポーズした。
「ぎゃッ」
とその時、誰かの短い叫び声が聞こえた。振り向くと、新入社員の何人かが床に倒れ伏しているではないか。
そして傍らには、いつの間に移動したのか、ミフネさんが金鎚を持って立っていた。
金鎚からは、今し方付着したばかりであろう血液が滴っている。
「ちょ、何やってんですかミフネさん!」
「ゲームを始める準備じゃよ」
「はぁ?」
意味が分からない俺達。その疑問に答えるように、社長が言った。
「言っただろぉ? ゲームの世界に入るには、催眠状態になる必要があるんだよ。本当なら特殊な機械を使って安全に催眠状態に誘導してやりたい所だが、残念ながら諸事情により全員分のマシンは用意できなかった」
あくまで楽しげに笑みつつ事情を語る社長。
その笑顔は、彼の吐く台詞の物騒さとはまるでマッチしていなかった。
「で、検討の結果、しょうがねぇからトンカチでぶん殴って気絶させるという事で話はついたって訳だよ」
「ソレ催眠っていうか瀕死状態! 下手したら永久に目覚められないじゃないですか! どういう神経してんですかアンタ!」
「俺様に言うなし。決めたのはあいつだぜぇ」
金鎚片手に、新入社員達を次々に殴り倒して回っているミフネさんを、社長が指差す。
顔半分を覆う前髪から覗いたその口元は、ニヤリと愉しげに笑っていた。
完全にストレス解消の愉悦を見出してやがる。
「うわぁあ待ってくれ! 俺には田舎に残してきた許嫁が……」
「知らんがな」
逃げ出そうとする者も命乞いする者も、関係無くぶちのめしていくミフネさん。
舞台上からぼーっとその様子を眺めていた社長が、ふと何か思い出したように、ポンと手を叩いた。
「ああー、思い出した。DVDの正式名称……ドメスティックバイオレンスドキュメンタリーだったわ」
「ドメスティックバイオレンス⁉ 前半さっきのとかすってもいないじゃないですか!」
あたふたしている間にも、周りの研修社員達は次々に倒れていく。
そしてとうとう、ミフネさんの狙いが俺に向けられた。
「ひッ……ちょちょちょ、ちょっと待っ……」
「死にさらせ」
必死の懇願も空しく、俺の脳天めがけて金鎚が勢い良く振り下されたのだった。
ーーーーーー
:::
『おーい、聞こえるかいのー』
「ん……?」
伸びやかな声が聞こえて、意識が浮上した。
目を開けると、そこは西洋の結婚式に使われるような、教会の聖堂のようだった。
清潔感のあるまっ白い壁とピカピカな床。
部屋の奥にはステンドグラスと祭壇がありその上には大きな十字架が掲げられている。
豪華なシャンデリアの光が聖堂内を照らす。
「どこだここ……」
『おぅ、起きたのう。おはよう』
『おっせぇなぁおい、上司をいつまで待たせる気だよぉ』
どこからかミフネさんと社長の声がするが、辺りを見回しても姿が見えない。
それにその声は、単に耳に届いているというより、直接脳に響いている感じだ。
「あの……ここは?」
『ゲームの世界じゃ。今おまえさんは意識だけがバーチャルの世界にある。視覚や聴覚はもちろん、触覚や痛覚も現実と同じように感じる事ができる。わしらはモニターでおまえさんのゲーム模様を見とるわけじゃ』
「へー」
次世代的だ。
さすが一流企業と感心する。
ふと疑問に思った事を聞いてみた。
「そういえば、他の研修生達はどうしたんですか?いつになったらゲーム始まるんですか」
『もう始まっとるよ。ほれ、後ろ見てみい』
監督の指示通り、振り向いてみて――思わず腰を抜かしかけた。
俺のすぐ背後に、ボロボロのウェディングドレスを纏った女が、鬼のような形相をして出刃包丁を手に持ち立っていたからだ。
慌てて後退りして間を開ける。
すると女は、血走った目で俺をまっすぐ見つめ何事かをブツブツ呟き始めた。
「許さない……絶対許さないわよ」
「え⁉ 許さないって……な、何をですか?」
「しらばっくれんじゃないわよォォォ!ネタはちゃんと挙がってんのよ!」
