人間が好きだ。
地球温暖化だとか環境汚染だとかを引き起こしたのは間違いなく人間だが、それでも人間が紡いだ歴史や物語は目を見張るものがある。
けれど女は嫌いだ。まどろっこしい言動思考で扱いにくいったらない。
いい様に男に嬲られ、あろうことかそこに幸福を見出した挙句、子を孕む。
男も嫌いだ。少し力が強いからと他を見下す傲慢な輩のなんと多いことか。
服を剥ぎ取り体を好き勝手触って欲を満たすために、甘言を吐いて女を騙す。そうして責任を取るはめになる。
それこそが人の営みだと?
心底気持ち悪い。そんなもの認めない。
理性が存在するのかしないのかわからないような世界はうんざりだ。
『男』も『女』もない、色がない世界にいきたい。
そんな世界がないというのなら、……そうさな。
いっそ自分の殻に閉じこもっていようか。
「ハイホーハイホー……しごーとがー好きー……」
いくつかのランタンの灯りでほの明るく照らされた空間に、数人分の覇気のない歌声が響いていた。
窓が存在しない辺りおそらく地下。瓦礫の散乱する道なき道にひゅるりと吹く風がどこかに繋がる出入口を示す。
仕事が好きと歌っておきながら声はひどく暗く、労働クソくらえと言わんばかり。
「おい。止めろ」
そんな歌声を聞いている女がイライラと遮る。
「ハイホー……?」
「七人の小人風に返事をするな、たわけ」
口の利き方が男のそれだ。
が、引き締まった腰と張った胸や尻の対比、胸元のやけに開いたタイトな灰色のコートを見れば彼女の性別は顕著である。
背まで伸びた灰がかった白色の髪をひとつにまとめた女は、やはり不機嫌そうに唸る。
「歌うなと言ってるのが聞こえないのかね?」
「うるしゃーわ、わかってるよ。わかっててやってんのがわかんねーの?」
「そうかお前達喧嘩を売ってるな、この私に」
「買ってくれるの?今なら生ゴミも一緒についてくるわよ」
「いらん。いいから早く作業を続けろ」
「ハイ。……ホー」
一触即発の空気をわざわざ作り上げたのは幾人かの男女。
彼らは同じ職場に勤務する同僚たちなのだが、いかんせん素行が問題だった。
つい先日も流れでトラブルに巻き込まれ戦闘と人助け後、流れで爆発事件の当事者となった。
なんだその嘘みたいな話はと突っ込みたいところだが事実だ。
それでそんな彼らが何故この状況にいるか。
事の始まりは数日前に遡る。
ーーーー
「ここの責任者を出していただきたい」
昼食の時間を少し過ぎた頃、彼女は訪れた。
灰がかった白髪に赤い目というアルビノのような見た目ながら、立つ姿は毅然そのもの。
眼鏡の奥では厳しい光を湛え、睨むように前を見据えている。
ところが肝心の従業員が見当たらない。おかしい、気配はするのに。
玄関に直結しているリビングのテーブルには、湯気のたつお茶やポテトチップス。つい今しがたまで人がいた証拠だ。
もっと手がかりを探そうとまえに進む。
目の前にばかり集中しすぎたせいで、彼女は足元にピンと張られた糸の存在に気付けなかった。
「うわっ……!?」
身体が宙に浮く感覚とともに視界が反転する。
「かかったァアアアアア!!」
途端にどこからともなく人が躍り出てきた。
全身を包む網目のようなものを見るにつけ、自分がトラップにかかったのだと悟った。
「おい!私に何を……」
「へいらっしゃい!ようこそ便利屋・クズ工場へ」
「は!?」
寿司屋かと勘違いするほど威勢のいい挨拶をよこされる。
自分を捕えた者共を網の間から視認すれば、何ともまとまりのない集団だった。
一人は時代錯誤な燕尾服を着た男。一人は時計を首に提げた性別不明の子供。一人は帽子を被った若者。
「ねぇきみ、今何か困ってるんじゃないかぃ?絶対困ってるよね?」
「今なら特別価格で聞いてやるよ。さぁ依頼をよこせ」
「要は私を客と見なしているわけか?それならなぜ捕獲する!」
「日本の童話、鶴の恩返しの要領だよ」
「あれはもっと温かい話だったはずだが!?」
「うるせェェエエ!!いいから早く金落とせ!もうずっとカニカマとオリーブオイルしか食ってねぇんだよ!」
「知るか!!というか逆ギレするんじゃない!」
よほど飯の種が捕獲できたのが嬉しいのか、三人組は吊り下げられた網の周りを小躍りし始めた。
唾液を垂らして食器を両手に持ち踊る様はまさに晩餐を控えし飢えた餓鬼。
「さあ、依頼依頼依頼依頼!!」
「だから!責任者を出せと言ってーー」
軽やかな鈴の音。玄関のドアが開いた音だ。
見ればドアのそばに人影がふたつ、室内に入ってくるところだった。
「あれ、お客さんですか?」
入ってきたうちのひとりである表情筋がログアウトしている少女が、やはり無感情な声をかける。
手にはオレンジ色のペロペロキャンディ。彼女の髪色と同じだ。
「お客様ですって!?やだ、どうやって搾取しようか迷っちゃう!……って」
もう一人、頬にハート形のボディペイントを施した女も。
こちらは軽やかにスキップしながら近寄ってくる。纏う服のフリルがひらひら揺れる様がいかにも機嫌よさげだったが、未だ捕獲されたままの女の顔を認めると一転、ノニジュースを舐めたような表情を浮かべた。
「クレオじゃない!!」
「なんだ、知り合いかよ?」
「何でこのアバズレここにいるわけ?何の用よ」
「あー。なんだっけ、責任者呼べとか言ってたっけ?」
「カリーナ・インセグイーレという者がいるだろう」
「カリーナじゃない、カリンですけど」
ペロペロキャンディを舐めながら、表情筋ログアウト少女が律儀に名乗り出る。
クレオと呼ばれた女は、網の中で捕獲されたままのくせに厳めしい咳払いをひとつ。
「話がある」
ーーーーー
ーーーーー
「え、警官?」
「正しくは自警団団長だ。クレオ・ホプキンスという」
網の中から解放されたクレオが、まずはといった具合に名乗りながらも身だしなみをチェックしている。
神経質な性格なのかやたら入念にタイトなコートのしわを伸ばす。
「どっかで見た顔だと思えば、警察かよ」
「女でも警察のトップなんてできるんだねぇ」
「女という呼び方はよしてくれ。品がない」
少し声のトーンが低くなる。彼女は『女』扱いが気に入らないようだった。
一通りコートを直すと次は首に巻いた赤いスカーフを指先でつまみ、ちょいと引っ張る。
「で、その自警団団長が何の用だよ。捕まえに来たのか?指名手配犯がいるから」
「別にそんなもの興味はないよ。第一、それならわざわざ私が来る意味はない。君は雑魚だと知っているしな」
「雑魚で悪かったなババア!!見てたような言い方しやがって!」
「見ていたんだ」
ふわふわした白い髪を撫で付けて、彼女はようやく己の身だしなみに満足したようだ。
きっ、と彼らをまっすぐに見据える。と、目の前にいる彼らを順に指した。
「ダン・ロールベルト。通称ベルト……だな」
「え、俺?」
素っ頓狂な声をあげるのは時代錯誤な燕尾服を着込んだ巻髭面の男。
「知っているぞ、目を見れば何でも悟ることができる異能を持っているのだろう?過去の経歴から性格が多少歪んでいて、そのせいで恋人をうまく愛せないようだな。さらにお前は現代の人間ではない。……にわかに信じ難い話だが、過去からタイムトリップしてきた者だな」
次に、ベルトの右隣の鮮やかな髪色をした少女を指差す。
「カリーナ・インセグイーレ。通称カリン。元はギャングの家系に生まれた身だが、家族内で不和があり今は天涯孤独の身だ。妹君のことはご愁傷さまと言っておこう……あぁ、暗所恐怖症が克服できたようでよかったな」
更に右隣。性別不明の子供を指す。
「ラスカル・スミス。お前は国で最も有名な殺人鬼とされた人物ではあるが、実際のところ人を殺めたことはないな。死んだ友人のためだけに生きるとは健気な事だ。性別を誤魔化しているが、お前を恋い慕うものが不憫だ。そろそろ素直になっておけ」
最後に、帽子を被った青年を指した。
「そして君、キース・アンダーソン。君は見た目に似合わず真面目だが、正気ではない。多くの犯罪歴を持っている。特に殺人だが、何の反省も後悔もなし。だろう?」
さらさらと、まるで説明書を音読するように語ってみせたクレオに、唖然とする一同。
「こっわ!!何この人、怖っ!妖怪かよ」
「お前とんでもねぇでかさのブーメラン刺さってんぞ」
「何故か何でも知ってるのよ、この女」
実は今までずっとクレオにちょっかいをかけていた、同僚諸氏最後のひとりが憎々しげに言う。
猫がじゃれる時のものに似たパンチを、クレオの背中に無限に繰り出している。
「当然君のことも知っているぞ、ニルギリス・バーンズ」
「ニルって呼んでちょうだい」
相変わらず猫パンチを叩き込みつつ、ニルはぶすっと言った。
「そろそろ本題に入らせていただくが。お前達には、これから肉体労働の身に落ちてもらう」
「本題が急カーブすぎて心の崖から落ちたんスけど」
「心の生命保険に加入しろ」
クレオの話は掻い摘むとこうだ。
先日、彼らは地下にある監獄で大騒ぎを起こし、施設を半壊させた。
監獄なわけだから当然囚人もいたが、大多数が逃亡した。
監獄には従業員がいない。
唯一、管理者たる住み込みの男がひとりいるが、彼一人では全ての後始末は無理。
だからせめて壊した者が責任をもって修繕しろと。
「知らねぇよそんなの。僕達が爆破したわけじゃねぇし」
「ならば依頼という形でもいい。文句を言わずに引き受けろ」
「それがものを頼む態度かババア」
「私はまだ31だ。女性を軽率に罵るべきではないぞ、少年」
「こっちだって少年って歳じゃねぇよ!」
「失敬。ませた子供にしか見えなかったものでな」
知り合って早々、険悪な空気を醸し出すキースとクレオをよそに、カリンがひとりで首を傾げる。
「監獄半壊……って、そんなことありましたっけ」
「え?」
「記憶にないんスけど」
不思議そうにしているがカリンに限っては、絶対にそんなわけは無いのだ。
何故なら彼女は地下監獄事件の際、双子の妹を亡くしている。
化物じみた黒幕をみちづれに、燃え盛る火の中に落ちて死んだ。
カリンはその事で廃人になりかけたから、忘れるわけはない。
ショックのあまりの記憶障害、だろうか。
「……まぁ、ちょっと面倒ですけど、やってもいいッスよ」
「えっ、やるの!?」
「カリンちゃんがやるならぼくもやる」
「……んん、まぁ、いいか。俺もやるわ」
「僕もやる。完璧にやってこのババア見返してやる」
「え、えぇーーー……じゃあ私も……」
連鎖を重ね、芋づる式に全員が参加する運びとなった。
そして今に至る。
そんなこんなで同僚五人組は地下に潜り、監獄の修復作業に明け暮れていた。
瓦礫の山を崩しては運び出しを繰り返すこと、早数日。
同僚たちは徐々にストレスを溜めていっていた。主にクレオに対して。
けれども現場監督役はクレオ一人ではなかった。
「痛ってぇ!!ちょ、何すんの!?」
突然ベルトに手厳しい飛び蹴りをかました人物。
カーキのモッズコートとエンジニアブーツを着こなしていながら、何故か頭には紙袋を被った男。
いささかシュールな出で立ちの彼こそが、地下監獄の主人である。
「黙れ!!我が住処たる場を派手に爆破しおって、くたばるがいい!」
「だからそれ私達のせいじゃないって言ってんじゃない」
「知るものか!!」
「八つ当たりもいい加減にしなさいよ、ドーズ」
ドーズと呼ばれた男が、紙袋の上からでもわかるほど殺意を込めた視線を送りつつもまだ続ける。
「何を偉そうにほざくか、女の分際で」
「は?今女だとか関係ないでしょうが」
「知るものか!俺は女が嫌いだから必然的に貴様も嫌いだしな!」
とんでもない自己中心的発言だ。
殺気が可視化できかねないほどで、よほど女が嫌いと見える。ならば男が好きなのか。
「ちなみに俺は男も嫌いだ。男も女も何もかも嫌いだ。性あるものは全て滅べばいいんだ、クソがッ」
「うわ病気だ」
「絶対病気だよこの人」
「きっと過去に何かつらいことでもあったんだよ。もう触れないであげよう」
もう誰も何も言っていないのに未だにブツブツ言っている狂人じみた男。
あからさまな危険人物たる彼からそれとなく距離を置こうとすれば、向こうが自発的にどこかへ消えた。
「おいドーズ…………ん?ドーズはどこへ行った?」
「知らねぇよ。薬キメに行ったんじゃねぇのか」
「彼は薬などやらんよ。すまないが誰か呼んできてくれるかね。ドーズからお前達へ話があるんだ」
「あ、じゃあぼくがいく」
意外にも挙手したのはラスカル。
まぁわざわざ名乗り出なくとも、とろいラスカルに面倒が回ってきていたろうが。
ーーーー
ーーーー
半端に補修された岩壁に寄りかかり、忙しなく体を揺すり、ドーズは独り憤っていた。
一体何にそんなに苛立っているのかは本人以外分からない。
ふーふーと呼吸も荒く、興奮の度合いも相当。
そんな彼に不用意に近付く者など居ようか。
「ドーズさーん」
居た。ラスカルだ。
さすがにわざわざ話しかけに来るとは思いもよらず、紙袋が震えて音を立てた。
「……何だ」
「クレオが呼んでたよ」
「後で行くと伝えておくがいい」
「わかった」
了承したからとっとと帰っていくかと思っていた。
ところがラスカルは、依然としてぼーっとそこに突っ立っている。
ただただ、ドーズの顔……もとい紙袋を見つめて。
「何だというんだ、まだ何かあるのか!!」
「……きみ、どっかで会った事あるかぃ」
「あ!?」
「嗅いだことのあるにおいがする。というか、よく似たにおいがする人を知ってるんだけど」
ドーズの動作が一瞬、ほんの一瞬だけ止まった。
乱れる呼吸、そこから滲む極度の戸惑い。
鈍いラスカルにとてそれは何となく感じ取れた。
「においだと……?」
「んん」
「風呂くらい入っている」
「違うよ、嫌なにおいじゃなくて」
すごく好きな匂いがする、とラスカルが述べた。
刹那。
「わあっ」
ラスカルのぼさぼさした小さい頭を鷲掴み、ドーズがはるか遠く、通路の向こうにぶん投げた。
ちっぽけな体は軽々飛んでいき、着地したが勢い余ってそのまま転がっていた。
「二度と近付くな痴れ者が!!」
きっと通路の向こうにて目を回しているだろう相手に対し、暴言を吐いて。
またイライラと一人で体を揺すり始めた。
ーーーー
ーーーー
ーーーーーー
「待たせたなクズ共。俺からひとつ話がある」
全員がドーズに注目する。
「話って?」
「何か嫌な予感しますね」
「サプライズで懲罰房に閉じ込めるとかじゃね」
「どんな過酷なサプライズだ、俺を鬼か何かと空見しているのか貴様らァ!!」
雑に彼の手が差し出された。
|森に住みし巨体妖怪《トトロ》に出てくる少年によく似た渡し方である。
怪訝に思いながらも受け取って中身を確認すれば……それは数枚の紙幣だった。
「なにこれ」
「給料だ」
「えっ」
「お前達はこの数日間、重労働ながら汗水ながして働いた。ドーズからその報酬だそうだ。受け取ってくれ」
「勘違いするなよ。男のみならず女子供がアホ面晒してみせていたから、その見物料というか、まぁ」
紙袋の下にあるはずの表情は見えないが声の調子的に、何となくわかる。彼は照れていると。
ツンデレだ。紛うことなきツンデレだ。ただの理不尽ツンドラ属性だと思わせんばかりの態度言動だったが、実際は違う様子。
紙袋を被った男にデレられても、シュールさが先行してあまり素直には喜べないが。
「ああ、それから。明日から女性陣は来なくて結構だ」
「なによ今度は身売りさせる気?」
「どうやら私達現場監督の印象は悪徳業者並に悪いようだな」
眼鏡の奥で目元を痙攣させながらもクレオは否定の弁、及び説明を紡ぐ。
「もう修復作業がだいぶ進んだし、ここからは男性メンバーのみで作業する。女性陣は卒業だ」
「ほんと!?」
「よっしゃ遊びに行けます」
男性メンバー二人はさておき、女性メンバーは喜色満面。軽く小躍りしている。
「ぼくは?」
しかし残る一人、ラスカルだけは喜びも悲しみもしない。
性別に関しては複雑な立ち位置故、どんな顔をすればいいかわからなかった。
「お前は帰って寝ていていい」
「だって、ぼく男……みたいなものだよ」
「……お前の事情は知ってる。だが私達には関係ない。性別は性別だから帰っていい」
「でもぼく……」
「あらいぐま。もういいから」
食い下がるラスカルに傍らのキースが口を開いた。
「休む許可出たんだから、友達の墓参りでも行ってきたらどうだ」
「いく!」
瞬速でラスカルが鞍替え、その後は目をキラキラ輝かせるばかりで特に何も言わなくなった。
キース、調教師並に扱いが手馴れている。
というより、何を引き合いに出せばいいか心得ている。さすが同僚である。
兎にも角にも、これで彼らの負担は少しだけ減ったのだった。
ーーー
「あーーーー。疲れた……」
無事その日の業務が終了し、同僚四人が帰宅した。
体力が限界に近い。
許容範囲を超えそうな疲労に耐え、そこらの棒きれを杖に歩いてきた。
そんな疲労困憊でも愛しの我が家は変わらず彼らを迎えてくれる。
……かと思ったが。
「あれっ」
誰ともなく、素っ頓狂な声をあげる。
部屋の様子がおかしい。
朝出かけた時とは明らかに違っていた。
何がか?それは。
「こたつ……?」
リビングにドンと構えていたテーブルに、布団がかけられている。
此処は山だ。日によっては寒かったり暑かったりもするが、そういう場合は空調で済ます。
だから何故こたつにフォルムチェンジしているのか、彼らには甚だ疑問だった。
「何だこりゃ」
そんな中、最もキョトン顔をさらしていたのはベルト。
ただでさえ現代の人間では無い彼だから、現代の異国文化にはさらに疎い。
だからこたつなんて存在すら知らないのだ。
「こたつよ。東国では冬はあの布団に入って暖まるの」
「へええ。で、何でそんなもんがうちにあんのよ?誰か入ってんのけ?」
おちゃらけつつ、ベルトがこたつ布団を捲り上げた。
中からは、何かがこっちをじいっと見ていた。
影のように黒いそれと、同僚たちの目が合う。
「……、失礼しました」
ベルトが、持ちうる限りの良い声で謝罪。
そうしてゆっくりとこたつ布団を元に戻した。
「…………イヤアアアアアアアアアア」
「待ってなにあれ!目ぇ合っちゃったわよ!」
「お化けかな、でかい昆虫かな」
「どっちも願い下げだよ馬鹿野郎!」
一瞬でその場は大パニックだ。
と、こたつから手が出てきた。
得体の知れない何かが出てくる恐怖が、腰を抜かしている彼らをさらに怯えさせる。
ただただ目の前の光景を凝視すれば、やがて頭が出てきた。黒髪だ。次に広い肩。
ずりずり音を立て続け……ようやく完全に姿を現したのは。
「あ、どーもォ……」
出てきたのは、中年の男だった。
後ろに撫で付けた黒髪や黒眼はきれいなのに、不健康そうに丸めた背と無精ひげが台無しにする。
神職者なのかカソックのようなものを着込んでいる。
加えて、まろ眉がずいぶんユニークな印象だった。
「あ……あんたァアアアアアア!!」
「ぐっふう」
彼を見るやいなや唐突に殴りかかったのはニル。
「びっ……くりしたわねぇ!何なのよもう!」
「こっちの台詞なんですけど……」
「なんだ、またニルの知り合いか」
「えぇ、まぁ」
一発食らって痛む頬をさすりつつ、答える謎の男。
ふと彼が視界に映したのはキースだ。
「あーー。お前、キースですね。キース・アンダーソン。でしょォ?」
「え」
「聞いてた通りですねェ、マジであいつに似てやがる……」
真黒い眼いっぱいにキースを映す謎の男。
どう対応しようか迷っていると、ラスカルがキースの腰にしがみついた。
ラスカルは、震えていた。彼女が纏うぶかぶかのパーカー越しからでもわかるほど。
「どうした、あらいぐま」
「おーや、ボロ雑巾じゃないですかァ。ご無沙汰ですねェ……?」
ぐしゃぐしゃ乱雑にラスカルの頭を掻き乱し、男はコミュニケーションを図る。
何が怖いのかラスカルは蒼白な顔で、視線を合わそうともしなかったが。
「ってか何でここにいる訳!?今お茶いれてあげるから待ってなさいよ!」
「要りません。俺ァね、ただお前らに文句を垂れに来たんです」
「文句?」
若干気が立ったように頭を掻き、男はこたつに戻る。
何故わざわざこたつに?疑問には思うが、きっとこれは異国特有の文化なのだろう。
悟りに近いものを感じ、彼らも大人しくこたつに潜り込んだ。
「改めまして。町外れで神父やってる者ですゥ……以後よろしく」
「神父なわりにずいぶんダウナーだな」
「真面目に生きる気がねーもんで」
つまりはクズ野郎である。聖職者たる彼までもクズとは、世も末だ。
そろそろ肩パッドを購入する頃合いか。
「で、何なの文句って」
ニルが何故か少し食い気味に問う。
神父はポケットから煙草を出して火を付けつつ、こう言った。
「地下監獄の囚人が一人残らず逃げたのはご存知で?」
「あぁ、何かそんなん言ってたな」
「それがどうかしたのけ」
「さらっと言ってくれやがりますけど、もっと反省していただけます?マジ大変なんですからねェ……」
一部同僚たちは首を傾げた。
大変とはどういう事か、全く読めなかったから。
すると神父はなんの嫌がらせか、吸っている煙草の煙を彼らに吐きかけた。
かなりどぎつい煙草の臭いに包まれる。
「逃げた連中は、大半が俺がぶち込んだ奴なんですよ」
「……あぁー、なるほど。このままじゃそいつらにぶっ殺されそうだってことね」
「御明答」
だから文句を垂れに来た、と言ったわけだ。
「クレオにも言ったけど、僕達が逃がした訳じゃねぇんだっての」
「えぇ知ってます、うちの馬鹿ガキがやったんでしょォ」
「ガキ?……って?」
「社長って名乗ってる化物いたでしょォ……そいつの保護者ですよ、俺ァ」
言われてみれば、たしかに面影が重なる。
しかしその『社長』と呼ばれる子供は、カリンに半殺しにされた上に炎に落ちて死んだ。……はず。
と、不意に神父がぐるりと工場内を見回す。するとこう一言。
「あのオレンジ頭の小娘はいねーんですか」
「カリン?あいつのこと知ってんのか?」
「いいえ存じません」
「カリンなら地下にいるわよ。クレオに捕まってるわ」
「へーェ……」
どうでも良さそうにタバコの煙をまた大量に吐き出す。
知らないなら何故カリンの外見特徴を把握しているのか。
皆が不審に思い神父を凝視するも、彼は無視。
のそのそと神父がこたつから這い出て、そのまま退出しようとする。
「どうしたの」
「帰りまーす。どうもお邪魔様でしたァ……」
ポケットに手を突っ込んで、背筋を丸めてすたこら去っていった。
何なんだろう、あの聖職者もどきは。
あまりにも謎だ。残されたメンバーの間に微妙な空気が漂う。
しかし誰ともなく腹の虫が鳴き叫び。
ひとまず夕食の時間となるのだった。
ーーーー
翌日、朝。
「ホリデーじゃあああああ」
「ホリデーじゃー」
「遊んで遊んで遊びまくるんじゃああああ」
「遊びまくるんじゃー」
「うるさい。部屋で騒がないでちょうだい」
男性メンバーを差し置き、元の日常を取り戻した女性メンバー+α。
無表情でハイテンションをこじらせたカリン。カリンに便乗して騒ぐラスカル。そんな二人を尻目にスマートフォンをいじるニル。
それぞれが、早速出かけようとはしゃぎながら身支度を済ませリビングに集結していた。
「よぉ、これから出かけんのか?」
まだ地下に出発していなかったキースが三人に声をかける。
「そうよ。男性陣は残念だったわね、まだまだ働かなきゃならないとか」
「市中引き回すぞ。そういうお前はどこ行くんだよ」
「教会」
「教会?」
「知り合いに会いに行くのよ」
それだけ告げてニルはさっさと出かけていった。
次にキースが目を向けるのは、ラスカル。
玄関の鏡の前に立ち、ラスカルはじいっと自分の姿を見つめている。
やがてくるりと振り向きキースに問う。
「ぼくどう見える?」
「どうって……」
問に答えるために改めてラスカルの容姿に注視してみた。
半端に伸びたぼさぼさ髪。中性的な顔立ちと服装。子供のように小さな身体。
「性別不明の子供」
返ってきた言葉に満足気に鼻を鳴らすやいなや、ラスカルは外へ出かけていった。
最後に残るはカリン。
彼女は何故かソファの陰に隠れていた。正確に言うならば親指を立てた右手だけ影から出している。
「アイルビーバック」
「よしさっさとどっか行け」
ーーーー
ーーーー
性別。子供を産む機能がある方が女。子供を産ませる機能がある方が男。
辞書にも載っている、世界共通の常識。
彼女はそんな常識が嫌いだった。子供を産みも産ませもできない中途半端な存在だから。
けれど誤魔化しがきいている。彼女はもう成人しているが、見た目がまるで子供のままだから。
「でね、それでっ」
町外れの寂れた墓場に、彼女の友人が眠る場所はある。
十一年前に殺害された友人を、ラスカルは親愛している。
感性、知識、成長。彼女のあらゆる時間は、友人の死を機に全て止まってしまった。
それほどまで愛していたのだ、けれど愛には種類がある。
一体どういう意味での『愛』を抱いていたのか、抱いているのかが彼女には未だ判別できないままだ。
「ね、おっかしいだろ?ルークならきっと笑ってくれると思ったんだ」
目の前にあるのはただの墓石なのに、まるで本人がそこにいて話しているように嬉嬉としてお喋りする。
もうずいぶんと長い時間一人きりで喋っている。朝からずっとで、そろそろ日も傾いてきていた。
ラスカルもようやく時間の経過に気付き、時計を見る。もう帰らねばならない。
「……」
別に帰らなくていいのではないかと思った。
彼女の同僚たちはみんな基本的に放任主義である。一度くらい朝帰りしても、誰も何も言わないだろう。勝手に判断して満足した。
「ふぁーあ……」
普段からコアラのごとくよく眠る彼女だ。朝から夕方までずっと喋り通して、疲れと眠気を催すのは道理。
手入れがされておらずふかふかしまくりの原っぱに、ぱたっと倒れるように寝転んで……寝た。
眠気を催して十秒もしないうちに就寝するとは、ずいぶんと野性に忠実である。
「すぴー……すぴー……」
穏やかに寝息を立て、眠るラスカル。
しかしこの時彼女はまだ気づいていなかったのだ。自分の体の異変に。
「……んむ」
ふと意識が浮上し、目を開けると……辺りは暗い。真っ暗闇と言っても差し支えないだろう。
そもそもここは町外れの墓場であるし、夜に灯りが無いのは当然だ。
首から提げた懐中時計を見れば、時間は十二時前。
さすがにこんな時間に一人で墓場にはいたくなかった。
友人の墓へ手を振って、そそくさとその場を後にする。
寝ぼけている頭が覚醒するにつれて気付くことがいくつかある。
先程から、何かがおかしかった。
体を締め付けられているような不快感を覚えるし、頭が重い。
「まさか……おばけのせい?」
墓場で寝ているからそんな事になるのも不思議ではないだろう。
とにかく早く明るい所へ行こう。
幸い墓場から町へは一本道で、しかも歓楽街に直結している。
歓楽街というのは夜中ほど賑やかなものだ。だからそこまで行けばもう大丈夫。
調子がおかしいままながら、ほぼ駆け足で進めばやがて灯りが見えてくる。
それと共に、歓楽街ならではの喧騒が聞こえ始めた。
「さぁさぁいらっしゃい!可愛い子揃ってるよ!」
「おい!てめぇどこ見て歩いてんだ!」
「ちょっとぉ、金無いってどーいうことぉ!?早くおろしてこいよ!」
初めて深夜の歓楽街に足を踏み入れたが、本当に賑やかだ。
彼女はこういった騒がしい場が好物故、安らぎを覚えつつ歩を進める。
きょろきょろしているのが悪いのか、はたまた彼女の幼い容姿を場違いに思ってか定かではないが、やたらと視線が刺さる。