唾を飛ばしながら喚きだす女。
まるで人が恐怖を覚える要素をかき集めて凝縮したようなその女に、俺は震え上がった。
ななな何だこの女……⁉
答えを求め、俺はこの状況をモニタリングしているであろう傍観者二名に訊ねかけた。
「ミフネさァァん社長ォォォ! 何ですかこの超おっかない女!」
『今作のヒロイン、花子ちゃんじゃ。主人公でプレイヤーの君・ドキュメンタリー君の嫁だぞい』
「何で嫁が包丁装備して怒り狂ってんですか!?」
『少し待っておくれ。今プロローグを流す』
少しの間を置いて、空から可愛らしい女ナレータ―の声が聞こえてきた。
【――平凡青年なキミ、ドキュメンタリー君は、若気の至りでちょっとハッスルし過ぎてデキちゃった結婚をする破目になってしまいました。
でも結婚式当日、ひょんな事からキミが密かに浮気していたのがバレちゃった。
しかしキミを心底愛し執着している花子ちゃんには、キミと別れるなんて考えられない。
彼女は、そのバイオレンス且つ突飛な頭脳で考えた末、それならいっそ命だけでもと思い立ったのでした。
何とかして彼女を落ち着かせよう!
出来なければキミが死ぬだけなのだ☆】
なのだ☆じゃねぇよ‼
声にならない叫びを上げる俺の口から、血が溢れた。
ワオ、さすが最新次世代ゲーム機。
吐血感もリアリティ抜群だ。
なに昼ドラもびっくりなドロドロ愛憎劇場ゲーム作ってんだよ!
『ちなみに他の研修生は全員ゲームオーバーになったから、残ってるのはおまえさん一人じゃよー』
「ええええ」
驚愕の真実に、今度こそ本当に叫んだ。
自慢じゃないが、俺はそこまで成績は良くない。
授業の度に自分が当てられたらどうしようと緊張してばかりで、あまり学校の勉強に集中できなかったからだ。
その分、家で机にかじりついていたから、ここに入社できたのだが。
そんな俺より頭がいいはずの、他の研修社員がクリアできなかったんだ。
俺にできるはずがない。
『――この研修会での真の目的は』
ふと、それまで沈黙し続けていた社長が淡々と語りはじめた。
『ブチ切れ状態の上司や先輩に対し、どういう対応で接するべきか自分自身で考えるっつー社会のルールを学ぶためだ』
『単に、女子ウケの良い恋愛ゲームを開発したかったというのもあるがのう』
こんな序盤から既にスイッチオフしたくなるような恋愛ゲーム、やる女子がいるのだろうか。
ていうか、何も怒った人をウェディングドレス姿で包丁装備した鬼女に置き換えなくてもいいだろうに。
『ほいじゃあ研修生、おまえさんなりの答え示しておくれ』
そこで二人の声は途切れた。
えぇー、答えを示せって言われても……。
普通に謝ればいいんじゃないのか?
恐る恐るながらも話しかけてみた。
「あ、あの、花子さん?」
「何よォォ‼まだ言い訳する気⁉」
うっわあ大激怒。
ただ声をかけただけなのに。
「ちょっと落ち着いて、聞いて下さいよ。少し冷静に……」
「冷製ですって? 冷やし中華を食べる時にこぼれたタレ一滴のように、私の事も布巾で綺麗に拭い去ろうって事⁉」
「どういう解釈ですか。いや違いま……」
「絶対許さないわよ! 離婚なんかするもんですか!」
聞いちゃいねぇ。
駄目だこりゃ、こんなの謝って許してもらう以前の問題だ。
どうしたもんか……。
「……ッ」
頭を抱えていると、不意に腹部に激痛を感じた。
見ると、いつの間に近付いていたのか、花子が包丁をしっかり握りしめて、俺の胸に飛び込んでいた。
俺は、刺されていた。
ガクッと床に膝をつき、柄まで深く埋まった刃物を震える手で掴む。
筋肉や骨が、まるで縋るように刃にへばりつくのを、何とか振り切ってゆっくり引き抜く。
大量の出血とともに眩暈を感じて、その場に倒れ伏した。
出血を抑えようと腹を押さえるが、まったく止まらない。
息をすれば、ヒューヒューという風のようなか細い呼吸音。
俺、死ぬのか?