と、誰かに肩を掴まれる。
振り向けば、灰色のコートを来た知らない青年。
「君、大丈夫?」
「……?どちら様だぃ」
「あ、えっと、ロゼ・ボレロ自警団の者ですけど」
「じけいだん?」
自警団、というとあのクレオとかいう女が統率をとる組織だ。
警察が声をかける用事など、職務質問くらいのもの。
ということは、自分もその範疇に当てはまるわけで。
「君、名前は?」
「ラスカル……」
「え?」
「……、フォルクスワーゲン佐々木」
「いや絶対それ嘘じゃん。絶対そんなアジアの売れない芸人みたいな名前じゃないじゃん」
「嘘だけど」
「正直でよろしい。で、本当の名前は」
「じゃあジョン。ジョン・スミスで」
「お巡りさんナメてる?しょっぴくよ?」
彼女は国一番の犯罪者である。だからこんな所で身分を明かせば終わりだ。
仕方がないのだと言っても分からないだろうし、むしろ分かったらそれこそまずい。
青年警官は深いため息を吐き出しつつ、次の質問を繰り出す。
「まぁいいや。それで?ここで何してんの」
「家に帰る途中で、たまたまここを通ってるんだよ」
「ここ歓楽街だよ?女の子が一人で歩いてたら危ないよ」
ラスカルはカチンとくる。今なんて言った、この警官。
女の子?女だと、このぼくを?性別不明の子供に見えると自負しているから聞き捨てならなかった。
「どこに目をつけてるんだぃ、公僕。ぼくのどこが『女の子』なんだよ」
「え?いや、だってほら……」
青年警官がおもむろに、ラスカルの背後に指をさす。
ムカムカしながら振り返ればそこにあるのはキャバクラの窓。
きらびやかな印象を与えるためか、窓にはライトアップされた鏡がはめ込まれている。
「…………え」
そこに映り込んでいたのは見慣れた幼い姿ではなく。
かなり小柄で控えめながらも曲線を描いた体つきの、ラスカルの顔をした女性だった。
窓に映る女は、やたらつんつるてんではあるがラスカルと同じ服を纏っていた。
オレンジのパーカー、色あせたジーンズ、手足と首に巻いた包帯は、華奢な身体に食いこんでいる。
女の髪は、ラスカルと同じぼんやりした髪色だ。ただし長さは、背中くらいまで伸びてはいるが。
顔もやはりラスカルと同じである。
「いや、ぼくですやん!!」
勢いよく自分の体を確認する。やっぱり、鏡に映っている通りの見た目になっていた。
大人の体に、成長した。道理で苦しいわけだ。というか何故急にこんなことに。
まだ信じきれず……というか疑いたくて自分のであるはずの体をべたべたまさぐる。
柔らかい。ああ柔らかい。柔らかい。思わず心中で俳句を詠んでしまうほど混乱する。
「うわっ、何だあの女!」
通行人に指をさされる。
何事かと思いつつ、もう一度先程の窓を見ると……なんと髪が凄まじいスピードで伸びているではないか。
まるでホラー映画だ。ラスカルはもう絶叫しそうだったが、周囲の人間も同じこと。
「わーー何あれ!映画の撮影?」
「貞子じゃん、すっげ!」
「撮れ撮れ!絶対バズるからコレ」
「スマホどこだっけ?」
歓楽街のネオンに加えて、カメラのフラッシュが輝く。皆がラスカルを見ていた。
見世物を見るような気分で、ラスカルが何も感じていないと錯覚して。
「ちょ、君達!?やめなさい!撮るんじゃ……」
「うっせえ退けよ!!」
今の今までラスカルに職務質問していた警官は、民衆を宥めようとしたがあっさり押しのけられ人混みに紛れた。
誰も彼も、街中にいきなり現れた怪現象を話のネタにする事しか考えていない。
今のラスカルはただのエサで、人権は無かった。
ーー……あぁ、昔もあったな、こんなこと。
ラスカルは思い出す。自分が性別を失くした時のことを。拉致された先で『去勢手術』を受け、望まぬまま性を失った。
あの時とほとんど同じだ。好奇の目で見るばかりで誰も助けない。
「っ……やめて……」
ラスカルがキャパシティオーバーを起こしかけたちょうどその時だ。
背後の鏡(窓)が付いた店の出入口が開いた。
中からよろよろとした足取りで、やたら縦長な体躯の男が出てくる。
「ッハァーーーー。二度と来ねェ、クソが……」
目の前でわりととんでもない状況が展開されているのにも気付かず、ぶつぶつと文句を言うその男を視界に映し、ラスカルは妙な安堵感を覚えた。
「クローバーっ!!」
「あ゛?」
クローバーと呼ばれた男がラスカルを視認すると、彼は一時停止した映像のように動作が止まる。
「……、ラス、カル……??」
ふたりは古くからの知人で、かつ現在は文通友達である。その上彼はラスカルに想いを寄せていた。
そんな彼だから、ひと目でこの女がラスカルだと分かった。が、どう見ても性別不明の子供にしか見えなかった想い人が急にこんな事になったので、それこそ混乱していた。
「わーーーっ、あの人背高っ!顔怖っ!」
「幽霊みたいな顔してるのウケる」
「貞子と幽霊のツーショットじゃん!」
流れでクローバーまで被写体にされてしまった。そこで彼も状況を理解するに至る。
「……来い」
「わ、え、ちょっと」
とにかく一緒にこの場から離れるべきだと判断し、クローバーはラスカルの腕を引いてその場を離れる。
ラスカルは地面まで伸びた髪を引きずりながら必死に後をついて行く。
「あーぁ、行っちゃったお化け二人」
「なぁこれネットニュースなるかな?」
どこまでも自分の都合だけで、他人の迷惑は省みない現代っ子共。
当然あの二人の姿はネットに上げられてしまうだろう。しかし気にする事はない。
人の噂も七十五日という。どんなに目新しいものがあろうと、世界は常に変わりゆくのだから。
ーーーー
町、裏路地。
「おーれーはジャイアーン、ガーキだーいしょーう」
ノリノリで愛車(芝刈り機)を走らせる。爽やかな風を肩どころか全身で切り、カリンは進む。
BGMを流してくれる機器は残念ながら壊れているため、エコロジーに自分自身がオーディオ機器となっていた。
久しぶりのオフである。どこに行こうか。何をしようか。
ラスカルは墓参り。ニルは会いたい人がいるとかで教会へ行った。
別に一人ででも構わないけれど、やっぱり誰かと遊びたい気持ちがある。
「!!」
猛スピードで走る芝刈り機の前に人影が躍り出た。
危ない、と急ブレーキをかければ、勢いあまって芝刈り機は横転。
カリン自身も道に投げ出され、ごろごろ転がっていきやがて壁に衝突する。
「いってて……」
「ぎゃはははは!!あーぶなかったなぁ、小娘」
「は?」
ずいぶん気安くかけられた声を不可思議に思い視線を向ける。
帽子がいた。というか、帽子を被った人。
首まですっぽり隠れる大きな帽子を被った、黒っぽい服の子供だ。
周囲には他に誰もいない点から察するに、この子が飛び出してきた模様。
「あんた、何やってんスか。死んだらどうするんですか」
「なぁ小娘。お前、クズ工場の工場長だろぉ」
ひとつ説教でも垂れてやろうと思っていたのに、帽子の子は勝手に話題を変えた。
「薮からスティックですね。……そうですけど」
「依頼あるんだけど。金ははずむぜぇ?」
「何を偉そうに。親の脛かじった金でしょ」
「脛なんかかじるかよ。熱々に熱したトウモロコシもかじらねーのに」
「しばらく待って常温にすればいいでしょ」
「とにかく依頼があんだよ。ドゥーユーアンダスタン?言っとくけど俺様はお客様だからな。丁重にもてなせよ」
こちらの話(ツッコミとも言う)をほとんど無視して突っ走る帽子の子。
友達を失くしかねないマイペースさである。
マイペースな人は彼女自身の知り合いに死ぬほどいるから慣れているが。
とりあえず立ち上がって、服に付いた綿埃を払いつつ。
「じゃ、お客様。お名前を伺いましょうか」
聞けば、子供が帽子の下で笑ったのを感じ取った。
「社長。よろしくなぁ」
社長と名乗った子供。
いくらキラキラネームが流行るご時世とはいえ名前が社長、ということはないだろう。
詳しく聞いたところ、本当に会社を経営しているそうだ。嘘こけチビ……とは口が裂けたら言いたいと思うカリン。
彼だか彼女だかわからないから性別を聞いてみたら、「両性具有ってかっこいいよなぁ」と、謎のコメント。
素直に答える気はないらしかった。ひん剥いてやろうか……とは考えたり考えなかったりしたカリン。
「で、うちに何を依頼したいんですか」
「あーそれな。記憶喪失になった女を探して欲しいんだけど」
「記憶喪失の女?事故か何かにあったんスか」
「まぁ、事故っちゃそうだわな」
「どんな関係だったんスか、その人とは」
「知らね」
「は?」
「どんな関係でもないんじゃね?」
……要領を得ない。何なのか、この子は。からかわれているのか。
だんだんもやもやしてきた。普段頭がもやもやする事なんてないのに。
……いや、正確に言えば、しばらく前から軽くではあるものの頭がぼうっとしているのだけれども。
「うちの会社さ、二人社長がいんだけど」
社長が喋り出す。なおも自分が会社の長だと言い張る気らしい。
信じてやっても信じてやらなくてもいい。けれど報酬だけは支払っていただきたい一心で、耳を傾ける。
「裏向きの社長は俺で、表は神父やってるおっさんなんだけどよぉ。その神父に言われたんだよ」
「はあ、何て」
「お前の持つ感情はただの執着だ。見返りを貰えると思う方がおこがましい」
今まで、帽子越しでさえもわりと軽い耳障りの声だったのが、急に暗いものに変わった。
「何がおこがましいだ。だからって、こんな……あの野郎……ッ」
どうやらその神父と呼ばれる男に憤っているらしい。
探しているという記憶喪失の女に、神父は何かしたのだろうか。
「まぁ、とりあえず探しますよ」
「見っけてくれるかぁ?」
「天才カリンちゃんにできないことはありません」
カリンが無表情のまま自信に満ちた台詞を吐き、手を差し出す。
社長の巨大な帽子が揺れた。
「なに、殴り飛ばすのかぁ?」
「子供相手にそんな物騒なことしませんし」
「お前すぐ暴力に訴える印象しかねんだけど」
言いながらも、社長は彼女の手を掴みあぐねていた。
虐待でもされていた子なのだろうか、とカリンは思う。
虐待を受けている子は妙にかしこまる癖があると彼女は知っている。
……なぜ、そんな知識を持っているかは知らないけれど。
結局、社長は手を掴まなかった。
ーーーー
ーーーー
社長とカリンは街のあらゆる所を巡っていた。
社長が経営する社の菓子屋、ゲーム屋、洋服店。行先のチョイスがまるでデートのようだった。
「好きなもん買ってやんよ」と言う社長の言葉に甘えて、カリンは欲しいものを希望、手に入れる。
肩を並べて二人仲良くお菓子を食べる様は、さぞかし可愛らしい光景に映ったことだろう。しかし。
「あの」
「あ?何よ」
「記憶喪失の女性を探すんでしょ。こんなデートまがいのことしてていいんスか」
「別にいいんじゃね」
相変わらず意味不明な社長の行動言動。
もしや、この子はカリンとこういう風に遊びたくて依頼をしたのではないか?
となると彼(?)はカリンに想いを寄せているのか?
「社長さん」
「何だし」
「カリンのこと好きなんですか?」
飛んできた唐突な質問。けれど社長はあまり驚いた様子はない。
カリンに視線を向ける気配も無く、巨大な帽子の中にポップコーンを放り込むばかり。
「それってお前とヤりてぇと思ってるっつーことか?」
「話がずいぶん飛躍しましたね。オリンピックならメダルものですよ」
「棒高跳びじゃねんだからさぁ。……じゃあお前は?俺がもしヤらせろって言ったらヤらせてくれんのぉ?」
「丁重にお断りです。カリンはまだそういう経験無いですし」
「ふうん。そう思ってるだけじゃなく?」
失礼な事を言う。カリンは眉間に皺を寄せた。カリンは性経験などない。
男性とも、もちろん女性とも肌を重ねた覚えはない……はず。
「安心しとけよ、少なくともお前とヤりてぇとは思わねーから」
「それは光栄です」
「あぁでも、そういやあいつもそう言ってたなぁ、お前が好きとかどうとか」
「は?」
あいつとは誰だと視線で訴えかけるも、社長は無視した。
会話のできない子である。コミュ障というやつなのか。
少々溜まってきたストレスを逃がそうと、傍らのショーウィンドウを見やる。
洋服屋だった。
まあまあ高級なその店では最先端の流行を追う流儀らしく、テレビなんかでも見た覚えのある服が、マネキンのやたら理想的な体躯を飾っていた。
今の流行りは友達同士が同じデザインの服を来て出歩くことらしかった。
これはそう、『双子コーデ』とかいう。
「っ痛………」
生じた痛みにハッとする。カリンは、いつの間にか喉を引っ掻いていた。
鋭利な刃物でひと思いにかき切られたであろう綺麗な一筋の傷。いつ出来たかも分からない古傷を、また開くように。
何故そんな事をしているのか分からない。自分が自分ではないかのような不自然な不愉快な感覚。
と、社長がカリンの手を掴んだ。
「たのしいか?それ」
小さな体躯のわりに力はまるで成人男性のそれだった。
カリンが抵抗しようとしてもびくともしない。強制的に自傷を止めさせた社長は問う。
「なぁ、俺様もっと楽しいこと知ってんだけど」
「っ……?」
「地下行こうぜぇ」
かけられるのはねっとりしつつも妙に優しい、猫なで声。
頭では、断りたいし行っては行けないと思う。けれど心の奥底で、正反対の意思が働く。
行かねばならない。行くべきだ。自分のために。
社長が案内してくれた秘密の入口から地下に下りる。
社長はずっと、カリンの手首を握りしめたままだ。態度こそ変わらないけれど、何となく、カリンの身を案じている様子。
やがてあのぶちギレ紙袋が管理する、『地下監獄』へ足を踏み入れる。
メインスペースこそだいぶ修繕されたが、奥の方はまだまだひどい惨状である。
焼け焦げ、崩落して、煤けた石壁や石畳。
「何があったんスか、ここ」
「誰かしらに聞いてねぇの?」
おそらく同僚達はここで何があったのか知っているだろうが、カリンの既知している情報と齟齬があるらしく、聞いてもよく分からない。
監獄の主人であるドーズはキレ散らかすだけで説明は無く。
「……あ」
そういえばクレオが残っていた、と思い出す。
そもそもクレオが言い出したからカリンはここの惨状を知ったのだ。
彼女は初対面のときに言っていた。なんて言っていたのだったか。たしか……
『妹君のことはご愁傷さまと言っておこう』
ドクリ、と心臓が強く脈打つ。妹だと?自分は一人っ子だったはずだ。
頭が痛い。暑くもないのに汗が止まらない。
誰かに確認したい。同僚さえここにいれば、叶ったものを。
……社長ならば、知っているだろうか?カリンに妹がいたかどうか。
「おい」
「っ!?」
考えていると社長に腕を掴まれ、かと思えばそのまま駆け出した。
つんのめりながらも何とか転げずに済んだものの、何故急に走り出したのか。
「何スか……っ」
「つけられてる。まくから走れや」
「尾行?誰にですか」
「いいから」
まだ修繕されていない地下監獄の奥へ奥へと逃げていくふたり。
囚人のいない独房部屋が続く廊下を一心不乱に駆け抜ける。
やがてその先に大きなドアを認めた。
見るからに頑丈そうなドアだ。あそこに入りさえすれば。
と、ここで社長がつまずき転んでしまった。
なんてことは無い、ただ瓦礫につまずいただけ。
でかい帽子など被っているせいで視界も悪いのだろう、普通なら認知、回避できるものもできなかったのだ。
べしゃりと派手にすっ転ぶ社長。同時に社長の頭部から帽子が離れた。
「痛ってぇ……」
「大丈夫です……か」
露わになった帽子の下の容貌にカリンが硬直する。
可愛らしい子供だった。黒い髪と瞳が綺麗な子。性別はどちらか微妙なところだが。
胸に湧き上がる不可思議な感覚。
カリンは社長の顔に、何か思うことがある気がした。
「……大丈夫ですか」
「ああ、いいから行くぞ!」
再び社長が立ち上がって走る。脱げた帽子はそのままで。
蹴破るようにドアを開け、二人ともに中へ滑り込む。
すかさずドアを閉じ、鍵をかけた。篭城だ。
「あーーーー、くっそ疲れたぜぇ……」
ドアにもたれ肩で息する社長。
それを放ってカリンはひとり呆然としていた。
駆け込んだ部屋は、かなり広い。大広間か何かだろう。
監獄の状態はここが一番ひどい。大爆発でもあったのか?
天井には、辛うじてといったふうにシャンデリアがボロボロで吊られている。
床には非常に大きな穴があいていた。
「……」
何故だろう。初めて来た場所なのに見覚えのある光景だった。
あの穴。あの下には何があるのか、とても気になる。
「なあ」
不意に社長に強く肩を掴まれた。
振り向こうと思うより先に無理やり振り向かされる。
あまりの勢いよさのせいで体勢を崩してしまい、床に尻餅をついた。
両肘で上体を支えるカリンに覆いかぶさって、社長が訊ねかける。
「そろそろ俺のこと思い出したかぁ?」
「はっ……?」
半分押し倒されているようなこの状態でさらに顔を近付けて。
もう唇がくっつき合ってしまいそうだった。
「なに、言って……」
「その様子じゃまだっぽいな」
社長が忌々しげに表情を歪める。
「ここに来れば思い出しやがると踏んでたんだがなぁ。けどよぉ、なーんか妙だって感じはしてるんじゃねーの?」
「……妙……」
「あの穴の下で、自分の妹がくたばった気がする……とか」
心臓が凍りつく。妹が、くたばった?どういう意味だ。
何を言っているのか分からない。けれど、何故だろう?
こんなにも胸が締め付けられる。
つらくなる。泣きたくなる。寂しくなる。
でも、それでもどんな事実であれ受け止めるべきだ。だからここで聞こう。全部。
「妹……いたんですか。カリンに」
「いた」
「死んだんですか、ここで」
「おう」
「何で何も覚えてないんスか」
「記憶を消したからだよ」
カリンはここで妹を亡くし、廃人になりかけた。
しかしそれはとある人物が特別な方法で脳を弄り、記憶を消したことによって回避された。
結果、妹の存在も知らないカリンは今までのうのうと過ごしてきたと。
「何でカリンの妹は死んだんですか」
社長の可憐な唇が弧を描く。
「聞きたいかぁ?」
「別に聞きたくないでーすゥ」
誰か知らない声が降った。
とともに、社長の小さな体がひょいと持ち上げられ、カリンの上から退く。
「てめぇっ……空気読めや、今めちゃくちゃいいとこだったろうが!」
「それは良かったですねェ……知ったこっちゃないですけど」
小脇に抱えた社長と気だるげに会話する男。
髪や目の色が社長と似た男だった。艶やかな黒髪をオールバックに撫でつけて、無精髭を生やしている。
服装は、神職者が着る服……カソックだ。神職者だろうに煙草をくわえていた。
「お初にお目にかかりますゥ」
気だるげな男は、やはり気だるげに口をきく。
「俺ァ、町はずれの教会で神父やってるもんです。以後お見知り置きをー……」
「はあ……」
「この度はうちのガキがとんだご迷惑を。後できつーく言っておきますんでェ」
この男がきつく叱る様子が想像できない。
こんにゃくでしばくとかが精々じゃなかろうか。
「カリーナとか言いました?」
「違います。カリンはカリンちゃんですけど」
「あぁ、本名が嫌いなタイプですか……それは偶然。俺も本名が嫌いなんです。だから俺のことは職業名で呼んでいただきたく、よろしくお願いしまーすゥ……」
「どうでもいい情報ありがとうございます。で、結局何が言いたいんスかあんた」
神父が口にくわえたタバコの煙を吐き出す。肺に宇宙が内蔵されてるのか疑うほど大量の煙だ。
「質問。人って何したら地獄行きが確定するんでしょう」
「は?」
「思うに、その分岐が決まるのは、案外簡単なルールだと思うんですよ。何だと思います?」
「……さぁ。犯罪に手を染めることじゃないスか」
「犯罪は犯罪でも、殺人を。人殺しにならない限りは、人は地獄に堕ちないんです」
いまいち、彼が何を言わんとしているか解らなかった。意味を尋ねようとも思うが、彼がとんでもない殺意を宿した目を向けてくるから聞けず。
「……人は殺人さえしなければ何でもいい。なら、心を殺しちまった場合はどうなるのか。永遠の課題です」
神父は問う。カリンに対してというより自分自身に。
もともと覇気のない声をさらに無気力に、虚無的にして。
不意に神父が煙草を持ったままの手でカリンを指す。
「いいですか?いいですね。お前に妹はいません。このガキの言ったことは虚言ですから、気にしないように」
「えっ」
「あー、あと……うちの子に近づかないでいただけますか」
またもや凄まじい憎悪と殺意を込めた目で睨まれる。
近づかないでもなにも、向こうから勝手に近寄ってきたのに。
理不尽だ。モンスターペアレントかこの男は。
「じゃ、そういう事でよろしくお願いしますゥ……」
彼はカリンに一方的にそう告げた。
文句ありげな社長の口元をぎゅっと押さえ込み。
誰にも有無を言わさず、背を向けて行ってしまった。
急に現れて急に去っていくとは。彼もまたマイペースらしかった。
「……、いもうと……か」
ーーーー
「はーーーー。やっと着いたわもう……」
肩で呼吸しながらとある建物に入るは、頬にハート形のボディーペイントを施した女。
寂れた建物だった。雑草が生い茂り、壁からは隙間風が吹き込む。極めつけに庭は墓場になっている。お化け屋敷と言われたら信じてしまうだろう。
しかしここは断じてお化け屋敷ではない。むしろお化けの類を祓ってくれるところ。
ここは、教会だ。掲げられた大きな十字架が辛うじて物語ってくれている。
「全く、相変わらず廃墟みたいなとこねぇ」
ここへきた理由はひとつ。探し人がいる。
この教会の主、神父である男に会いに来た。……というかずっと探し続けている。
というのも彼女は極度の方向音痴故、人探しをするとまず遭遇できないから。
だから彼女は、今回は対策を講じた。知っているだろうか、恋人の行方を監視できるスマートフォンアプリを。
彼女はスマートフォン片手に恐怖の秘密兵器を使いこなし、今ここにいる。
つまり、彼は今。
「……そこね」
スマートフォンとにらめっこしながら、教会の懺悔室である部屋にたどり着く。
たしかに中から気配がする。胸が高鳴るのを抑え、期待を込めて……開けた。
「見つけた!!」
「っきゃああああああああ」
絹を裂くような男の悲鳴が上がる。
そこは女だろ、とツッコミが飛んできそうだが、返ってきた低い声は紛れもなく男の声だ。
「な、なによ!急に開けないでくれるぅ!?」
「……オズ。あんただったのね……」
ニルは心底ガッカリした。
そこにいたのは、あったのは、男の生首。どこからどう見ても首から下がなかった。
赤毛の三つ編みを長く垂らし、アイマスクを付けている。
彼はこの教会の自称シスターだ。
「その声は、ニルちゃん?」
「ええそう。久しぶりね」
小首を傾げるオズと呼ばれた生首。
アイマスクをつけているせいで景色も何もかも見えないのだろう、若干自信なさげだ。
返事ついでにボディータッチとして鼻をちょんとつつかれれば、オズはたちまち女子のごとくきゃあきゃあ言い始める。
「やだご無沙汰ー!懺悔室へようこそ♡」
投げキッスのつもりか、唇をちゅばちゅば音を立てながら動かすオズ。
「あいつどこなの」
「人探しに行ったわよん」
「は?誰を?」
「えーっと誰だったかしらねぇ〜〜。たしか、子供が危ないとかって言ってたわさ」
「……そう」
何にせよ、がっかりだ。せっかく会えると思っていたのに。
わざわざカ〇ログまで使ったのに。
「今日はどうしちゃったのん?やっぱり懺悔?」
「やっぱりって何」
「聞いたわよぉ?あんた、結構な修羅場だったみたいじゃないの」
ニルはほとんど無意識に頬のハートマークに触れた。
彼女は数ヶ月前、同僚や恋人等の全てを手酷く裏切ってしまった。
家族愛という当然の愛情しか得られていないことが欲求不満に繋がって。
恋をしたかったのだ。恋という奇跡から生まれる愛情が欲しかった。
やがて本当に恋をして、刹那にして永遠の愛を手に入れた。
すぐに破綻してしまったけれど、その甘美な時間が忘れ難くて。
その愛を再び手に入れることは叶わないだろうけれど、あの時間を忘れない為には全て壊してもいいとさえ思えた。
そうしてクズに成り果てて、今に至る。
「あんた、まーだ彼が好きなのね?苛烈な恋してるわねぇ」
「……わかってるわよ。色々やり過ぎたってことくらい」
「とんでもないわ!!」
オズがくわっと気迫を感じさせる表情を見せた。
「アタシはあんたが間違ってたとは思わないわよ」
「え、でも倫理的にアウトでしょ」
「倫理なんか犬に食わせときゃいーのっ!あんたはただ愛を求めただけでしょ。それの何が悪いの?愛は与えるものとか言うけど、そんなの幻想よ。愛は奪ってなんぼなの。女なら愛されなきゃ意味ないわ。それでもダメなら、男なんて子宮で縛っちゃえばいいのよ」
誰が聞いても極論と言える持論を語るオズ。
命短し恋せよ乙女、たとえ世界を滅ぼしても……を地で行くスタンスのようである。
この教会では、特定の神を信仰することはしていない。代わりに思想がある。
『人は、人の命を奪わない限り地獄に堕ちることはない』というもの。
この世で最も凶悪な罪は殺人であり、殺人罪に手を染めなければいいと。そういう教えを説く教会なのである。
逆に言えば殺人さえしなければ何でもしていいということになる。だからこの国は軽犯罪が横行し物騒なのだ。とんでもない教会である。
そんな教会で勤めるオズがこれまたとんでもない持論を持っているのも頷ける。
彼の話を聞き、ニルは腕を組んでじっと考え込む。
「……私、オズの影響でこうなったのかも」
「はぁん?アタシ?」
「悪女思考っていうの?オカマのくせにさっぱりしてないのよ」
「あら、嫌いになっちゃやーよ?」
「いいえ、あんたこそマブダチよ。大好き、オズワルド」
ニルは花が綻ぶような綺麗な笑顔を浮かべてみせた。
ーーーー
「でねぇ?ひどいのよ、キースったら、私の顔に酸ぶっかけたのよぉ!」
「あらぁ」
「ラスカルもベルトも、どっか汚いものを見る目だし?みんな結局許してくれてなくてっ……」
「そぉー」
「涼しい顔心がけてるけどめっちゃ肩身狭いんだからぁ!」
「大変ねぇ」
深夜の教会のど真ん中。女の高い喚き声が響き渡っていた。
呂律の回っていない声からするに泥酔している。
それを相手するは、生首男。
砕けた口調ながらどこか面倒くささを滲ませる態度だが、律儀にも返事はきっちりしている。
「まぁ人それぞれ事情はあるわよね。くじけちゃダメよん」
「オズぅ〜〜」
アルコールによって紅潮した顔を寄せ、躊躇いなく頬擦りする。
「やぁ〜んやーめーてーよぉ〜」
「あんただけよ、私の友達はぁー!ありがとね、話聞いてくれてぇ」
「ハイハイわかったからちょっと離れてちょーだいな。酒くっさいのよぉ」
「くさくないもん!ねぇ、聞いて?私あんたが困ってたら絶対協力してあげるからね!何でも言ってね!」
と、オズの雰囲気が変わる。
「……何でも?」
「? うん」
「そぉ。嬉しい」
オズが口元を綻ばせにっこりする。
貼り付けたような笑みだ。人心掌握が上手くいく一歩手前まで来たとでも言うような。
例えるなら営業セールスマン。ミシンか何かを売り込まれそうだった。
「じゃあ、ひとつ……お願い聞いてくれる?」
「んんー、なぁに」
酔っているせいでだらしない顔で笑うニル。
お願いとやらが口走られようとした時。
手近のテーブルに出しっぱなしにしていたニルのスマートフォンが着信を告げた。
その拍子にニルはハッと我に返る。
「あっ、ごめん電話」
「んもうタイミング最悪ぅ。だぁれ?」
「カリンよ。ちょっと私外出てくるわ」
スマートフォンを握りしめて、ニルは小走りで外へ向かう。
足音が聞こえなくなる頃、オズの口元からふっと笑みが掻き消える。
今の今まで賑やかだった空間に、突如訪れる静寂。
そんな静寂を破ったのは、オズの舌打ちだった。
ーーーー
ーーーー
「もしもし」
「だーれだ、きゃっ」
「カリンね」
「何でわかったんですか」
「いや名前表示されるし、棒読みできゃっとか言うのはカリンだけでしょ」
「チッ。つまらんティウスですね」
「……で、何か用なの」
「ニルさんに聞きたいことあるんスよ」
「なぁに」
「カリンに兄弟姉妹とかっていましたっけ」
「……」
「ニルさん?」
「……いないと思うけど。どうして?」
「何か妙なこと言う人がいるんですよ。カリンに妹がいたとかいないとか、その子が死んだとか」
「そう……でも気にすることないわよ。記憶にないんでしょ?」
「ええ、まぁ」
「疑い始めたらキリがないでしょ。大丈夫、気にしないで」
「……わかりました」
「カリン、まだ外なの?」
「地下監獄です」
「ドーズのとこ?なら安全ね。早く帰って寝なさい。美容に悪いわよ」
「アイルビーバック」
「はいはい」
ーーーー
ーーーー
同じく、地下監獄。
「もーーーおにーさん嫌になってきちゃった」
急にボヤき始めるは我らがヒゲ燕尾服のおじさん、ベルトだ。
屈みこんでスコップに顎を乗せてしらけ顔を晒している。
大方、日々の肉体労働による疲れが溜まって、メンタルの限界が近いのだろう。
「ずーっと野郎ばっかの所でハイホーハイホーやってんだもんよ」
「野郎だけではない。紅一点のクレオが居るだろう馬鹿め」
「知らね。俺あの女嫌いだし」
クレオは、おそらく工場メンバー全員に嫌われている。
それはそうだ。いきなり現れたかと思えば人様を肉体労働の身に落としたのだから。
加えてあの厳格な態度。警官だから似合うと言えばそうだが。
けれどベルトの場合はまた別の理由だった。
「あの女、目ェ見てもなーんも読み取れないんだよ」
「あ?お前でも読めないとかあんのか」
「うん、おかしくね?」
「たまにはあんだろそういう事も」
「ないない、人生史上初だぜ。俺が何も読み取れないのとか。きっとあのクレオとかいう女、ロボットなんだっふぅ」
と、ここでベルトの脳天に手刀が落ちてくる。
「失礼なことを言うな貴様ッ!クレオは立派な人間だ!」
「それ口で伝えりゃいいべや!何で毎度毎度蹴りやら拳やらが飛ぶのよ!?」
「自慢の異能が使えないのは理由があるはずだ、よく考えろ!クレオだけが他と違う点を!」
「はぁ?」
反発したい気持ちを押し殺して、一旦考えてみる。
クレオだけがしていること、もの。
さらにベルトが会ってきた人間とも違うポイント。
潔癖症?クソ真面目そう?歳?……だめだ、そういうものじゃない気がする。
「そういや、お前が知り合った人間で、眼鏡してるのってあのババアだけだな」
「それだ!!」
キースの言葉にピンと来た。来すぎるくらいに。
本人でさえ今初めて知った事実だが、ベルトは眼鏡をしている人間の思考は読み取れないようである。
目が直接見えないからだろうか、不思議なものだ。
「というか、よくもまぁ将来の身内をそう邪険にできるものだな」
「はん?」
「クレオの顔をよく見ていないのか?あれが眼鏡を外して前髪を伸ばしていたらどうなる」
「地味になる」
「そういうことではないわァ!!貴様の恋人の姉だぞ、クレオは!」
ドーズが怒鳴り散らす。
ベルトの恋人は、パティという若い女性である。
性格はどんくさいというかドジだ。けれど異常なほど献身的というか優しい、素敵なひと。
何よりの素敵ポイントが、彼女は非常にグラマーというか肉付きがよく、控えめに言ってベルトには勿体ない。
「パティが、ババアの妹……って、嘘だろ。信じねぇ、僕は絶対信じない」
「私がどうした?」
呼ばれて飛び出てなんとやら、クレオが暗がりから現れる。
キース達が働いている間、彼女は時々姿を消す。どこで何をしているのかは分からないが。
「ババア!!」
「ババア呼ばわりはよしていただきたいのだが」
「クレオぉおおーーーう!」
ベルトがクレオに詰め寄る。
かと思えば、彼女のタイトなコートに包まれた乳房を掴んだ。さすがにぎょっとする観衆。
ベルトの手のひらに揉まれて、むにゅむにゅと柔軟に形を変える白い乳房。
ただでさえ胸元のあいたコートに包まれているものだから、今にもまろび出そうだ。
「うっわほんとだ、あの子とよく似た触り心地……引くわー」
「こっちの台詞なんだが?」
「あ、でもハリは負けてるわ。歳かね」
「殴ってもよろしいかね?」
クレオが淡々とツッコミを入れるが、抵抗も恥じらう様も見せず、されるがままだ。
こういうのが大人の余裕……なのだろうか。
その後ベルトはドーズによってバックヤードへ連行されていった。きっと凄惨な罰を受けるのだろう。
「ほんと何でパティのやつあんなのと付き合ってんだかな……」
「知らん。だができれば別れて欲しいと願っているよ」
あれを義兄と呼ぶのは苦行だ、とクレオ。
「あぁ、そうだ。少年、君に言っておくことがある」
「あ?」
「女性陣の扱いに気をつけろ、とだけ」
「……?」
どういう意味かと聞こうかとも思った。けれどやめておいた。
女性陣の扱いが面倒で気を使うのは今に始まったことではない。
自己完結し、その日の業務は終了した。
ーーーー
ーーーー
仕事終わりに帰宅して、家で誰かが出迎えてくれれば嬉しいものだ。
一般的な結婚の利点のひとつというのは恐らくそういうところであろう。
温かい食事や家族の笑顔。そういったものが疲れを癒すのだ。
しかし。
「みんな、おっせーなぁ」
「あー」
「どこいったんだかなぁ」
「あー」
面倒そうに生返事を返す声が、閑散としたリビングに虚しく響く。
静かだった。時間は夕方、夕食時である。
いつもならば騒がしい食卓。なのに今日に限って他に誰もいない。
外出していった女性陣が一人たりとも帰宅していなかった。
さすがに何かおかしい、と彼らは思う。あんなのでも腐っても女だ。
何か危ない目にでもあっている可能性が無くはない。
「……お兄やん」
「誰がお兄やんだよ。僕はお前より歳下だぞ」
「いいやお前の方がお兄やんだね。俺の方が少年の心持ってるし」
「ああそう。で?」
「お前迎えに行ってくんね?」
嫌だ……と言いたくなる。けれど女性陣全員が帰ってこないという少々異常なこの状況。
嫌だなんて幼稚な一言で、見過ごすわけにはいかなかった。
「……わかった」
深いため息をついてキースが承知した。
「ただし、探すのはお前もだからな」
「誰探せっちゅーのよ」
「勝手に決めろよ。僕はあらいぐま探すから」
「待って俺残り二人とも探すの?」
「そう」
「何そのミッションしんどい!ってか、おばあちゃんは居るとこ検討つくじゃん!ずるくね!?」
「そうだな。頑張れ」
もっと文句を垂れ始める前に、そそくさと玄関を出ていってしまうキース。
そんな同僚の見えなくなった背中を恨みがましく睨みつつ、ベルトもまたため息をつき。
「……これ飲んだら行こ」
テーブル上のワイン瓶を振り、残量を確かめた。
ーーーー
ーーーー
ラスカルを探すために、キースは山岳地帯から町へ下りていく。
一口に下りると言っても、一応は山だ。下りるのも登るのもそれなりに苦労するだろう。
ここで謎なのが、クズ工場従業員が日頃どうやって町へ行き来しているのかである。
答えは案外シンプル。彼らは下る時はスノーボードの要領で滑り落ちていき、逆に登りはホッピングで地道かつ楽しく登っているのだ。
どちらも気をつけないと荷物がそこら中に散らばって、大捜査のステップを踊る羽目になる。
話は戻り、キースだ。
今回の彼のミッションはラスカル捜索である。
ラスカルなら墓場に居るはずだからすぐ見つかるだろう。
そう思っていたのだが。
「……いないし」
いない。
ラスカルの友人の墓前にて、キースは途方に暮れる。
お供え物もある。さらには恐らくこの辺の草むらに寝そべっていたであろう跡もある。
なのにラスカルだけがいない。入れ違いで帰ったのか、はたまた……。
スマートフォンを開いて時間を確認してみる。
山を下りる間にすっかり日も暮れ、すでに夜中と言ってもいい時間だった。
募りゆく不安のままに見上げた空は、憎らしいほど満天の星空だ。
「!」
開いたままのスマートフォンからハードロックが鳴り響いた。
しんと静まり返った墓場で、お気に入りの曲がけたたましいほどに奏でられる。
ドギマギしながらも何かと画面を見やれば、電話。
架電相手は『あらいぐまラスカル』。
無事だったかと、キースは一旦胸を撫で下ろす。
まったくあの馬鹿チビは、などとぼやきつつ通話ボタンをタップした。
「テメェあらいぐまァ!お前今どこに、」
『キース、たすけて!!』
「はっ?」
間髪入れずにラスカルの声が電話口から飛び出す。
嗚咽混じりの叫び声だ。
何やら混乱しきっているようだが、それはキースとて同じこと。
そんなことにも気付かずに、ラスカルはさらに続けた。
『お願い、はやくきて、じゃないとぼく、死んじゃう……』
ーーーー
「『この度、俺様は愚かな部下をぷんすかさせちまいました。つきましては反省してやらんでもないです』」
「はい再提出〜ゥ」
面倒そうな判定とともに、新しい紙きれを押し付けられてしまった。
小さな子供の姿をした馬鹿たれはたちまちうなだれる。
「何なんだよぉ〜〜。何で俺様が反省文なんぞ書かなきゃならねんだよぉ〜〜〜」
「仕方ないでしょォ。方々をキレさせちまったんだから」
ーーいきなりだが社長は不死身である。
数ヶ月前、社長はとある事件の首謀者として嫌な方に活躍し、九分九厘殺されたのに、結局死ななかった。
……が、死の恐怖はガッツリ植え付けられた。
しばらく大人しくしていたいと引きこもっていた社長。
だのに、今日カリンにわざわざちょっかいをかけに行った。
文字通り保護者である神父はブチ切れ。
「何でわざわざからかいに行くんですか、しかも何で記憶取り戻させようとするんですか。あの小娘の記憶消した意味ないでしょうが」
「だってだってなんだもん」
「お前が死んだら困るんですよ、キューティーハニー。殺されないように努力しなさいっての」
そんなわけで一応会社を経営する者として始末書を書いていた。
そう、大人の反省文たるアレだ。
ところが社長は、真面目な文など書いたことがなさそうだった。
というか、絶対ないだろう。
そうでなければこんな謝罪文をなめているとしか思えないものなど書けないはずだ。
「だいたい何だよ始末書って。俺はむしろ生きてるだけでも表彰されるべき立場だぜぇ?」
「ハイハイそうですねェ……いいからちゃっちゃと書いちまって下さい」
社長を見もせずに神父はただタバコをふかす。
「しかし参るわぁ。あいつの記憶取り戻さなきゃ構ってくれねーじゃん」
「普通に歩み寄ってお友達しましょうねェー……」
「妹以外で、あいつの大事な奴って誰だろうな」
「……。……それ、知ってどうするんですゥ……」
「次そいつ拉致る。ヤク漬けにでもしようぜぇ」
そこで初めて、神父は緩慢な動作で社長に顔を向けた。
完璧に無表情だ。が、微妙に感情に起伏があるように見えた。
「……お前、何か怒ってる?」
「そう見えます?」
「質問を質問で返すんじゃねぇよ」
「はぁいすいませーェん……」
社長は小さな舌打ちをした。腹の読めない男だ。ふと、神父がデスクの上に無造作に置かれたペーパーナイフを手に取り、何やら弄び始めた。
「何やってんだぁ?」
「いえ、無性に手遊びしたくなりまして」
「お前いくつよ」
「49ですゥ」
「老いさらばえたなぁおい。アンチエイジングとか興味ねぇの?俺様いい方法知ってるけどぉ?」
「あー結構です。俺はこれでいいですからァ……」
相変わらず気だるげに喋りながら、神父が社長をじいっと見つめた。加齢で若干落ち窪んだその漆黒の目は、影が差して穴が空いたようにも見える。
昔はもっと若かったのに、と至極当たり前のことを考えつつも、見入っていた。
「いっっでぇ!!!」
突如として社長の視界が暗闇に包まれた。神父の仕業である。手に取ったペーパーナイフで、社長の両目を切り裂いたのだ。激痛に喘ぎながら、社長が神父にがなる。
「てめぇッ、馬鹿じゃねぇのか!!いきなり何だよ!」
「さっきの質問の答えですけどねェ」
「……あ?」
「怒ってますよ、この上なく」
社長の耳に微かな金属音が届く。なんてことはない。神父がライターを取り出しただけである。
が、眼球を潰されて何も見えない彼は、次は一体何をされるのかと勝手に怯える。
「俺も、クローバーも、ニルギリスも、あの小娘だって人間です。けど、あんたは心も体もとてもじゃないが人間と呼べない」
「俺は人間だッ……」
「人間は目玉潰されても自然治癒とかしません。人間は一度失くしたものは元には戻らない。そーいうもんです」
「……ッッ」
「人間じゃない奴について行くにも限界がある。それをがどういう意味か考えて、出た答えをよーく覚えておきなさい」
ちょうど神父の言葉が終わった時、傷が回復しきった。完治した目に映ったのは、当然、神父。彼はいつもと変わらない、気だるげな表情で、タバコを吸っているだけだった。
彼は一体何に対して怒っていたのかはわからなかった。
が、とりあえずは神父はもう危害を加えてはこないだろう。社長はそう判断した。
「じゃ、俺もう行きますねーェ……」
「あ、今度イベントすっから来いよなぁ?」
「またですかァ……俺鍋やりたいです」
「却下。流しそうめん大会な。決定」
再びひとりきりになる。社長は先程の神父の言葉を想っていた。
ーーあんたは人間とは呼べない。
いいや、俺は人間だ。
ただ人や物を大事にする方法がわからないだけで。
本当なら愛でてやりたいんだ。
けどいつの間にか、間違えて壊してるんだ。
間違えることを人間らしさにカウントしたらいけないのか?
「……人間って、どうしたらなれるんだ」
ーーーー
ーーーー
「……ちょっと、何ですかァこの惨状」
自宅、もとい教会の広間を見るにつけ漏れる呆れた声。
散乱する空いた酒瓶、缶ビール、おつまみの山。彩りすぎた酒盛りの跡。
全国の綺麗好きが軽く気絶しそうだ。
「あら、しーちゃん」
「しーちゃんて呼ぶんじゃねーです。舌ァ抜きますよ。っつか片付けなさい」
「どうやって。手も足も無いんだけど?」
蹴りを繰り出す神父。
ところがオズは目元が隠れて見えないはずなのにひらりと回避してしまう。
けらけら笑うオズを、神父は憎々しげに睨みつける。
やがて諦めたようにため息を吐いた。
比較的綺麗さが保たれている場所を探す出すと、どかっと腰掛け、煙草に火をつける。
「あんたいつの間に帰ってたのん。ちゃんと正面玄関通った?」
「裏口使ったんですよォ……いやーな客がいる予感したもんで」
「ニルちゃんならもう帰ったわよん」
カリンとの通話を終えたニルは、酔いが完璧にさめていた。
赤らんだ顔も、潤んだ瞳も、全てが素面に戻り。
かと思うと挨拶もそこそこに家路を急いでいった。
「あいつに余計な事吹き込んだりしてませんよねェ……」
「うーん?たとえば?」
「余計な事、です」
オズはまたにっこり笑う。
口許だけしか見えないが、含み笑いだった。
「あ、そーいえば!しーちゃんにお客様よん」
「客……?」
「懺悔室で待ってるわよ★」
懺悔室とは。
簡単に言えば、自分の犯したあやまちを神父に告白し、魂を浄化する場所だ。
扉が二つ付いた小部屋が左右にある。扉の一つは信者が、もう一つは神父が入るためのもの。
中の部屋は壁で仕切られているが、神父が信者の話を聞けるように格子が付いた小さな窓がある。
「よっこいしょ」
親父くさい掛け声とともに片方の部屋に入る。すると。
「……神父さま?」
小さな声が、もう一方の部屋から聞こえた。
男だ。比較的声が若い。
「神父さま……で合ってますか」
「あーハイハイその通り、俺が神父さまですよォ。本日はどんな懺悔をしたいんで?」
「……アバウト」
「あ?何がです」
「こういうのって、もっとちゃんとした口上とかあるのかなって……」
「よそならそうでしょうねェ……でも俺ァ別にそこまで真面目くさって仕事する気ないんで」
「エクストリームアバウト……」
「いいからほれ、ちゃっちゃと言っちまいなさい」
ぞんざいながらも聴く姿勢に入れば。
男はやはり静かに語り出した。
彼が語った内容はなんてことは無い。日常の小さなミス。
凡ミスと呼んでいいようなものを、つらつらと。
「僕……最近新卒で入社したんです……会社は好きなんですけど、上司があんまり好きじゃなくて……僕は部下のくせに、ろくに挨拶もできないんです」
懺悔というか泣きごとのような、愚痴のような。
しかしながら神父とは聞くのが仕事である。何より聞くだけで多少なりの金が手に入るならばいい。そう自分に言い聞かせて、話を聞き続けた。
「……そんな感じです」
「あぁ、はい。まぁ、誰でも辛いことはありますよね。人間は悩む生き物ですからあまり気にしないよう心がけなさい」
「……はい」
最初から最後まで静かな声が印象的な男だ。声しか知らないから当然と言えば当然だが。
そうして軽い口上を述べ、懺悔は終了。
男はやはり静かな音を立てて退室していく。
一応仕事でやっているのだからと、懺悔中は控えていた煙草を取り出す。
「神父さま」
すると、出ていこうとする男が話しかけてきた。
「貴方は……悩んだことはありますか」
「もちろん」
「どんな事で?」
「あーーーー。そうですねェ……色々ありますけど、若い時に遊びすぎて現状がやばいことですかね」
「遊び……?」
「性的なね。できちゃった婚でしたし」
「……子供、いるんですか」
「ええ」
「可愛いですか」
「ぜェーんぜん。あの子がいなければ今の俺はないんです。いっそ作らなければよかったとさえ思いますよ」
「……そうですか」
ぽつりと呟いてーー男は、今度こそ去っていった。
ラスカルに呼びだされ、キースはとある場所へ向かっていた。
教会と反対の方角、やはり町はずれ。
そこには一軒の大きな廃ホテルがある。
一昔前、リゾートホテル建設計画立てられていたが、大人の事情とやらで計画は頓挫した。
廃墟と言えば廃墟なのだが、実は少し前にここを大金で買い取って住み着いた、物好きの中の物好きがいる。
話は逸れたが、つまるところそんな廃墟にラスカルは居ると。
受話器の向こうでラスカルは大号泣していた。
何か酷い目にでもあわされているのか?
歳下ながら保護者気分に駆られるままそこへ急いだ……けれども。
ーーー
「ギースぅ……」
「キースな、キース。鼻が詰まって別人になってるから」
いや、そうではなく……心中自己ツッコミを施しつつ、自分にしがみついて泣くそのひとを観察する。
とても小さく華奢な身体。ぼさぼさの髪。そこは今までと変わらない同僚のひとりだ。
けれど、小さいながらも背が多少伸び、しかも以前より体つきがふっくらしている。……特に胸や尻あたりが。
髪も膝あたりまで伸びている。誰がやったのか定かではないが三つ編みにされて。
極めつけは服だ。くすんだ水色のロングワンピースに、黒いカーディガン。
地味ながら清楚感を醸し出した服を纏っている。
「あらいぐまラスカル、だよな?」
鼻声で「う゛ん」と一言返ってくる。
「お前どうした、急にこんな……何かこう、女っぽい……」
「女言うなきさまァアア」
「ぐっふぅッ」
溜まったストレスを炸裂させて、力の限りパンチを繰り出すラスカル。
猛攻から自身を護ろうと試みるが、雑魚たるキースは見事に全ての守備をすり抜けられる。
キースはキースでやられっぱなしでなく、きちんと報復のチョップをかましている。
「おい!!見てねぇでどういう事か説明しろ!」
繰り広げられるキャットファイトを睨むように傍観する男にキースが助けを求める。
「イチャイチャしやがってよォ……」
「はぁ!?うざい勘違いしてんじゃねぇ、ゴーストバスターするぞ!」
忌々しげに鼻を鳴らして、クローバーはこう言った。
「見ての通り。成長したんだ」
ラスカルやキース達同僚諸氏が住み着く、『工場』と呼ばれる場所。
あそこでは時間の感覚が狂っている。そういう造りになっているのだ。
ラスカルは長年そんな時間感覚の狂いまくった場所にいたため、体の成長が止まってしまった。
それが、最近になって好き勝手出歩くようになったせいで、止まっていた分の時間が一気に進んだ。
……そういうカラクリだという。
「無茶苦茶だな……」
「戻してくれよぉおお!ぼくこんな見た目いやだよ!」
「無理言うな。伸びた背は縮まねェ」
「うわああん最悪だぁああああ」
見たこともないほどギャン泣きするラスカル。
とりあえず宥めてやろうと、キースは彼女をやんわり腕に抱いて背中をぽんぽん叩く。
クローバーがまた怒るかと危惧していたのだが、今回は問題なさそうだった。
彼は熱に浮かされたような妙な目でラスカルをじいっと見つめていた。
「と、とにかく帰ろう。ベルトも探してるぞ」
「やめておけ」
帰るために説得しようとすればクローバーが水を差す。
すると、ぽいっと何かを放り投げてきた。
スマートフォンだ。画面には何か、ブログ記事のようなものが映し出されている。
ーー『怪奇現象?深夜の歓楽街にお化けカップル』
記事には写真も添付されていた。
背の高い眼帯男と、髪が不自然に伸びた女のツーショットだった。
「なんだこれ」
「さっき撮られた。今こいつが出てったら、これ見た連中にたちまち追い回されるぞ」
「じゃあどうすればいいんだよぉ……」
「泊まっていけばいい」
食い気味にクローバーが言った。
「ここは元ホテルだ。泊まる部屋なら腐るほどある」
廃ホテルの現持ち主はクローバーである。
成金パワーをフルに活用して、廃墟を一棟買って住んでいるのだ。
見た目も幽霊なら趣味嗜好も幽霊か。
「いやだ」
「うん、いやだ。帰る」
そしてこの即答である。
「そうか」
せっかくの提案を無下にされたのにクローバーは妙に余裕そうだった。余裕を演出している可能性もあるが。
「なら帰ればいい。指名手配された野郎とネットで有名人状態女のコンビでなァ」
キースとラスカルが黙り込んだ。
頭の中で考えを巡らせる。すると、嫌な想像が次々に浮かぶ。
きっと今家に帰ろうとすれば。
町中で追い回され、物を投げつけられ、罵声を浴びせられる。
普通に考えて、そんな目にあうのは御免だ。
……して、二人の返答は。
「え、それくらい別にいいけど。ねぇ?」
「あぁ。僕らの日常的にはもっとやばい事だらけだしな」
あっさりクローバーの提案を突っぱねた。
普通に考える頭は、彼らは持ち合わせていなかった模様。
馬鹿さと狂人っぷりがハーモニーを奏でていると言えば多少は聞こえが良くなる。
結局、二人は少々不満そうなクローバーに見送られながら廃ホテルをあとにした。
廃ホテルの大仰な玄関を出て、二人は並んで歩く。
クローバーはああやって脅してきたものの、時間が時間だ。人通りはそう多くはない。
が、念の為にと普段から人がいない路地裏を通っていた。
「ふあーぁ」
隣合って歩くラスカルが大きな欠伸をこぼす。
子供姿の時からそうだが、仮にも女性ならば口元を隠すべきではなかろうか。
「眠いのか?」
「ん……だいじょうぶ」
「無理すんな。ほら」
その場にしゃがみこんでおぶさるよう促せば、ラスカルはぱたりとキースの背中に倒れ込んだ。
見た目通り、羽のように軽い。そして少し、柔らかい。
照れくささはありつつも性の対象ではないから、キースは特に胸が高鳴ることはなかった。
落ちないように、しっかり固定して、再び立って歩き出す。
道すがら、ふと耳元でラスカルが話しかけてきた。
「ごめんね、キース」
「あ?何が」
「迷惑かけて……」
「いいよ別に」
「迎えに来てくれて、ありがと……だいすき」
「はいはいどういたしまして」
返事したタイミングで、彼女は寝息をついた。
日の光がうっすらと空を照らし始めていた。夜明けが近い。
もうじきに街が活気を取り戻す。急がなければ。
急ぎ足で、路地裏の四つ角を曲がる。
「ーーー、ーー、」
人がいた。一組の男女だった。積み上げられたビールケースの上で、女の方は一糸まとわぬ姿で組み敷かれている。
対して男は、ズボンだけを脱いで、女を激しく揺さぶっていた。
そのままそこを通り過ぎてしまえばいいものを、キースは思わず立ち止まってしまう。
静かな路地裏に響く粘着質な水音。肉と肉がぶつかり合う音。
しかしそれよりも。
乾いた嬌声を上げる女に、キースは見覚えがあった。
あの灰がかった、ふわふわしてそうな白い髪。
「クレオ……」
思わず名を呼んでしまった。
すると気配に気づいたのか、クレオがキースの方を見た。かっちり目が合う。
激しい情交の最中のわりに、潤んでも熱を孕んでもいない、とても冷めた目だった。
「……ッ!」
キースは慌てて、逃げるようにその場を去った。
工場に着いたのは完全に日が昇りきった頃だった。
ぐっすり眠りこけるラスカルを背負ったまま玄関を開ければ、そこにはまだ誰もいない。
……と思いきや、ベルトがいた。昨夜と全く変わらない位置にて、酒瓶を傾けて。
「あれ、おけえりアンダーソン君」
「おけえりじゃねぇだろお前」
陽気に手を振ってくるベルトの顔は、真っ赤に染まっている。
呂律も若干回っていない。潰れる数歩前まで飲んでいるようだった。
「何でまだ飲んでんだよ。他探せっつったろうが」
「あと一杯と思ってたら朝になってた♡」
「カリンとニルどうすんだ」
「二人ともさっき帰ってきたぜ〜。今部屋にいるぞぅ」
寝てるんじゃね?と軽く言い放たれる。正直はらわたが煮えくり返っていた。
が、ベルトはさらに「俺に頼む方が利口じゃないだけだよ」と続けた。
怒りで腸捻転になりそうだった。
「あれ、その女だれ」
と、ここでキースの背にいる存在に気付くベルト。
事情を端的に説明すればベルトは「なんでもあり過ぎるべや」と一言。
人の家の池を媒体にしてタイムスリップしてきた奴が言う言葉か。
「そっかー。とうとうメスカルになったのね」
「その呼び方やめとけよ。泣くから」
「泣くの?こいつそんなキャラじゃねーべ」
「いや泣く泣く。ビビるほどギャン泣きする」
そこまで言って、キースは少しだけ後悔した。
ベルトが「面白いおもちゃを見つけた」と言わんばかりに顔を輝かせていたから。
しかしキースにとってそんなことは今どうでもよかった。
「おい、こいつ預かってくれ。疲れたから部屋で寝る」
「あーーハイハイ。ラスいじって遊んでい?」
「性的な意味合いなら殺す」
「まさか。おリボンつけたりからかうだけだよ」
いかにも面倒そうに手のひらを振り、勝手にしろと意思表示し。
キースは自室へ戻った。
ーーーー
ーーーー
「……、……、」
壁を向いてベッドで寝そべる。
お気に入りの音楽もかけずに、ただただ、静かにいることを心がけた。
そうすることで、自分を必死に抑え込む。
眠れ、僕。早く眠ってしまえ。
ああわかってるよこっちだって今すぐ寝たいよ。
けど眠りたいのに、妙に目が冴えるんだ。
「……」
クレオ。
僕はあの女が嫌いだ。きっとみんなそうだろう。
真面目で堅苦しい性格のわりに、やたら体のラインが出る服なんか着やがって。
性格と服装がアンバランスなんだよ気持ち悪い。
体隠したいのか見せたいのかどっちだよ。
……あの女、あんな所で何してやがった。いや、ナニだよな。
っていうか相手の男誰だったんだ?