いや、これはリアルだけどゲームだからゲームオーバー、か……つまり失格だ。
俺の頭の中で、今まで送ってきた入社前の人生の記憶が走馬灯のように巻き戻っていく。
あぁ、もったいないなぁ。
色々やりたい事とかあったし、社内恋愛とかも憧れてたのに。
薄れゆく意識の中、最後に見たのは自分を刺殺した女の悲しげな顔だった――
ーーーーーーー
『おい……いつまで寝てやがる。起きろや』
社長の声が聞こえて、目を開けた。
起き上がって周囲を見渡すと、そこは結婚式でよく使われる、教会の聖堂。
……あれ、デジャヴ。
ハッとして、自分の状態を確認する。
さっきまでの腹部の激痛が、嘘のように消え去っている。
その上、どこにも怪我なんてしてない。
あれ? 俺ゲームオーバーになったんじゃなかったのか?
『何でまだ続いてるのかって言いたそうなツラだなぁ。誰も死んだら終わりなんて言ってねえぜぇ?』
社長のせせら笑う声。
ホント嫌な上司だな、と素直にムカつく。
だが何とかスルーし、訊ねかけてみた。
「どういう事ですか?俺ゲームオーバーになったんじゃ……」
『このゲームにそういうシステムはないんじゃよ』
彼が教えてくれたルールはこうだ。
“DVD”にはバッドエンドやゲームオーバーはない。
これはあくまでも、自分で自分の道を見出すゲームであり、基本的に何でもアリ。
生殺与奪も思いのまま。
社会のルールを学びつつ、お手軽に昼ドラ気分や殺人鬼気分を味わえる、ストレス解消系恋愛ゲームだ……と。
何ていうか、本当心底疲れてるなぁこの人ら、と思った。
そこでふと思いだした。
そうだ、花子。あの鬼嫁はどこだ。
また不意を突かれて刺殺されちゃたまったもんじゃないと、周囲を見渡す。
すると、聖堂の十字架の下に、教会には似つかわしくない、古ぼけたテレビがあるのを見つけた。
何となく気になったので、近寄ってよく見てみるが画面は砂嵐が舞っていて、何も見えない。
壊れてるのか?
バシバシ叩いてみると、パッと画面が切り替わった。
画面より少々離れた所に、これまた古ぼけた井戸が映っている。
……あれ、なんかこれ見た事あるような。こんな映画あったような。
「………」
まさか……なぁ……。
食い入るようにじっと見つめていると、画面上の井戸の中から、ぬっと手が出てきた。
そして現れたのは――花子。
うわーーーと絶叫する。
やっぱりこうなるのね、とかの野暮なコメントは声にならなかった。
某映画と同じく画面から這い出て、花子(貞子バージョン)がいざ降臨した。
「あ~な~たぁあ~~……」
半分うめいてるような声を発しつつ、這いつくばりながら俺に近付いてくる花子。
「別れない……絶対……殺してやるぅぅ」
「うわーうわーうわァァァ!」
怖い怖い怖すぎる。
漲る吐血感を感じつつ、俺は先に失格になった仲間達の事を思った。
優秀とか劣等とか関係ないわ。
こんなもん誰だってリタイアしたくもなるわ。
「ちょっとお二人さん? 何で愛子貞子化してるんですか⁉」
『一回死んだからペナルティ』
「こんなの出てきちゃ更にゲーム進行しづらくなるじゃないスか!」
ちょ、これどうすりゃいいんだ?
“殺られる前に殺れ”の精神で花子を殺せば……?