あんな女相手にする奴とかいたことに驚きだよ。
……あの体。思った以上にいい体だったな。
妹と同じく、胸も尻もでかくて。なのに腰だけは引き締まってて。
肌は雪みたいに真っ白なのに、誰かの付けた跡がちらほらあって。
あぁ、思い出すとほんっとにもう。
僕だって思春期の男だ。しかもひとつ屋根の下で女数人と暮らしてるのに何も無い。
思えばしばらく女と致してない。
僕だって別に欲が無いわけじゃない。むしろ年相応にある。
だから、その。
「クソッ……」
これからどんな顔してあの女と話せばいいんだ。畜生。
ーーーー
ーーーー
寝転んだままでいること半日。
と言ってもそれは体感時間、実際はそう長い時間は経っていない。
スマートフォンを起動させて時計を見る。
そろそろ地下の仕事へいく時間だ。
でも行きたくない。
地下に行けば、きっとクレオがいるから。
あの時目があったし、あっちも僕だと気づいただろう。
気まずい。今だけ引きこもりになりたい。いや、なる。引きこもり王に僕はなる。
「キース」
……と思ってたら誰か来た。
ノックの音が毛布を貫いて耳に届く。
誰だ。空気を読め、畜生め。
トントントントントントントントントン。
トントントントントントントントントントントントントントントン。
……どんだけノックするんだよ。
呪いかってくらいノックしてくるじゃねぇか。
トントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントントン
「ッッるせえぇぇええええ!!!誰だよ!」
とうとう耐えきれなくて、僕はベッドから跳ね起きた。
どかどか足音を立てながら部屋のドアを開け放つ。
「やぁアンダーソン君」
あらいぐまラスカルだ。
さすがに泣き止んではいたが、憂鬱そうな顔をしている。
いやそれよりも、もっと気になることがある。
何か、あらいぐまが両腕を高くあげている。
「……どうしたその奇怪なポーズ」
「威嚇」
「いかく」
「そう、レッサーパンダ式の」
「レッサーパンダ式」
「みんながぼくをリボンやなんやらで飾り付けて遊ぼうとするから」
驚くほどに怖くない威嚇だった。
とりあえず一旦威嚇をやめさせなんの用か聞けば、あらいぐまは言った。
「朝食からの仕事の時間だよ。一階へ行っておくれ」
「お前はもう食ったのか?」
「食べる気が起きない。ぼくは部屋に立てこもるから、何かあったら合言葉を言っておくれ」
「合言葉ってどんなのだよ」
「んんと……お前は完全に包囲されている。とか」
「それ立て篭もり犯に向けた説得への第一声じゃねぇか」
せっかくかましたツッコミすら面倒くさいのだろうか、あらいぐまは僕の部屋を後にした……しょんぼりした顔のまま。
「はぁ……」
仕事な、仕事。
いいよもう、わかったよ行けばいいんだろ。
思えば何で僕がこんなに動揺しなきゃならねんだ。
やましいことがあるのはクレオだろう。
僕は何も悪くない。堂々としてればいいんだ。
「……よし」
さぁ、仕事へ行こう。
ーーーー
ーーーー
「お兄やん」
「だからお兄やん呼びやめろっつの」
地下監獄への道すがら、ベルトが話しかけてきた。
「お前何で今日そんなに帽子深く被ってんの」
「……別に」
何となしを装って、ベルトの方を見ないまま返事をした。
多分、いや絶対にベルトは気づいている。
僕が今、考えていることを悟られたくないのだということを。
ただ僕が帽子で隠すから、それが何かを悟るには至らないのだ。
蛇のような目の睨む視線が刺さる。ベルトが少し不機嫌なのを肌で感じる。
「お前さ、俺に何か隠してない?」
心臓が跳ねる。
思わず足を止めかけた時、ベルトが突然転んだ。
瓦礫だらけだから足場は悪いが、随所に吊られたランタンのおかげでそんなに暗くは無い。
相当不意打ちのようなことをされなければ、転ぶことはないだろう。
足元を見ると、黒いストッキングに包まれた脚。
「おはよう紳士諸君」
クレオだ。クレオが、何を思ったか物陰に潜んでベルトに足を引っ掛けたようだった。
「なーにすんじゃい!」
「ちょっとした茶目っ気だよ。済まなかったな」
さらっと流すクレオは何食わぬ顔だ。
クレオの姿を見た瞬間、また妙な感じがぶり返してくる。
何とか誤魔化すべくクレオの脇を通り過ぎようとした。が。
「まて少年。君は今日は業務に参加しなくていい」
「は」
「はぁーーー?じゃあ俺一人なの?何で?」
「何でもだ。おいで少年」
断りたかった。
のに、クレオは有無を言わさず僕の手を掴み、引きずるように連行していった。
「おい、どこ行く気だよ!」
ベルトを置き去りにし、クレオに腕を引かれ進んでいく。
だいぶ奥まった所まで来た。規則的に吊られていたランタンも、疎らにしか見当たらなくなる。
と、クレオが僕の肩を掴む。かと思えば体ごと壁に押し付けられた。
クレオの顔が鼻先に迫る。目を合わせたくなくて下を見れば、今度は豊かな胸の谷間が視界に飛び込む。
「見ていたな?」
「……何を」
「誤魔化すともいい。別に責める訳じゃない」
責めるわけじゃないなら何でこんな目に遭っているのか。
というか、やっぱり気付かれてた。そりゃそうだ目合ってたしな。あぁ、顔が熱い。
「それで?」
「は?」
「私を使いたいのではないのか?」
「はあ??」
「好きにしてくれていいよ。多少雑でも文句は言わん」
首筋にクレオの熱い息がかかる。
僕の体に擦り寄り、腕を絡みつかせてきた。
「ちょ……」
下腹部あたりを、ねっとりした手つきで撫でられる。
不覚にも反応しかけた。夜中からずっと抑えていた衝動が暴れている。
ヤリてぇ。この状況で断るのはどうかと思う。据え膳食わぬは男の恥って言うだろう。
理性が本能に喰われて無くなりそうだと思った矢先、クレオがコートの前をくつろげる。
「ほら、どうぞ」
目の前に広がるたわわな胸に、欲情をそそられる。
芳醇で濃い女の香りに目がまわる。
「ッ……!!」
青く脆い理性の糸が、切れた。
ーーーーーー
荒い呼吸と水音が、通路に響く。
壁となる岩肌には、欲のみで繋がる僕らの交わりが影絵として描かれている。
クレオの膝裏を体ごと抱え上げ、突き上げまくった。
「あ、アッ」
耳元でしきりに聞こえる乾いた嬌声に、僕は妙に満たされる。
長らくご無沙汰だった影響か、絶頂は早々に訪れた。
「おい、そろそろ……」
「ん……いいよ。中でも」
ふわふわした頭が一瞬だけ正気に戻りかけたが、僕は構わないことにした。
来たる吐精感に低くうめいて欲を吐き出す、その瞬間気づいた。
腕の中のクレオが、彼女の瞳が、とても冷めていることに。
事務的。
その言葉がしっくり来る目だった。
「……ッッ」
急いでクレオから引き抜いたおかげで、すんでのところで「事」は免れた。
「何だ。中に出さんのかね?」
意外そうに言うクレオはけろっとしている。
「だ、さねぇよアホッ……!」
「君は年相応に盛っているから、我慢しきれないと踏んでいたが……案外骨があるな」
感心するポイントがズレている上に、また全部見ていたようなことを言いやがる。
色んな意味でなんなんだこの女。
「いや、済まなかったな。君を舐め腐っていた。所詮理性のない猿だろうとばかり」
「ボロクソだなおい」
「何か軽い詫びでも……ふむ、そうだな。ついておいで少年」
クレオがまた僕の腕を引いて先導していく。
「今度はどこに拉致る気だよ」
「秘密基地へ。君だけに私の秘密を教えてあげよう」
ーーーー
クレオの言う秘密基地とやらに踏み入った瞬間、僕は少しゾッとした。
監獄のとある場所、元は懲罰房だったらしい部屋。
そこでは、壁中テレビモニターがひしめき合っていた。
モニターに映し出されているのは、見知った光景とどこかで見たような顔触れ。
「なんだこれ」
「このイブムニアという国の、至る所に設置された監視カメラの映像だ」
「監視カメラ?」
「これで常に、市民の様子を観ている」
僕は妙に納得した。クレオが、まるで見てきたように何でも知っている理由。
他人の暮らしをこうやって監視していたからだったのだ。
「警察が覗きなんかしていいのかよ、プライバシーの侵害じゃねぇか!」
「人聞きが悪いな。否定はしないが」
「お前、覗きも色事も好きでやってんのか?」
「まさか。仕事の一環だよ」
うつむき気味に、物憂げな様子でクレオは語る。
自警団は金にならない。悪人を捕まえたとて、市民を守ったとて、誰もスポンサーになどならないのだ。
それでも金が必要だ。有志で集まってくれた部下達や、治安の安定のために。
だからクレオは体を売って、富裕層から資金を援助させているのだという。
「枕営業ってやつか?」
「そう。聞こえは悪いがね」
「警察の頭やってるくせに、プライドはねぇのかよ」
「ない」
即答だった。
僕が言葉に詰まっていたら、クレオは更に続けた。
「……私の使命は市民の暮らしを見守ることだ。使命を果たすためならば、自分の性別だって利用するさ」
言葉の端々にたしかな熱情を感じた。強がりなどではなく本心なのだと解る。
だがしかし、クレオは心が死んだような目だった。
「それでいいのかよ、本当に」
「あぁ」
「お前はそんなんで本当に幸せなのかよ」
自分の心身が擦り切れるような思いをしてまで『使命』を優先するのが、幸せなわけが無い。
少なくとも楽しんではいないはずだ。
だから、情事の最中でもあんな冷めた目をしていたんだろうし。
だから僕は聞いた。幸せなのか……と。
クレオは少しだけ間を置いて、述べた。
「……私に幸せはわからないから」
ーーーー
ーーーー
「よぅ」
積み重なった瓦礫に腰掛けている紙袋男に、軽く声をかける。
「……なんだ、今日は貴様ひとりか」
「そーなのよ。キースが連行されちまってさ」
「構わん。きちんと俺の住処を修繕するならな」
そう言って、紙袋男・ドーズはつるはしを投げてよこした。
ベルトはしっかりつるはしを掴み取ったものの、作業を始めることもなく。
つるはしの持ち手に寄りかかって、じっとドーズの紙袋を見つめている。
「なぁドーちゃん」
「……」
「ドーちゃん、おい。呼んでるべや」
「……は?」
ドーズが素っ頓狂な声を上げた。まさか自分のことだとは思っていなかったから。
「ドーちゃんとは何だ」
「あだ名」
「なぜ急にあだ名なんぞつける」
「あんた親しみにくいんだもん。紙袋被ってるから目見えねーし、ミステリアス通り越してキモい」
「俺とて好きで紙袋を被ってる訳では無いわァ!!」
「じゃあ何でよ?」
「貴様には関係ない!」
あっさり突っぱねられてしまい、ベルトは少し不満そうに唇をつんと尖らせる。
「っつか、何で地下なんかに住んでんの」
ベルトの追求は止まず。なおも素性を掘り下げる質問を重ねる。
何故地下に住み着いているのか。その問いにもまともに答えないだろうと予測しながら。
「……隠れている」
しかし、意外にもドーズは答えた。
「あ?何から」
「亡霊だ。俺を探している亡霊がいる。そいつは今封じられているが、いつか逃げ果せて、俺を見つけるだろう。それだけは阻止せねばならん」
重々しい口調で、そんな話を語る。
して、ベルトの反応は。
「え、中二病?」
『違わいやァアア!』
ドーズがまたキレだした。
扱いの難しい男である。カルシウム不足が深刻だ。
地下で大声を出したものだからとても響く。ベルトも目を丸くして驚いている様子。
ところが彼が驚いたのは大声にではなかった。
「ちょ、今の言葉……」
「あ?あぁ、フランス語だ。多少訛ってはいるが」
「あんたフランス出身なの?」
「育ちはフランス、地方にいた」
「うっそマジ?俺も!!」
急にご機嫌になったベルト。それもそのはず。ベルトは過去の人間だ。
いくら同僚や恋人と『現在』を過ごしても、結局一人だけ違う。
自分だけいつも、どこか疎外感と孤独感を覚えていた。
だから似た生まれの人間と出会えて、親近感がわいて少し嬉しかったのだ。
「あ、SNSとか何かやってる?」
「ツイッター、インスタ、ライン、フェイスブックくらいなら」
「地下在住のくせに網羅してんの何なの」
ーーーー
ーーーー
夕方。
一人ででもその日の労働をしっかりと終えたベルトは、スキップしながら家路についていた。
この時代に来て初めて友人ができた。紙袋を被っていて何を考えているのかよく分からない男だけれど、話してみるとなんだかんだ良い奴に思えた。
ご機嫌補正がかかっているのが否めないが、それでも嬉しい。
「あ」
「……よぉ」
と、通路の途中でキースに出くわした。
シガレットチョコの吸殻が足元に大量に落ちているあたり、だいぶ長らくここにいた模様。
「なに、俺のこと待ってたのけ」
「あぁ、まぁ」
ランタンにほの明るく照らし出されたキースの顔は、何か言いたげで。
しかしそれを隠すように下を向いていた。
普段ならば察知した瞬間、不機嫌が爆発していたろう。けれど今の彼は上機嫌。
少しくらい目を逸らされても、気にならなかった。
「なになに、悩み事か?おにーさん聞いてあげちゃうぜ?」
「……なぁ、ベルト。お前さ、幸せって何だと思う?」
「はぁん?」
唐突極まりない話題に、ベルトが素っ頓狂な声をあげる。
「幸せ?」
「そう、特に女の」
薄明かりしか無い視界で、揺れるキースの目を見る。
よく見えなくて、事情を丸ごと悟ることはできなかった。
が、今までのキースの様子や、クレオに連行された後にこんな事を言い出した点から多少察せられる。
「クレオと何かあったんけ?」
「何も無い!!……けどッ、あの女ちょっとおかしいんだよ。何考えてんのかわかんなくて、気持ち悪ぃ」
全て読み取れなくてもわかる。キースは、クレオの何かに感化されたようだと。
「お前知ってたか、クレオの裏の顔」
「知ってるってかよく見りゃ気付くべ。どんな目に遭ってきた人間かくらいは」
「……そうか」
重々しい雰囲気を纏い、キースは何事かを深く考え込む。
思春期の青年。ましてや日頃から読書を嗜む彼だから人一倍感受性が豊かだ。
イカれつつも真面目な性根が災いしてしまった模様。
「他人のことだべ、気にしなさんな」
「……あぁ、まぁ、それもそうだな」
キースがシガレットチョコを噛み砕く音とともに、話は終結した。
「それよりお兄やん、今夜はみんなで飲もーぜ!」
「はぁ?何だ急に。僕とカリンは飲めねぇっていつも言ってんだろ」
「レッツパーリーーー!!」
「うるっせ、地下で騒ぐな!!」
「なにこれ」
それを見るにつけ誰ともなく呟いた。
リビングのド真ん中に、横たわっているもの。
身の丈程もある、黒光りする箱。棺桶だった。何故こんなところに棺桶があるんだろう。
誰かが置いたのか?その場にいるメンバー間で顔を見合わせるも、誰もが微妙な顔。
つまるところ、誰にも心当たりは無い様子。
「やだ怖い!お化け入ってるんじゃないの!?」
「……そういえば、昨日お墓で寝たなぁ、ぼく」
「え、じゃあ憑いてきたってことですか」
棺桶を取り囲んで、好き勝手推察する。
仮に幽霊だったならまだいい。何せ今ここにいるメンバーは、カリンにニルにラスカル。全員女性だ。
悪漢やイカれた殺人鬼なんかが潜んでいたら……まぁそれでもこの面子なら大丈夫な気がしなくもないのだけれど。
「どっせい」
と、ここでカリンが棺桶に思い切りかかと落としを決めた。
ちょうど中央付近。人が入っているなら鳩尾の位置に穴があく。
「ちょっとぉおおお!!何してんのあんた!?」
「お化けが怒るんじゃないかぃ」
「カリンは科学の申し子ですよ。幽霊なんか信じません」
「だからと言ってかかと落としはやり過ぎじゃないです?」
高い声ばかりが充満していたリビングに、少ししわがれた低い声が滲む。
三人全員に覚えのある声だった。
「神父……」
棺桶を蹴り壊して、神父が中から這い出てくる。
「はー。やれやれ狭いったらもう」
彼を見ての反応はまさに三者三様。
カリンは眉間に皺を寄せ、ラスカルは見るからに怯え、ニルはどこか浮き足立っていた。
「っ……シャーーーッッ!!」
と、両腕を掲げてラスカルが威嚇した。
「シャーーーッッ」
次いでカリンも、同様に腕を上げ威嚇する。
「ちょっと、なにやってんですか出会い頭に。失礼な」
「失礼上等喧嘩上等。出ていってくれますかこの世から」
「喧嘩は買いたくねーです。ニルギリス、お前年長なら宥めなさい」
「……、シャーーーッッ」
「お前もですか」
右からも左からも威嚇され、神父は気だるげな態度に更なる緩慢さを追加する。
おもむろに両手のひらを上げて、とりあえずといったふうに降伏の意を示して見せてきた。
「まーまー、落ち着いてー。別に嫌がらせで来たわけじゃねーですからァ……」
「じゃあ何の用なんですか」
「その話より先に頼みがあります」
「頼み?」
彼はは今にも死にそうな青白い顔でこう申し出た。
「暖房つけていただけます?」
ーーーー
ーーーー
「護衛?」
神父は、此処……便利屋・クズ工場へは依頼に来たのだという。
内容は彼自身の護衛。何故護衛が必要なのか?
それは先日聞いた。監獄の囚人の逃亡についてだ。
が、さらに彼の日頃の行いが深く関わっているという。
「俺ァ、色んな人間に恨まれてますからねェ……食い逃げとか借金とかざらですし」
心当たりしかない。彼女たち全員が思った。
そもそもここに来た理由も、借金取りに追われている最中に死んだふりでやり過ごそうとして失敗、宅急便で工場まで送られてしまった流れからだそう。聖職者のくせにどこまでダメな男なのか。
「ていうか、暑いんですけど。暖房切っていいスか」
「馬鹿言わないでいただけますゥ……?これ以上体冷えたら死んじまいます」
「あんた冷え症なんスか?」
「違うわ、心因性の病気みたいなものよ」
ニルが説明する。
神父は前述の通り、とても恨まれている。
その恨みのせいでいつか自分の命が奪われたらと思うと、不安感で寒気が起きるのだそうだ。
華麗なまでの自業自得である。
「で、引き受けていただけます?」
聞くまでもない。帰れ。少なくともカリンとラスカルはそう顔に出ている。
しかし、ニルだけが違った。
「引き受けても良いわよね?」
「え」
「命懸けならお金も弾むでしょうし。ね、いいでしょ?」
ニルはすぱすぱ勝手に決めてしまおうとする。
残り二人の顔色など知ったことじゃないという様に。
「勝手に決めないでくださいよ。ここのボスはカリンですよ」
「あら、『一人でも賛成すれば決定』がうちでのルールじゃなくって?」
「むぐぐ……」
言い負かされてしまうが、事実そういうルールなのだから仕方ない。
何より、皆で決めたルールだ。けれど相当に依頼主が嫌いなカリンとラスカルは、ただでは譲らない。
ラスカルがカリンのブラウスの袖をちょいと引っ張った。二人は視線を絡め、おもむろに頷く。
「……分かりました。ただし条件があります」
「ニルだけでそいつを護っておくれ。それならぼくらは構わないよ」
神父が嫌いだし、物事を勝手に決めるニルのことも気に入らない。
絶対にお前らどちらにも役に立ちたくない。立ってたまるかと。
ニルは少し面食らった様子だったが、今更引き下がれない。
「……そう。じゃあそれでもいいわ、決まりね」
端正な顔に一抹の不安を滲ませつつも、ニルは了承。一旦話は落ち着いた。
その後神父は「じゃ、そーいう事で」と手を擦り合わせながら出ていった。最後まで寒そうだった。
カリンの時といい、本当に台風のごとく現れ去っていく輩だ。
と、ちょうど神父と入れ違いで男性メンバーが帰宅した。
「いよーぅ皆の衆!酒飲もう!」
「帰ってきて第一声がそれとか飲兵衛の極ですね」
非常に機嫌のいいベルトがタップダンスしている。
安い三文芝居役者のごとき男が、曲芸まがいのことをする光景は、実に気が抜ける。
若干ピリピリした空気が漂っていたのも緩和された。
「どうしたんだぃベルト。やけにご機嫌だねぇ」
「ふんふふーん♪それよりさ、みんなで飲むべ!」
「いいですけど、カリンとキースさんは未成年ッスよ」
「子どもビールあるからそれ飲みなよ。はい決定。あ、ベルも呼ぶか!お酌してもらっちゃおうぜ」
「あんたデリヘル気分で恋人呼びつけるのやめなさいよ」
ハイテンションベルトに触発されて、ほかのメンバーたちにも徐々に笑顔が戻る。
そんな様子を、ひとり遠巻きに見つめているキースを除いて。
ーーーー
「ドーズさんと友達?」
「そー!話してみると案外いい奴なんだぞぅ」
「ラスカル、それ何飲んでるの」
「これはえっと……カルピスサワーかな」
いささか急ではあったが、思い思いに酒宴を楽しむ。
酒を飲み、お喋りを楽しみ、笑い合い。
しかし本当は、誰もがどこか空虚感を抱いていた。
「ーーで?」
それまでの空気を打ち切るように、話を切り出したのは、ニル。
彼女の視線の先にはキース。
否、ほかのメンバーもキースを真面目くさった目で見つめていた。
「あんた何かあったの」
「……え、なんで」
「事件にでも巻き込まれたような顔してますし」
「話してごらん。大丈夫、茶化したりしないから」
だいたいの事情を把握しているのはベルトだけ、ということは彼がばらしたのか?
否、ベルトはずっとキースの目の前にいた。当然喋ったらわかる。
彼女たちは事情こそ知らないだろうが、思い詰めていることは完全にバレている。
「……お前ら、女の幸せってなんだと思う」
クレオは言っていた。幸せが分からないと。
自分の心身を擦り切れるまで『使う』人生に、使命以外の目的など何も見出せないと。
だがそれは違うとキースは感じていた。
一般的な幸せとは?女性クレオの幸せとは?考えても、適当な答が思いつかなかった。
「女の幸せ?それはあれでしょ。素敵な恋して、素敵な結婚してってやつ。ねぇラスカル?」
「ぼくに聞かないでおくれ。知るわけないだろう」
「女の幸せねー。っつったら俺たち男からすれば、性の喜びってやつだろな」
また親父臭いことを言う。呆れながらも、キースは少し腑に落ちた。
キースも男性である。性欲もあるし、女を屈服させて支配欲を満たしたいとも思う。
そこから考えるに、やはりベルトの言う通り女の幸せとは、性欲をはじめとしたあらゆる欲求を満たされ、愛情を受け、果てには子供を身篭りその子を愛する事だと思った。
「まぁ何にせよ、さ。キース」
ラスカルが腕を伸ばし、キースの頭を撫でようとする。
短い腕では届きそうになかったので、キースが頭を寄せてやり初めて触れることが叶う。
「好きに考えて、行動してごらん。きっとうまく事は運ぶ。覚えておいで、ぼくもみんなも何があってもきみの味方だからね」
ラスカルが激励してくれる。
酔いが回ったか赤らみ、いつも以上にふにゃりと締まらない顔で。
いつもなら照れくささで「はいはい」とか言ってはぐらかしてしまったろう。
けれど、今は酒宴の場。テーブルには酒が溢れかえり、空気すらもアルコール臭い。
飲んではいないが雰囲気に酔ったと言うか……つまりは普段より気が大きくなっていた。
「わっ」
「うわ」
「きゃっ」
「んぉっ」
キースが身を乗り出して、テーブル越しに同僚四人全員を抱きしめた。
「ちょっ首絞まっ……」
「ありがとうな、お前ら」
誰かが文句やらを言う前にキースが口を開く。
「クズな僕の仲間でいてくれてありがとう、大好きだよ」
感謝を伝え、さらに同僚みんなへの愛情を伝えた。
恥ずかしさでかキースの顔が赤く染まっている。
が、満ち足りた顔だ。
まるで家族にスキンシップをとる青年の姿そのものだった。
「……え、きもちわる」
「はぁ!?誰だ今言ったやつ!ふざけんな空気ぶち壊しだろうが!」
「キースってこんなキャラだったかしら?」
「キャラ崩壊ッスね。原作者にしばかれますよ」
「先にお前をしばき倒してやるよ、頭を垂れろ!!」
部屋には皿や酒瓶が飛び交い、ぎゃあぎゃあとやかましい騒ぎ声が響き渡る。
独りでは経験するべくも無い、温かな喧騒の嵐に身を任せ。
本人たちはどう思っているか定かでは無いが、その光景はとても幸せそうだった。
ーーーー
ーーーー
『飲み会やる。来れば?』
休日、夕方。恋人から、ぶっきらぼうな連絡が届いた。 大好きな恋人からのお誘いだ、私はノリノリで工場への道を急いだ。
「うひゃあ」
工場である民家のドアを開け放つと、中からむせかえるほどのアルコール臭が流れ出てきた。
においだけで酔ってしまいそう。いや少し酔った。クラクラする。
玄関前すぐのリビングでは、どんちゃん騒ぎをしていただろう証拠が散らかっていた。
でんと構えた長テーブルには五人組が突っ伏している。
酔い潰れてか眠ってるのかは傍目には分からない。
「みなさーん……大丈夫です……?」
恐る恐る声をかけてみたら、唯一ゆるゆると顔を上げたのはベルさん。
「あーーー。飲みすぎたわぁ……」
「こ、こんばんはっ」
「よぅベルちゃん。おい、お前らここで寝んな。部屋行って寝るべ」
その長い腕で、テーブルに突っ伏しているメンバー達の頭を叩き、起こす。
「ふがっ」と誰かが驚いて息を詰まらせた音とともに、一人また一人と意識を浮上させた。
「ふあーぁ……」
「あれ、パティさん。おはようございます」
「あっ、パティちゃんだー」
見覚えが無いようで有る女性が、ぱたぱた駆け寄ってきた。
地味なワンピースに長い長い三つ編み……クローバー副社長から聞き及んでいた容姿と合致する。
「ラスカルさぁん!!おっきくなったんですね!」
「んー……まぁね」
複雑そうなラスカルさんを見て、察する。
嬉しくないんだ。彼女の事情は知っているから、少し気持ちがわかる。
可愛いなんて口が裂けても言ってはいけない、と思った。
「……、背が高くなって、少し格好よくなられましたね」
「かっこよくないよ。こんな、こんな……」
「大丈夫、ちゃんとイケメンさんですよ!素敵です」
言っていて、思う。気休め程度にしかならないかもと。
けれどラスカルさんは、ほっぺたを緩ませふにゃふにゃっと笑顔を浮かべた。
「やっぱりパティちゃんは天使だなぁ〜〜」
どうやらうまく私の思惑通りに動いてくれたようだ。
「私もう部屋戻って寝る」
「僕も」
「カリンもです」
「パティちゃん、泊まってくだろう?また明日ねぇ」
眠気と体を引きずり、ぞろぞろと二階の自室へ向かっていく皆さんを見送った。
残ったベルさんはまだまだ飲み足りないようだ。
散らかったテーブルの隅っこに転がるグラスを取り寄せ、ワインを注ぐ。
「もう、飲みすぎですよ?」
「あんたも飲むけ?」
「私はまだ未成年ですから、遠慮しますけれど……ジュースで御付き合いさせていただきます」
薄く笑って、彼の大きく無骨な手に自分の手を重ね合わせた。
そうして夜が更けていく。
ひとりきりの部屋で、ぼくは紙束に向き合い睨みつけていた。
毎週水曜日に届く一通の手紙。送ってくる相手は、ぼくのトラウマの塊のような男。
彼は、ぼくに『恋』を教えてやると言っていた。でも理由が分からない。
なぜ恋を知る必要がある。なぜあいつに教わる必要がある。さっぱり意味が分からない。
『先日、社の付き合いで飲み会に参加した。そういう場では一発芸みたいなものをやらされるんだが、そこで面白い特殊技能を身につけたんだ。きっとお前も気に入ってくれると思うから、その時は……』
手紙で読める箇所はそこまでだった。クローバーは、とても字が汚い。
達筆と言えば大人らしいのだろうけど、それで誤魔化しきれないほどに……雑だ。
カリンちゃんも、幼馴染のニルでさえも読めないと言っていた。
普段はキースに代読して貰っているけれど、今は夜中だからきっと眠っている。
明日には返事を出したいし、キースは明日も仕事だ。今返事を書き終わらなければ都合が悪い。
「……ベルトなら起きてるかな」
さっきパティちゃんと残ったベルトならば、まだ起きているかもしれない。
ベルトが寝ていても、パティちゃんもいる。
あぁ、でも二人はカップルだ。ラブラブしている時間を邪魔しちゃ悪いか……いや、でもぼくにも都合があるし。
そうだ、部屋のドア下にメモを挟んでおこう。そうすれば邪魔をしてしまう心配は無いだろう。
ーーーー
ーーーー
不用心にも鍵がかかってないようで、ベルトの部屋のドアは少し開いていた。
「ーーーー、ーーーー」
物音と共に、声がする。
起きているようだ。なら一声かけていこうかと、そっと中を覗いた。
それを見て、思わず声を失った。ドアの隙間から見えた光景。
ベルトとパティちゃんは、ベッドの上にいた。ベッドの上で、獣のような声を上げて裸で絡み合っていた。
見た事のない蛮行の現場だ。
二人は何をしてる。ベルトは、またパティちゃんを虐めているのか?
虐めているに違いない。
だって、あんな風にベッドに押さえつけられて、涙と唾液と鼻水にまみれたぐちゃぐちゃな顔をさらして、ベルトの下で泣き叫んでる。軽く白目まで剥いているんだから。
よく見れば、ベルトとパティちゃんの体は繋がっていた。何か大きくグロテスクな棒状のもので。
なに、あれ。あんなもの初めて見た。と、パティちゃんが体をしならせて痙攣した。そしてぐったり動かなくなる。
まさか死んでしまったのでは、と固唾を飲んで見入っていたけれど、パティちゃんはちゃんと生きていた。
はあはあと荒い息を滴らせ、ベルトと何事か言葉を交わしている。
「ん……ベルさぁん……」
「もっとして欲しいかい、お嬢さん」
「はいっ……もっとしてください。一緒に気持ちよくなりましょう……?」
恍惚とした表情を浮かべるパティちゃん。
その表情にはいつも皆やぼくに優しくしてくれる天使の面影はなかった。
そうして再び、二人は動物のように交わり合いを始めた。
「……っ……!!」
足ががくがく震える。
怖い。怖い怖い怖い。なんだあれ、気持ち悪い。
気持ちよくなりましょう、だって?
あんな怖くて乱暴で痛々しい行為が、気持ちいいって言うのか?そもそもあれは本当にパティちゃんだったのか?
違う、パティちゃんはあんな風に獣みたいな声も出さない、あんな顔もしないはずなのに……。
腰が抜けて動けないでいるぼくの耳には、依然として二人の動物の荒々しい声が聞こえてくる。
「う゛、え゛ぇっ、げえぇえっっっ……」
飲み会で口にしたものを、全て嘔吐する。
首から提げた懐中時計が、自分の吐瀉物で汚れてしまった。
ルークのくれた大事なものなのに。
不意にルークの笑顔を思い出す。ルークもきっと、この光景を見たら怖くて泣いてしまうに違いない。
あぁ、ルークにそばにいて欲しい。抱きしめて宥めて欲しい。叶わないとは解っているけれど、でも。
……その後のことは、覚えてない。
「……あぁ、私だ」
「そうだな。元気だよ。そちらはどうだ?最近会いに行けていないから、寂しかったりは?……そうか。それはすまない」
「わかってる、お前の言う通りちゃんと全部見ているよ。あぁ……あぁ」
「……そろそろ切らなければ。仕事があるんだ」
「あぁ。……私も、愛しているよ」
ーーーー
ーーーー
「……よぉ」
「やぁ、おはよう少年」
普段よりも早く地下へ向かったからさすがにまだいないかと思ったが、クレオは既にそこにいた。
「今誰かと電話してたのか?」
「ん、あぁ。親友と、少々近況報告をな」
「お前友達いたのかよ」
「失敬な、男友達が数人いるとも」
「女友達いねぇのか」
「いない」
即答だ。
やはり仕事柄、男とばかりつるまざるを得ないのかと、キースは妙に納得する。
クレオが眼鏡の奥から、訝しげにキースを見つめている。
「……なんだよ」
「君、まだ業務開始まで時間があるだろう。何しに来たのかね?」
「お前のこと探しに」
「私に何の用だ」
キースが何か口をもごつかせている。
言いたいことがあるが迷っている……いや、そういう風でもない。
ものの言い方を選んでいるというのがより近い。
「お前さ、生きる上で何か楽しいこととかあんのか」
と、キースが口を開いた。
切り出したはいいが、ストレート過ぎる。
些か、彼の歳相応の失礼さを感じさせてくれる。
「……ずいぶんとまぁ薮から棒だな」
「幸せが分からないって言ってたろ。ゾンビみたいな目して」
「私がいつ死肉を貪った」
「そういう事じゃなくッ……支えはあんのか、ってことだよ!」
支えてくれるものや人さえ存在すれば、明けない夜は無い。キースはそう思っている。
たとえば彼は『家族』が好きだ。
若気の至りか、ついぞ大事にはしなかったしできなかったけれど。
「支え……」
クレオが深深と考え込んでいる。
「そんな大それたものは考えつかんが、そうだな。長風呂は好きだ」
「風呂好きなのか?頭おかしいのかよ」
「自分が風呂嫌いだからと全否定するな。いいぞ風呂は。命の洗濯だ。仕事終わりや休日に浴槽に浸かるのが小さな楽しみだよ」
「それだよ!!!!!!」
不意にキースが大声を出す。
あまりに唐突かつ大音量だったゆえ、クレオは図らずも飛び上がってしまった。
「小さな楽しみはイコール幸せだよ!」
「は」
「幸せなんてのは、大体の場合そんなわかりやすいもんじゃないんだ。お前は幸せが分からないって言ったけど、実はいつの間にか幸せになれてたんだよ!今わかっただろ」
キースはさも嬉しそうに笑った。いつも澄ましたお兄さん面を提げているくせに、今ばかりは幼い少年のような表情だった。
そのギャップに、クレオは自分の心が少し揺れ動いたように錯覚する。
「ずいぶん嬉しそうだな」
「実際嬉しいしな」
「なぜ私の幸福をそこまで気にかける」
「決まってる」
ーーお前が、寂しがり屋の妹分に見えたから。それだけ。
「……ふ」
息を吐く音。溜め息と紛うものだったが、彼女の表情は緩んでいた。
眉根を下げ、目を細めて口許に手を当てて。笑っている。あの鉄の女が。
ふわふわとウェーブがかかった白い髪がランタンに仄かに照らされキラキラ輝く様は、天使か女神のようだった。キースは思わず目を奪われる。先程とは反対に、今度はクレオのギャップが弾けていた。
「い、妹分?こんなに歳が離れているのに?」
「え、あ、いや……」
「可笑しなことを言うものだ。ふふふっ……」
目が離せない。
いつものように何か饒舌に言い返したいのに、うまく言葉にできない。
下手に喋れば妙ちきりんで意味不明な文言が飛び出しそうだ。
「……なぁ」
「ん?」
「幸せ、ちょっとはわかったか?」
「いや。せっかく教えてくれたのに申し訳ないが、あまり」
「そっか……」
話題が途切れる。
痛いほどの沈黙が辺りを支配する。
何か言おう。言わねばならない。けど何を?
「もし良ければ、だけど、僕が引き続き教えてやろうか」
キースは、自分で言っていて訳が分からなかった。
何を言ってるんだ、僕は。でももう言葉にしてしまった。
今更引き下がれない。流れに任せよう。
「教える……幸せとやらをかね?」
「僕は便利屋だから、金さえ貰えればなんでも言うこと聞いてやるけど」
クレオが目を瞬かせる。
「金をとるのか?」
「違っ、これはニルがいつも言うから、いやそういう事じゃなく!!」
「言うことを聞いてくれるのか。なんでも」
「お、おう」
壁にもたれかかっていたクレオが、徐にキースに近寄る。
「なら頼もうか」
キースを壁際に追い詰めて、ぐっと顔を近づけた。
彼に触れ、まず胸板をなぞり、次に喉、顎、唇と上へ上へ登っていく。
また色事に発展するのかと思った。
けれど前ほど嫌な気がしない。むしろ少し乗り気まであった。
「目上の者には敬語を使え」
思い切り鼻をつままれた。
女の細腕からもたらされるものとは思えない力強さ。単純に痛い。
「ほら!わかったら話してみろ敬語を!」
「痛ってぇな、離しやがれ!折れたらどうすんだババア、おい!!」
「聞こえないな」
「わか、わかった、分かりました!!わかったから鼻、鼻ッ……」
「ふむ。楽しくなってきた。もうしばらく続けようか」
「いぎゃーーーーーーーーー!!」
「おい」
男の声が割り込んだ。
視線を向ければ、見知った紙袋。
表情もうかがい知れないのに、何だかずいぶん機嫌が悪そうだ。
「貴様らァ……何をこんな所で密会している」
「密会などしてない。勘違いだよ」
「男女が二人きりで話し、さらに触れていればそれはもう密会だ、ふしだらだ淫らだ猥褻行為だ!!くたばるがいい!!」
「ドーズ落ち着け。血圧が上がってしまうぞ」
老人扱いである。
ドーズがぶつくさ言いながら荒々しい足音を立てて行ってしまう。
瞬間、ぱっと解放されるキースの鼻。
「さぁ、行こうか少年。今日も一日頑張ろう」
すたすた歩いていくクレオの後を、キースは慌てて追いかけた。
なんとなく彼女の隣を歩いてみる。
盗み見たクレオの顔はもう笑ってはおらず、いつもの鉄面皮だ。
けれども、キースには初めて会った時より何かが違って見えた。
ーーーー
「……」
カーテンの隙間から光が差し込んでくる。いつの間にか朝が来ていた。
見張りがある日でもないのに朝まで起きていた事は初めてだった。
眠れなかったのだ、昨夜見たものが目に焼き付いて離れてくれなくて。
怖かった。いや、怖い。
ベルトとパティちゃんに会ったらどんな顔をすればいいんだろう。
そろそろ朝食の時間だから、下に行かなければならないけれど、食欲もない。
……寝てよう。
一回くらい朝食に行かなくても別に誰も気にしないだろう。
「ラッスー」
と思ってた矢先、訪問者現る。
しかもベルトだった。
「おーーーい、起きてるべ。開けておくんなまし」
「……ね、寝てる」
「起きてるべや。さっさと開けねーとお前のクローゼットの中身全部フレンチメイド服にすんぞ」
何その嫌がらせ。フレンチメイドってあれだろ、やたら肌の露出多いセクシーなやつ。
冗談じゃない。ああいうのはぼくがやるべきじゃないし、お前の恋人バインバインなんだからそっちにやらせればいいのに。
大慌てでドアを開ければ、やはりベルトが仁王立ちしている。
「よぅ」
「……やぁ。何か用かぃ」
姿を見た瞬間脳裏に過ぎる昨夜の蛮行現場。
目が合わせられなくて、下を向く。長くて邪魔な前髪は今ばかりはありがたい。
……と思ったのに。ベルトがぼくのつむじを思いっきり押してきた。
「何目ェそらしてんのよ、え?いい度胸してんな」
「痛たたたたた!ご、ごめんって、別に悪気があった訳じゃ」
「お前昨日の見てたろ」
心臓が跳ねる。
反射的にベルトを見上げてしまえば、当然目が合う。
ベルトはまったくの無表情で何を考えているのか分からない。
きっと怒られると、そう思った。
「……ごめんなさい。見ようと思ったわけじゃないんだけど……ごめんなさい」
「え、なんで謝ってんの。別に怒ってないぞぅ」
ふと彼の表情がきょとりとしたものになる。
それを見たぼく自身もまた素っ頓狂な顔になったことだろう。
怒ってない?なら何故わざわざぼくの部屋に来るんだ。
「吐くほどショッキングだったみたいだからアフターフォローに来たんだよ」
「……あふたあふぉろー、かぃ」
「ラスお前、もしかしてああいうの見た事ねーのけ」
「えっと、そもそもあれは何してたんだぃ?」
「セックス」
ベルトは簡潔に述べる。
セックス……えっちなことを意味する言葉。
ぼくだって成人だし意味なら知ってる。
「あぁ……子供を作るための行為だよね。知ってる」
「別にガキ作るためじゃなくてもヤるけどな。好き好き男女同士なら」
「もしかしたらぼくもあのおぞましい行為をしてた未来もあったのかもね」
「かもじゃなくて、やりゃいいのに。女なんだからさ」
いつもなら怒っていただろうが、今は背筋が凍る気分だった。
だって、ベルト達『男性』から女だって認識されているなら、いつかパティちゃんみたいにぐちゃぐちゃに犯されるってことなんだから。
「……ははは、面白い。ぼくは子供産めないから女じゃないよ」
「入れられる穴があれば女だよ」
「っっ……あ、相手だって居やしないし」
「誰か適当に探せば?男なんて腐るほどいるし」
なんでそんなひどいこと言うんだ。
ベルトが怪物に見える。彼はどうしてしまったのか。
いや、違う。別に彼は前と変わってはいない。
ベルトは、前からこんなことを言う性格だった。何も変わり映えはしちゃいない。
変わってしまったのは、ぼく自身だ。
ぼくが勝手に怯えているだけ。『性』そのものに。
「ち、ちが……いないよ、相手なんか、いらない……っ」
「ルーク君なら良かったんけ?」
「!! ……え、」
「お前は勝手に神聖視してっけど、ルーク君も男だから。当然そういう欲求あったろうと思うぜ」
「……ルークが?」
ベルトはあっけらかんとした顔だ。
嫌味や皮肉ではなく、当然の知識を語って聞かせているようだった。
ルークが、あんな事を?まさか。そんな訳ないさ。
でも、もししたとしたら?どこのどんな女を抱いたのだろう?
「相手なんてお前しか有り得なかったんじゃねーの?」
「ぼく……?」
想像する。ぼくとルークが性行為を致しているところを。
ベッドに組み敷かれて、体を触られて、そして。
知らない間に、変に熱い息を吐いていた。なんだか体がぽっぽする。
理由は分からないけれど。
……少し、嬉しい気持ちになっている自分がいた。
「んな事より、飯出来てんぞぅ。食い行こーぜ」
「……ぼく、いい。ちょっと寝る」
「お前の分食べちまっていい?」
「ん……いいよ」
それ以上ぼくに構うことなく、ベルトは廊下を歩いて行った。
一人残されたぼくは、妙な気持ちを抱えながら……急激に訪れた眠気に誘われるままベッドへ向かったのだった。
ーーーー
所変わって、街の方。
昨夜依頼された通り、ニルは神父の護衛業務に就いていた。
と言っても、大した事はしない。銃も盾も使わない。猫背でゆらゆら揺れるように歩く彼の後を追うだけ。
仮に命を狙われてもなんとかなるように、大通りを選んで移動する。
「いい天気ね」
「ええ」
歩きながら彼の横顔を、ニルは盗み見る。
中年ながらまあまあ綺麗な顔をしていると思う。
艶やかな黒髪に、黒目。柴犬のようなまろ眉がユニークだ。
彼女は年下の身ながら、密かに可愛いと思う。
「ねぇ、どこ向かってるの?」
「どこにも。ただの散歩です」
「仕事は?」
「済んでます」
にべもなく返される。
ほんの少しの会話ながら、きっと何を言ってもこうだろうと察知できる。
早々に会話を諦め、街並みを見てみた。この国では、地区ごとに街並みの印象が違う。
一方は和風、一方は洋風とまるで統一感がない。ちなみに此処はオフィスビル街だ。
スーツやオフィスカジュアルの服に身を包んだ人々が忙しそうに行き交い、端の方ではアンケートか何かの勧誘がうろうろしている。
「……」
神父と隣り合って歩くにつけ、ニルは改めて思う。彼は本当に嫌われているようだと。
彼の顔を見た瞬間老若男女問わず「死ねクズ」の声が飛ぶ。何なら物も飛んでくる。
ボールペン、消しゴム、紙くず。
さっきからそういった飛来物を避けるのに必死だ。
落ち着きたいのに、なんとも気が散る。
「死ね、って言葉……ちょっと面白いですよねェ……」
「は?どこが」
「殺すって言えば自力本願だってわかるけど、死ねってのはどっか他人とか神だとかに願ってる感じするでしょォ」
「あぁ……たしかにそうかも」
「半端な殺意なら向けないでいただきたいです。鬱陶しいだけなんで」
時々飛んでくる小石を煩わしそうに払い除けつつ言う神父。
大物なのか小物なのかよく分からない。ニルは小さく嘆息した。
「何で私の周りの男って嫌われ者ばっかりなのかしら」
彼は歩き煙草を嗜みながらも、答える。
「お前がサゲマンだからじゃねーです?」
「私は好かれてるわよ」
「騙されてる奴にはねェ……」
「なによそれ、失礼ね」
「騙したでしょう。知ってますよォ」
とんとん、と己の左頬を指で叩く神父。
ハートマークを模したボディペイント、その下の傷ができた理由を指している。
途端にニルの表情が曇った。
「……何で知ってるの」
「聞きました」
「ドーズに?クレオに?」
「不死身のチビガキに」
「あいつまだ生きてたのね……」
ということは、ニルの犯行動機も知っているはず。
知っているのに何も言及してくれないわけだ。
少々不満だった。けれど当たり散らしたくはない。
だから、受け流した。ささやかな仕返しとして。
「もしー。そこの御二方」
不意に、背後から声をかけられる。
振り返ってみれば、そこにはお面を被った女がひとり。
「アンケートのお誘いなのです。ご協力お願いしますですー」
お面をしているから顔は分からないが、多分20代くらい。
胸だけ豊満な小さな肢体にリクルートスーツを纏っている。
間延びした口調が馬鹿っぽい印象の女だった。
先程から点在していたアンケートの勧誘が、二人にも回ってきたようである。
「アンケートぉ……?」
「はいです。今ならご回答いただきました方全員にプレゼントを……」
「結構です。じゃ」
「えっ」
話を聞き終わる前に、神父はさっさか立ち去ろうとする。
しかしアンケート調査員の女は彼の背にしがみついた。
「待って待って、貴方に答えていただければとっても嬉しいんですー」
「知りません」
「まじでお願いしますよぉー!!ノルマ達成できないとわたくし甥っ子諸共飢え死にしてしまうのですよぉお」
お面の下では半泣きだろう。神父はそれでも構わず、女が背にしがみついたまま尚も歩を進める。
半ば引きずられている調査員。余程困窮しているようで意地でも引き止めようと、可哀想なくらい必死だ。
「待ってよ。いいじゃないアンケートくらい。答えてあげましょ」
「え゛ーー……」
「ほんとですかぁ!!ありがとうですキレイなお姉さん!!おっさんも!」
「今さらっとおっさんとか言いましたァ?」
出会って早々に嫌われた様子の神父だった。
そんなこんなでアンケート開始。
「まず、貴方のお名前教えてくださいなー」
「ニルギリス・バーンズよ」
「神父様です」
「あ、すいません本名でお願いしますです。そこ重要なんで」
「……………、……………遠山静ですけど」
本名を言いたくなかったのだろう神父が、くわえた煙草を噛んで不機嫌を表す。
手帳にさらさら書き記していくのを、ニルはなんとなく見ていた。
手帳の文字は英語ではなかった。これは……日本語だ。
「おふたりはご夫婦です?」
「違うわ」
「お友達は何人くらいいらっしゃいます?まず、ニルギリスさん」
「私は、友達っていうか同僚が4人いるわね」
「静さんは?」
「……友人だと思ってるのは二人」
「ご夫婦ではないとの事ですが、お子さんは?」
「いないわよ。結婚もしてないし」
「……二人います」
「その子を愛してらっしゃいますか?」
「愛だの恋だのは言わない主義です」
ぱたん。軽い音を立てて、調査員がノートを閉じた。
「では最後の質問です」
「え、もう?」
「はい。もう聞きたいことはだいたい聞けましたですー。で、最後の質問は、静さんにのみお聞きしますー」
朗らかな声で、調査員が最後の質問を発した。
「貴方の一番大事なものは?お金?子供?命?」
「はぁ……?なんでそんなこと」
「仕事なものでご容赦くださいなー。どうぞお答えくださいまし」
怪訝な顔をしながらも、とりあえず神父は考える。
時間が掛かったが、調査員の女は律儀に待っていた。
一番大事なもの。
危害を加えられることが不安な理由は、自分のためだ。
けれど、自分の子供を失うこともいやだ。
よくよく考え込み、やがて彼の中で答えが出る。
「…………子供も自分の命も大事です」
「じゃあどっちも奪っちゃいますね」
唐突に腹から生じた痛みに、神父は眉を顰める。
何かが刺さっているような感覚に視線を落とせば……ペン。
今し方までアンケートを取っていた女が、握ったペンを神父の腹に深く突き刺していた。
すぐ近くから息を呑む音が聞こえて、状況を理解した。
「あんたッ、なにやってんのよ!!」
ニルが女を突き飛ばそうと手を伸ばす。
が、女は怯まず。逆にその手を掴み、捻り上げた。
痛みに体勢を崩したニルの腹を蹴り飛ばし、少し離れたところ、道の向こうに転がす。
神父が痛みに跪いた。ペンは依然として腹に刺さったまま。
抜けば出血するだろうと、彼はわざと放置する。
「お前……、誰ですかァ……手の込んだ暗殺、仕掛けやがってからに……」
「本当にわたくしに気付いてないんですかー。ひどい兄ちゃんですねぇ」
「はぁ……?兄ちゃん、て」
「これで分かります?」
女が、お面を取り去る。
兄と呼ばれた神父が、目を見張る。
現れた女の素顔は、東洋系の容貌。艶のあるショートウルフな黒髪、黒目。
何年も日に当たっていないような妙に白い肌には、化粧が映えている。
「静句……」
「お久しぶりですねぇ、静兄ちゃん」
静句と呼ばれた女が薄く微笑んでいる。
神父は幽霊でも見た顔だった。
「お前……なんで」
「『地下で凍ってないのか』?まぁ細かいことは置いときましょー」
静句が、かがみ込んで神父の顎をすくう。
もう片方の手を、腹に刺さったペンに添えて。
「あんたが昔やった事の精算に来た、って言えば分かりますかね?」
「……ッ……!」
「家族を壊しといて、逃げ切れると思いました?お馬鹿の極ですー」
朗らかに笑いながらも、静句の目は憎しみに燃えていた。
「兄ちゃん。あんた、まだ子供が大事なんですね?自分の命と同じくらい」
「……まさか」
「あ、さすが理解が早くていらっしゃる。そうです!わたくしは貴方の子をぶっ殺します!貴方もろとも!」
神父の顔が急激に青ざめる。
彼の脳裏には、ひとりの化物の顔が浮かんでいた。
一般的に『社長』と呼ばれる、あの子。
自分の子だと思っていたい、化物。
「やめてください」
「やめません」
「やめてください……あの子は、あの子だけは」
神父が、静句の袖を掴む。
「もー、何度も言わせないでくださいー。……やめねーって言ってんです」
静句の手に握られたボールペン。
刺さっている位置からして、内臓が傷ついている。
医師でもない者が抜いたらただでは済まないだろう。
それに構わず……静句は、ペンを引き抜いた。
途端に吹き出す大量の血。
「しず……」
「さようなら、兄ちゃん」
根性で静句を引き止めようと手を伸ばした彼だったが、届くことはなく。
神父はその場に倒れ伏す。
「静ァアッ!!」
背後から悲鳴に似た絶叫が響き渡る。
静句が振り返るのとほぼ同時に、彼女の顔を何かが掠める。
よほど力一杯投げつけたのだろうそれはすぐ近くの壁に激突。見事に刺さった。
見れば、医療用メス。
「痛いですぅ」
「あんたッ……!!何してくれてんのよ!!」
これまた思いきり蹴り飛ばされた痛みが回復したらしいニルが、よろよろ立ち上がる。
足取りの心許無さとは裏腹に、ニルは端正な顔を醜いまでに歪ませ大激怒だった。
「話はだいたい聞いてたわ。あんた、その男の妹さんでしょ?」
「それがなにか」
「妹が兄貴殺そうとするってどういうことよ!!」
ふと静句が思い出したように手をぽんと叩く。
「あー。思い出しましたー。ニルギリス・バーンズ。貴女、うちの兄ちゃんに誑かされた方でいらっしゃいますね」
ニルの肩がぴくりと跳ねる。なぜ知っているのだろう?
静句はにっこり笑って、幼子を諭すような声音でこう言うのだ。
「ニルギリスさん、いいですか?こいつの何が良かったのか知りませんが、一回えっちしたくらいで簡単に恋して人生かけちゃいけません。めっ、なのです」
「黙んなさいよ馬鹿女、あんたに何がわかるのよ……!!」
「女、ですねぇ貴女。可哀想なくらいに」
侮蔑混じりのその言葉にニルがまたメスを投げつける。
一本、二本、あるだけ全部をどんどん投げていくが、静句はひらりひらり回避してしまう。
舞い踊るようなその足取り。状況に似つかわしくないながらとても艶やかで、遠巻きから見ていた野次馬どもが図らずも魅了される。
「お集まりの皆様、よく覚えておいでくださいまし。わたくしの名は遠山静句、この妙ちきりんなクズ国家を滅ぼす者でございますです!わたくし共は、国を滅ぼすためにこれから大勢殺します。対象者は国民全員。死にたくなければ即刻亡命することをおすすめ致します」
その宣言にようやく我に返る民衆。
何を言ってる、この女。いかれているのか?気にする事はない、どうせ虚言だ。
いや、でも神父が刺されて瀕死でいるのはどう説明する?
ざわめいていると。
高層ビルのひとつ、その窓ガラスが爆音とともに吹き飛んだ。
ばらばらとガラス片が降り注ぐ。
誰もが驚いて逃げ惑うが、静句だけは落ち着きはらっていて。
爆破させたのは彼女だと察せられた。
「さよーなら、なのです」
「待っ……!!」
降り注ぐガラス片等の二次被害、まだあるかもしれない爆発に怯えた民衆の群の中に、静句はそっと消えて見えなくなった。
混乱の中に残されたニルは、静句より刺された神父を優先する。
「静!!」
「……」
「ねぇ目を開けてよ、こんなところで死んじゃダメよ、ねえ!!」
息はある。だが意識は既になく。
神父はこのままだと死ぬ。
あれだけ生にしがみついていた男が、妹に刺されたくらいで、あっさり死んでしまう。
「……死なせないわ」
彼女の中で炎が燃え上がる。
彼女は医者だ。目の前に命が危険に瀕している者がいるなら、救う。
握ったメスが、泥と血で塗られていても。
決意を胸に……ニルはフリルだらけの袖を捲りあげた。
ーーーー
ーーーー
「今日諸君らに集まってもらったのは他でもない」
国一番の大企業、ブランクイン。
その本社たるビル内の会議室にて、数人の男女が集っていた。
面子は、ブランクイン副社長。自警団団長。
便利屋クズ工場のメンバーもいた。
「神父が刺された」
その事実は瞬く間に世間に広がっていった。
当然だ。日中のオフィスビル街のど真ん中で起きた惨事なのだから。
「現在、彼は病院の集中治療室にいる。命は助かったが……意識が戻るかは分からないそうだ」
「ふーん」
「へえ」
説明役のクレオと同じく、聴衆も重々しい雰囲気を漂わせている……かと思いきやそうでも無い様子だ。反応は軽い相槌を打つ程度ときた。
「おい、仮にも人一人が死にかけているんだぞ。そのポップコーンをつまむかのような気軽な反応はいかがなものか」
「あいつにそんな価値はない」
「そもそも何で俺達呼ばれたのよ?関係ねーじゃん」
「大ありだ。今回の犯人は、お前たちのせいで外に出てきたのだからな」
ひょっとして地下監獄の件についてか、と薄ら察知する工場メンバーズ。
唯一真剣に耳を傾けていたニルが切り込む。
「あの女ね。静句、とかいう。あいつも地下監獄に居たの?」
クレオが頷く。
「彼女は神父の妹でな。地下監獄で長年眠っていたそうだ」
「眠るって、昏睡状態だったってこと?」
「というよりコールドスリープだ。訳あって、兄の手によってな」
あの男のことだからきっとくだらない理由なんだろうな、と誰もが思った。
誰も理由を知らないわけだし、そう思われるのも無理はないだろう。
「あーー。思い出したわぁ」
と、ここで社長が割り込んできた。
「そいつ確か、俺がこの体に移った時にもめっちゃキレてたぜぇ」
社長は自分の肉体を持たない。
肉体が老いても魂は死ねず、『今』の肉体が死んだらまた次の肉体に引っ越しているためだ。
まるでヤドカリのように。
「相変わらずやっべー女だなぁ。兄貴まで消そうとするとかよぉ」
「じゃあ何、あんたのせいな訳?」
「そもそも何があったん、遠山とかいう兄妹は」
そう訊ねれば社長が気だるげに語りだす。
あれはえっと、いつ頃だっけなぁ。
確か二十年くらい前だったか。
肉体寿命が迫ってたところに、ふらっと訪れた極東の島国でとあるガキに出会った。
白い服の似合う子供だった。
なんかぜえぜえ息してたから、病弱だったんだろうな。
寿命ギリギリだったんで仕方なくそのガキに「引越し」たら、これが意外とちょうど良い具合でよぉ。
病弱だった我が子が不死身になったんだし、俺もガキの家族も誰もがウィンウィンだって喜ぶはずだった。
……全然違ったけど。
あの連中、「シズオを返せ」ってみんなまとめて俺のこと殺そうとかかってくんだよ。
信じられるかぁ?中身が違うとはいえ、皮はそのままなのにな。
俺はとうとう八つ裂きにされかけたが、遠山家にはもうひとり居た。
サクラコとかいったっけな。
神父ちゃんの嫁、シズオの母親。
サクラコが言ったんだ。
「この子は殺さない方がいいんじゃないか?」
それ聞いた途端、神父ちゃん、手のひら返したみてえに俺を庇いはじめてよぉ。
言ってたぜぇ、サクラコと約束したんだって。だから中身化物でも俺のこと護るんだって。
静句だけは最後まで殺意向けてきてたが、強制的にコールドスリープさせられちまったわけだ。
「……シズク……さん?」
不意にカリンが首を傾げた。
静句。その名前が何か気になるようだ。
「どうしたんだぃカリンちゃん」
「いえ、どっかで聞いた名前だと思いまして」
誰だったかなー、と呟くカリン。
しかし皆の興味はそちらへは向かず。
「ほんで、俺達にこれからどうしろっての」
「あぁ、それなんだが。神父が戻るまでの間、教会の管理を頼めないだろうか」
「は?教会?なんで」
クレオが説明する。
教会には、ひとりだけ住人がいる。
彼は五体不満足の身で、誰か世話する者がいなければならない。
だから、教会の管理(芝刈りとか)ついでに交代で世話をしてやってほしい……と。
「あぁ、オズね」
「オズ?」
「そう、シスターなのよ。生首の男だけど」
「すいませんなに言ってんのかわかんなくて混乱するんですけど」
「大丈夫よ。ちょっと変わった見た目だけど、良い奴だから」
……と、『オズ』という名前を聞いてから様子がおかしい者がいた。
ベルトが、青ざめている。
普段飄々としている彼なのに、珍しいこともある。
そんな彼の異変に隣席のキースが気付き、声をかけてやる。
「どうした?腹でも痛いのか」
「いや……昔そういう名前の知り合いいたからさ……」
「昔って、タイムトラベルする前のことか?」
「そう……俺めっちゃ苦手だったんだよね、そいつのこと」
「昔の話なら絶対他人だろ?名前が一緒なだけで一方的に苦手意識持たねぇでやれよな」
相当トラウマを揺さぶられたのかベルトは返事をしなかった。
「あぁ、それと。当面の間ひとりになることは避けるように」
その言葉を最後に、集会は終了した。
ーーーー
集会が終わり、それぞれ帰路につこうとする。
だがその前に。
グループを作らなければならない。
神父も刺されたし、犯人である者は国民全員を殺害すると宣言までした。
ならば一人では危ないと思うのは道理。
「キース、一緒にかえろうー」
ラスカルはキースのそばに寄り、袖を引いた。
キースは同僚で一番弱い。
だから自分が護ってやろうと、そう思って。
「……悪い、僕用事あるから」
「ようじ?って?」
バツが悪そうに、くしゃっとラスカルの頭を撫でると、キースはどこかへ行ってしまった。
どこへ行くんだろう。図書館だろうか、としばらく考えたが、やがて諦めた。
それならもういいと一目散、逃走するように帰宅……しようとしたとき。
「ラスカル」
背後からルークの声が、聞こえた。
慌てて振り返るラスカルだが、もちろんそこにルークは居らず、代わりにクローバーが立っていた。
「どうした」
「えっ、あ、あの……いま、ルークの声が……」
戸惑いのあまり言葉がうまく紡げない。
そんなラスカルをクローバーは、喉をくつくつ鳴らして愉しげに見ていた。
ひとしきり笑うと、突き出た自らの喉仏をとんとんと指し示す。
「面白いだろォこれ」
「へ」
「会社の宴会の余興で身につけた特殊技能でなァ。色んな声が真似できるんだ」
「こえまね?」
「何か注文してみろ。何でもいい」
「銭形のとっつぁん」
「今ここに俺が来なかったか?」
クローバーの口から唐突に飛び出すとっつぁんボイス。
だみ声加減といいテンションといい、案外似ている。
思いのほかクオリティが高い声マネに、ラスカルは素直に感心する。
けれど、クローバーが少し嬉しそうなのが癪だった。
「少し、仕事の依頼があるんだが」
唐突に投げられた依頼話。
何故ラスカルに言うのだろう?今なら他にもまだ店員はいるだろうに。
「お前とデートがしたい」
「……は?何でぼくと」
「理由がある」
耳を貸してやれば語った内容はこう。
クローバーには、好きな女がいるらしい。
その女と距離を縮めるのに、イメージトレーニングをしたい。
だから仮にも旧知の仲たるラスカルに、デートの予行練習に付き合ってほしい、と。
「えええ……いやだ」
「報酬は弾むが?お前ら最近ジリ貧なんだろォ?このでかいチャンスを逃していいのかねェ」
「……打ち合わせ、あとでいいかぃ。もう帰って寝たいんだよ」
了承の意を込め吐き捨てればクローバーはまた嬉しそうな表情を浮かべた。
ーーーーー
ラスカルの誘いを断ったキース。
彼には用事があった。ただ、別にどこかに行きたい訳では無い。
もっと……急ぎでもないが、タイミングが今しかない用事。
「クレオ……さん!」
慣れない呼び方をしたせいで、少し不自然な声のトーンになったがクレオはちゃんと振り返ってくれる。
「なんだ」
振り向いたクレオは少し疲れた顔だった。
知り合い……というか友人が瀕死状態になり少なからず神経が参っている様子。
「これから何か用事とかあるんですか」
「……今日は有休をとってる。暇なのは夜までだが」
「僕とどっか行きませんか」
「なんだ、デートの誘いかね。そういうのは君のところの小さい同僚が適任だと思うが」
ついさっきも一緒に帰ろうと誘われていただろう、とクレオ。
一部始終を見ていたらしい。
「あらいぐまはそういうんじゃないんで」
「……なぜ私なんだ」
「幸せ、教えるって言ったでしょ」
「君を雇うとかいう話なら承服した覚えはないが」
「別に金はいいです。僕がしたくてするってだけだから」
キースはクレオの出方をじっと窺っている。
まるで賭け事の勝ちを静かに祈るような、そんな顔だ。
「……」
クレオは今疲れている。加えて、夜にはまた用事がある。
帰って休みたい。それが正直な気持ちだ。
ただ、ほんの少しの、興味。この少年と居ればどれくらい楽しめるのだろう?