とか怖い事考えてる俺の心も、だんだん闇に染まっていってる気がする。
しかしそんな俺の思考を見透かしたようにミフネさんが言った。
『あぁそうだ。今のうちに言っておくがの、彼女に危害を加えると、分裂する上にブリッジ体勢になって追いかけてくるぞい』
「何で⁉」
『上がムカつくからって、シメてもいい訳ねぇだろが』
確かに……。
上司や先輩を相手に、ジャブやらアッパーやらをかましても、良い事なんて一つもない。
その法則は激怒中の嫁に対しても有効だ。……って、じゃあどうしろってんだよ!
俺もう死にたくないぞ!
ただでさえ吐血しやすいのに、その上腹からも出血なんて冗談じゃない。
「あなたぁあ~」
「ッ……うわあぁあ!!」
逃げるしかない。
上司や先輩への対応なんか、この際どうでもいい。
これがゲームだろうが関係ない――俺は死にたくない!
考えるより先に、俺は走り出していた。
:::
「今度のもダメっぽいなぁコレ」
椅子にもたれかかり、舌打ちしながらつぶやく社長。
傍らのミフネに、というより、単に独り言のような口ぶりだ。
「どいつもこいつも、簡単に諦めやがって。一流企業に雇われた自覚あんのか?流石ゆとり世代は一味違うなぁ」
鼻で笑う社長を不快に思ったようで、ミフネが睨みつけた。
「ごちゃごちゃとやかましい。嫌味ばかり言っとらんで、皆の頑張りを認めたれよ」
「お前こそ、雇われた者なりに雇い主に対する態度あるだろぉ」
双方つんけんした言い草で、どうにも折り合いの悪いコンビである。
「しかし、みんなして“女は怖い”で勝手に物語を終わらせるか……。誰も彼女の気持ちに、気付いてやれんとはのう」
「お前がややこしいシナリオ構成したからだろぉ」
「監督を務めるからには、自分の思想をより明確に描くべきじゃろう。分かっとらんのー」
ドヤ顔で鼻を鳴らすミフネ。
そんな彼を社長は憎々しげに見つめた後、ため息を吐いて言った。
「とにもかくにも……このままだと最後の一人まで脱落する羽目になっちまう。ハンデでもやるかぁ?」
「心配いらん。今度のは曲がりなりにもちゃんと道を進んでおるらしい」
大きな液晶モニター端にある、時刻表示をミフネが指差す。
それを覗き込んだ瞬間、社長の険しい目の色が変わった。
画面上の時刻は、ゲームが開始されてから九時間後を指していた。
「これはもしかすると……もしかするかも、じゃなぁ」
:::::::
――それからどの位経っただろう。
俺は身も心も疲弊しきって、フラフラになっていた。
だがしかし、リアル鬼ごっこはなおも続く。
背後を振り返れば花子。
彼女は千鳥足で俺を執念深くつけ回してくる。
その覚束ない足取りは、どこかわざとそうしているように思えた。
そんなに俺をいたぶりたいのかこのやろう。
心の中で悪態をつきつつ、半べそをかいていると、突然花子が俺の背中に飛びついてきた。
その拍子に足をもつれさせ、俺は転んでしまった。
そのまま馬乗りになってくる花子。
「あなたぁあ……」
「ギャーーーー!!」
だ、駄目だ、もう限界!