……という興味が、クレオの疲れを和らげた。
「……わかった。ではエスコートを頼むよ」
キースは、満足げに笑って見せた。
ーーーーー
カリンはスマートフォンを食い入るように凝視していた。
遠山静句。
その名を検索エンジンにかけたところ、おびただしい情報がヒットしたのだ。
ただの同姓同名かと思ったけれど、違う。全て同一人物。
【遠山静句(トオヤマシズク)。日本の発明家。女性。現在43歳。ある時期から行方不明となっている】
「あー……」
どすんと腑に落ちた。
遠山静句は、カリンが発明を趣味にするきっかけとなった人物である。
言うなれば大ファン。
小さい頃は静句の発明品を真似て、プレゼントしたこともある。
その時の笑顔は、永遠に忘れられない。
……誰の?
「……」
静句のこともそうだが、まだ他に誰か大事な人のことを、忘れている。
というか、記憶が丸ごと消えている感覚。
記憶を、消去された。
そうだ、そういえば社長がそんな事を言っていた。
静句が発表した発明品の中には、記憶操作装置もあったはずだ。
くわえてそれは脳への負担が懸念されて、お蔵入りとなったのではなかったか?
「……いもうと……」
妹。カリンの妹。
消された記憶は双子の妹について。
今までの周りの人々の言動が脳内をぐるぐる回る。
カリンの妹は地下で死んだ。
その後カリンが壊れてしまわないようにか、はたまた別の理由かは分からないが記憶操作した。
なら、誰が殺した?
何故妹は死ななければならなかった?
悶々としていると、もうひとつ所持している、仕事用携帯……いわば社用携帯が鳴動した。
画面に映されるは、非通知。
だけれどもきっと依頼人だろうと、構わず出てみる。
「はい、便利屋クズ工場です」
『あ、どうもー。ひとつ仕事をお願いしたいのですが〜』
間延びした馬鹿っぽい女の声だった。
ーーーー
ーーーー
「ベルさんっ」
会議室を出るやいなや、黄色い声で名を呼ばれた。
パティだ。部屋に入ってはこなかったものの、終わるまで外で待機していた様子。
健気な彼女らしいことである。
「よぉ。待ってたんけ」
「はい。でもあんまり長くお話してなかったですね?」
「まぁ、やられた奴が嫌われ者だしな」
「あぁ……まぁ、神父様ならいつか刺されるんじゃないかとは思ってましたけれど」
狂気的なまでの優しさを持つパティまでもが辛辣なことを言う。
ただし彼女の場合は、ただ単に事実を述べた上で心配している様ではあるが。
「……大丈夫でしょうか、神父様」
「そんなに心配なの」
「それはまぁ……昔からお世話になってますから。お姉ちゃんの数少ないお友達だし」
「あ、やっぱ少ねんだ」
人は、美醜にこだわるわりに気安さも求めている。
ナンパでも同じことが言える。
取っ付き難い美人よりも、ちょっと遊べそうな程々のレベルを狙ったり。
クレオは、まぁ美人の部類に入るだろうが、取っ付きにくさがメーターを壊しかねないほどである。
誰の目にも明らかだからベルトにそれがわからない訳は無かった。
「私より少ないと思います」
「マジ?っつかあんた友達多そうだけどな」
「あの……男の人はたくさん話しかけてくださるんですけど、すぐえっちな話題になるのが辛くて……」
「なるほど、そいつら絶許ですね」
ベルトの目が少し据わっていた。
内心ひやひやしつつもパティは話を続ける。
「お姉ちゃん、女友達はいないけど、男友達は何人かいるんです。神父様とオズにいが」
「オズ……って、教会にいるって言う?」
「そうですね。生首のオズにいです」
また『オズ』だ。ベルトはげんなりする。
というのも、彼はこれからそのオズに会いに行かなければならなかった。
先程の会議のかたわら、教会の管理当番クジ引きをしたのだ。
じゃんけんならば無敵だがクジ引きでは平等で、ベルトは見事に一番最初の当番を引き当てた。
「……なぁ、かわい子ちゃん。頼みがあるんだけど」
ーーーー
ーーーー
「オズにいーーーー!どこーーー?」
教会を訪問したベルトとパティのふたり。
どうしても話題の『オズ』に一人でファーストコンタクトを果たすのが嫌だったベルトは、結局パティに甘えたわけだ。
「ベルちゃん、足元気ぃつけな?」
「あ、ありがとうございます。でも平気ですよ、私よくここ来てまァアッ」
「言ってるそばから転んでんじゃん」
散らばっている瓦礫とゴミに足をとられ、パティはひっくり返る。
すかさずベルトが助け起こすかと思いきや、ベルトはしばらく黙って見ていた。
何をしているのか?パティが自力で立ち上がろうともがくのを観察しているのだ。
意地の悪いベルトらしい。
「べ、ベルさん、すいません助けていただきたいです」
「あいあい」
やがてパティに救援を申し出られると、初めて腕を貸した。
「わりーな。こんな所までついてこさせちまって」
「え?全然ですよ。いつも遊びに来てますし。ベルさんに頼ってもらえて嬉しいです」
屈託なく微笑む。その笑みに嘘はなく、純真そのもの。
パティは、こういう子だ。自己評価が低いため他人のために動こうとする。他人第一。
現在、もっとも重要な他人はこの目の前にいる燕尾服男。
「もう、オズにいどこ行っちゃったんだろ。きっと隠れんぼしてるんです」
「そのオズにいってさ、どんな奴」
素朴な疑問だ。
自分がこれからしばらく世話する相手なのだから、興味は少なからずある。
「……分からない」
「あ?」
「分からないです。オズにいは、誰にでも優しい言葉をかけるし、物腰も柔らかいけど、底が知れない。分からない」
「へえ」
「だから、ベルさん。会ってもあんまり信用しすぎない方がいいかもしれませんよ」
「そぉ。酷いこと言うのねぇ」
空気が凍った。
パティの真横にあったベルトの顔が、逆さ吊りの生首に変わっていた。イッツアイリュージョン。
「ぎゃあああああああああ」
汚い絶叫が轟いた。
「あ、オズにい。こんにちは」
普通にホラー映画で有り得そうなショッキング映像ではあったが、パティは平然と挨拶。
赤毛を長い三つ編みにして、目元を隠した生首の男。オズだ。
「おひさ、パティちゃん♡今日はくーちゃんいないのん」
「お姉ちゃんはいないの。ごめんね」
「えーー会いたかったぁ。っていうかあ!静ちゃんはどこ行っちゃったのよぉ!アタシずっと一人でここにいて、寂しいったらもぅ!」
女のようにべらべら喋りぷりぷり怒るオズ。うるさい。いや、元気な生首だ。
「ところで、あんた誰か連れてきたのん?野太い絶叫聞こえたわさ」
「あ、そうだベルさん」
ベルトに視線を配れば、彼は腰を抜かしていた。
ドッキリよろしくなオズの出現によっぽど驚いたらしい。
「ベルさん、大丈夫です?立てます?」
「オズ……」
「え」
ベルトが震える指でオズを指す。
「お前ぇぇええええ!!何でここにいるんだよ!」
「え、もしかしてお知り合い……」
「はあん?誰よあんた」
「ベルトだよベルト!!今から何百年も前に、監獄で会ったべや!」
色々不可解な事を喚き散らすベルト。
オズは、床をころりころり転がっていってある程度近付くと、鼻をひくつかせた。
すると、思い出したようだった。
「あ、ご無沙汰」
「軽い!!」
「おひさ、ベルトちゃん。あんたまだ死んでなかったの。不死身なの?化物?」
「誰がじゃ違うわ、色々あって時代すっ飛ばしたんだよ!」
「ふうん」
興味なさげに返すとオズはパティに向き直った。
「ねえねえ、そんな事より最近外ではどんなことになってるのん?」
興味津々と言ったふうに訊いてくるオズ。
アイマスクで覆われた目の様子は伺えないから正しくは分からないが。
パティは、まだ震えているベルトを気にかけつつも答える。
「えっと、実はね。神父様が妹さんに刺されちゃって」
「えーーっうっそ」
「なんだか、この国の人みんなを殺すって話なの」
「へええ!ステキね!」
温度差がすごい。
パティは神妙に話しているのに、オズは何を聞いても嬉しそうだ。
箸が転んでもおかしい年頃と言うやつか。
と。
「きゃっ、ベルさん?」
不意にパティのもちもちした手を掴んで、ベルトが歩きだす。
そのまま教会の出入口へ向かう。オズを置いて。
「ベルさんっ、まって」
「いいから」
ベルトは後ろ、もといオズを振り返りもしない。
けれどパティはオズを振り返った。
オズは笑っていた。穏やかににっこりと。
なぜか分からないけれど、嬉しそうでよかった。でも……その笑みに不安を覚えた。
「お、オズにい、またねっ」
「うん。またね」
オズを教会にひとり残して、二人は帰って行った。
ーーーーー
懸命に、必死に。
半分駆けるように教会から遠ざかろうとするベルト。
足がもつれそうになりながらもパティはなんとかついて行った。
ある程度教会から離れた頃、ようやくベルトの足が止まる。
「ベル、さん?」
「最悪だ」
ベルトがぽつりと呟きをこぼす。
「何であいつがいるんだよ、最悪だよ……よりにもよってオズかよ……」
「……、何かあったんですか。オズにいと」
並々ならぬ嫌悪、畏怖を感じた。
だから聞いてみた。恋人だから、共有して欲しくて。
「何も無い」
しかしながらベルトの答えは意外のものだった。
「何も無いよ。ただ、昔、俺がいた時代にあいつもいて……一緒に監獄にいた。囚人仲間でさ」
「囚人……?あの人何かしたんです?」
「ベル。頼むからもうあいつと関わらないでくれ」
握りしめられたままの手に、力がこもる。
痛い。骨が軋むくらい強く強く握られて、思わず眉を顰めるパティ。
「あいつは……オズは、性犯罪者だよ」
ーーーー
ーーーー
オズにいと会ったあとベルさんは、急激に具合(というか機嫌)が悪くなったらしく、恋人である私を差し置き、一人でさっさと帰ってしまった。
私の心にいくつもの謎を残して。
オズにいが性犯罪者だとか、何百年も前に会っただとか。そもそも何で彼は生首だけなのだろう。
私はオズにいとは付き合いが長いけれど、そういえばあの人の情報をほとんど得ていなかったと気づいた。
あぁ、謎が深い。
「ね、どう思う?ドーズおじさま」
「俺が知る訳なかろうが」
本を読んでいるドーズおじさまに向かって、少々一方的に語りかける。
彼はいつも紙袋を被っている、不思議なひと。
しかも怒りっぽいらしい。
というのも、私はドーズおじさまが荒ぶっている様を見たことがないから。
彼は、日頃から私にはずいぶん落ち着いて口をきいてくれる。
「奴は最近どうしている」
「え」
「オズにいとやらだ」
「あ、うん、えっと……相変わらず、かな。クレオお姉ちゃんに会いたがってるけど、仕事が忙しくてなかなか難しいみたい。……あっ、あとは恋バナしたがってるかも。今度女子会開いてあげようかな」
「お前の男は近づくなと言っていたのだろう。なら近づかん方がいいのではないのか」
「で、でも、神父様が居なくてひとりぼっちで可哀想じゃない?」
「犯罪者に目をかけるとは、お優しいことだ」
理路整然とドーズおじさまは反論する。
淡々と、でも不思議と冷たくは感じない不思議な口調だ。
私は私で、ぐずぐずと反論する。
でもでもでも。ひたすら『でも』と稚拙な言葉で。
もっと本を読んで語彙力を培うべきだと痛感した。
「でもっ……それじゃあオズにい可哀想だよぉ……犯罪者だっていうのもホントか分からないし」
とうとう大人とのデミ口論に疲れてしまい。
負けを宣言する代わりにしゅんと肩を落とした私を見て、ドーズおじさまはため息をついた。
「そうさな、もし奴が本当に性犯罪者であるなら。もしかしたら胴体は愛想を尽かして逃げてしまったのかもな」
「そんなファンタジーな」
「実際逃げたくもなるのではないか?頭が馬鹿すぎたらな。生物には頭部と胴体があるが、結局全てを司るのは脳がある頭部なわけだし。馬鹿な脳みそがくっついている限り、体には理性など無意味だ」
……ちょこっと難しい話だ。
でも言わんとしていることは何となく伝わった。
じゃあオズにい、体と喧嘩しちゃったのかしら。
「……ところで、ドーズおじさま?」
「なんだ」
「どうしていつまでも同じページ読んでるの?」
「っぷはあーー。会議明けの体に沁みるなおい」
カリンにまたちょっかいをかけようと思い、社長はタイミングを待っていた。
しかしながら彼女はいつの間にか帰ってしまっていたようだ。
残念至極。
そんなわけで社長は一人、公園にてビールを煽っていた。
幼いなりをしながら飲酒する様を見て、周りがドン引きして距離を置いていく。
どこまでドン引いているのか、あるいはどこまでも引くのか、とうとう公園に誰もいなくなった。
……だが。
「おい」
不意に社長が、誰かに向けて呼びかける。
「出てこいよぉ、隠れてねぇで」
見渡しても公園の中に人影はなく、誰もいないように見える。
けれど彼は確信していた。
誰かが、自分を見ていると。
しばらく待ってみたが誰も出てくる気配は無い。
それでも用心深く気配に集中する。
感覚を研ぎ澄ませれば……
「ッ!?」
突然、息が苦しくなる。反射的に首に手をやる。
ひんやりしつつも仄かに温かい、何者かの腕。
背後から首を絞められているようだった。
手の主はおそらく全身全霊の力を込めていて、ふざけてやっている様子ではない。
絡みつく手を、必死に引っ掻くが、効果はあまり望めなかった。
「……ッ、……ぐ……!」
社長の視界が真っ白く染まっていく。
やがて、限界が訪れ……彼の意識は灼け落ちた。
意識が闇に沈む瞬間、視界の端にゆったりした服の袖らしきものが見えた、気がした。
ーーーーー
最近、ぼくはよく眠気を覚える。
正確には前々からだけれど……睡眠は大好きだ。
何もかも忘れて夢を見られるし、とっても楽しいし気持ちいいし。
けど今日の夢は、いつもとは少し違っていた。
誰かがぼくに覆いかぶさって、じっと見下ろしている。
顔がよく見えないけれど、腰を使って乗りあがってくる感じからするに、たぶん男。
これはそう、あの夜見た性交の様子と似ている。
だからきっと今ぼくは……そういう事をされているんだ。
……なのに不思議と怖くはなく。むしろ安堵を覚えた。
「ラスカル」
首に顔を埋めてくる。
詰まった首元をくつろげて、首に唇を寄せられる。
髪が擦れるのがくすぐったくて笑ってしまえば、その男も笑ったように思えた。
頬を撫でられた。
かと思うと次に、男の指がゆっくりとぼくのくちびるをなぞる。
「お前は、俺のものだ。絶対誰にも渡さない」
男の手のひらが、ぼくの下腹を撫でた。
ーーーーー
「くらえー、です」
およそ幼児が悪戯を仕掛けてくる時くらいしか聞かない幼稚な掛け声とともに、刃物で腹部を滅多刺しにされる。
痛い……っちゃそうだ。たしかに痛いんだが、絶叫したりするのとは違う。
かゆいとさえ思う程度の痛さだ。
「やはり死なぬのですー」
神父の妹……静句とかいったか。どうやら俺はこの女に拉致されたようで。
へらへら笑いながらも拷問しまくってくるあたり、俺への殺意はご健在だ。
四肢を固定され、横たえられている今の状態で見えるものは、静句のアホ面と知らない天井だけ。
「ここ何処よ」
「わたくしの秘密基地なのですー。だぁれも知らない場所ですから、助けも来ませんですよー」
「別に助けなんかお呼びじゃねーし」
何をされようがどうせ死なない俺は、余裕綽々だった。
そんな俺に業を煮やすこともなく、静句は緩く微笑んで見下ろしてくる。
「まぁ、お前は死なないですしね?」
「わかってんならやめりゃいいのに。なに、俺のこと玩具にしてぇの?下品な女だなぁおい」
「死なないとタカをくくっておりますですね、化物」
俺は化物と呼ばれるのを嫌う。それを知ってて挑発している……のかと思ったが、何か違った。
視線で続きを促せば、静句はやはり笑顔のままで語る。
「わたくし考えたのですー。お前が死なないのは、死にたいと思ってないからではないか、と」
「死にたいと思ってない?」
「そうそう、聞きましたよー。お前、女の子に殺されかけたんでしょう?」
「は?」
俺を殺しかけた女。記憶を失くす前のカリーナのことだ。
なぜ急にカリーナのことを持ち出してくる。
「カリーナがどうしたよ」
「壮絶だったそうですねー。九分九厘死んだそうじゃないですか?くわばらくわばら、なのです。あ、でもその子ってうちの兄ちゃんに記憶消されちゃったんでしたっけー」
「ちょっと待て。お前いつ誰から聞いた、その話」
おかしい。
こいつは少し前までコールドスリープしていたのだから、事情を知り得るはずがない。
誰か、事情を深く知る者が吹き込まなければ。
静句は肝心の俺の問いには答えず、さらに続ける。
「その子の記憶、どうやって消したかご存知です?」
「……特殊な装置で、脳を弄るんだろぉ」
「そう。でもそれってすっごく体に悪いのですよ。一度使っただけでも少し異常が出るんです。個人差はありますけれども」
「……、……で?」
静句が笑う。黒曜石みたいな目は澱んでいた。
「一度でも異常が出るものを、二度使った場合。どうなっちゃうんでしょうね」
……解った。解らされた。こいつが何を考えているのか。
こいつ、カリーナを壊して俺に希死念慮を抱かせる気だ。
「ざっけんなテメェ!!あいつは関係ねぇだろうが!」
「あらら?急に態度変わりましたねぇ?もしかして好きな子だったり?化物の分際で色恋してんじゃねーですよ」
いつの間に用意していたのか、静句は手に焼きゴテを持っていて。
視認した刹那、間髪入れずに俺の顔に焼きゴテを押し付けた。
異常な熱と痛みに絶叫する。
たった今俺の顔を焼き潰したくせに、穏やかに微笑んでいる様は狂気さえ感じさせた。
「カリーナ、でしたっけ?その女の子」
「……ッッ!!」
「ご協力ありがとうございますです」
まるでアンケート回答の礼をするかのように告げて、静句は視界から消える。
「おい……ッどこ行きやがる!おい!!戻ってこい!!」
どんなに怒鳴ろうとも、叫ぼうとも、静句が戻ってくる気配はなく。
俺は絶望した。まずい、このままだとカリーナが危ない。
だが俺は拘束されてどうしようもない。どうするべきか分からない。
「ッ……くそおおおおおおお!!!」
届くはずもない叫びが、こだました。
ーーーー
ーーーー
複雑な心境とはまさにこういうのを言うのかもしれない、と思った。
「ようこそ秘密基地へ、なのですー」
「……どうも」
工場へ電話をかけてきた、馬鹿みたいな声の女。
思い起こすは幼き日、テレビにかじりついて見ていた憧れの人。
遠山静句だ。
発明家を志すきっかけになったひと。
神父を刺して、この国家を滅ぼすと宣言したテロリスト。
「わたくし、遠山さんと申します。遠山静句さんですー。以後よろしくお願いしますです。あなたは、カリーナちゃんですねー?」
「違います、カリンはカリンちゃんです」
「なるほど本名がお嫌いなんですねー。合点承知之助なのですー」
明るい声に反して、暗がりに溶けるように静句の姿はある。
歳の割にシミ一つない白い肌に赤い口紅が映えていた。
さらに、彼女のそばにもう一人。
会社員なのかシャツとスラックスを着用し、ネクタイを締めている。
その上に青い着物を羽織って、何故か顔にはお面を被った男。
彼は、静句の陰に隠れるような位置にてぽつんと立っていた。
「あのー」
「はい?」
「カリンちゃんは発明家とお聞きしましたのです。わたくしも色々作ってるのですよー。アルパカ戦車とか。唾ミサイルとか可愛いし画期的で素敵でしょー」
「いや、静句さんあんたそれどころじゃないでしょ」
同業者と相見えてテンションが上がった静句が発明品トークを炸裂させかけるものの、カリンに制止される。
静句は無邪気に首を傾げてとぼけた。
「おや、どうしてでしょう」
「神父さん殺ろうとしたりビル爆破したり、楽しそうなことたくさんしたせいでみんなビビってるからですよ。やめてくださいそういう事。全カリンちゃんが羨ましいでしょうが」
腕を組み、ふんすと鼻息を吐き出す。
台詞こそ挑発にも似ているが、あくまでもカリンなりの説得方法だ。
対して、それを受けた静句はというと。
「素晴らしい!」
目を輝かせた。
「いやはや嬉しいです、やはり発明家はこうでなくちゃ!芸術は爆発なのですー」
予想外の会話の展開だった。
さすがにキョトン顔をさらしてしまったカリン。
そんなこと意にも介さず静句は彼女の手を取り、強く握る。
「あなたとは良いお友達になれそうなのですー」
「ちょちょちょ、待ってください。なんでそういう流れになるんスか」
「え。だって、あなたうちの兄ちゃん殺りたかったんでしょう?」
一瞬、カリンは口ごもる。
神父を殺したいか?答えはどちらでもない。
一方的に憎悪を向けられて、おそらくは記憶まで消されて。
しかし真意がわからない限り、殺意の程は中途半端だ。
……が。
目の前で微笑む静句については、明確に抱く感情がある。
『怖い』。この女は、どこか異常だ。
話も微妙に噛み合っていないし、目も淀んでいる。
「……」
刺激してはいけない。
本能で思った。
「さぁ……あの人にそこまで興味無いッスから」
「そうですか」
案外あっさり静句は落ち着いた。
カリンは気づかれない程度に息をつく。内心怖かったしひやひやしていたものだから。
「あ、そういえば。最近頭痛かったりしませんですか?」
「えっ。何で分かるんスか」
「うちの兄ちゃんが、カリンちゃんの記憶をいじったそうでー。妹さんのことで」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「妹……ですか。最近よく聞きますね、そのフレーズ」
「忘れてるだけで居ましたよ、あなたの妹さん。一卵性の双子で、明るくていい子でした。でもご両親は彼女だけ愛さなかった。やがて彼女は狂ってしまい、全てを壊した。そうしてあの化物に出会い……」
淡々と静句は起きた事象を語る。
そのまま最後まで語るかと思ったものの、話が重要なところまで進むとぱったり口をつぐんでしまった。
「なん、スか。妹に何があったんですか。社長さんに会ったあと、何が……」
静句の赤い唇が弧を描く。
しかし彼女は、何も言わない。焦らすつもりなのか。
妹。妹のことは思い出せないが、たしかに居たはずだ。
ふとカリンは疑問に思う。
そういえばなぜ誰も彼も『妹』としか呼ばないのだろうと。
生きていたなら名前があったはずだ。
「あの……カリンの妹、何て名前だったんですか」
「それが誰も知らないのですー」
「知らないって」
「彼女には名前がなかったのです。死ぬ直前初めてお姉さんから名前をつけられた」
信じ難い。が、カリンの家柄ならば有り得る。
きっと双子だと後継問題が厄介だったのだ。
そんな理由で、カリンの片割れを死に追いやったと。許せない。
徐々に眉間の皺が深くなりつつあるカリンに、静句は儚げに笑む。
「妹さんのこと、思い出すお手伝い。させていただけませんか」
「できるんですか?」
「カリンちゃんの記憶を消した装置はわたくしの発明品ですから、ちょちょいのちょいですよー」
子供のように腕を振り上げ、さらには振り回す静句。
「……」
妹のことを、思い出してあげたい。
記憶の奥に存在ごと埋葬された彼女。その名を、もう一度呼んであげたい。
「わかりました。よろしくお願いします」
ーーーー
ーーーー
ーーーーー
四肢を拘束されているままの社長は、なんとかして逃げ出そうと躍起になっていた。
彼は手首も足首も、擦り切れるどころか骨も折れかけていて、もうずいぶん長らくもがいている様子だった。
「……ッッ」
早く、逃げ出さなければ。
誰かに、カリンに、状況を知らせねば。
カリンに真実を知られれば、きっと社長はまた全力で殺されそうになる。
今度は本当に死ぬかもしれない。
だが、カリンの心身が無事だった方がまだマシというもの。
「ッ、ぐ……ぅううううっっ!!」
四肢のひとつを犠牲にするべく覚悟を決める。
もがきにもがいて、既にボロボロの右手。
社長は、枷がはまったままの右手を思いきり引っぱった。
嫌な音と共に、皮膚を割いて骨が飛び出す。それでも構わず力をこめまくれば……抜けた。
骨は折れたが彼なら直に治癒するだろう。
痛みに呻きながらも、構わず他の枷も外した。
荒い息を滴らせ、辺りを見渡せば、少し遠くにドアを発見する。
あそこから出れば、静句より先にカリンを見つければ、なんとか。
他にはほとんど何も考えられないままでドアへ駆け寄って、開けた。
「ッッ!!」
瞬間、凍りつく。
ドアを開けたその先には、人がいた。
鮮やかな髪色をした少女。社長の頭を占めるひと。
「カリーナ……!」
名を呼んでもカリンは返事もしない。
彼女は深くうつむいて、顔も見えなかった。
仄暗い闇の中に溶ける姿に、社長はいつか見た、彼女が本気で怒り狂った時の面影を重ねる。
嫌な予感がした。
「なぁ、おい、どうしたぁ……?」
おずおずとしたおよそ彼らしくもない声色で話しかける。
と、カリンがゆっくり面を上げる。
ひたすらに陰鬱な顔だった。
光の差さない暗い目。固く食いしばった唇。
愕然とする社長の細い首を、カリンが握るように締め上げる。
息が詰まる。地に足がつかない。でもそれ以上に。
「カ、リー……」
殺意と憎悪に満ち満ちたカリンのすべて。
案の定間に合わなかった現実を突き付けられながら、社長はあるのかもわからない『心』が死んでいく感覚を覚えた。
隣り合って散歩するうち、キースとクレオは商店街まで来た。
さて、どこへ向かおうか。キースは考える。
クレオくらいの年齢の女性が好みそうな店は、いくらか知っている。
けれどクレオはクレオだ。つまり、他と比べたら特殊という事。
以前風呂が好きと言っていたが、それは色々論外。
さてさてさて、どうしたものか。
思案を巡らせつつ意味もなく商店街を練り歩く。
と、ある店先に差し掛かった時だ。クレオのハイヒールの音が止んだ。
「クレオさん?」
何やらじいっと商品を凝視しているので近付けば、クレオが興味を示したものは。
「新刊漫画特集……」
本屋だ。ただしコミックメインの店。
そこら中に平積みにされた漫画の山、山、山。
少年漫画少女漫画青年漫画、エッセイまで。わりと取り揃えのいい店のようだ。
クレオを見遣ると、若干目がキラキラしている。
「しょ、少年……私の目は狂ってしまったのかもしれん」
「はい?」
「これ、私が子供の頃によく読んでいた漫画なんだ……!途中、作者が病死してしまって以来続きは発売されていなかったんだが、……ほう……!ご息女が続編を……!?」
コミックスの脇にちょこんと掲げられたポップに顔を近づけ、感慨深そうな素振りで頷きまくるクレオ。
相当懐かしいのだろう。
クレオがここまで感情を揺さぶられるのを初めて見て、キースは吹き出しそうなのを必死にこらえた。
「少年、すまないがちょっと買ってくる。待っていてくれ」
「あ、はい、行ってらっしゃい……」
クレオは返事を待たずに会計へ向かう。
慌ててさえいるようで何度かつまづいていた。
やがてクレオの背中が完全に見えなくなった頃。
「ッぷは、かわい……!」
散々耐え抜いたキースは、クレオが戻るまで肩を震わせていたのだった。
ーーーーーー
本屋を後にし、喫茶店に入った。
小洒落た内装と紅茶が売りらしい店。
お茶を飲みながら、クレオは夢中になって漫画を読みふける。
その様子に口元を緩め見つめていれば、やがて視線をあげた。
ようやっと気付いたようだ。
「何をにやにやしているのかね?」
「いや、クレオさんが漫画なんかでテンション上がるとは思わなくて」
「私は鉄人でもロボットでもないぞ。それに漫画は案外いいものだよ」
言いながらも多少は照れたようで、クレオは一旦漫画を閉じた。
手元に置いた漫画本、その表紙を彼女は指先でなぞっている。
埃被った記憶が詰まった記念アルバムを慈しむかのように、愛おしそうに。
それを何となく眺めつつ、キースは聞いた。
「その漫画、どんなストーリーなんですか」
「読みたいなら貸すが」
「僕は漫画は読まないんで。簡単に、ストーリーだけお願いします」
漫画を撫でていた手を顎に持っていき、クレオは少し考える素振りを見せる。
「自分だけの神様の話だ」
「あ?神様?」
「考えたことはないかね、誰かの神様になりたいと。絶対的、かつ信仰に近い愛。揺るぎない永遠の愛。そういったものを与える、唯一無二の存在」
難しい、けれど案外シンプルな話だと思った。
普通に考えれば、『親』が一番考えやすい例だろう。
けれど孤児だったキースは、少し違う事例が思い浮かんだ。
ラスカルだ。ラスカルにとっての友人。
よく知っているし、知らざるを得なかった二人組。
「あー……いますね、そういうの」
「なんだ、他人行儀に。君にも神様は居ただろう」
そう言って彼女は、己の頭に乗った帽子のつばを摘んだ。
「お義父さま、曲りなりにも愛し愛されていたのだろ?」
「……めちゃめちゃ短い間しか関わってないんで」
「絆は時間をかけたものだけが全てじゃない。安心するといい」
クレオは微笑みかけ、キースの額を指先で優しく突いた。
胸の奥に、くすぐったさを覚える。キースは抵抗も悪態をつくこともできず、ただ自分の手を睨む。
自分の中で動き始めている、何かをごまかしたくて。何一つクレオに悟られたくなくて。
「あの」
「ん。何かね」
「クレオさんにも、居たりするんですか。神様」
なんでもないふりを装って訊ねかけた。
キースは自分の顔が熱いのを感じて焦る……が。
幸い、クレオはまた漫画を読み始めたところだった。
「いるよ」
シンプルな答えだった。それ以上何も言わずにただ漫画本をめくるクレオ。
少なすぎる情報量に、キースは一瞬にして色々と勘繰る。
男か女か。家族か他人か。どんな人物なのか。続きを促そうとした時。
喫茶店奥に置かれている柱時計が鳴り響いた。
二人ともはっと我に返り、現在時刻を確認する。
夜八時だった。
「いかん、もうこんな時間か。もう行かなければ」
つい今しがたまでの和やかな雰囲気は一気に消え去り、せかせかと準備しはじめるクレオ。
キースの胸の中が、落胆や焦りでぐるぐると渦巻いた。
「行くんですか。もう?」
「最初に言った通り、仕事があるんだ」
少々物憂げに息を吐いたその一瞬に、クレオの何もかもが、今までより一層艶めかしく見えた気がして。
キースは何となく察した。彼女がこれから従事する仕事は、また性交渉だと。
察した瞬間、咄嗟にクレオの手を掴んでいた。
「少年?」
怪訝さを滲ませクレオがキースを呼ぶ。
「行っちゃダメです。クレオさんがやらなくても他の誰かにヤラせるとか、いくらでも方法はあるはずでしょ。クレオさんだけが犠牲になる必要ないです」
彼女を引き止めたい。引き止めないと。
クレオには何の義理もないけれど、ただ、まだ一緒に居たかった。
そのためにも彼女に辛い目にあってほしくない。
クレオは手を振りほどくこともせず、静かに傾聴していた。
「行かないでください」
思いのほか声が震えてしまったが、何とか伝えたい事は伝えた。
さて、クレオはわかってくれただろうか。
「少年……君は私のことがあまり解っていないな」
「……え」
驚いて視線を上げれば、そこにあったのは冷ややかな目だった。
「私には仕事しかない。仕事をしている時が一番生命を謳歌していると感じるんだ。性交渉だろうが、監視だろうがな」
キースは妙に傷ついた。
仕事しかないなんて、そんな事は無いはずだ。
だって、さっきまであんなに柔らかい雰囲気で話していたじゃないか。
僕と居て、楽しそうにしていたじゃないか。
「ッ……でも……!」
何事かを言い返したかった。
言えるならなんでもよかったのに、舌は上手く機能しなかった。
クレオは、もはや完璧にいつも通りの淡白な表情に戻っていた。
「本当に男だの女だのの関係に嫌気がさしているなら、さっさと股を縫い込めてしまえばいい話だろう」
キースが唖然としている間に、クレオは掴まれた手を振り払い。
「会計はしておく。君はゆっくりしていくといい」
茫然自失状態で立ち尽くすキースを置き去りにして、クレオはどこかへ行ってしまった。
ーーーー
ーーーー
子供について、どう思うかね。
私個人としては、『嫌い』の一言に尽きる。
自分の望み通りにならないと、暴れる。喚く。
最悪だ。
付き合うだけ時間の無駄だとさえ思う。
……彼もそうだ。
キース・アンダーソン。
全て見ていたからこそ彼の正体はよく知っている……あの子は、ガキそのものだ。
言うなれば、極度の短絡的思考。
もう少し歳を重ねれば落ち着くのかもしれないが、それでも根本が、私には受け付けない。
ひとりよがりの善意を押し付けて、満足いく答えが出なければ、何をしでかすか分からない辺りが、特に。
どうやら私はあのガキに気に入られてしまったらしいが……なんとまぁ、有難迷惑なことか。
一度体を許された程度で、ただの性欲を愛とかいうものだと勘違いをこじらせて、私の恋人になるとか言いそうで……とても嫌だ。気持ちが悪い。
私に恋人は要らない。この身に子を孕むなど、もってのほか。
永遠に、一人がいいんだ。
なぜなら。
私には、私だけの『神様』がいるのだから。
ーーーーーー
ベッドに寝転んで目を閉じていた。
時間はわりと深い。
そろそろみんな帰ってくるはずだ。
今日はまだ夕飯を食べてないけれど、誰が当番だったっけ。
考えつつも、清潔なシーツのひんやりした肌触りが気持ちよくって。
すぐに頭を使うのをやめてしまった。
「ラスカル」
声が聞こえた。誰かがぼくに話しかけている。
そう認識すると、同時に体に違和感を感じはじめた。
これは……誰かに手で触られてる?
微睡む意識の中、重いまぶたを開けてその誰かの正体を確認しようとする。
そこにはたしかに誰かがいるのがわかる。けれど、視界がぼやけて分からない。
「んぅ……だれだよぉ……」
「しぃ」
幼子を宥めるように囁かれるので、素直に大人しくすれば頭を撫でて貰えた。
感触を覚えるのは主に胸元やお腹の辺りだ。
その手の感触には、どこか覚えがあった。
細めでしなやかだけれど、ほんの少しだけ固さがある。
誰の手、だったっけ。
「……っん、……ぁ」
やがてぼくの口からおかしな声が漏れだす。
なんだろこれ。感じたことの無い感覚だ。
くすぐったいような、心地良いような、不思議な感覚。
「ーーーっひゃ!?」
下着の上から股を触れられた。
そこにあるのはただの排泄場所。誰にも触られたことの無い所。
自分でさえまともに見たこともないのにと、さすがのぼくも驚きのあまり飛び起きた。
暗い部屋の中。
ベッドの上から辺り一面を確認しても、誰もいない。
夢……いや、夢のはずはない。
たった今、今の今まで、誰かに体をまさぐられていたのだ。
現に、体にはまだあの手指の感覚が残ってるんだから。
「……、……」
誰が触っていたのか。何故触っていたのか。
排泄器官なんて弄ってどうするのか。
そこではたと思い出す。
そういえば、ベルトとパティちゃんがえっちしてた時も、同じような事をしていた。
じゃあ、今のは、誰かがぼくに……そういう事をしていた?
「……ぅ」
不意に下着が冷たいのに気付き、服を捲りあげる。
微妙にサイズの合わないワンピースの下。
無理に着用している男物のトランクスが、少しだけ湿っていた。
それが何を意味するのか、ぼくにはわからなかった。
急に、その濡れた場所に触れてみたくなった。
何かの間違いか、はたまた好奇心か。
トランクスの上から一本指で、とん、とひと突きしてみた。
「っ!」
びくりと腰が跳ねる。
よく分からないけど妙に切なくて、不思議な感覚だ。
むずがゆいような、でももっとしたいような。
あぁ、ダメだこれは、やっぱりしたらいけない事だったんだ。
だって背中がぞくぞくするし、鳥肌が立つし、体がぽっぽする。
謎の感覚に侵され怖くなり、慌てて触るのをやめた。
と、またもやずいぶんな眠気に襲われる。
体の違和感から目を逸らしたくて、ぼくはベッドに倒れ込み……誘われるように眠りに落ちた。
ーーーーーー
クレオが去った後、キースも家路についた。
今頃クレオは、誰にどんな風に抱かれているのか。
甘やかに?優しく?激しく?
どうであれ気に食わない。
胸の中がぐちゃぐちゃした感情で支配されている。
怒り。落胆。苛立ち。やるせなさ。
それらが何を意味するか、何となくわかる。わかるけど。
「……」
おもむろに空を見上げれば、雲の切れ間から月が覗いている。
クレオもこの空を見ているのか?きっと見ていない。
彼女はそんなもの見る余裕もないはずだから。
「うわ」
工場にたどり着いて玄関に入り、いの一番に目撃した光景にキースは思わずドン引きしてしまった。
ベルトがいた。テーブルに突っ伏してガンガンと頭を打ち付けている。
血痕まで散っているので、狂気ポイントが三倍増しで加算されそうだ。
「何だよどうした、キツツキごっこか」
「うるしゃーわ、俺は鳥じゃねーよ。どっちかっつったら蛇面だよ」
普通に声をかければ簡単に止めることが叶った。
わりと不本意の行動だったのか、それとも純粋に痛いからツッコミ待ちだったのか。
ベルトがのろのろ体を起こしたかと思えば、そのままふらあっと反り返って椅子にもたれた。
喉仏を全開に晒して、キースを伏し目で睨みつける。
「また何かあったなお前」
「……まぁ」
否定はしなかった。
感情が溢れかえりそうで、正直誰かに助けて欲しかったのだ。
しかしベルトは、鼻を鳴らしただけで言及も何もせず。
要は、無視した。
「お兄やん、メシ」
「チーかまでも食ってろよ。っつか僕は今日当番じゃねぇだろ」
「ラスが当番だけど、寝てんのよね。頭かち割って起こしてきてくれる?」
「起こすって何をだ殺人事件か」
「この際カリンでもいいぞぅ」
なにも寝ている子をわざわざ起こすことはない。
キースは一瞬たりとも迷わず、カリンを呼びに行くと決めた。
カリンの部屋は、地下にある。リビング奥の階段脇、扉の向こう。
建設者特権で一人だけやたら広々とした部屋だ。
ノックをしてみたが、中から気配がない。
「おい、カリン!いるなら出てこい!」
と、中から何か音が聞こえた気がして、キースはよくよく耳を澄ます。
規則正しい音だ。
まるで時計のごとく、一秒ごとにカチ、カチと鳴っている。
「……?」
不審に思い、ドアに耳をくっつけてみた。
次の瞬間、轟音とともにドアが枠から外れてキースごと吹っ飛んだ。
それによりキースはゴロゴロ転がり、リビングまで逆戻りする羽目になる。
「え、何、どしたん」
不機嫌さが一時的に霧散したベルトが心底たまげた顔でいる。
しかしそれはキースも同じこと。
「えええええ」
腰が抜けて言葉もなかったキースが、やがて絶叫する。
「いやまてまてまてちょっと待てェエエ!何でだ!どうしてこうなった!」
「おいやべーぞ、あれ見ろ!」
指し示す先は、たった今爆発したカリンの部屋。
煙が立ちこめるその向こうに、赤い炎がチラついている。
燃えている。火事だ。
消火活動すべきか迷うが、前述の通りカリンの部屋は広い上に、危険物がある。
そんな所に飛び込むのは自殺行為だ。
「ベルト、僕はあらいぐま回収してくる、お前は先逃げろ!」
「ウッソだろお前、この家どうすんのよ!?」
「命あっての物種だろうが!!行け!」
ベルトは数拍分迷ったが、外へと駆け出していった。
病床の傍にて、恋焦がれる男をじっと見つめる。
いつも着ている重そうなカソック風の衣服は纏っておらず、いかにも清潔そうな白い寝巻き姿で眠り続ける彼を。
後ろに撫で付けた髪は全ておろされており、いくらか若返って見える。
「静」
呼びかけても返事はない。当然だ。
彼は未だ意識が回復していない。三途の川を渡るかどうかの瀬戸際なのだから。
そっと彼の手を取り、握りしめる。
無骨で大きい手。遠い昔、触れた手。
それでいてずっと触れたかった手。
「静……静……」
とても、恐ろしい。
彼がこのまま死んでしまったら、自分には何も無くなる。
自分自身の手で一切合切を裏切り断ち切ってしまったから。
形だけの仲間、友人。孤独同然の現状。
それをギリギリ許容できたのも、彼の存在が救いだったからだ。
つれない態度をとられても、好きなままでいられるだけでよかった。
彼に恋を、できるだけで。
「静……っ」
死なないで。戻ってきて。私を独りにしないで。
握りしめた手に祈りを捧げ、涙に暮れていた時、ポケットに入れているスマートフォンが着信する。
しばらく無視していたもののあまりにしつこく鳴動し続けるので、仕方なしに電話に出た。
「もしもし」
「二ルーーーー!!やっべぇ、マジやばいって!」
電話をかけてきたのはベルトだった。
何やらすさまじく慌てふためいている模様。
「ちょっと落ち着きなさい。何なの」
「家が燃えた!」
「は?」
「カリンの部屋がドーーーンって爆発、からの火事コースだよ!俺の酒も残らず燃えちまったわおめでとうございます!」
「何がめでたいのよ!!」
大慌てで窓辺へ向かう。
カーテンを開いて工場の方角を見れば、なるほどたしかに黒煙が上がっている。
何事だ。カリンがやらかしたのか?
絶句していると、電話の向こうの声が変わる。
「おい、僕だけど」
「キース……!」
「聞いたよな?家が燃えた。カリンが実験失敗したんだと思うけど」
「あぁーーーーあの子はもう、だから薬品には気をつけろって言ったのに!」
「とりあえず色々とどうするこの状況。まずは家探さねぇと」
いかれぽんちの分際でまともかつ冷静な言動をかますキース。
地に足がついていると言うべき声に励まされ、ニルもいくらか平常心を取り戻す。
そうだ、家がないなら、泊まるところを探さねば。
知り合いの家を当たるしかない。
「じゃ、じゃあ、皆でブルーノの所にお世話になりましょ」
「は?何が嬉しくてあいつの家に入り浸らなきゃならねんだよ。断固拒否だ馬鹿野郎」
キースならそう言うと思った。
というか自分もそうだ。別れた恋人の家に厄介になるのは気まずい。
ではどうしたものか。ニルは考える。
彼らのような曲者共を受け入れてくれる場所などあるのか。
「……あ」
ーーーー
ーーーー
ーーーーーーー
数週間後。
「ラジオ体操第一ィイーーーーーッッッ」
軽快な音声が風に乗って遠くまで響き渡る。
からりと乾いた、それでいて爽やかな初夏の朝空のもと、彼らはラジオ体操に勤しんでいた。
「いち、にっ!さん、しっ!ほーれみんな声出てないわよぉ!ラジオ体操もまともにできない子に明日は来ないわよぉ!!」
野太い声を張り上げてろくでもない台詞で鼓舞するは、教会の生首シスター(♂)オズ。
オズは毎日やたらと張り切って早起きし、ラジオ体操の準備役及び指導役を担う。
高血圧のおじいちゃんか。
「キースちゃん!あんたモク吸ってサボってんじゃないわさ!アイマスクしててもわかるんだからねっ!」
「うるっせェェェェ!!朝っぱらから騒ぐな生首野郎!」
「あんたこそうるさいわよ。そのツッコミ一体何デシベルだと思ってんの」
謎の爆発により唐突に家を失ったクズ工場メンバーズ。
彼らは山岳地帯に居を構えていた身だ。
凍え死んだり熊だとかに襲撃される前に、早急に仮宿を探す必要があった。
第一候補たる場だったクローバーの廃ホテルは、満場一致で却下。
ならばと二ルが提案したのが、神父不在の教会だった。
そもそも教会にはオズの世話をしに行かねばならなかったわけだし、ちょうど都合がよかったのである。
そんなこんなで無事ラジオ体操が終了。
運動を済ませたあとは朝食だ。
食事はいつもオズが作ってくれている。
「オズさん、首だけでどうやって料理してるんだぃ」
「髪を手の代わりにしてるのよん。意識があるみたいで、動くんだわさ」
なるほど社長と並ぶ化物というわけだ。
何はともあれ、なかなか美味しい食事に舌鼓を打つ。
しばらく話題もなく無言が続いていたが。
「……カリン、どこに行ったのかしら」
カリンの名前が出ることで、途端に同僚たちの表情が曇る。
あの突然火事になった日から、彼女は行方不明となっていた。
爆発に巻き込まれたのかと、鎮火してすぐに捜索したけれど、死体すら見つからず。
「……静句ってひとのせいかも」
器になみなみと入っているスープを見下ろしながら、ラスカルが呟く。
「本当に皆殺しになるのかもよ。神父もああなったし、カリンちゃんも行方不明だし……」
「ラス、その情報お古だぜ。あの化物社長もどっか行ったから」
「……気をつけるに越したことねぇな」
重い雰囲気が漂いかけるその場。しかし。
「ねぇねぇ、ところで今日はみんな何やってんの?」
野太いわりに明るくきゃぴきゃぴした鶴の一声により、空気はどん底ほど暗くならず済んだ。
「私は神父の看病よ」
「ぼくは仕事。きみらは何してるんだぃ?」
「俺は何も無いにゃー」
「僕も暇だ」
「あらっ。じゃあ恋バナしましょ!」
突っ込まれる唐突な横槍。
話を持ちかけられた二名はげんなりした顔だった。
何せ、オズは何かにつけて恋バナをしたがるから。
「勘弁してくんない。おにーさんそういうのダルいんだけど」
「健康ドリンク飲めば?」
明るいのに突き放すかのごとき口調。
今日は逃がさないという意志がひしひし伝わってきた。
が、実はベルトが言っている事の意味合いは、オズのそれとは少し違っている。
「お前さ、何かにつけて恋バナ仕掛けてくるの何なの」
「あら。そんなにしょっちゅうだったかしら」
「しょっちゅうとかいうレベルじゃねーべや、食ってても寝てても関係なく『恋バナ 、恋バナ』だろーよ」
「こないだなんか便所入ってる時に恋バナしようとしたよな。あれドン引きしたぞ」
それはたしかに引く。
相当寛容でなければオズそのものをサッカーゲームに使いかねない。
万人共通でのドン引き案件とその事例。
して、オズはというと。
「ん〜。だって恋バナしたいもん☆」
きゅるんっ、とかいうポップな効果音がつきそうに、舌をぺろりと出して見せた。
目元がもし露になっていたならばきっとウィンクしているに違いない。
反省の色は皆無と見える。
「あ、ぼくもう行かなきゃ」
「私も」
ラスカルが首に提げた懐中時計を開いて言う。
次いでニルも、席を立とうとする。
そろそろ女性陣がお出かけの時間である。
「行ってきまぁす」
挨拶もそこそこに町へ出かけていった彼女たちを見送ると、途端にオズのテンションが三十倍くらいに膨れ上がる。
「さぁさぁさぁ、レッツ恋バナタイムよん!」
うわあマジでやるんだ。……そんな表情がうるさいキースだった。
と、一緒に巻き込まれたはずのベルトが何やら外へ向かおうとしている。
「おい、逃げる気かテメェ」
「モクだよモク。すぐ戻ってくっから」
ひらひらと手を振りながらベルトは行ってしまい。
その場に残されるは、オズとキースの野郎二名のみとなった。
キースの足元までころりころり転がっていくオズ。
「さてさてさて」
そうしてにっこりと、訊ねかけるのだ。
「好きな子、いるぅ?」
ーーーーーー
「知ってるか、こんな話があってなァ」
「……そう、それで?」
繁華街。
デートスポットともいえる通り沿いを、多少なりの距離を置きつつ歩く男女がぷらぷら歩いている。
極端にノッポな男、クローバーと極端にちんちくりんな女、ラスカルだ。
凄まじい身長差ながら歩幅も歩調もそう違わず、手こそ繋いでいないが険悪な雰囲気でもなかった。
「クローバー」
「なんだ」
「何回目だっけ、これ」
これ、とはこのデートのこと。
クローバーは依頼と称して、ラスカルにデートごっこの付き合いをさせている。
依頼なのでもちろん賃金も発生する。
要はレンタル彼女みたいなものだ。
「四回目だなァ」
「ぼくに飽きないのかぃ?チェンジ受け付けてるよ。ミケちゃん、タマちゃん、クロちゃんなら誰がいい?」
「全部猫じゃねェか。いらねェ」
意外なことに、二人はうまく恋人役をやれていた。
クローバーがリードするし、しかもラスカルが良くも悪くも大人しいからこそ為せる業だ。
途方もない高さに在るクローバーの顔。その顔は実に楽しそうだ。
以前ほど顔色も悪くはない。
変わったなぁ、こいつ。そんな事をぼんやり思う。
ラスカルの中で安心感さえ生まれ始めていた。
そろそろ少し休憩でもと、道端の小さなベンチに肩を並べ腰かける。
ちょうど傍にある街路樹の陰になっていて、初夏の空気がより爽やかに感じた。
「クローバー」
「なんだ」
「きみの好きな人って誰だぃ」
「秘密だ。特にお前には」
「……別にいいけど。じゃあその女とえっちしたいの」
そこでクローバーの顔が険しいものに一変する。
彼が機嫌を損ねるのも無理はない。
恋する相手への感情が、純情などない、劣情だけのように取られている訳だから、普通は怒るだろう。
「好きな男女同士は、カップルだろ。カップルはえっちするものなんだろう?」
クローバーの気持ちなど理解できるべくもなく、ラスカルはただ不思議そうに首を傾げる。
だが、よくよく考えて聞けば、まるで性についてよく知らないこどもの勝手な見解だとクローバーは気付く。
「……ひとつ聞くがお前、経験無いよなァ」
「んん?」
「性経験だ」
今度はラスカルの表情が曇る番だった。
間を置いて、重々しい口調で「ない」と一言。
クローバーは静かに安堵しつつ、言葉を続ける。
「なら何でそんなに性に対して卑屈なんだァ?」
「卑屈……かねぇ」
「何も知らねェガキのわりには、遊ばれまくったアバズレみてェになァ。何があった。言ってみろ」
怒ってはいないが有無を言わさぬ、といった態度である。
隣から食い気味に迫ってくるクローバーに引きつつ、ラスカルは考える。
ベルトとパティの性行為の現場。
見てもうだいぶ経つが、未だに心にトラウマとして残っていた。
そろそろひとりで抱えるのも辛くなってきたし、クローバーに話して負担を軽くしたかった。
「えっと……実はだね」
話した。
性の現場を見た日、卑屈になった原因について。
今までよく知らないまま軽く捉え、下ネタとしてからかってすらいたものが、あんなものだとは。
あんな野蛮で痛そうな行為を、好きな者同士で。愛し合うためにするなんて。
あろうことか快楽まで見出すなんて。
信じられない。信じたくない。
「……って感じかな」
「……はァ」
「はァ、って何だよそのリアクションどういう意味だぃ」
「あのなァ……まず、それはお互い様だろォ。ドア開けてヤッてんのも悪いが、勝手に人の営み見といて吐くのもどうなんだ」
「それは……っそうだけどさぁ」
「そんな理由で一方的にドン引きして、卑屈になるんじゃねェ。ったく、何があったのかと心配して損……」
と、クローバーが脇腹に衝撃を受ける。
言葉の途中だが何事かと意識を向ければ、ラスカルが両の拳でクローバーを殴りつけていた。
大した痛みは無いものの、結構しつこく拳を突き入れてくる。
「おい」
「そんな理由とかいうなよっ……!」
ラスカルの声は震えていた。よくよく見れば、体ごと。
「たしかに、アレは、えっちなことは気持ちいいのかもしれないよ。子供を作るために必要な、生物の神聖な行為かもしれないよ。けど、だからこそ、自分もちゃんと『メスとして』機能してたら、あんな目に遭ってたのかと思うと、すごく怖かったんだ……っ」
「…………。……怖いのか。そうか」
すっかり泣きっ面になってしまったラスカル。
大きくなってからというもの彼女はメンタルが豆腐のようだ、それこそ女性のように。
きっとそう思っているのはクローバーひとりだけではないだろう。
「まァ、そうだなァ。お前は最近までガキだったわけだし、無理もないよなァ」
頭や背中を撫でたりすれば、今度は吐くかもしれない。
だから無闇に距離を詰めたりせず、静かに慰めてやることにする。
「ぼく、一生あんなことしたくないよ。ずっとこのままがいい。女になんかなりたくない」
「別にそれでいいはずだ。無理にどっかの野郎に体を許そうと思わなくてもいいだろォ」
クローバーは、ラスカルを異性と見ている。
そんな相手が真っ向から『誰も受け入れたくない』と泣いているのだから、当然ひどい失望を覚える。
要はクローバーのことも受け入れる気はないと言われている訳だから。
それでも彼にとっては、泣かれるよりはマシだった。
そんなクローバーに、ラスカルは目を丸くする。
心底意外に思ったのである。始終穏やかに話す彼がひたすら良い人に見えたから。
優しくて、落ち着きをくれて、包み込むように護ってくれそうな、『良い人』に。
「クローバー……きみ、ほんと変わったよね」
「そうか」
「明るくて優しくもなった。急に全力で脛を蹴っても許してくれそう」
「誰が許すか普通にぶっ飛ばすぞ」
「ふへへ」
ラスカルは奇妙な笑い声をあげ、膝に顔を埋めた。
とりあえず事態は収束した……かに思われたが、最後の最後でクローバーの気分は急降下するのだ。
「あ、でもぼく最近ね、よく変な夢見るんだよ」
「……?どんな夢だ」
「ベッドの中で男に触られてる夢。胸とかお股とか触られて……」
「……、それで?」
「それで、……えっと」
急に口ごもってしまうラスカル。
何故か?クローバーから、微かに怒気を感じ取ったからだ。
今まで穏やかに聞いてくれていたクローバーが、急に機嫌が悪くなったことが怖くて、紡ぐ言葉を迷う。
「まァ、トラウマに思ううちに夢に出てきたんだろォ。気にすることない……ただ、誰だったんだ」
「え?」
「誰だ、その触ってきやがった野郎ってのは。顔見てねェのか」
顔は、見ていない。見えないのだ。いつもぼんやり寝ぼけ眼なせいで。
ただ、あの手の感触。あれは覚えがある。誰だ、誰だったか……。
「!」
考え込む拍子に俯いてふと、懐中時計が視界に入る。
時計。大事な時計。友達の形見。ルークの……、
「……あ」
「あ?」
「時間。そろそろ帰らなきゃ」
唐突にそう言い出して、飛び跳ねるようにベンチから立ち上がり、ラスカルは脇目も振らずすたすた歩いていく。
人混みに紛れる前にと慌ててあとを追いかけるクローバーだが、彼には見えていなかった。
林檎のごとく真っ赤に染まったラスカルの顔が。
ーーーーー
ーーーーー
静桜。遠山静桜。俺の、可愛い子。
あいつは頑丈な長男と違って病弱で、淡い色の服が似合う儚げな子だった。
……あの日までは。
見た目こそ変わらず可憐なままだったが、静桜の異変には誰もがすぐに気づいた。
喪服のごとき黒を好み、下卑た表情を浮かべ、何よりとても丈夫になった。
いや語弊がある。
静桜は不死身の化物になっていた。
いつの間にか化物の皮に昇華させられていた我が子に対し、生じる感情はいくつもあった。
だが最後には、あの女の……櫻子の言葉で、俺の覚悟は決まった。
「この子は、私の……私達の子だろう?なあ、お父さん?」
あいつを愛していた。
あいつが残した、あいつの生きた証である静桜の皮を想い、愛すために、俺はあらゆるものを踏みにじってきた。
結果、家庭を崩壊に導いた俺のことを、残された者たちは恨み倒しているだろう……という予想は死ぬほど当たった。
ーーーーー
「あ、起きた」
目を開けたら、居ちゃあならない人物の姿が視界いっぱいに存在していたものだから、俺は思わず「ぎゃあ」と言ってしまった。
我ながらやる気のない悲鳴だった。
「人の顔みて第一声がそれってどういう事だよ神父さん」
「すいません、借金取りと間違えました。ずいぶん懐かしい面の皮ですね、ええ」
「あんたまだ借金なんかしてんのか?いい歳して情けないぞ?もっとしゃんとしろよ」
「ハイハイ善処いたします」
十一年も前、俺が間接的ではあるが殺害した少年が、目の前にいる。
こいつは確かに死んだはず。
首を斬り落とされたのを見届けたから間違いない。
ということは。
「此処はあの世ってやつです?」
「んー。それに近いかな」
ルークはもったいつけるように首を傾げてみせる。
「俺やっぱくたばった感じですかァ」
「神父さんはまだ死んでないよ。生死の境をさまよってるだけ」
なるほど三途の川というやつか。
ここ日本じゃないのに、というツッコミはしない方が賢明だろう。
空気を読むのは日本人の美徳である。
「お前は何でまだこんな所に居やがんです。とっくに死んでんでしょォ」
「色々と伝えたいことがある」
有無は言わさない、黙って聞け。
笑顔のわりには、そう言いたげな威圧的な目で、ルークは俺を見た。
「……、何でしょう」
「一つ目はラスカルのことだ。神父さん。俺、昔言ったよな。ラスカルのこと女の子として大好きだって。愛してるって。それは死んでも変わらないんだ」
「聞いたし知ってます。でも無理ですよォ。いくらお前らが好き合ってようが生者と死者は同じ世界では生きられねェ」
「うん。だから連れていく」
「あん?」
「このままじゃ触れ合えない。伝えられない。だからラスカルを連れていくんだ、こっちの世界に」
信じられないものを見る気分だった。
ルークが、あの臆病で温厚だった少年がこんな事を言うとは。
死んで性格が変わったようだ。
「あいつを殺す気ですか?」
「俺は殺さないよ。どの道ラスカルはもうすぐ死んじゃうだろ?ずっと俺を待って、何も考えずにあの場所にいればよかったのに。なんで約束破っちゃうかなぁ」
悪意たっぷりの台詞に、俺は正直に気分が悪くなる。
「ルーク。お前、ずいぶん性格が悪くなりましたね」
「どの辺が?」
「今のお前に似た野郎を知ってます。そいつと同じクズにだけはなって欲しくはなかった。だから俺が父親代わりになってたんですがねェ」
ルークは、不意に笑い声をあげた。
せせら笑うという正しいのか。とにかく嘲るような笑い声を。
何がおかしいのかと睨めば、ルークは胡乱な目で俺を見つめる。
「二つ目はまさにそれだよ。父さんの話だ」
ーーーー
一方その頃。
ベルトはまんまと教会の恋バナ会場から逃げ果せ、町外れにある川にいた。
ベルトはオズが苦手だ。怖いとも言える域である。
オズが昔何をしたか知っているからだ。
けれどわざわざその過去を他人に共有する気にはならなかった。
あの性犯罪者と極力関わりたくないし……何より今それどころじゃあないのだ。
「ごほっ……ッ……!!」
ベルトは水中にいた。
川の冷たい水に浸かり、溺れ、もがいていた。
何があったのか。それはベルトを引きずり込む無数の手と声が知っているだろう。
川底から伸びるそれに足をとられ、心底から焦る。
息もできず、死の恐怖を感じ始め、ベルトは自分を水底に沈めようとするそれを目視した。
そこには何もいなかった。たしかに質量や感覚があるのに、何もない。居ない。
けれど、ただ意志だけが伝わった。
『モドッテコイ』
『ココニハイラレナイ』
頭の中に響く、その意志。
と、引きずり込もうとする力が急に失われた。
ベルトは無我夢中で水中から出る。
激しく咳き込みながら川から這い上がって、後ろ、川の方を振り返ってみた。
川は穏やかに流れているばかり。
「……ックソ」
苦虫を噛み潰したように顔を歪めるベルト。
その表情から読み取れるのは恐怖……ではなく。
溢れんばかりの悲しみと寂しさだった。
ーーーーー
その頃、教会。
オズと図らずも二人きりになってしまったキースが、恋バナ大会に強制参加させられていた。
オズは甘ったるい話題を何とかキースから絞り出そうとしつこく迫ってくる。
その粘着っぷりはまさに肉食系女子のごとく。
キースはキースで恋愛経験が無くはない。むしろそこそこ豊富な方だ。
ので、しばらくはちびちびとネタを提供していたが……既に始まって数時間だ。
さすがにネタは尽きたキースは、なおも恋バナしたがるオズにダル絡みされていた。
「ねぇーねぇーもう終わり?」
「お前ッッ……まだ続ける気か!?」
「あんた旅人でしょぉー?ならもっと引き出しあるでしょうがー」
「その引き出しにダイレクトアタックかましてぶっ壊したから、もうネタなんかねぇよ!あとはベルトに聞けよもう!」
「だっていないもん、ここに」
「くっそベルトーーーー!!どこ行ったベルトの野郎、全然戻ってこないけどあいつ絶対逃げただろ!」
ぶうぶう言いながらオズは食い下がってくる。
彼の長いおさげ髪も同調し、文句ありげにばしばし床を叩いている。
「さっきから僕のことばっかり聞いてるけど、お前こそどうなんだ」
「おん?」
「恋バナだよ。お前いつも、他人の話聞いてるだけで自分の話はほとんどしてねぇだろ」
「そうだったかしらねぇ?」
とぼけるオズ。もしかしたら本当にフルスロットルで聞き役に徹しすぎて、自分が恋語りしたか記憶にないのかもしれないが。
とにもかくにもチャンスだ。
このままオズに喋らせる流れに持ち込めば、あとは適当に相槌をうつだけで乗り切れる。
調子に乗せるべく、オズを焚きつける構えに入るキース。
「そもそもお前性愛対象どっちだ」
「女の子よ、普通に。当たり前じゃないのよぉ」
「あっそう。で、好きな女は居んのか?」
「いるわねぇ」
生首男に恋される女子の気持ちは、いかようなものか……正直考えたくは無い。
「誰だ。ニルか?パティか?まさかクレオさん……いやあらいぐまだったり?」
「教えてあーげないっ」
口ぶりは軽い。なのに言葉に妙な拒絶の重みを感じる。
他人の恋愛にはひたすら首を突っ込んでくるくせに、何なのだろう。
「ただ言えるのはね」
と、急にオズの声音と纏う雰囲気ががらりと変わった。
時を同じくして、その場の空気が妙に居心地の悪いものになる。
「アタシ、今はもう首から上だけだけどね、あの子だけは誰にも盗ませないのよ」
にやあぁ、と。両の口角を気味が悪いまでに吊り上げ、オズは笑った。
「っていうか、気になったんだけどぉ」
オズの表情がぱっと変わる。
気味の悪い歪んだ笑みから、平時通りの笑顔に。
「あ?」
「さん付けて呼ぶのね?クレオちゃんのこと」
にやにやとほくそ笑みながらオズに問われた。
キースは図らずも硬直する。
「……そうだな」
一瞬、間を置いてしまった。耳しか機能していないオズを前にして、それがまずかった。
オズはさも楽しそうにキースの周りをくるくる回転しながら、黄色い歓声を上げる。
「なーによぉ、あんた現在進行形で好きな人いるんじゃな〜い。しかもクレオちゃん」
「違っ……」
「違わないデショ。知る限り、他人呼ぶ時『さん』付けないじゃないのあんた」
好き。好きかどうか、キースは考えてみる。
前ほど嫌いでは無いと思う。
むしろ、彼女に関心さえある。もっとクレオを知りたい。
あの日のデートと同じように笑った顔を、見たい。
石鹸の香りに満ちた体に触れたい。そして、そして……
「……好き、……かも、しれない……」
消え入るように呟けば、オズは「ひゅう」と口笛を吹いて囃し立てる。
「やーっぱりぃ。良いわよねクレオちゃん、可愛いもんネ。子供の頃はもっと可愛かったのよん」
「は……?そんな昔から知り合いなのかよ」
「ウン。アタシが首だけになる前からね」
「クレオさん、昔からあんなクールだったのか?」
「いいえ?普通に真面目ないい子だったけど、少なくともクールではなかったと思うわン」
「クレオさんに何があったんだよ。あの人、どうして、その……」
どうしてあんな風に、身も心も擦れきってしまったのか。
普通のいい子であったなら、いつからああなってしまったというのだ。
そう言いたくて、けれどクレオの尊厳を踏みにじりかねなくて口ごもってしまう。
そんなキースの考えることを見透かしたようにオズは言う。
「枕営業の話?」
的確に言い当てられ、キースは怯む。
そんなキースの様子など無視し、オズは微笑んだ。
「あの子はね。小さい頃に変態男に乱暴されたのよ」
「は……!?いつ?どこのどいつに?犯人捕まったんだろうな!?」
「知りたいなら図書館で調べなさいな」
淡々と言い放つオズ。
女友達の悲劇に思うことがあるからだろうか。
その後はオズは何も話してくれず、かといってキースは恋バナどころではなくなり。
やがて二人きりの恋バナはお開きとなった。
ーーーー
ーーーー
「うっわ」
出会い頭の第一声はそんなものだった。
「ずいぶん素敵な挨拶をくれるものだな」
「そうね。威嚇してもよろしいかしら」
「拒否」
「なら猫パンチね。えい、えい」
幼女か。
さすがに失礼が過ぎる彼女の挙動だが、理由は解っている。
気に食わないのだ、私がここに居ることが。
「まだ目が覚めないのかね、静は」
神父が搬送され、今も入院中の病院、その病室の前に私達はいた。
昏睡中の友人の見舞いに来たわけだが、看護人は私を追っ払いたいと顔に書いてある。
高速の猫パンチももう何コンボ入ったことか。
「ええ、まだだけど。それが?」
「別にどうということはないがね。ただ聞いてみただけだ」
「っていうか、何で来るのよここに」
「もちろん古い友人だからだよ」
「友人ねぇ……本当にそれだけなのかしら」
またか、と呆れた。
彼女……ニルギリスは、神父もとい遠山静に独占欲に似た恋心を抱いている。
そんな彼女だから、静に近付く女が邪魔なのだ。
おそらく私のことはダントツ一位で。
可憐な乙女心もここまでいくと少々鬱陶しい。
「あんたって神父のこと好きなの?」
「友人として好きだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
さっぱりした口調を心掛けて返すも、ニルギリスはむくれている。
「お前は私が嫌いなのか?」
「嫌いっちゃ嫌いね」
「私はそこまでお前を嫌ってはいないがね」
驚いたようにこちらを向く彼女の瞳を、じいっと見つめる。
宝石のごとく美しい目だ。
濃紫色の中に、きらきらと光が散りばめられて……吸い込まれそうな心地を覚える。
性格はねじ曲がっているかもしれないが、彼女はたしかに美女と言うに相応しい。
「な、なによ……からかってるの?」
「大真面目だが。……君は無垢ではないが愚かしいほどに純粋だ。だからこそ全てを裏切ってでも恋に賭けたのだろう。私にはない感性で……実に面白い」
同じ女同士だというのに至近距離で口説かれ、彼女は「あぁ」とか「うぅ」とか呻いている。
顔は真っ赤、照れ尽くしていた。
「まぁ、正直姦しい、よく喋るオウムのようだとは思うけれどもな」
「一言余計なのよあんたは!!ちょっとロマンス感じちゃったの返しなさいよ!」
「これは失敬」
思わずニヤッとしてしまった。やはり人間観察は面と向かってに限る。
「それより、そろそろ病室に入らんかね」
「言われなくても入るわよ!どいてちょうだい!」
ぷりぷり怒りながら病室のドアを開け放つ。
……と、ニルギリスが急に大人しくなった。
どうしたのかと中を覗きこめば、その理由がすぐにわかった。
そこに寝ているはずの人物が……神父が、ベッドから忽然と姿を消していた。
ーーーー
ーーーー
ーーーーー
逃げるように人混みに紛れてしまったラスカルを、クローバーは必死に探す。
けれどあの小さすぎる体は、一度紛れてしまえばまず見つからない。
小さな舌打ちをひとつする。
彼女は帰りたかったのだろうか。それならそれでいい。しかしやけに急ではないか。
「!」
ポケットに入ったスマートフォンが震える。
ラスカルが電話か何かかけたのか、と急いで開けばただのメッセージ通知。
しかし、その差出人を見てクローバーは目を見張る。
『神父』。そう表示されていた。昏睡から醒めたのか。
神父からのメッセージは、たった一言だけ。
『路地裏へ』
ーーーーーーー
追いかけてくるクローバーをなんとか巻き、ラスカルは繁華街の路地から裏の方へ入る。
しゃがみこんで、震える己の体を抱きしめた。
どうして?どうしてルークがぼくにイタズラするの?