俺はギブアップを叫ぶべく、花子越しに空を見上げ……ポカンとした。
彼女が、泣いていたからだ。
「何で……どうしてこうなるのよ」
掠れた声で呟く花子。
ポタポタと涙の滴がこぼれてきては、俺の頬に落ちる。
「どうして私を見てくれないの?私はこんなに貴方を愛してるのに……なのに、何で逃げるの……?どうして……」
すすり泣く彼女を面と向かって見て、初めて花子の気持ちを理解した。
彼女は、俺を殺すために追いかけていたんじゃない。
純粋に、自分を見ていてほしかっただけなのだ。
覚束ない足取りも、いつまでも俺の背中を追いかけていたかったからだったんだ。
鬼ごっこが続く限り俺の目には自分が映っていると、愛情と憎しみの間で揺れる頭で、必死になって考えたのだろう。
吃音混じりに「どうして」を繰り返す花子を、起き上がってそっと抱きしめた。
抱きしめたのは、泣いてる花子個人を慰めてだけじゃない。
これまで歩んできた、俺の人生をも含めて。
今まで緊張して恐れてばかりで逃げていたのを、彼女との鬼ごっこを通して、思い知ったからだ。
相手が上司や先輩、恋人、あるいは自分自身だろうと、初めから逃げても意味なんて無かった。
逃げた所で、状況は変わらない。
だから勇気を振り絞って、現実と向き合え――と。
きっとミフネさん達は、それを伝えたかったんだ。
『やっと気付いたみたいだのう』
まるで応援していた誰かの願い事が成就したような、嬉しそうな声が耳に届いた。
『そう、おまえさんのやるべき事は、恐れをなして逃げだす事ではない。傷付いた彼女と向き合う事だったのじゃよ』
「ミフネさん……」
ミフネさんの優しげな声に、やっと終わったんだ……と感慨を感じる。
やった……!
顔を輝かせてエンディングの余韻に浸っていたところ、彼が言った。
『よくここまでがんばってくれた。あとは――ラストスパートだけじゃあ』
「……へ?」
何を言ってるんだろうと思った矢先。
不意に花子が、俺の腕の中で猫のように体を丸めた。
どうしたのかと花子の顔を覗き込む。
彼女は玉のような汗をかき、苦しげな呼吸をしながら、いつの間にかずいぶんと大きくなった腹部を抱えていた。
「お、おい? どうしたんだ?」
『見て分かんねぇのか? 陣痛だよぉ』
『おまえさん達が鬼ごっこをしていた時間は、きっかり七時間。DVDの世界では七ヶ月に相当する。デキちゃった結婚して出産するまでには十分な時間じゃな』
「出産⁉」
という事は、子供が産まれるのか?
だが、ここには助産師はおろか、分娩台すらない。
身も心もボロボロな彼女に、出産できる程の体力が残っているとは思えない。
このままだと死んでしまうじゃないか!
どうすればいいのか分からず、あたふたするばかりな自分が情けない。
半分泣きべそをかきながら、とりあえずまともな場所へ花子を運ぼうと抱き上げた。
瞬間、辺りの風景が教会の礼拝堂から、真っ白い病室のような空間に変化した。
腰抜けな姿を見かねた傍観者達からの、助け船だろうか。
脳裏に過ぎる呆れた顔を思いながら、急いで花子をベッドへ降ろす。
その間も、絶えず呻き声を上げていた彼女だったが、突然声を張り上げて絶叫した。
今まで学んできた知識をかき集めて考えるに、恐らく、子供が体をこじ開けて出てこようとしているのだ。
もうこの鬼嫁への恐怖心は、欠片も無くなっていた。
「だ、大丈夫だッ……大丈夫だからな……!」
歯をカチカチ噛み鳴らしながら言っても、何の慰めにもならない事くらい、俺にも分かってる。
だが俺にできることはそれぐらいしかない。
花子は苦痛に喘ぎながらも、俺から視線を逸らさなかった。
「あなた……愛してる……逃げないで、お願い……」
「に、逃げない!もう絶対逃げないぞ!そうだ、こうしよう!ここでお前が子供を無事産んだら、別荘を買うんだ! 休みの日は家族で遊びに行こう!給料出てからになるけど、約束だ!」
早口でまくし立てるように、必死で言う。
今、俺の口からは、相当唾が飛んでいることだろう。
更に続けようとした瞬間――辺りに赤ん坊の泣き声が響き渡った。
「……」
産まれ、た……のか?
俺の腕の中には、いつの間にか元気に産声を上げる赤ん坊が収まっていた。
さっきと“即席臨月”と同じだ。
二度目の事態なので、俺はもうツッコまない。
赤ん坊の顔立ちは、花子に似ていた。当然父親である俺にも似てる。
……もう少し頬骨が出て、眼鏡をかけて、髪の色が違えば。
「はは……見ろよ花子、俺達の子だ! 可愛いなぁ」
感動の涙を浮かべながら、我が子の頬を撫でる。
そこで、はたと気付く。
花子が、やけに静かな事に。
「花子?」
返事はない。
彼女の表情は眠っているように穏やかで、顔色は青白く、生気を感じなかった。
死んでる……?