ぼくらは友達だ。友達なんだ。仲良しで、世界で一番好きな、……男性。
「違う違う違うっ……」
頭を振り乱して、ルークのことを考えないようにしようと努める。
ラスカルは怯えていた。最愛の友達のことを考えるのがどうしてこんなに怖いのか。
分からない。わかりたくない。わからない方がいい。
「だいじょうぶ……ですか」
「!!」
すぐそばから男の声。
弾かれたように頭を上げると、そこにはいつの間にか男がいた。
お面をつけて青い着物を羽織った男。
とても静かな声が印象深かった。
「調子……悪いですか」
「あ、え、っと」
混乱して上手く返事ができないラスカル。その傍にそっとかがみ込んで、男は依然として声をかけ続ける。
と、何やらお面の向こうから視線を感じた。顔をよくよく見つめられているようだ。
「あの……」
「……ラスカル、さん。で合ってますか?」
「えっ」
「クズ工場の……カリンちゃんの、仲間……で合ってる?」
ぼそぼそ声を何とか耳で拾って聞こえたのは、カリンの名前だった。
「カリンちゃんのこと知ってるのかぃ、きみ」
「……うん」
「あの子今どこにいるんだぃ?みんなずっと心配してるんだぜ」
「……ごめんね」
お面の男が唐突に謝罪をする。微妙に会話ができていない。
それになんだか、どうもボキャブラリーが貧しい男だ。
と。
お面男が、ゆるゆるとラスカルの体を胸に抱きしめた。
「え、えっ」
混乱するラスカル。
次の瞬間首元に走る痛み、それから冷たい感触。
男はいつからか注射器を隠し持っていて、それをラスカルに刺して何か注入した模様。
数秒程度で効果が表れた。
「あ……、っ……?」
視界がぐるぐる歪む。なにも考えることができない。
強制的に眠らされるような、気持ちの悪い眠気が襲う。
抗わなければ、とは思ったラスカルだけれど、彼女はもともと睡眠欲求には弱い。
よって呆気なく眠り込んでしまった。
自分に突然おかしな薬を打った、この得体の知れない男の腕に包まれて。
「……、……ごめんね」
お面の男はうわ言のように謝罪する。
「ごめんね……ごめんね……」
多少不快な眠りに堕ちたままのラスカルの華奢な肢体を、男はきゅっと抱いてから、細い首に手を這わせ。
ぶかぶかの服ごと、力の限り締め上げる。
ぎりっと音が立つ。本気で命を奪おうと思っていると、ふざけている訳では無いのだと解らされる。
ラスカルの眉根が寄った。口も、苦しいのか半開きになっている。
「ごめん……」
ろくな抵抗もできぬまま、命が奪われようとしているその時だ。
「ッ!!」
突如としてお面の男が吹っ飛ぶ。
裏路地の最奥までとびきり勢いをつけて、男は飛んでいった。
やがて壁にぶつかり土煙と轟音が立つ。
「おい……何してくれてんだテメェ」
怒りに震える低い声。
表路地を背に、ゆらりと立つ巨大な体。クローバーである。
徐々に晴れていく煙。よほど衝撃が強かったのかお面男は未だ地に伏したままだった。
クローバーはずんずん歩み寄っていく。
「ラスカルの首、絞めやがって……!!」
興奮しきったクローバーは、お面男の鳩尾を怒りのままに蹴りつけ始めた。何度も何度も。
ただでさえ体を壁に強打したのに、更なる追いうちをかけられ。
お面男は逃げることも叫ぶこともできない。
執拗な蹴りを受け続けるうち、お面男は動かなくなった。
急激にクローバーの関心がラスカルへ向く。
「ラスカル……!」
地面に倒れているラスカルを抱き起こせば、聞こえる安らかな寝息。
ただ眠らされただけだと知って、クローバーは心底安堵した、のだが。
「ッ!!」
頭に、強い衝撃が走る。
背後には鉄材を握り締めたお面男が立っている。
今度はクローバーの方が不意打ちを受けたようだった。
頭を殴られたせいか、意識がぼんやりするクローバー。
その隙をついてお面男が鉄材を振り上げる。
クローバーはラスカルを抱きしめた。
逃げる事は叶わずともせめて彼女だけでも護りたくて。
「お楽しみ中ですかァ」
路地裏内に、気怠げな男の声が響いた。
途端に、お面男のモーションが停止する。
恐る恐る、といったふうに路地裏の入口を見遣るお面男。
それに倣い、意識が朦朧としつつクローバーも視線を向けた。
「神父……!」
「ハイどーも、俺様神父様ですよォ……」
白い寝間着に黒い羽織をかけた姿で、そこに神父が立っていた。
「失礼ェ」
挨拶もそこそこに、神父が背に隠し持っていたらしい散弾銃を素早く構え、即座に引鉄を引いた。
標的は、もちろんお面の男。
破裂音に似た銃声とともに、弾がモロに当たったお面男が再び壁まで吹っ飛ぶ。
「……あの、やり過ぎでは。さすがに殺した可能性が高いかと」
「お前もずいぶんヤッてたでしょう。見てましたよォ」
見ていたなら敵が武器を持って忍び寄った時点で助けろ、とは口が滑っていれば言いたかったクローバーだった。
ともあれ、これで敵は死んだろう。クローバーは一息つこうとするものの、神父は違った。
「クローバー、さっさと立ちなさい。チビを安全な所へ」
「は?」
彼は、気怠い口調に少しだけ緊張感を足した声で言った。
「あいつは、まだこれくらいじゃ倒れませんよ」
路地の奥から、瓦礫が崩れる音がした。
クローバーはまさかと思う。が、そのまさかだ。
あのお面の男は、まだ生きていた。しかも無傷で。
「……化物かあの野郎」
「人間ですよ。ただ体がくっそ丈夫なだけです」
「知り合いですか?」
「えぇ、よーく存じてますよォ」
再び神父が散弾銃を構える。
「あれ、俺の子ですから」
神父の子、だと。
衝撃の事実を聞かされ、クローバーは呆気にとられた。
彼の子は社長だけだとばかり思っていたが、そうではなかった?
どうして実の息子相手に銃撃できる?
神父の息子だという彼は、撃たれて吹っ飛んだ衝撃か、お面が半分欠けていた。
顔の右半分が覗く。真黒い髪と、瞳。神父と同じだ。
息子は、ふらふらとした足取りで一歩踏み出す。
手には、何か得物を握りしめている。
たこ焼きをひっくり返す時に使う……あれはそう、千枚通しだ。
「ご無沙汰ですねェ、鎮巳」
「……」
シズミ。名前はトオヤマシズミと判明する。
鎮巳は聞こえないふりをして、一歩また一歩と前に進む。
明確な殺意と敵意を持って。
「返事しろってんです。せっかく挨拶してんだから」
憎悪をこめた顔で向かってこられても、神父はなんのその。
再び散弾銃を撃ち放つ。
鎮巳は、やはり体が頑丈すぎるほどのようで無傷状態を維持し続けている。
進みかけて撃たれては後退を繰り返す。
対して神父はそんな鎮巳に銃弾を撃ち込む度にぐんぐん近付いていく。
やがて耳をつんざく音と、それがもたらす衝撃に押し負け、鎮巳が路地裏の最奥までよろよろ退る。
「もう止めたらどうですか。今ならまだ許してやりますよォ」
ふたつの意味で歩み寄る父親。
お面の隙間からは依然として神父を強く睨む眼差しが覗いていた。
言葉にせずともわかる。交渉決裂だ。
「さいですかァ……じゃあ」
後はよろしく。神父は頭上を見上げてそう言った。
鎮巳もまた、反射的に視線を上へ向ける。
「……ひと?」
日光を背にした人物が、見えた。
しかしあいにく鎮巳の目には眩しすぎた。
つまり、それ以上の情報は把握できなかったのだ。
刀を握った女が、自分目掛けて飛び下りてきているなんて。
「ッ!!」
女が飛び下りざまに、刀で鎮巳の肩を刺し貫いた。
銃弾は通らなかったが刃物ならばいける模様。
溢れる鮮血に鎮巳は低くうめいて蹲る。
「やあ諸君、間に合ったようだな」
白い髪と、灰色のタイトなコートが特徴の女。クレオだ。
「クローバー、無事かね」
「話しかけるな淫売」
「よろしいすこぶる元気だな」
理不尽に飛んでくる罵声。
しかしながら特に気にすることも無く、クレオは次に神父を見遣る。
「どーも、クレオ」
「どうもじゃないだろう。静お前、目覚めて急に居なくなる奴があるか。ニルギリスが心配して泣いていたぞ」
「はいはいすいませーん」
のらりくらり躱す神父は、激痛に喘ぐ息子の前に跪くと顔を覗き込んだ。
瓜二つの真黒い瞳同士が見つめ合う。
一方は殺意、もう一方は……感情がまるで読めない。
「ご無沙汰してますねェ、息子よ」
「お前みたいなやつ……父親じゃない……!」
興奮と痛み、疲れによって肩で息をする鎮巳。
「よくも静桜を攫ってくれやがりましたね」
「あれは、もう、違うって、言っただろ……!!ただの化物の皮だ……ッ」
「あの子は今どこです。っつっても、教える気無いんでしょうねェ」
神父の言う通り、鎮巳はそれ以上何も言わなかった。
どちらにせよ刀傷と疲労によるダメージがひどく、もう気絶しているようなものだ。
神父は鎮巳から離れ、クレオを振り返った。
「うちの子連れ戻しに行きます」
「なら私も行こう」
「いえ、俺一人で結構ですよォ」
「大丈夫か?お前は病み上がりだろう。傷の具合はもういいのか?」
「良くねーですくっそ痛てぇです。けど、これ家庭内の問題ですし」
今し方の戦闘で乱れ落ちた前髪を掻き上げ……神父は宣言する。
その双眼は、普段見せる怠惰にまみれた目ではなく。
責任と愛情の限り子どもを護ろうとする、父親のものだった。
「あの子は、俺の子ですから」
ーーーー
昔、うちは五人家族だった。
家庭環境は、まぁ悪くはなかった。それなりに幸せだったように思う。
一家の主、静兄ちゃん。お嫁さんの櫻子ちゃん。わたくし。甥っ子の鎮巳君。
そして、末っ子だったあの化物の皮。
静桜ちゃんと呼んでいた可憐な子を、自分の毛皮に昇華させたくそボケ。
あの化物がいなければ未来はこうは進まなかったろう。
全てあいつのせいだ。
あの化物が憎い。憎くてたまらない。
死ねない体だと言うなら、死ぬまで殺し尽くてやる。
たとえどんな外道な手を使ってでも。
ーーーーー
眼前に広がるは、鮮やかな髪色を血の斑点で染めた少女と四肢が潰れて芋虫状態の社長の姿。
彼らは、無我夢中で攻防を繰り返していた。もう、二週間もの間ずっと。
カリンは顔が返り血でべったりするほど、社長を巨大ハンマーで幾度となく潰し。
社長は応戦したくてもできずにいる。
幸い舌は無事なようで、社長が懸命に制止するが、カリンは止まらない。
壁際に避難した状態で、静句はスプラッター映画のごときそれを眺め続けていた。
「カリーナ、てめっ……も、やめとけ……!!」
カリンは聞く耳持たず。
というより、疲労で意識が朦朧として聞こえていないだけか。
「……なん、で」
不意にカリンがうわ言を吐く。
「なんで……なんで……」
それはいったい何についての「なんで」なのか。
知りたくて社長はカリンの目を仰ぎ見る。
どこぞのエスパーでもない彼に悟れるわけはなかったけれど。
カリンはひどく傷ついた顔をしていた。
凛として表情が無い、クールなのに元気な彼女の面影がどこにも見当たらない。
「カリーナ……」
言葉をかけようとした矢先、カリンが足元から崩れた。
「おっと。カリンちゃんダウンしちゃいましたですね」
壁際から離れ、ポケットを漁りながら静句は悠々と社長とカリンに近寄っていく。
何をしようと企んでいるかは、カリンの腕に残る注射痕が物語っている。
社長はもう血が通ってるのかも怪しい顔色を更に青ざめさせた。
「よせ……!!もうやめとけ、こいつマジで死んじまう……」
「そしたらきっとお前も死んでくれるでしょう?」
ゆるく微笑む静句。
社長は、売り言葉に買い言葉で返そうとした……が、考えを改めた。
「そいつぁどうだかね」
彼はあえて挑発的な態度をとる。
そうすることで静句を逆上させようと思って。
……まぁその後の細かいことは考えていないけれども。
静句の眉根が寄る。
彼女に視線で続きを促され、社長はにやりと笑った。
「お前、俺がどれだけの屍の上に立ってると思ってんだぁ?」
「あら……この子が好きなのでは無いのです?」
「ッハ!今更色だの恋だのに興味持たねぇわ。わざわざご苦労だったなババア。お疲れーっす」
「いいえ」
見るものによっては必死、懸命にもとれる社長の挑発だったが、静句は変わらず薄く笑んでいる。
次に、社長の何かを否定した。
「いーえ、いえいえいえ。そんなはずは無いのです」
「は……」
「お前は、この娘に、憧れてる。そうに違いないのです」
憧れ。そのフレーズが、やたらすっきりと腑に落ちた。
昔、本で読んだ知識を思い起こしてみる。
憧れとは、なにかに強く興味を惹かれること。
ちょうど彼のように……カリンという少女を一目見たときから忘れられなかったのと同じく。
「静桜ちゃんを乗っ取った時のお前なら、あんな娘すぐ殺してしまってたはずなのです。認めたくないですが、お前は……ちょっぴり変わりましたです。ちょっぴり、人間らしくなってしまった」
「人間……らしく……?」
「ええ、ですから……さっさと死んでくださいませー。これ以上人間に近づく前に」
芋虫状態の社長に背を向け、静句はカリンの元へ近寄る。
蒼白を通り越して土気色な顔で眠る、『憧れ』の少女。
社長はその姿を見つめ、考えを巡らせていた。
俺が死ねばあいつはきっと助かる。
静句が殺したいのは俺だけだ。
でも死にたくない。生きていても、別に目的は無いが。
具体的にはよく分からないが、自分には何かが足りない。
金でも権力でも永遠の生命でも無い、なにか。
だから、それを手に入れたい。
けど、今この状況はどうすればいい。
自分でどうしようもできないならば、誰も味方がいないならば、どうすれば?
どうにもできないだろう。彼はそう思った。
自分の無力さを思い知って社長は密かに絶望する。
「……!」
ふと、ひとつの異変に気付いた。
音。足音だ。音が聞こえる。
床にほとんど耳をくっつけている状態だからよく聞こえた。
静句は……知らぬ顔しているあたり、認知できていない様子だ。
足音は速足で、迷いなくこちらへ近付いている。
この歩調は知っている。
これは、
「っ……はははっ……」
笑いをこぼす社長に、静句から怪訝な視線が向く。
「おい、ババア。てめーの負けだぜぇ」
「はいー?」
「負けだよ負け。降参すんなら早い方がいいんじゃねーかぁ?」
「突然何言ってるのです。いよいよイカれましたですー?」
「俺様はイカれちゃいねーよ。お前のアバラは何本かイくかもだがなぁ」
足音が、ぴたりと止まった。
「いいか、もういっぺんだけ言ってやらぁ。今すぐ跪いて俺様に命乞いしな。さもないとーー俺の保護者がカチコミに来るぜぇ」
部屋のドアが轟音と共に破られたのは、社長が不敵に言い放ったのとちょうど同刻。
あまりの急な出来事に静句は図らずも数センチほど飛び上がった。
もうもうと立ちこめる煙。その向こうから、猫背を左右に揺らしさせながら男が現れる。
「どーも、お邪魔しますよォ……」
神父。遠山静神父そのひとだった。
散弾銃を肩に担いで、ゆらりとそこに佇んでいる。
「てっめ、おっせーんだよぉ」
「仕方ねーでしょォ……こちとら昏睡状態だったんだから」
保護者の登場により、社長のペースが少しだけ取り戻る。
一方、面白くないのは静句だ。
殺し損ねたかもしれないとは思っていたものの、カチコミに来れるほど元気だとは。
実年齢に見合わぬ膨れっ面をさらし、兄を睨む。
「なーんで此処がお分かりに?」
「此処は、昔に来た事がありましてェ……此処で女どもを犯して孕ませまくった野郎を、知ってるんで」
「うわえっぐ。レディになんつー話聞かせてくれやがるんです、……ッ!」
軽口を紡ぎきることは許されなかった。
実兄に、躊躇無く散弾銃を腹に撃ち込まれたせいで。
少し距離があったから、静句は何とか踏ん張れた。
それでも数メートルは後方まで飛ばされたけれども。
腹部の激しい痛みに咽ぶ静句。
「あ、死なねぇ……って事は、防弾着着てますね。やっぱり」
ろくに口がきけずにいる妹に向けて、神父は再び散弾銃を撃ちっぱなす。
静句が吐血した。
防弾着を着用しているとはいえ何度も何度も撃たれたのだ。至極当然だろう。
「ッ、んの、くそ兄……」
「黙らっしゃい」
暴言を吐きかけることも許さずもう一発、さらなる駄目押しを。
とうとう静句は踏ん張る力も尽き果て、その場に崩れ落ちた。
ようやく神父による銃撃が止む。
「がはっ……ぐ、ぅ……」
「改めまして。どーもご無沙汰ですゥ」
血を吐き、懐のあたりを押さえ悶絶する静句を見下ろし。
神父は挨拶を放り投げる。
一旦散弾銃を肩に担いで、神父は片手間にポケット内にあったタバコをくわえた。
「……しぶとい、愚兄だこと……また、くたばり損ねた、んですぅ……?」
「俺を殺ろうなんて百年早いですよォ、愚妹が」
無理くり落ち着きムード……に近いものに包まれ、遠山兄妹は軽口を叩き合う。
けれども神父の方は静句と話すよりも気になることがあった。
我が子の皮を被ったモノ、その安否である。
「静桜、何処ですか」
「あいあい、ここにいるぜぇ」
散々な目に遭って芋虫になっていた彼だが、得意の再生能力で上半身だけは復元しきっていた。
下半身は脚が生えてきてはいるが、おそらくはもう少しかかる。
「案の定無事みたいですねェ……」
「まぁ、死んではいねぇわな」
面倒そうに神父をあしらうと、社長はどこかへ這っていこうとする。
這いずる先に、少女がぐったり横たわっている。
復讐の鬼と化してついには倒れたカリンと、傷つけられてなお関心を示す社長。
その構図に神父は、保護者として奇妙な感覚を覚えた。
「やめた方がいいんじゃねーですかァ?そのガキ、記憶が戻ったんでしょォ……殺されますよ」
「俺様は死なねぇ。むしろこいつが死にそうだろうが」
「近づいてどうすんです。看病でもするんですか?」
「うっせぇなお前!!ほっとけボケ」
保護者としてのお節介を、反抗期よろしく突っぱねられ。
神父は目を瞬かせた。
とりあえず二人きりにして欲しそうなので、放置。
静句の方に戻ることにした。
「静句」
「……なんです」
「色々と聞きたい事があります。まず、黒幕は誰です」
「黒幕……?さてなんのことだか……」
「絶対居るはずです。お前と鎮巳は、普通なら知る由もない真実を知ってやがった。誰か内通者がいる。そうでしょう」
静句は答えない。
対して神父は重苦しく息を吐く。
「何でですか。何でこんなしょうもない事したんです。皆殺しとか国潰すとか宣言して、鎮巳まで使って、何がしたかったんですかァ……」
「しょうもない……?てめーにだけは言われたかねーですよ……ッ」
血反吐を吹きこぼしながら静句は兄を睨みあげる。
腹部の痛みを無視できるだけ無視して、緩慢な動作ででも、なんとか起き上がった。
そのまま這うようにして、兄の足元まで近付く。
「お前こそです。何のためにあの化物をまもった。家族を壊してまで、なぜ化物を優先した。……アレを殺しても、わたくし達は、責めたりしなかったのに……」
とうとう兄の脚に手が届く。
静句は、震える手で兄のカソックを掴んだ。
神聖なカソックが汚れる。傷付ききった実の妹の血で。
静句は力無く俯いていて、表情は伺い知れなかった。
そんな妹の問に、彼は答えた。
「ンなもん決まってる。見た目だけだろうが、アレは俺のガキだからです」
きっぱり言い切った。
「馬鹿らしくならないんです……?絶対あいつ、恩には着ませんよ」
「そうですかねェ。見てごらんなさい」
神父が社長に視線を遣る。
社長は、回復した腕を使って自分の服を引き裂いているところだった。
裂いた生地で、カリンの血濡れ顔でも拭いてやろうというのか。
「昔はあんな事思いつきもしなかったんです。人間っぽさが育ってきてんですよ、静桜のやつ」
静桜、と。既に化物の皮でしかない子の名前をなおも呼び。
我が子を見守る父親のごとき眼差しで、薄く笑う神父。
「あれは……静桜ちゃ、じゃ、ない…………」
意識が朦朧としてきた静句が、それでも主張を曲げないまま兄に訴えかける。
「静桜ちゃんは、もう…………、今は、しずみ、を」
「…………、……それは……」
視界が暗くなっていく。必死に込めていた力もこそげ落ちて。
とうとう静句の意識は切れた。
兄が、何か言っているような声がするけれど、聞き取れずじまいだった。