いやいや、あり得ない。
嘘だろ。
だってこいつ、ほんの数時間前まで、包丁装備で俺の事追いかけまわしてたんだぞ?
そうか、また騙し討ち喰らわせる気なんだな。
女はどこまでも計算高いものだから。
でもそれは、時と場合次第で洒落にならない事もある。
赤ん坊をベッドに横にさせ、花子に喋りかける。
「おい……悪ふざけはよせよ。こんなの悪趣味だって、なぁ……」
ちょっと怒った風に言っても、体を揺すってみても、彼女は眉一つ動かさない。
気付くと俺は泣いていた。
花子の顔に水滴が次々に落ちていく。そんな……せっかくここまで来たのに。
やっと、自分自身を変えられる、一歩前まで来たのに。
まるで子供がしゃくり上げるように、号泣しながら、俺は花子の白い手を握りしめた。
「頼むよ……目を開けてくれよぉお……愛してるから」
思わず口から飛び出た、その言葉。
瞬間、突然誰かに腕を強い力で掴まれた。
体が飛び跳ねそうになりながらも、顔を上げると、涙を浮かべながら笑顔で俺を見つめる花子の顔。
「やっと……つかまえたわ。もう逃がさないんだから」
そう言って、彼女は俺の頭を引き寄せ、胸にかき抱く。
確かに聞こえる心音が、心地良くも愛おしく、俺は余計に泣いてしまった。
ひとしきり泣いた後、生まれたばかりの俺達の子供の寝顔を眺め、その名前を話し合った。
「何がいいかしら。沢山あって決められないわ」
「いや、俺はもう決めたよ」
赤ん坊を起こさないように、そっと抱き抱え、俺は宣言した。
「この子の名前は、ドメスティック。――ドメスティック・バイオレンス・ドキュメンタリーだ」
:::::::
:::
誰かの拍手と歓声で、俺の意識は浮上した。
目を開けると、もはや懐かしくすら感じられる、ミフネさんと社長がいた。
「お疲れ様だのう、よくクリアした。合格じゃあ」
「……まぁ、結果オーライって所だな」
にこにこ笑って褒めてくれるミフネさん。
一方で、社長は渋々と言わんばかりに労ってくれた。
最初の頃は、何て嫌な上司だろうとばかり思ったが、これはこれでいいのかもしれない。
少なくとも、貞子みたいな嫁を相手にするよりずっとマシだろう。
あんなに赤ペンキ噴射機のようだった俺が、今はまるで、賛美歌歌唱機に生まれ変わったかのようだ。
清々しい、何て素晴らしい気分なんだ。
「んじゃ改めてこれからの流れ説明すっから、ミーティングルームに移動すんぜぇ」
「嫌です」
「は?」
「嫌です。仕事とかもうどうでもいいんで、嫁の所に帰らせて下さい。子供もいるし、彼女にだけ育児を任せっきりにはしたくないです」
ぽかんと口を開けて、俺を凝視する社長。
ミフネさんも、サングラスの奥の目が点になっている。
「いや、あの、おまえさんが体験したのは全部ゲームのイベントなんじゃよ?花子ちゃんも、架空のキャラクターであって……」
「関係ありません!俺は彼女を愛してる、それ以外に何を優先しろって言うんですか!」
「そこは仕事を優先してくれんか!?」
拳を握りしめて、我が愛しき妻への愛と情熱を熱弁する。
「……ミフネェ!!お前ふざけんなや!誰が新人をゲーム中毒に陥れろっつった?あぁ!?」
「わしのせいか!?何でもいいから作れと現場丸投げだったのはどこのどいつじゃ、この野郎!」
おやどうしたのだろう。
何やらミフネさんと社長が言い争っているが。
……まぁ、そんな事どうでもいい。
世知辛い社会から脱出して、今日から俺は幸せな日々へと羽ばたくのだから!